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看笃姬 学日语(第四回)名君怒る
时间:2009-04-28 11:03:57  来源:咖啡日语原创  作者:新米

篤姫(第四回)名君怒る(名君发怒)

単語:
追い落とし(おいおとし):驱赶,使。。。下台。
戦々恐々(せんせんきょうきょう):战战兢兢
報復人事(ほうふくじんじ):人事报复
面(おもて)を上げよう:抬起头来。
数多(あまた):数量众多
政(まとりごと):政治,政务
悪たれ(あくたれ):胡闹,胡搅蛮缠。
諍い(いさかい):争吵
しもじものもの:庶民。老百姓
建白書(けんぱくしょ):建议书
守り立てる(もりたてる):尽兴抚养,扶植。
危うい(あやうい):危险
高望み(たかのぞみ):过分的期望
打って付け(うってつけ):理想,适合的
意地が悪い(いじがわるい):用心不良,心术不正
伽羅(きゃら):沉香
赦免(しゃめん):赦免
忠義(ちゅうぎ)の道(みち):忠义之道
請合い(うけあい):保证,保管
破格(はかく):破格
粗相(そそう):疏忽,出错
息女(そくじょ):令爱
千載一遇(せんざいいちぐう):千载难逢
妻女(さいじょ):妻子
麗しい(うるわしい):美丽
生花を嗜み(いけばなをたしなみ):喜欢插花
安堵(あんど):放心
無謀(むぼう):鲁莽
台無し(だいなし):弄坏,糟蹋,断送
武士道(ぶしどう);武士道
食い下がる(くいさがる):咬住不放,不肯罢休
不埒(ふらち):岂有此理,不讲道理
見初めた(みそめた):一见钟情
月見(つきみ):赏月
睦まじい(むつましい):和睦,亲睦

台詞:
1.島津斉興の後継者をめぐり、正室の子斉彬と側室であるお由羅の子忠教との間に、争いが起こります。斉彬は幕府の老中阿部正弘と共謀、将軍徳川家慶を動かし、斉興の追い落としに成功します。そして、ついに11代薩摩藩主の座に着きます。斉彬の藩主就任に人人はおおいに沸きます。斉彬と於一との運命の出会いの時が、刻一刻と近づいていました。
围绕着岛津齐兴的后任问题,正室之子齐彬与侧室由罗之子忠教之间,展开了一场纷争。齐彬与幕府的老中阿部正弘密谋,动用将军德川家庆的力量,成功迫使齐兴下台。继而,齐彬终于坐上了11代萨摩藩主之位。齐彬的就任引起了众人的轰动。齐彬和阿一的命运搬的相遇时刻也不断接迫近了。
2.難問は山積し、なすべき事は数多ある、されど、真っ先に考えるべきは、何よりも民のことじゃ、民が富めば、国は富む、民は潤わねば、国は劣れ、やがて滅びる、そのことしかと心得よ。民のための政をなすべく、心してよう助けよう、江戸に生まれ育ったわしに何が分かる、そう思うものもある、だが、外からでなければ見えぬことも、しかしまた、薩摩をじかに知る、そなたたちでなければ、分からぬこともある、群臣力をあわせれば、乗り越えられることはない。わしはそう信じるものである。一同の者、しかと頼むぞ。
困难重重,该做的事情堆积如山。可是,最先应该考虑的是百姓的事。民富则国强,如果百姓不富足,国势将衰,且不久就会灭亡。大家请牢记这点。执政为民,请大家尽力协助于我。有人怀疑在江户出生长大的我到底能做些什么?但是,有些事情是身不在其外不能明了的。另外,也有一些是不借助于最清楚萨摩的情况的诸位,不能有所作为的事情。和群臣之力,其利断金。我坚信这一点。诸位,拜托了。
3.人は一の一芸無きものなし、その長短生かすを主君からの務めじゃ、力を貸してくれるなぁ。
尺有所长寸有所短,善用家臣的长处是主公的责任,助我一臂之力吧。
4.力とはなんであると心得る、力は力お呼び、腕力には腕力、武力には武力で人を応じようとする、だがそこに生じるのは、憎しみばかりじゃ、憎しみは互いに憎しみを生む、それが更なる争いを呼ぶ、罰を与えるのは易しい、だが、刃(やいば)を突き出せば、必ず別の刃を突き出され、そうではないか?今、悪たれ諍いしておるときではない、誰もこころを一つにして、薩摩を纏めるときじゃ、それ故、広く民の声も聞いておる、それでもわしのなすこと、信じなれぬなら。即刻この国から出て行くことのじゃ。以上である。
你认为什么是力量是?力量召唤力量,暴力对暴力,武力付诸于武力。但是,这样滋生的只是仇恨。由恨生恨。这样只会进一步引起纷争。处罚是很容易的事,但是,拔刀相向的话,对方必定也是拔刀相对。不是这样吗?现在不是闹别扭的时候,大家一心,重整萨摩。为此,我该做的就是倾听百姓之声,如果还是不相信我,那就立即离开这个国家。就是这些。

篤姫紀行:
島津斉彬(しまづなりあきら):

生于文化6年3月14日(1809年4月28日),卒于安政5年7月16日(1858年8月24日),幼名邦丸,通称又三郎,此外还有法名惟敬、麟洲。他是岛津主家第28代当主,萨摩藩第11代藩主。他是10代藩主齐兴的长子。母亲是因幡鸟取藩6代藩主池田治道的女儿周子。正室英姬是御三卿之一的一桥德川家3代当主一桥齐敦的女儿,虽然她也为齐彬在文政9年(1826年)生过嫡子,但儿子很快便夭折。齐彬最终只有三个亲生女儿,均在他死后嫁给了和自己争斗一生的岛津忠教(久光)的儿子,其中暐姬和宁姬先后嫁与岛津忠义(名义上是齐彬的婿养子),典姬嫁与忠义的弟弟、继承父亲久光继任重富岛津家当主的岛津珍彦(忠鉴)。此外,齐彬还有两个养女。一个是大隅加治木藩藩主岛津久长的女儿光子,她被嫁给近卫忠熙的儿子忠房。另一个就是笃姬,她成为近卫忠熙的养女,改名敬子,后成为德川家定的御台所。

  岛津齐彬与岛津久光均为齐兴的儿子,但是因为客观原因,两人毕生都在交恶中度过的。中间虽无真刀真枪的战争,但明争暗斗一直持续到齐彬生命结束。岛津齐彬善于理政,并热衷于研究西洋科学,故而为世所知。在19世纪50年代齐彬在位的时候,他受人尊崇为最有智慧的大名之一,安政五年七月十六薨,奉祀于照国神社。

在齐彬成为萨摩藩的大名后,他迫切需要一些忠心的人,齐彬也提拔了一些人才,其中有日后成了维新三杰的西乡隆盛和大久保利通:西乡隆盛本是一个下级武士,在1854年被齐彬由助理文员晋升至齐彬的随从;而大久保利通在齐兴时代因支持齐彬而被放逐,后来在齐彬时遭到特赦,权力迅速爬升。西乡隆盛和大久保利通,替齐彬说服水户藩的当主支持齐彬那要求政府应把注意力放在天皇方面. ,而不是幕府的那方面。齐彬死后,他生前的管治政策大部分都被他们采用了,而这些政策在明治维新后被新政府广泛采用。这些政策包括实行中央集权制、军队西化等。


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