篤姫(第14回)父の願い(父亲的遗愿)
単語:
鬱々(うつうつ):郁闷,闷闷不乐
端もきっかけも成りません:没办法开始
祝着至極(しゅうちゃくしごく):非常可喜可贺
守屋敷(かみやしき):大臣宅院
艱難(かんなん):困难
お出まし(おでまし):莅临
痘痕(あばた):麻子(あばたもあくぼ:情人眼里出西施)
落着(らくちゃく):了解,解决
無茶(むちゃ):毫无道理,胡说八道
決着がつく:解决
忍び(しのび):微服私访
見上げ(みあげ):仰视,尊敬
言伝(ことづて):寄语,捎口信
餞別(せんべつ):饯别
和親条約(わしんじょうやく):友好条约
遺言(ゆいごん):遗言
一途に(いちずに):专心,一心一意
台詞:
1.斉彬の正室、英姫は、一ツ橋家出身です、一ツ橋家は田安、清水とあわせて御三卿と呼ばれました、尾張、紀伊、水戸、御三家当主はそれぞれ独立した藩主であるに対し、ご三卿は将軍の身内として扱われ、屋敷も江戸城内にありました、一ツ橋家は11代将軍徳川家斉を出した、いわば、名門中の名門だったのです。篤姫の苦難は続きます。
齐彬的正室,英姬是一桥家出身,一桥家与田安,清水并称御三卿,相对于各自当家为独立藩主首领的尾张,纪伊,水户御三家不同,御三卿作为将军家的近亲嫡系来对待,宅邸也在江户。第11代将军德川家齐是一桥家出身,(一桥家)乃所谓的名门豪族。笃姬的苦难还在继续。
2.お篤、前にも言ったが、このわしを信じよ、全てわしが委ねておけば良い。
笃子,以前也跟你说过,相信我,全交包在我身上。
3.「ただ一つだけ、殿にお願いいたしたいことがございます、」
「そなたの願いならば、何でも聞こう。言ってみよう。」
「はい、於一には、いや、篤姫さまには、私に何があったとしても、お一には知らずにおいていただきたいのです。」
「何ゆえじゃ」
「於一は今頃江戸にて見知らぬかたかたに囲まれ、大きなお役目を果たすための修行の日日を送ってということでございましょう、その大切なお役目を果たすまで、於一の心、乱しとうはございません、わたしのことを構わずに、己の道を一途に歩んでほしいのです。」
「分かった、そなたの願い、聞いてあげよ」
「はい。」
有件事情想要拜托主公。
只要是你的愿望,我都照办,你说吧。
恩,对阿一,哦,不,对笃姬小姐,不管我发生了什么事情,都不要对阿一说。
这是为何?
阿一现在在江户对面一个陌生的环境,为背负重责而每天苦修吧,到完成重责为止,不想搅乱阿一的心,我的事没关系,我希望她一心一意走好自己的路。
好的,我满足你的愿望。
谢谢。
4.わしはそなたの父で、ははぁ、なんと言うか、愉快であった。
我作为你的父亲,哈哈,怎么说呢,感到很高兴。
5.桜の花が散り初めるごろ、最愛の父との別れでした。
落英纷飞的时节,这是(笃姬)与深爱的父亲的永别。
篤姫紀行:
滋賀県彦根市(しがけんひこねし):彦根市位于日本近畿地方滋贺县,是琵琶湖东岸的最大城市与旅游观光城市。城市是以1603年开始建设的彦根城为中心逐渐发展起来的,彦根城现在已成为著名的观光胜地。
彦根市吉祥物
井伊直弼(いいなおすけ):
(1815年11月29日 - 1860年3月24日) 是日本的近江彦根藩主、江户幕府末期的大老。1858年4月23日即位。他最著名的事迹是与美国签订日美修好通商条约,赋予美国商人与海员治外法权,并开放港口。1850年(嘉永3年)其兄死亡而继任彦根藩主。围绕第十三代将军德川家定的继嗣问题,他作为谱代大名“溜间”值班室的代表,拥立与将军血缘相近的纪州藩主德川庆福(后改称德川家茂。此派称南纪派)。另一派是主张限制幕府独裁、实行强藩合议制的家门和外样大名,他们推举当时以英明著称的一桥庆喜(称一桥派)。两派发生对立。直弼于1858年(安政5年)4月就任大老后立即决定庆福继嗣,并且不待天皇同意就签订《日美友好通商条约》等安政五国条约。由此引起尊攘运动,他则利用安政大狱镇压反对派。但是,对大狱抱有反感的水户、萨摩的浪士们于1860年(万延元年)3月3日,在直弼入朝理事途经樱田门外时将其暗杀。
作为茶道名人的井伊直弼
井伊直弼茶道受《南方录》的影响甚深,他追求的是修身养心的“纯”茶道精神。到了江户末期茶道便作为一种娱乐方式流传于民间,但井伊直弼他终生编写茶著,对茶具也十分讲究。为了修身还多次举办茶会。“一期一会”。此语其意为,人生不但短暂,而且只有一回。另外,也无先生者先死之规律。因此,它提醒人们要珍惜每分每秒和每回相遇的缘份。此语最初出自《山上宗二记》一书之中,后又为幕府末期、维新时期的大将井伊直弼所引用。他在《茶汤一会集之书的前言中这样写到,“茶会也可为‘一期一会’之缘也。即便主客多次相会也罢。但也许再无相会之时,为此作为主人应尽心招待客人而不可有半点马虎,而作为客人也要理会主人之心意,并应将主人的一片心意铭记于心中,因此主客皆应以诚相待。此乃为‘一期一会’也。”