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标题: 日文小説『神様がくれた指』 [打印本页]

作者: koume88    时间: 2007-12-19 10:18
标题: 日文小説『神様がくれた指』
2007年本屋大賞受賞作家--佐藤多佳子の本『神様がくれた指』、一気読みまちがいなしの痛快作。
佐藤多佳子:
1962(昭和37)年、東京生まれ。青山学院大学文学部卒業。89(平成元)年『サマータイム』で月刊MOE童話大賞受賞。『イグアナくんのおじゃまな毎日』で98年度日本児童文学者協会賞、路傍の石文学賞を受賞。著書に『しゃべれども しゃべれども』『神様がくれた指』『ハンサム・ガール』など。

目次
第1部 愚者
第2部 魔術師
第3部 恋人たち
第4部 運命の輪
エピローグ
解説 坂田靖子

第1部
愚者

いつも彼自身が気づいていない落とし穴にむかって、旅を歩き始めているのである。
バーバラ・G・ウォーカー


  辻牧夫は、やっと自分の服を取り戻したのはいいけれど、このチョンチョンの坊主頭がたまらねえなあと苦笑いしながら、早田のお母ちゃんの前に出てゆき、いきなりガバリと抱きすくめられたのには閉口した。
『マッキー!』会いたかったよ!もう、あんたってコは!いくら会いにいっても会ってくれないんだからねえ。看守にいじめられて死にかけれるんじゃないかと思ったよ。心配かけて。どうせ、あんたのことだから囚人服を見られるのがイヤなんだろうって咲は言ってたよ。そうなのかい?馬鹿だねえ。ほんとに馬鹿だよ。あたしらは、おじいちゃんでさんざん見慣れてるじゃないか。わかってるくせにね』
  お母ちゃんはマシンガンのようにしゃべりまくり、熱い抱擁を終えてようやく身体を離すと、今度は厳しい目つきで彼の全身をくまなくチェックしはじめた。
『やっぱり少し痩せたかねえ。あんたはもともとがりがりなんだから食べるもんをちゃんと食べなきゃね。毎日あんたの好物をどっさり作ってあげるよ。まあまあ、あんだかドス黒い顔をして。そんな冴えない目をするんじゃないよ。マッキー!ほんとにこのコったら!』
  マッキーというのは幼名であり、仕事仲間の間での呼称でもある。一年二カ月ぶりに、百万馬力をこめて呼ばれて、なるほど、正門のこっち側はシャバなんだと早くもしみじみと実感させられた。
  同時出所した黒龍組の若手の平沢という男が、出迎えにきた舎弟二人とニヤニヤしながらこちらを見ている。
『うらやましいね。ままのお迎えとは』
  冷やかされて、辻はどんな表情をしたものかわからずに歯をむいてニヤリとした。早田のお母ちゃんは血のつながりという点では本当のママじゃないけれど、生みのママ以上に本物の育てのママなので、冷やかされると恥ずかしい。
『あんたもダッコしてもらえば。オトモダチに』
  挑発的なジャブを返すと、二人の弟分の目の色がすっと変わったが、先刻までのムショ仲間は落ちついたもので。
『俺はきれいな若い女が待ってるからね』
  と悠然と切り返してきた。
  その言葉で、きれいな若い女が自分を待っていないことに辻は気づいた。
  咲がいない!早田咲が。
  彼の顔に浮かんだ疑問符を素早く見てとってお母ちゃんは答えた。
『たいしたことないんだけどね。ゆうべ、ちょっと軽い発作お起こしてね』
  辻はうなずいたが、心臓がドキリと鳴るのがわかった。子供の頃から、咲が喘息の発作を起すのが何より恐かった。あの、息が吐けなくなって吸って吸って吸ってエスカレートしていくヒュウヒュウという恐ろしい音、最悪の時には紫色になってしまう顔。肉体的に苦しいのは当人だろうが、はたで見ているほうだって、やはり肉体的に相当苦しい。
『夏なのにな』
  と辻はつぶやいた。
  発作は春先や秋口などの季節の変わり目にひんぱんに起こった。台風の来る前など大きな天候の変化にも弱かった。
『あんたが帰ってくるっていうんで、少し張り切りすぎたのかもしれないね』
  お母ちゃんは言った。
『何を張り切るんだよ?』
  辻は少しうんざりしたように聞いた。
『気持ちだよ』
  お母ちゃんは芝居がかったジェスチャーで心臓のあたりに手を当ててみせた。
『あの子は、ここ二、三日、人が変わったみたいにおしゃべりになってたんだよ』
  辻の脳裏に幼い頃の記憶が甦った。遠足や運動会の前の晩や当日の明け方に、咲はよく発作を起こしたものだった。

[ 本帖最后由 koume88 于 2007-12-19 10:36 编辑 ]
作者: koume88    时间: 2007-12-19 16:55
青白い小さな顔、すらりと伸びた細い首、飛び出た鎖骨、薄い肩。ちょっと乱暴に触れれば壊れてしまいそうな華奢な身体つきは、昔からほとんど変わっていなかった。
『冷たいこと言うんじゃないよ。あの子は、ずっと、あんたを待ってたんだからさ』
『病人置いて、来ることないのに』
  辻は話題を変えたくなって、非難のほこさきをお母ちゃんに向けた。
『大丈夫。軽い発作だったから』
  お母ちゃんはうなずいた。
『一緒に行くってきかないのを無理に寝かせて、耕二に見張りを頼んできたんだよ』
  耕二は五つ違いの咲の弟だった。
『マッキーの手をしっかりつかまえて家まで連れて来てって、咲は言ってたよ』
『どこへ行くってのよ?俺が』
  辻は憤慨するように鋭く尋ねた。
  早田のおじいちゃんが死んだ時に家を出て、蒲田にアパートを借りて三年ほど一人で暮らした。しかし、早田家との縁が切れたわけではない。何かにつけ呼びつけられ、遠慮なく押しかけられる。逮捕されて服役が決まると、早田の家の者はさっさとアパートの契約を解除して荷物は家に運んでしまった。まったく、ほかのどこへ帰れるというのだろう。
  黒龍組の連中は黒いベンツで走り去っていったが、辻と早田のお母ちゃんはカッカと照りつける八月の真昼の日差しの中をゆっくりした歩調で南大塚の駅まで歩いた。
『目がくらむだろう?』
  とお母ちゃんが尋ねた。
『別に』
  強がってみせたが、確かに目がチカチカして物が見にくいような感じがした。
『しばらくは苦労するよ。道を渡るのが大冒険さ。車のスピードが読めないんだよ。人込みもうまく歩けない。なかなか流れについていけない。あとは自動ドア、自動改札、けさまれないように気をつけるこったね』
『ものすげえ田舎モンみたいだな』
『そんなモンだよ』
  そんなモンだったかな、と、辻は早田のおじいちゃんのことを考えた。十六回、入所し、半生を刑務所で暮らしたおじいちゃん。
『そういや、いつも手ェ引っぱってたよな』
  おじいちゃんがだいぶ老いぼれてからだが出所後の外出には、必ずお母ちゃんがつきそって手をつないで歩いていた。
『手をしっかりつかまえて家に連れて帰って』
  お母ちゃんは咲が言ったという言葉を繰り返した。そして、言葉どおり、突然、彼の手をつかまえると、がっちりと握りしめた。
  反射的にその手をさっと振り払った。自分でも驚くほど素早く乱暴に。火傷でも負ったかのように。
『いやだねえ。おじいちゃんと一緒だね』
  お母ちゃんは困った顔をして、かぶりをふった。
『いつも、そんなふうに怒られたんだよ。やめろってんだよ!手ェつかむなよ!キンタマよりイテエんだからよう!』
  突然、おじいちゃんの声色でわめきだし、周囲の通行人の注目を集めた。
『えげつないなあ』
  辻は呆れた。
『聞いたことないかい?』
  お母ちゃんは豪快にカカカと笑った。
『あぶないからって手を引っぱってたわけじゃないんだよ。あの手がね、悪さをしないようにあたしが押さえこんでたんだよ』
  あの手、おじいちゃんの手、名人の手、熟練のスリの手。
  辻は歩きながら、自分の右手を目の前にかざした。女のようにほっそりした浅黒い長い指。きちんとそろえて、掌を表裏と交互にひっくりかえして見つめた。刑務所の労役とひどい石鹸のせいで皮膚が荒れて堅くなっている。右手の隣に左手を並べてさらに見つめた。
『そうだね。あんたは両方と使えるなだっけ。連れは二人必要か』
  右手をお母ちゃんに左手を咲にあずけて、川崎駅の構内をしずしずと歩む自分の姿が目に浮かんだ。醜悪というよりは滑稽。
『お連れ様はけっこう』
  辻はきっぱりと断った。
『悪さは致しません。道を渡る時はようく右左を見てから渡ります』
  しかし、お母ちゃんは、ふんと鼻先で笑った。
『おじいちゃんとそっくりだね。あの人も、いつだって、そんなふうに言ってたもんさ』
  西武新宿線の急行。平日の昼下がりの車中はすいていて、辻とお母ちゃんは三人掛けのシートを二人で占領した。
  辻は、向かいの窓の外を流れていく街の風景にうっとりと眺めいった。とりたてて見所のない風景だが、風景が動くということが奇跡のように新鮮だった。
  そして、この匂い!この振動!まさに"帰ってきた"という気分にさせられる。箱師という電車専門のスリとしては、どこよりも、なつかしく、うれしく、胸のときめく場所だった。川崎大師の家に向かうには、何本もの電車を乗り継がなくてはならないが、それぞれの電車にはそれぞれの個性があり、旧友との再会のように楽しみだった。
『ウチのお客さんで田代さんているだろ。ほら、駅前の団子屋の『もちもち』の旦那で、お父ちゃんの競馬仲間のさ』
作者: koume88    时间: 2007-12-21 11:00
全身で電車の感触を楽しんでいた辻は、相変わらず、お母ちゃんは一分と黙ってられないなとがっかりしながら、熱意のない相づちを打った。
『その田代さんの親戚がね、鶴見のほうで板金屋をやっててね、よかったらあんたに来てみないかって話があるんだけどさ。いい話なんだよ。あんたは器用だから、あの気になりゃ何だってうまく出来るじゃないか。まあ、あせって決めることはないけどさ。もちろんウチを手伝ってくれたっていいんだし。今は耕二が店に入ってるけど、ほら、やっぱり親子って遠慮がなくてだめでね、お父ちゃんと喧嘩ばっかり。お客の前で派手なやりあいして、みっともないったらありゃしないよ。あんたがいてくれたら、だいぶ丸くおさまるだろうと思うね。耕二も心強いだろうしね。でもね、ウチのお客さんみんな知合いばっかりだから、あんたもイヤかもしれないと思ってさ、その点、田代さんの話は何もかも全部承知で、しかもマエは隠して働いていいって言うんだよね。いい話だろう?新しい場所ですっぱりと一からスタートってのが、この際一番じゃないかって、ゆうべ、そんな話をしてたんだよ。みんなでね』
『へえ......』
  として辻は言えなかった。遅かれ早かれ就職の話が出ることは覚悟していたが、帰りの電車の中でさっさと切り出されると思っていなかった。
  職についた経験はある。高校を一年足らずで追い出されてから、知り合いのツテをたどって、印刷屋、畳屋、お好き焼き屋、映画館、自動車修理工場など職を転々とした。どれも仕事自体は嫌いじゃなかった。要領がよく、機転がきき、きびきび動いて雇い主にはすぐに気にいられた。でも、続かない。飽きっぽい。なんとなくコツをつかんだ頃になると嫌気がさしている。どこも小さな職場だったので、狭い人間関係が煩わしくなる。何よりたまらなかったのは、手が荒れる、汚れる、疲れることだった。ガス台バーナーの火に焼かれ、インキや油にどっぷりつかり、重い荷物の運搬やドリルの操作で震えがくる。辻にとって、仕事をするというのは手を台無しにすることだった。
  板金屋ねえ   辻は知らずしらず溜め息をついていた。オシャカになりかけた車を再生するのは面白かった。しかし経験したうちでは、一番手にダメージを与えるきつい労働だった。
『まあ、しばらくはゆっくりしてなよ』
  お母ちゃんは辻の溜め息を聞き付けたのか、そんなふうに言った。
『ゆっくり骨休めして。ゆっくり考えて。大事なことだからね』
  一拍置いて続けた。厳しい声に変わった。
『本当に大事なことだよ。今が本当に大事な時なんだよ。ムショに一度入るのはいいさ。でも二度入ったら、あとは、もう底なしだからね』
  十六回入ることになるか、おじいちゃんみたいに、と辻は思った。それだけの根性がないなら、確かに足を洗う潮時なのだと自分でもよくわかっているのだった。
作者: 无边落木    时间: 2007-12-23 23:12
弄张封面过来。。。。


[ 本帖最后由 无边落木 于 2007-12-23 23:16 编辑 ]
作者: koume88    时间: 2007-12-26 09:18
楼上的读过整本了么?
作者: koume88    时间: 2007-12-27 15:53
2

    辻が気づいたのは、電車が田無を過ぎて五分ほど走った頃だった。
  スリ眼——。
  ハンドバッグやポケットに狙いをつけるスリ特有の目つき。獲物を突き刺すような鋭い視線。ねばっこく動かない視線。
  スリ眼というのは、刑事の使う言葉である。警視庁捜査三課の刑事たちは、電車や繁華街などの人込みをうろつき、目つきの悪い奴をチェックし、ひそかにしつこくあとをつけ、そいつが予測通りに盗みをしでかせば召し捕ってワッパをかける。
  しかし、スリに言わせてもらえば、目つきの悪いのはお互い様だ。スリ眼を捜す刑事の目も、鋭く怪しくじんわりと底光りする。不快な目つきと気配を感じれば当然スリは手を止めて人込みに隠れる。いわば視線のかくれんぼである。早く見つけたほうが勝ち。うまく隠れたほうが勝ち。

  はじめ、辻は「見られている」ことを感じたのだ。ハッとして本能的に刑事を求めて素早く視線を飛ばしたが、相手の目を捕らえることはできなかった。遅れた。逃げした。これが一年二カ月のブランクというものだろうか。悔しさをかみしめながら、用心深くあたりをうかがって、知った顔の刑事、もしくは刑事の匂いのする人間を捜してみる。
  この車両には子供と女性と老人が多い。小学生男子のグループ、高校生くらいのカップル二組、漫画雑誌に没頭している学生風数名、居眠りをしたり、あるいは声高にしゃべりたてているたくさんの中年婦人たち。男はほとんどがシルバー世代だ。斜め前の七人掛けのシートの左端で吊り革につかまって立っている二人連れだけが若いが、スーツ姿で商談に没頭していて、どう見ても普通のビジネスマンである。
  隣の車両に続くドアは閉じている。ガラス部分から見えるのは、熱心に手帳に書込みをしている三十代のキャリアウーマン風、幼児連れの主婦のグループ、老夫婦。
  とりあえず視界に怪しい人間が映らないので、困ったなと思った。気のせいだったのかな。自分の眼力が衰えて刑事が見分けられないのなら世も末だし、刑事など居もしないのに居るような気がするなら立派な刑務所ボケだ。
  いや、確かに誰かが見ていた——辻は自らの疑問をきっぱりと否定した。刑事じゃないとすると、あの不快な視線は同業者のものか。スリ眼か。
  辻は目を閉じてみた。視線を誘うように、罠を仕掛けるように、そして、心を静めて自分の感覚を研ぎ済ませるように。
  気配というのは不思議なものだと思う。五感のうちの視覚を消しても、聴覚、嗅覚の補助がなくても、人が人に向ける意思のようなものを漠然と感じとることがある。
  見ている。誰かがこちらを見ている。彼が車内を見まわしたことで、警戒心を抱いた人間。彼が目を閉じたことによって、吸い寄せられるように、再び探りを入れてくる視線。間合いをはかるようにして、ぽっかりとまぶたを開くと、一つ、視線を捕らえた。
  意外な視線だった。
  向かいの三人掛けシートの端に座っている少女。膝に黒い小型のトートバッグをのせ、その上で参考書のような本を開いている。高校生?いや、受験生とすると中学生か。そんなことはどうでもいい。冴えない少女だ。つやのないぼさぼさした髪を長く伸ばしている。前髪も長すぎる。髪に養分をすべて吸い取られたのか、ぼーだーのTシャツとデニムのスカートからニュウと伸びた手足は棒のように細長い。顔も細く、不健康な肌の色、目だけが奇妙に大きかった。瞬きをしない目。鋭いというより、つかみどころのないぼにゃりした目だ。
  少女の前には、吊革につかまって立っている高校生くらいの若いカップルがいて、ふざけて互いにつついたり押したりして始終身体の位置を変えていて、その隙間から、ぼんやりとしているくせに奇妙に執拗な視線が彼に向かって流れていた。
  視線が合うと、一瞬、怯えたようにチカリと瞳が光り、たちまちうつむいた。長い前髪が目にかかる。その年頃の少女らしい、はにかみのように受け取れた。
  スリ眼とは、ほど遠い......。
  辻のほうも、なんだか、はにかんでしまって、居心地が悪くなって、座席でもぞもぞとした。もう一度、少女を見てみたかったが、のぞきでもするような気分になる。どうでもいいや、と唇をすぼめた。刑事も同業者もいないみたいだから、どうでもいいや。あのお嬢ちゃんが何で自分を見ていたかなんて、あんまり考えると恥ずかしくなるじゃないか。
  アナウンスが高田馬場への到着を告げた。
『さあ、マッキー、降りるよ!』
  お母ちゃんが景気良く号令をかける。気が早いのでさっさと立ち上がってドアの前へ突進すると、もっと気の早いのがいて邪魔するように最前列を確保しにかかる。向かいに立っていた高校生カップルだ。お母ちゃんは椅子取りゲームに敗れた子供のようにむっとした顔つきになった。
  辻は遅れてのっそりと立ち上がると長い背中を伸ばして、お母ちゃんの横に並んだ。後ろから、例の冴えない少女が近寄ってきたことを鋭く意識した。電車で仕事をするスリがカモを狙うのは乗降の時が最も多い。
  まさかねえ——そう思うのだが、どうしても背後が気になる。
  万引きのような感覚でスリを働く素人が増えている。後ろの少女はそれにしても幼い。飢えた子供が盗みを働くという社会ではない。自分はあのくらいの年齢で一人前に仕事をしていたが、まさか似たような境遇ではあるまい。父親か育ての親が腕っこきのスリで主犯として控えているなら話もわかるが、そんな奴は見当らない。
  少女は自分の真後ろにいた。自分を狙っているなら、ジーンズの尻ポケットか左肩からさげたナイロンのバッグだが、尻ポケットに金を入れて歩くスリがこの世にいるわけもなくてポケットはぺったんこだし、ジョルダー・バッグは左手でないと届かないだろう。もちろん、彼女は左利きかもしれない。だが、そもそも、俺が金を持っているように見えるか?若くて貧乏臭い男というのは一番スリが嫌う人種だがと辻は考え、そこではたと気がついた。もっと早く気づくべきだった。
  少女の右手が伸びる絶好の位置。お母ちゃんの肘からぶらさがっている派手な花柄のビニール製のトートバッグ。ジッパーも留金もないオープンな鞄。無防備なお母ちゃん。にぎやかで太めで目立つお母ちゃん。珍しくきれいなワンピースなんかで着飾ったお母ちゃん。見るからに自営業のおかみさんで、なまじのお金持ちの奥様より小金を現金で持っていそうなお母ちゃん。
  
  プジューッと音をたてて扉が開いた。
   様々な動作が辻の身辺で同時に進行する。それらは極めて微妙ではあるが不自然な動作で、動くべきところを動かなかったり動くべき方向に動かなかったりする数個のボディー、そして、問題の場所に伸びていく一つの手。そういうスリのチーム・プレーは知り尽くしている辻だが油断があった。可能性としては少女の単独犯行しか考えていなかった。
  ドアの前に先まわりするように立っていた高校生カップルが、互いにじゃれあうのに夢中な様子でホームに降りるのが遅れる。ほんのわずかな遅れなのだが、それでも後に続くお母ちゃんが一瞬立ちすくむ形になる。お母ちゃんのトートバッグに意識をすべて集中している辻の足も一緒に止まる。そこを左後ろからぐいと押された。ふいをつかれて辻はよろめき、体勢が崩れて視線がはずれた。
  ほんの一瞬。わすか三、四秒、視線を切っただけ。しかし、あわてて、振り向いた時少女の手は何も握っていなかった。
  辻のあからさまな視線が、少女の手から腕にさげたバッグ、そして顔へと往復した。お母ちゃんの財布を盗って自分のバッグへうまくすべりこませただろうか。あのわすかな時間にそれだけのことができただろうか。
  少女の顔の表情は落ち着いていた。でも、その目が彼を見ようとしないのは不自然だった。彼の露骨な執拗な凝視に対して、驚く、困る、嫌がる、恐がる、そういう感情をまるで見せずに無視してのけるのは、やはり普通ではない。
  盗人。スリ。
  それでは、盗みは成功か不成功か?
  お母ちゃんの財布は、どちらのバッグに収まっているのか。
『いやだよ、マッキー、よたよたしちまってさ』
  何も気づいていないお母ちゃんは、笑いながら辻の腕をとってホームへ引っ張りおろそうとしている。その脇を少女が心持ち足を速めて通り過ぎようとする。
  辻は反射的に少女の黒い小型のトートバッグに手を伸ばした。黙ってひったくるのは抵抗があり、一声かけようとして一瞬迷った。そして、まさにその隙に、本物のひったくりが現れた。辻を左側から追い越して降りようとした少女のさらに左手を追い越して降りていく少年。黒いトートバッグを無言でさらっていく。
『待てよ!おい!』
  辻は叫んだ。空しい叫びになった。
  単純な連係プレーだ。
  典型的なグループ・スリだ。
  変わっているのは、メンバーがそろってガキだというところだ。
  幕が三人、鈎は一人。
  鈎は真打ちとも呼び、財布をスリとる引き抜役のことだ。幕はそれを助ける役。周囲の視線から犯行現場を隠し、引き抜き役がカモから財布を奪いやすい位置へ導く。犯行後は、状況に応じて、財布を引き抜き役からリレーする。
  もちろん、鈎は、あのぼんやりした目つきの食えない女の子だ。幕は、お母ちゃんの前に立ちふさがるようにした高校生らしきカップルの二人。そして女の子のバッグをリレーして逃げた少年。この少年がおそらく犯行時に辻を突き飛ばして目くらましをしたのだろう。
  冗談じゃない、と辻は歯を食いしばった。こんなガキどもにしてやられてたまるか。よりによって出てきたばかりの日に。
  絶対にとっつかまえてやる!
『マッキー!こら、走ったら危ないよ!』
  三歳児を叱るようなお母ちゃんの台詞を背に受けながら、辻は高田馬場の五番ホームを夢中で走った。
  頭にひらめいた予感。
  プラットホームを逃げる時の常套手段。
  乗ってきた電車の扉が閉まる直前に、少年はいきなり中に飛び込むように姿を消した。間一髪、辻もすべりこんだ。予測していなければ到底無理な動作だった。
作者: 无边落木    时间: 2007-12-27 21:38
标题: 回复 5楼 的帖子
没有呢。在读你发在这里的。
前边好像忘记说谢谢你的发布了。
这里补上。谢谢!!
作者: koume88    时间: 2007-12-29 08:44
7楼的,哈哈,我会再接再励的。
作者: koume88    时间: 2007-12-29 16:49
3

    電車は終点の西武新宿に向かってゴトゴトと動き始めた。少年は進行方向に向けて一つ先の車両に乗っていた。辻が後を追ってきたことに気づいたのか、どんどん電車の先頭に向かって突進していく。高田馬場でだいぶ人が降りたので追跡は楽だった。この駅の間は四分ほどで、電車はペースダウンしてやけにのろのろと走る。
  少年はまだリレーされたトートバッグを持っていた。車内にもう仲間はいないはず、と辻は踏んだ。逃げ場はなかった。電車が駅につくまで、通路を逃げ続けることはできない。もうこの先が先頭車両だ。彼は非常用のレバーで緊急停車させて脱出する方法を知っているだろうか。バッグや財布を始末する知恵は?冷房中で窓が閉じているからバッグごと車外に投げ捨てるのは無理だ。財布だけ抜いて他の乗客のポケットや鞄にまぎれこませる可能性はある。
  少年のどんな細かい動きも見逃さないように注意した。でも、彼は、もうすぐそこだ。あと二メートル......、一メートル......、手を伸ばせば届く......。
  電車の端、運転席の後ろで、少年はくるりとこちらを向き直った。
  年頃は十七、八か。黒のTシャツ、ポケットのたくさんついたカーキ色のワーク・パンツをはき、髪は短く刈り上げていて辻の刑務所製坊主頭とよく似ている。中肉中背だが、肩の厚さと二の腕の筋肉の見事な盛り上りは厳しい鍛練で作り上げたものと思われた。
  少年の体格を観察して、辻は少し嫌な気分になったが、軽い調子で声をかけた。
『ゲーム・オーバーだぜ』
  ゲームで終わらせてしまおうと思った。なかなか腕のいいチームだったが、しょせんはガキの集まりだ。腕のいいガキの集まり、というところに少しひっかかるものがあったが、警察に突き出すつもりはないし、説教する柄でも立場でもなかった。
  少年は返事をしなかった。黙ったまま、まるい目玉だけを奇妙にギラギラ光らせている。マッチョな体型や髪型に似合わない、さっぱりした幼い顔立ちをしている。
『それ、よこせよ。中の財布だけでいいよ。なかったことにしてやるからよ』
  早口にまくしたてた。
  周囲の視線が集まった。
  車内アナウンスが終点への到着を告げ、乗客がぼちぼち立ち上がって先頭の扉付近に集まってきていた。
  辻は少年の目の前に右手をすっと差し出した。
『ほらよ』
  少年は反応しなかった。できないのだ。これだけ注目されてしまったら、バッグや財布を相手に渡すのは、当事者同士の問題では済まないと思っているのだろう。
  スリは現行犯逮捕の時でも、被害者が届けを出さないと犯罪として成立しない。だから、この車両の乗客すべてがスリだと騒いでも、辻がいいと言えば警察も手の出しょうがないのだが、少年は知らないだろう。
  左手の窓から歌舞伎町の景色が見える。赤や黄色の派手な看板、ぎらぎら光るビル。まもなく駅に到着する。
『ここしゃ渡せないか?場所を変えてもいいぜ。ビールでも飲みに行こうか?』
  辻は手を引っこめ、その手のやり場に困って自分の坊主頭をてらりと撫でた。相手は未成年だろうからコーヒーが妥当な線だが、なんだかナンバでもするようで馬鹿らしい。それに、シャバに出たら何がなんでもまずビールだ、と決めていた。
『新宿は、久しぶりなんだ』
  新宿だけではない。どの繁華街も、どの街も、皆、久しぶりなのだ。そんな話をしながらゆっくり財布を返してもらってもいいと考えた。彼らの『ゲーム』についても聞いてみたい気がした。
  スリは万引きとは違う。特にグループ・スリは、出来心と趣味的知識だけではとてもできない。誰に、どんな訓練を受けたのか、何のために危険を冒すのか、法を犯すのか。
  辻の誘いに少年は返事をしなかったが、ギラギラした戦闘的な光が瞳から消え、電源を切ったブラウン管の画面のように無機質な黒になった。
  嫌な目つきをしやがる、と辻は思った。刑務所で、ああいう目つきの奴を何人か見た。だいたいが無口な模範囚だ。そのくせささいなことでキレて発作的囚人仲間を絞め殺そうとする。
  辻と少年は並んで電車を降りた。周囲の乗客たちの好奇の視線を浴びたが、声をかえてきたり、駅員を呼んだりするおせっかいはいなかった。
  到着列車は一度ドアが閉まり、すぐそのまま埼玉や奥多摩方面に向かう急行に変わる。三番ホームでは乗車待ちの客が各ドアの前に短い列を作っていた。次の電車は本川越行きの十両編成だと駅員のアナウンスが流れた。先頭のドアから出たため、ホームはたちまちつきた。電光掲示板の下を通って出口に向かう。辻は少年の脇にぴたりとついて同じ歩調で歩いていた。少年は急いでいなかった。速くも遅くもない淡々とした足取り。前方をひたと見つめて動かない視線。連れの存在などまったく気にも留めないその落ちつきぶりに、辻のほうがじりじりと苛立ってきた。
  こいつ、どうするつもりだ。
  入口からの人の流れを横切るように左方向に折れて出口の自動改札に向かう。逃げるとしたら改札を出たところがチャンスだった。辻は集中力を高めた。隣の少年を横目でにらみながら自動改札に切符をすべりこませようとしてギョッとした。南大塚で早田のお母ちゃんが買って手渡してくれたのは高田馬場までの乗車券。四百四十円の切符。これで西武新宿の改札を出られたっけ?少年はもう開いた改札のドアをすたすた通り抜けている。どうしようもない。精算機まで行っている暇はない。一か八か。えい、開けゴマ!胸の中で妙な呪文を唱えて切符を機械にすべりこませた。扉は閉じなかった。まあ、ラッキー!機械が思い直してとおせんぼをしないうちに、辻は走るように改札を飛び出した。
作者: usagi09    时间: 2008-1-8 13:02
先顶下~
作者: koume88    时间: 2008-1-9 13:24
少年はダッシュをかけて逃走を始めなかった。立ち止りもしなかった。
『いつまで、シカトこいてるんだよ』
  辻は少年の後ろを平手でぱんとはいたいた。すると、彼はゆっくりと首を曲げて始めて視線をこちらに向けた。敵意に満ちた鋭い目。獲物を返す気などさらさらない目。
  わかったよ、と辻は思った。
『じゃあ、バイバイだな』
  そして、電光石火、トートバッグをかっぱらう——いや、そのつもりだった。
  何をどうされたのか、とっさにわからなかった。あっと思った瞬間、身体が宙に泳ぎ、景色が横転する。床へ伸ばした手が体重を支えられずにガジュッと嫌な音とともに妙な角度によじれる。右肩に激痛が走った。左手で患部を押さえ、思わず呻き声をあげた。
  バッグを持った少年は、前方の階段を飛ぶように駆け降りていた。後を追おうと立ち上がりかけ、肩の痛みに息が止りそうになった。右腕がだらんと下に垂れ下がっている。まるで力が入らない。自分のものでなくなったみたいだ。その一部分だけ突然命をなくして動かなくなってしまったようだ。ひどく気味が悪い。
  柔道の投げ技のようなものを食らい、下手に手をついて、肩の関節がはずれたのだと、だんだん理解ができた。理解ができたところで仕方がなかった。
  甘く見過ぎていた。
  俺の手を——と思った。
  よりによって手を。
  額や脇に脂汗がにじんできた。
  痛い......。それに.....。
  一年ニカ月と少し前、上野の新幹線のホームで警視庁捜査三課の警部に逮捕された時にも、これほどの屈辱を感じなかった。
  暴力が嫌いだった。犯罪に使われる暴力が。特にスリという犯罪に使われる暴力が。力で対抗できたとは思わない。ただ、力に訴えてくるタイプと予測したのに用心を怠った自分に腹が立った。
  床にすべり落ちていたショルダー・バッグを茫然と見つめた。動かせない右手。その右手を支えている左手。どちらの手でバッグを拾い上げたものか困った。右手を使うことは考えられない。右手の補助をはずして、左手で取ろうとして、支えをなくした右腕がぶらぶらと揺れ一層ひどく痛んだ。焼きごてを当てられたような痛みだと思う。焼きごてなど当てられた経験はないのだが、頭の芯までしびれるような、熱いような、刺すような、こんな痛み方をするのではないか。
  どうにかバッグを拾って左肩にかけ、クラゲが泳ぐようにゆらりと立ち上がった。数人の野次馬が遠巻きに見ていたが、彼がにらみつけると、あわてて離れていった。
  
  もちろん、追いつけるわけなどなかった。暴力少年の消えた階段をふらふらと降り始めたのは、何か目的があってというより、あまりのいまいましさに思わず足が動いてしまったというところだった。
  しかし、痛い。数段降りただけでたまらなくなって立ち止まった。関節をはずされるというのは、こうも痛くて、こうも情けなくてこうもみじめで、こうも気が遠くなりそうなものなのだろうか。
  咲の顔が頭に浮かんだ。何か都合の悪いことがあると、なぜか、必ず、あの凛とした静かな瞳の白い顔を思い出すのだ。早く、家に帰らないと、と思った。咲は彼の帰りを待っている。心配させると、またひどい咳が出るかもしれない。
  お母ちゃんはどうしただろう。財布がないことに気づいただろうか。まだ、自分を捜して高田馬場でうろうろしてるんじゃないか。早く、あそこまで戻らなくては。でも、歩くだけでもこんなにつらいのに電車に揺られるのはたまらない。まず、病院だ。新宿の病院で肩を治して、それから電話を入れて.....。いや、電話が先か。電話なら階段を降りた新聞スタンドの先にある。
  辻は左肩を階段の壁にもたせてこするようにしてじわじわと降りた。降りるにつれ、蒸すような熱い空気が身体を取り囲み、息苦しくなった。煉瓦色のタイル敷きの舗道は強烈な日光をはねかえしてギラギラ光っている。
  新宿は夏だった。東京中、日本中、どこもかしこも夏なのだが、電車に乗っている間はそのことを忘れていたような気がした。
  階段を降りきったところで、どうしようもなく胸がむかついてきた。
  舗道を行く人々の派手な夏服の色、色、色。車のクラクションがけたたましく鳴り響く。車は途切れることなく次々と流れてきた鋼鉄のボディーが日差しを反射して次々と光る。排気ガスの匂い。整髪料の匂い。若い女の子たちの悲鳴のような笑い声。
  色と光と熱と音と匂いと、すべての刺激が彼を取り巻き、彼の中になだれこみ、彼とともに激しくぐるぐるとまわりはじめた。
  出所後、しばらくは一人で外を歩けないというお母ちゃんの言葉が頭をかすめた。
  動けなくなった。そのまま、膝を折って、地面にうずくまった。
  わずか二、三メートル先の公衆電話まで、とてもたどりつけそうもない。
  こんなところで気絶すうのは願い下げだった。みっともないし、危険である。チンピラに踏み殺されるかもしれないし、酔っぱらいに間違われてトラ箱に放り込まれるかもしれない。警察のお世話にだけはなりたくなかった。こんなに長い間お世話になっていたのにまた早々にお邪魔したくない。絶対に嫌だ。警察は。留置所は。刑務所は.....。
  思考がぼやけていく。
  誰かに大丈夫ですかと声をかけられ、その声が非常に快いすがしい響きを持っていたこと、その人が顔をのぞきこむようにして身をかがめた時、栗色のなめらかな髪が肩から頬へすべり落ちて、うるさそうにかきあげた手が白くてほっそりとしていたことを覚えている。妙なことだけを覚えているものだ。辻にとって手の記憶はいつも鮮明だった。
  その人と交わした会話も、タクシーに乗せられたことも覚えていない。
  辻は、とても安らかに気を失ったらしい。誰かが自分を道端から拾い上げてくれ、ゴミのように警察に葬り去られなくてすむと知って心の底から安堵したらしい。
作者: koume88    时间: 2008-1-12 16:34
4

    去年の夏はもうちょっと涼しかったんじゃないかな、と歌舞伎町の西のはずれの道を駅方向に歩きながら、昼間薫は考えていた。その去年も、確か似たようなことを考えた覚えがある。夏は年々暑さを増して感じられるようで、地球の温暖化現象を憂うべきか、二十代にして体力の衰えを嘆くべきか、どちらにしても気の滅入る話だった。
  住まい兼仕事場に冷房がないのが何よりこたえる。二十世紀初頭に建てられた擬西洋風の老朽屋敷一棟を月十二万円の家賃で借りているのだが、いつの日にか屋敷が重要文化財に指定されるに違いないという妄想に取りつかれた大家が壁に穴を開けるのを嫌って冷房の設置を断固として拒否し続けているのだった。客観的に見て、屋敷は重要文化財というより、重要危険物であった。近い将来に地震か台風で倒壊するに違いなかった。
  昼間が、そんな屋敷を好きこのんでわざわざ借りているのは、一にも二にも職業上の利点だった。暑くても良い。ボロくても良い。むしろ、化け物の出そうな雰囲気を好んで、夏の盛りにも客がきちんとやってくるのだから、自分からすすんで出ていきたいわけなどなかった。
  今回の立ち退き勧告は本気らしい。ヤクザを雇ってでも叩きだすぞと大家の三沢は息巻いていた。家賃滞納はまだ三カ月分だが、家賃滞納そのものが三年間に六度目となると話は変わってくる。
  三十六万円か.....と昼間は小豆色のタイル敷きの舗道を革靴の爪先で蹴飛ばした。大金ではないが、決して少ない金額ではない。その証拠に知人は誰一人としてその金額を貸してくれなかった。歌舞伎町の飲み屋やゲーム喫茶などを数軒まわって金策に努めたが、どこも不景気と見えて無駄骨に終わった。
  それでも、同情か友情か手切れ金か、居酒屋と蕎麦屋の店主のポケットマネーから五万円、三万円と貸してくれたものを、三軒目のゲーム喫茶で金は貸せないけれどちょっと台をイジッてやるから運試ししていきなよと誘惑され、ほんの一本だけのつもりいでうかうかとビデオポーカーに手を出して結局十本も負けてしまった。金策に歩いて、さらに二万円をなくしてしまった勘定になる。
作者: koume88    时间: 2008-2-1 11:19
不定期にオケラになる原因は、そもそもギャンブルにあった。唯一のささやかな趣味。闇カジノのカード・ゲーム。ポーカーかブラック・ジャック。大きな勝負はしない。手元にあるはずの生活資金が底をつくと昼間はいつも悩んでしまう。そんなにスッたつもりはないのだ。しかし、現実に稼ぎはなくなり、貯金もなくなり、大家の三沢の忍耐までがなくなる。言い訳も泣き落としも、もう限界だった。
  金、金、金——いつも金のことばかり考えているなあ——昼間は嘆息をついた。晴れ渡って群青に光る夏空を見上げる。歌舞伎町の上にこんな潔癖な空が広がっているなんて冗談のようなに思えた。あくびをするつもりが光が鼻にしみてシュンとくしゃみが出た。

  昼間薫は別名をマルチェラという。『赤坂の姫』とも呼ばれている。タロット・カードを専門として看板に掲げているが、街角に立つ街占の時は手相、人相も観るし、部屋に客が来る宅占の時は十三星座の話をして、風水の相談にも乗る。そのくらいの融通がきかなくてはこの世界では到底食べてゆけない。
  赤坂三丁目の繁華街、一ツ木通りの間には、櫛の歯のような裏道が多数通っている。その裏道の一つに見台を出して商売を始めたのが三年前の春先だった。赤坂見附駅にほど近いその場所は、みすじ通りの小料理屋『なかもと』の私道だった。店のオーナー・ママの息子が大学法学部の同期で親友であり、そのコネと厚意で私道の片隅を拝借している。
  その親友の中本は六度目の挑戦で司法試験に合格し、昼間の姉夫婦の法律事務所で居候弁護士として働いている。コチコチ頭の真面目一本槍の性格で、親友に道を貸すことは厭わないが、占い師なる得体の知れない職業につくことの後押しをするのは実に遺憾だとぼやいていた。特に中本がいやがっているのは、昼間が女のなりをすることだった。顔を厚く塗り、赤い赤を差す。白い頭巾もしくはチャドルをかぶり、白いロング・ドレスを身にまとう。
  世間をたばかるために女装をするわけではない。若い男に向かって心の悩みを打ち明けたがる客は少ないと考えたのである。百六十センチという小柄で華奢な体格と、色素の薄い端麗な顔立ち、中性的な高い澄んだ声は、そのままでも男女の別をはかりかねる利点があった。
  古来占いの神秘に通じる神々は両性具有であることが多い。占い師マルチェラは、女性というより、女であり男でもある、また女でもなく男でもない、性を超越した存在だと、昼間は考えている。そのように日々心を清めて精進している。美しい女性の客に泣きながらすがられることがあっても、決して、ふらちな同情心を持たないのである。
『赤坂の姫』が生物学的には男性であることは、知る人ぞ知る公然の秘密。時折、困ることも揉めることもあったが、だいたいにおいて、マルチェラの女装は効果的であった。
作者: koume88    时间: 2008-2-1 14:25
通りを隔てた向かい側は、カジュアル・ファッション・ショップ『アメリカン・ブルバード』の煉瓦タイルの壁がえねんと続いている。まるでCMの撮影セットのように、その一角だけが唐突に"アメリカ"である。すっきりと小綺麗に見えるのは、通りのこっち側に並ぶ、カラオケ、パチンコ、立ち食い蕎麦屋、怪しげなビデオ屋、怪しげな薬屋、怪しげな横丁への入口がいかにみ雑多で日本的で美的配慮に欠けるせいかもしれない。
  昼間薫"日本"から"アメリカ"へ通りを渡ろうかどうか迷っていた。西武新宿駅は"アメリカ"の領分にあり、一駅先の高田馬場には姉夫婦の檜山法律事務所があった。
  姉の冬美とは昔から気が合わなかったが、義兄は話のわかる人間だった。姉に内緒でへそくりから三十六万円をこっそり渡してくれそうなタイプだった。
  どうしても金は必要なのだ。
  ギャンブル仲間が貸してくれないなら、ほかを当たるしかないが、学生時代の友人とはほとんど疎遠になっている。まさか客に借金するわけにはいかないし、貢いでくれる女などいないし、手頃な質草もクレジット・カードもないし、サラ金は恐い。もちろん、ほかに親切な親戚など存在するわけがない。
  とりあえず、電話を入れてみようか、と決心した。これは賭けだ。電話に姉か"イソ弁"の中本が出たら負けと認めて無言で切る。義兄が出たら勝ちで話をしてみる。その他の人間、中本以外の若手弁護士か事務員が出たら、義兄に取り次ぎを頼んで、もし義兄が不在であればやはり負けとしてあきらめる。よし。
  昼間薫は通りを渡った。
  まず、西武新宿駅で公衆電話を見つけることにしよう。電話はすぐに見つかった。駅に上る階段の手前に新聞スタンドがあり、その左手に公衆電話が並んでいる。
  しかし、昼間は電話を見つけたとたんに、自分の用件を忘れてしまった。正確に言うと、電話の次に見つけたものに切を取られて、それどころではなくなったのだ。
  一人の男だった。
  階段を降りたところでうずくまっている、坊主頭の長身の鋭い目の男。片手で肩を押さえ、血の気のない真っ青な顔にだらだらと脂汗を流している。一見して具合が悪いことがわかった。しかも、重症だ。肩を撃たれたのかな、と昼間は思った。ヤクザ同士の銃撃など珍しくない土地柄だった。堅気には見えない。服装はくすんだ青の綿シャツに色の落ちたジーンズでヤクザ者らしくはなかったが、髪型、そして全身からただよう野良犬のような隙のない無頼な雰囲気が尋常ではなかった。
  しかし、彼の身体のどこにも血の汚れは見られなかった。どうしたのだろう、どこが悪いのだろうと不思議に思ううちに自然に足が止まり、正面からじろじろと見下ろす形になってしまった。
  好奇心が強い。妙に度胸がある。失うものがないので恐いものもあまりないのかもしれない。ふつうなら、見て見ぬふりで素通りするところを、ついつい引っ掛かってしまう。目があった。
  光の強い目だった。まっすぐに見つめてきた。助けを求めているというよりは、見られたので見返したという単純な気概のようなものが伝わってきた。ふと心が動いた。
『大丈夫ですか?』
  かがみこむようにして声を掛けた。
『肩を、どうしました?私の声が聞こえますか?すぐ救急車を呼びますね』
  相手は必死でかぶりをふった。
『警察は.....いやだ』
『一一〇番じゃない、一一九番』
  昼間は男の耳元に口を寄せるようにして、『キュウキュウシャ、ビョウイン!』
  と一言一言区切るようにはっきりと発音した。それでも、相手はイヤイヤをする。警察はいやだと繰り返す。
『肩をはめればいいんだ。肩がはずれただけだ。家に帰りたい。家に.....。電話を。警察はだめだ』
  かすれた声で懸命にしゃべる。少し頭がぼにゃりしている様子だ。
  肩関節の脱臼か、と昼間は納得した。あれは痛いらしい。自分では経験がないが、経験者を何人か見ている。
  警察もイヤ、病院もイヤということは、かなり物騒な事件に係わりのある人間と見て間違いなさそうだった。
  ギョロリとした大きな鋭い目がにらむように昼間を見据えていた。見据えられて、根が生えたようにその場から動けなくなってしまった。救急車を呼んで、やっかいごとに巻き込まれないうちにさっさと消え失せるのが、大人の分別というものだった。
  一人の太ったブルネットの老女の姿が頭に浮かんだ。ローマの町はずれの安アパートで独り暮らしをするマルチェラという名の老女だった。以前、昼間が、目的もなくイタリアやフランスの町をふらふら流れ歩いていた頃に出会った恩人だ。占い好きでいつも一人でカードを並べていた。タロット・カード。イタリア語でいうタロッコ。
  ケチなギャンブルでもめて、地元のチンピラに半死半生になるまでぶちのめされた彼を道端から拾って怪我の手当をして、宿まで貸してくれたお人好しの陽気なイタリア女。
『うちに来ますか?』
  この男を連れて帰ったら、大家の三沢が何と言うだろうと考えたら、それだけでも馬鹿げた危険を冒す価値があるような気がした。
『肩ね、治してあげますよ。いい医者を知っている。警察には言わないから大丈夫』
  昼間がそう言うと、男はひどく安心したような感謝したような素朴な笑みを見せた。不安をかかえて訪ねてくる占いの客に、良いカードを示して幸運を暗示してやると、そんな心からの微笑を見せられることがあった。いつも、胸の奥がきしむような微妙な痛みを覚える。今もそうだった。
  男をそこに残したまま、タクシーを拾いに行った。千円のチップで手伝ってくれる気のいい運転手を見つけるまでに三台やりすごした。
  身長百八十センチ近くある怪我人は扱いにくく、運転手と二人で大汗かいて車に連れ込んだ。走り始めると、男はほっとしたようにすぐに気を失ってしまった。
  昼間は急に心配になった。肩関節の脱臼だけで気絶までするだろうか。頭かなんか打っているのだったら、やはり病院へ連れて行かないといけないのではないか。早急に。
  迷っているうちに、やがて、男はうっすらと目をあけた。目を開くと同時に右肩を左手で押さえた。痛みでおちおち気絶もしていられないらしい。
『怪我は肩だけ?頭は痛みませんか?頭を打っていないでしょうね?
  昼間は性急に尋ねた。
『チクショウ』
  と相手はつぶやいた。
『頭から落っこったらよかったんだ。下手に手をついたからこのザマだ。』
  思ったより、しっかりした口調だった。
『喧嘩ですか?』
『喧嘩なら、いいさ』
  自嘲気味に薄く笑った。
『やられただけさ』
  昼間は黙ってうなずいた。そして、それ以上の質問は控えた。誰にやられた?なぜ?警察を嫌う理由とともに、あとで人のいないところでゆっくりと尋ねたほうがいい。
作者: koume88    时间: 2008-2-1 15:38
5

    かすかにお灸の匂いがした。布製のソファーと、乱雑に雑誌が重ねて置いてある木のテーブルが一つ。狭い待合室は無人だった。受付にも人の姿はない。とにかくここが終点だな、と辻は安心した。路地に車が入れないので、二十センチほども高さの違う華奢な肩にもたれて、よろめきながら歩いてきたのだ。もう限界だった。相手の息もあがっていた。ノックに応えて診察室のドアが開き、白髪まじりのふさふさした眉毛を持ち、白衣を着た体格のいい老人が姿を現した。骨接ぎ、整体、マッサージの三沢医院の主のようだ。気難しい顔つきをしている。二人の姿をみるとさらに不機嫌な目の色になった。
  家賃と立ち退きと弁護士と裁判について、いきなりがみがみと怒鳴られて、痛みと疲労でぼにゃりしていた辻はまた気が遠くなりそうになった。ようやく話の内容が自分のことになったが、やはり風向きは悪い。
『整形外科へ連れて行きたまえ』
  老医師はそっけなく命じたのだ。
『身許の不確かな患者はいやだよ。最近は骨接ぎは流行らない。治療法が気にいらんと言って訴訟でも起こされたらコトだからな』
  ふさふさした眉毛をしかめて、急に疑り深い顔つきになった。
『それとも、何かね、昼間さん、あんた、最初からそのつもりで、一悶着起こすために、その男をかついできたのかね?』
  辻は大声でうめきたくなった。ようやく終点だと思ったのに、何をもめているのだろう。早くしてほしい。骨接ぎの医師だろうが、傘の修繕屋だろうが、こう際ぜいたくは言わないから、早くこわれたところを治してほしい。
  昼間と呼ばれた人物は、医師の不機嫌にまったく動じなかった。
『三沢先生らしくないお言葉ですね』
  そして、老医師がいかに寛大に大胆にワケアリの患者を治療してきたか、その幅広い人間関係についてとうとうと述べたてた。
  老人は文字通り眉毛を逆立てた。
『わしが闇医者だとでも言いたいのかね?患者の弱みにつけこんで治療費をふっかけるような』
『取れるところからはどんどん取るでしょうね。でも取れないところからはきっぱりと取らない。鼠小僧のようなお医者様ですよね』
『侮辱するつもりかね?脅迫かね?』
『とんでもない。めったにいない名医だからお願いに上がっているんですよ』
  医師はうなるような声をたてた。
  えらいところへ連れてこられたな、と辻はあきれた。天使のような親切な女性に助けられたと思っていたが、これは、どうもとんでもない天使のようだった。
『苦しそうですよ。診てあげて下さいよ』
  やゆするような口調が急に素直になって訴えると、医師は無言で相手をにらみつけた。どんな内心の葛藤があったのかは知るよしもないが、やがてありがたいことに診察室のほうにあごをしゃくって、辻に入るように示した。
  ああ、ありがたい。ありがたい。
  老医師のあとについて板張りの床を歩きながら、ずっと左半身を支えていてくれる栗色の髪の"天使"にすみませんねと一言つぶやいた。もっと色々言うべきなのだろうが、言葉が出てこなかった。いえいえ、と相手は小さくかぶりをふった。
  診察台が二つ。薄緑のカーテンで囲われているが、入口に向いた部分は開かれている。医師は左側の診察台に座るように命じた。
  そして——。
作者: a-z-q-j-y    时间: 2008-2-18 19:18
谢谢!
作者: koume88    时间: 2008-2-20 14:58
名医の治療は、膝と手と腕力をフル活用した乱暴狼であった。痛みと恐怖で思わず絶叫すると、やかましいと一喝された。
『なさけない。わめくのは、たいがい男だ』
『子供を産む身体じゃないからですよ』
  脇で見ていた"天使"が同情するように言った。
『今時の男さ。戦争に行ったモンはこんなことで騒ぎゃしないよ』
  老医師は手際よく辻の腕に三角巾を吊りながら断言した。
『わしは右翼じゃないがね、あんたのような男には軍隊教育が必要だと思うね』
『外人部隊にでも志願しますかね』
  白い小さな顔がにっこりと笑った。その頃になって、ようやく辻は"天使"が、紺色のスーツに白いワイシャツ、ネクタイこそ締めていないが、がっしりした黒い革靴という服装なのに気がついた。
『男?』
  間抜けな声を出して目張った。
『気をつけたほうがいい』
  と医師は苦々しく忠告した。
『時々、女だと主張する』
『そういう商売ですから』
『せいぜい商売に励むんだな。三十六万、明日が最終期限。これが最後通牒だ』
『わかりましたよ。期限までに家賃を入れれば、治療費はサービスしてくれますか?』
『この男は文無しかね?』
  医師はあらためて細部を点検するような目つきでじろじろと辻を眺めた。
  文無しだと主張すればタダになるのだろうかと辻は考えた。先ほどの話の流れだと金持ちからふんだくり、貧乏人に優しい、融通のきく医者らしいが。
『払うよ。いくら?』
  辻は簡単に言った。こんなところで借りを作るのはいやだった。それでなくともこの昼間という女性、いや男性にひとかたならぬ世話になってしまった。
『今はあんまり金持ってないけど、ちょっと仕事すりゃあ.....』
  右腕を少し動かしてみて顔をしかめた。だいぶ楽になったものの、まだ相当に痛む。
『全治一ヶ月』
  医師は情け容赦なく宣言した。そして、治療費を告げたが、それは辻の財布の中身で間に合う金額だった。

  三沢医院の玄関を出ると、板塀の門まで、芝生がゆるいスロープで下っている。植え込みや樹木の点在する西洋風の狭い前庭だ。三沢医院は薄緑の下見板張りの西洋館で、隣接するもう一棟がやはりよく似た造りの建物だった。兄弟というよりは親子のように年齢差がある。隣が古い。古いが風格がある。壁のペンキも赤い屋根瓦も三沢医院のほうがきれいなのに、それを安っぽく見せてしまうようなシックな存在感がある。
  もっとも、辻牧夫としては、並んだ二棟の家の造りの違いなど、ほとんど目にも止まらなかった。彼が興味をひかれているのは家ではなく、その住人のほうだった。
  肩はずきずき痛むが、一人で歩けるようになった。半歩先を行く昼間の横顔を眺め、なるほど、男だとわかっていれば女には見えないなと妙な感心をしている。
  おかしな人物だった。容姿も物腰も実に品がいいのに、態度や行動にはどこか堅気ではない図太さがある。だいたい、自分のような者を道端から拾い上げてくれるというのがまっとうじゃない。あらためて不思議になる。商売は何だろう。金の催促をされていたようだが、よほど困っているのだろうか。
『電話をかけますか?』
  昼間がふりむいて尋ねた。
『家に、連絡を』
  はっとした。お母ちゃんはどうしただろうと思うと同時に、不愉快な記憶が鮮烈に甦り、とっさに言葉も出ないほど強い怒りがこみあげてきた。
『誰かに迎えにきてもらいますか?』
  昼間の足は門ではなく隣の屋敷にむかっている。
『そうほうがいいと思いますね。肩の怪我だけじゃないでしょう。暑気あたりか貧血か。あんなふうに意識がなくなるのは』
『ムショぼけってヤツさ』
  辻は正直に言ってみた。
『シャバのスピードに目がくらむのさ』
『へえ』
  昼間は足を止めた。髪と同じ薄い色の瞳が好奇心をたたえてキラリと光った。
『何年、入ってたんです?』
『一年ニカ月』
『それで、目がくらむんですか?』
  刑期が少ないのを馬鹿にされたような気がして、それが妙に面白くなくて、
『あんたも、試してみたらどうだい?』
  すねたように言うと、黙って笑っている。冗談だとでも思ったのだろうか。玄関の鍵を開けて平気で家に自分を招き入れようとするので、不用心もここまでくると相手に何か魂胆がありそうな気がして辻のほうが入るのをためらってしまうのだった。
作者: koume88    时间: 2008-2-20 16:37
『あの三沢という医者の父親は写真屋で、この部屋をスタジオに使っていたらしいです』
  昼間はスーツの上着を脱ぎながら言った。
『明治の頃だから、写真屋なんて洒落た商売ですよね』
  本物の大きな暖炉のある客間だった。広さは十二畳くらいあるだろうか。寄せ木細工の黒ずんだ床の中央には、ペルシャ風のじゅうたんが敷かれ、アイボリーの合皮のソファー・セットが置いてある。艶のある長方形の木のテーブルは飾り気がなく無骨でどっしりしている。テーブルは窓のそばにもう一つ置かれ、やや小さく、背が高く、形は丸い。やはり背の高い木のスツールが一つ添えられている。丸テーブルは黒いクロスに被われ、上には白木の箱と、蝋燭立てのような銀色の細工物がきちんと並べてあった。
  入口の正面の壁に窓が二つ。左側は鎧戸が閉じていて、右側はガラスが内側に開け放たれている。
  右手の壁は作りつけの本棚になっていた。部屋の主はなかなかの蔵書家のようで、辻にはタイトルも読めない洋書がやたらと並んでいた。和書には、占いや宗教に関するものが多いようだった。
  薄暗く、暑い部屋だった。薬草のような妙な匂いがこもっていた。風が抜けるように玄関の戸もストッパーをかけて開けたままにしてあるのだが、申し訳程度に空気が動くだけで、あまり効果はない。
  三人掛けのソファーをすすめられ、入口近くの隅にある引出しのついた猫足の木の台の上の電話を教えられ、自分はあまりここで飲食をしないので飲物はお客用のハーブ・ティーしかないのだが、冷たいほうがよければ冷蔵庫で冷やした水道水——少し古いかもしれないが飲めないことはないだろう——にするかと聞かれた。
  辻は水を注文した。薄紫の透かし彫りのあるタンブラーに入った透明な液体をのどに流し込む前に、
『ヒルマさん、何してる人?』
  と尋ねた。この質問を自分が先にしなければならないのがしゃくにさわったが、水の一杯も薄気味悪いほど部屋も部屋の主も実に正体不明なのだった。
『私?占い師ですよ』
  昼間はごくあっさりと答えた。
  辻は水を飲んだ。カルキ臭くてまずい水だったが、 飲み干したあとでひどくのどがかわいていたことに気づいた。
『あなたは?』
  昼間は聞かれたことに対する礼儀のように同じ質問を返してきた。
『スリをやってた。電車専門』
『肩の怪我は?』
『.....スリにあってね』
  言葉がすんなり出てこないほど、腹の底が怒りで煮えたぎっている。
『そいつらはガキでね、なめてかかってたらぶんなげられたんだよ』
  辻は輪郭のはっきりした薄い唇をきりきりと噛みしめた。
『ガキのくせに、いっちょまえにグループで仕事しやがんだ。冗談じゃねえ。あれは一回や二回じゃねえ。何度もやってる。信じられねえよ』
『それは、災難でしたね』
  昼間は落ちついた口調で言った。
『ガキって、いくつくらいです?』
『高校生かな。わかんねえな』
『警察と病院をいやがったのは、どういうわけなのかな』
『誰が?』
『あなたが』
『そうなの?』
『そうなのって.....。だから、三沢さんのところへ連れてきたんですよ。よほどの事情があるかと思って』
『そうなの?』
  辻はもう一度繰り返して、左手で坊主頭をかいた。
『ああ、そうだ。酔っぱらいと間違えてトラ箱に入れられたらいやだと思ったんだよ。出てきたばっかりの日にだよ、またオマワリの顔なんて見たくないでしょ』
  昼間はあきれた顔をしている。
『どうも、世話になっちまって』
  辻は助けてもらった礼を言ってなかったことに気づいて頭を下げた。ついでに、言わでものことを付け加えた。
『いつも、そんなに親切なわけ?もし、俺がすげえ悪い奴だったら困んない?』
『勘が頼りの商売でね。本当に悪い奴のにおいはわかります』
『そうかな.....』
  辻は電車の中の少女スリのことを思い出していた。乱暴な少年のことも。いったい誰があの連中に警戒心を抱くだろう。占い師なら予見できるのだろうか。
『電話、かけないんですか?』
  と昼間は聞いた。
一刻も早くかけなければいけなかった。
  壁にかかっている時計を眺めた。白っぽい木の皿のような文字盤のない針の位置は、どうやら五時近くのようだ。中華料理店『早々軒』が忙しくなる時間帯だった。お父ちゃんは孤軍奮闘してるのだろうか。耕二はもう店に出ているだろうか。お母ちゃんは?咲は?自分を連れずに帰宅したお母ちゃんに咲はなんて言っただろうか。
  いや、誰も店なんてやっていないと辻はわかっていた。彼を捜したり、気を揉んだり、みんなでウロウロしているに違いなかった。さあ、早く、連絡を。
作者: ルルティア    时间: 2008-2-20 21:22
貼完了麽?弄完我給你做一個PDF的
作者: koume88    时间: 2008-2-28 09:56
先谢过楼上的啦,完了找你,估计还要过一段时间,呵呵.
作者: koume88    时间: 2008-3-1 15:39
何をためらっているのだろう。
『あまり長居はすすめませんよ』
  と昼間は言った。
『なにしろ、この家は暑くてね。また具合が悪くなるといけない』
『暑いのは慣れてる』
  辻は独り言のようにつぶやいた。
  昼間は辻の顔をじっと見た。目があうと、何か頭の中身を読み取られたような落ちつかない気分になった。
『何かわかる?』
  辻は尋ねてみた。
『俺の面から、何か読める?』
『迷い。相反する二つの気持ちの闘い』
  占い師は答えた。
『どんな気持ち?』
『さあね。そこまではね。占ってほしいんですか?ここでカードを並べると一時間で一万円必要ですよ』
  金の話題になったので、辻は三沢医師が最終期限だの最後通牒だの言いつのっていたことを思い出した。
『ここ、あの医者に借りてるんだよな?』
『そうです』
  昼間の顔に苦笑のようなものが浮かんだ。
『あんまり、もうかってないの?』
  辻は不遠慮に尋ねた。
『収入を支出が上まわります』
『女?ギャンプル?』
『勘がいいですね』
『そんなの常識じゃないの』
  辻は、あまり、おせっかいなタチではなかった。目の前の小男のように、見ず知らずの人間を気にかけるほど親切でも物好きでもなかった。だから、いつもなら、そんな立ち入った質問は決してしない。
『借りるあて、あるの?』
『運が良ければ』
  昼間は気取った微笑みを浮かべた。その答えは、辻の気持ちの底のくぼみのような部分にすとんと落ちて動かなくなった。
——運が良ければ。
  運が良ければ、手に入る金だ。たしか、三十六万とか言っていた。それが三百六十万だったら、辻もそんな突飛な考えを起こさなかったはずだ。自分がそれを手に入れよう、と。恩返しをしよう、と。
  なぜ、早田家に電話したくなかったのかがその時わかった。早田のお母ちゃにゃ咲が賛成するはずなどないのだから。理解してくれと頼むほうが間違っているのだから。
  仕事がやりたい。
  スリの仕事が。
  どうしても、やりたい。
  あんなガキどもにしてやられたままで、引き下がれない。俺だって、やれる。もっとうまくやれる。あいつらを見つけてやる。絶対タダじゃおかない。プロの仕事がどんなものか思い知らせてやる。
  思考をさえぎるように、突然、電話のベル音が鳴り響いた。辻はぎくりと身をすくめた。早田家と電話が頭の中で一つに結びついていたので、一瞬、咲かお母ちゃんが彼を咎めだてするためにかけてきたような錯覚に陥ったのだ。
  昼間が応答した。当然、昼間への電話だった。どうやら、相手は馴染みの客らしく、占いの予約をとりつけている様子だった。常連の客がいて、予約が必要だとあれば、かなり流行っている商売ということになる。
  支出が収入を上まわる——と昼間は言っていた。あながち嘘ではないかもしれない。人が金を必要とする理由は数限りなくある。女かギャンブルかと冗談めかして尋ねたが、家族の病気のような深刻なものかもしれないし、まったくただの浪費なのかもしれない。
  受話器を置くと、昼間はこちらを振り向いた。
『ちょっと金策の電話を二、三かけます。それから、たぶん出かけることになると思う』
  出ていってくれと、ほのめかしていた。
『わかった』
  辻は肩をかばうようにゆっくりとソファーから立ち上がった。
『本当に助かった。世話になった』
  どうやって、昼間に金を渡そうかと考えていた。自分に三十六万を調達できるかどうかはともかくとして、のこのこ戻ってきて手渡したところで素直に受け取ってくれるかどうか。昼間より早く"金策"を成功させて、大家の三沢に直接渡してしまえばいいか。
『家に、帰りますね?』
  昼間は素行不良の中学生に対するように、心配そうな口ぶりで尋ねた。
『ああ、そうだな』
  辻はおせっかいな教師に対するように気のない調子で答えた。
『待っている人がいるんでしょう?』
  昼間が重ねて聞いた。
  待っている人たちはいる。そんなに一生懸命待っていてくれなければいいのにと思う。
  迷い。相反する二つの気持ちの闘い。
  帰りたい。帰りたくない。
  返事をするタイミングを逃したが、昼間もそれ以上は追及せずに、地下鉄の駅までの道順を丁寧に説明してくれた。
  玄関で別れをつげた辻が背を向けてから、
『ねえ、もし、行くところがなかったら.....』
  昼間の声が呼びかけてきた。
  辻が振り向くと、
『いや、行くところがないのは、こっちのほうかもしれないですね』
  栗色の髪を肩まで垂らした小男はそうつぶやいて、どこか寂しそうに笑った。
作者: koume88    时间: 2008-3-1 16:43
6
    夏の夕暮れの空はまだかすかに青さを残して明るかった。路地の空気はぬるいお湯のようで、三沢屋敷の向かいに並ぶ古い民家の料理のにおいがたちこめていた。しょうゆの焦げるにおい、魚のにおい、揚げ油のにおい。夕飯は何だろうと想像すると、いやおうなく早田の家を思い出して、ふと柄にもなく里心がついた。
  夕暮れ時というのは、子供が家に帰る時刻で、そんな遠い数多の幸福な記憶が脳細胞にしみついていて、大人になったのちも家の灯を恋しくさせるのかもしれない。早々軒の赤提灯。夕飯はいつも店の料理で、ラーメン、チャーハン、スブタ、ギョウザ・ライス。遊び場から咲といっしょに家路につき、咲といっしょに食卓についた。耕二が生まれるまでは二人きりの時が多かった。お父ちゃんもお母ちゃんも店に出ていたし、おじいちゃんはたいてい留守にしていた。
  咲は食べない子供だった。よくそれで生きているなと不思議になるほど特定のものをぽっちりしか食べない。ラーメンは麺だけ。ギョウザは皮だけ。スブタはタケノコとニンジンだけ。チャーハンはみじん切りのネギをきれいに選り分けてから、まずそうに御飯をモグモグと噛んでいてなかなか飲み込まない。咲の残したものを辻は全部たいらげて、そのことをお母ちゃんに黙っていたが、咲が営養失調で死んだら自分のせいだとひそかに怯えていた。咲の好きなイチゴ大福やジャムパンをお小遣いでこっそり買って食べさせたりしていたものだ。
  咲のことを考えると、だんだん胸が重たくなってきた。まっすぐ帰るか——九分九厘その気になりかかったが、右腕を吊っている三角巾が目のはしをかすめると、やり場のない怒りがまたもやもやとこみ上げてきた。
  みっともねえ!と思うのだ。自分がついていながらお母ちゃんの財布をむざむざとスリとられ、追いかけたらこの始末。もちろんにぎやかな笑い話で終わるだろうが、愛情に満ちあふれた早田家の茶の間の笑い声を想像すると、いてもたってもいられないような気分になる。あのガキ連中にしてやられたままで、おとなしくスリから足を洗って堅気の職につく気にはなれなかった。
  うどん屋のわきを左に折れて、車通りの多い細い道をだらだらと下ると、煉瓦タイルで舗装された商店街に出る。一ツ木通りだ。右へ行くと赤坂駅、左へ行くと赤坂見附駅。
  立ち止まって一つ大きく息を吸うと、繁華街の雑多な空気が肺から全身にしみわたるようで、飲食店の看板も、行き交う人々や車の列も、いきいきと輝きを増して見えた。雑踏が好きだった。先ほどは目まいがするほど苦痛だった色や光やにおいなどの刺激が心地好く感じられ、あらためてシャバを肌で意識した。気持ちが開けていくのがわかる。はずんでいくのがわかる。世界が自分と自分の指の動きを待っていてくれるのがわかる。
作者: lerored    时间: 2008-3-11 14:50
提示: 作者被禁止或删除 内容自动屏蔽
作者: feisha52    时间: 2008-3-13 17:58
很长啊。。。我拷下来慢慢看。。
作者: koume88    时间: 2008-3-15 10:04
むずかしい計画だった。一年ニカ月のブランクと利き腕の怪我——すなわち、ふらつく足と、にぶった勘と、痛む肩と、右ほどは達者でない左の指という悪条件で、一晩のいつに三十六万なる金額をどうやってスリとるか。
  やはり、"長箱"がいいだろう。昔の言葉で長距離列車で行うスリのことだ。
  新幹線に乗ろう。

  八重洲北口のみどりの窓口で、グリーン席の窓際の乗車券を買い求める。八月半ば過ぎの夕方ということで、列車はかなり混雑しており、一時間半ほど先の新大阪行きひかり号のチケットがようやく手に入った。本当はもっと先まで行く列車のほうが良かった。長く乗れるほうが何かと融通がきくのだ。まあ、仕方がないさ、前もって慎重にプランニングした仕事ではない、いきあたりばったりでやってみるさと心を決めた。
  肩の治療費と新幹線代で、手持ちの金がだいぶ乏しくなった。一万五千三百十二円。全財産を確認してからジーンズの左右のサイド・ポケットにばらしてねじこみ、山手線で上野まで出た。アメ横の文房具、雑貨屋、洋品店などをまわって買物をする。必要な物は、事務用封筒、超薄手のビニール手袋、保存用ビニール袋、ハンカチ、帽子。それから、コンビニを二軒まわり、剃刀や電池やお菓子など小さな安い物を数度に分けて買い、レジ袋をたくさん入手する。いらない物は捨て、必要な物だけショルダー・バッグに収め、三百五十円で買った黒いベースボール・キャップのひさしを後ろにまわして丸刈りの頭にのせた。
  この髪型は、見るからに犯罪者か極道だ。目立つ。せめて人並に生えそろうまでは悪事に慎めという刑務所の餞別のようだ。スリは決して目立ってはいけない。
  腕が長い、視界が広い、といった利点もあるが、百七十九センチの身長を時々邪魔に思うことがあった。とびきりノッポというわけではないが、やはり人より少し高い。少し目立つ。だから、背中を丸めて、ややうつむきかげんに歩く。
  早田のおじいちゃんはよく言っていた。おめえは派手でいけねえ。派手な服など着たこともないし、派手な言動もしない。それでもなぜか人目をひく。日本人離れした長い手足に、浅黒いそげた頬、鋭い大きな目。あんまり男前になるなよ、と子供の頃、おじいちゃんに妙な忠告をされたものだ。女に顔を覚えられるからな。女がカモなんだからな。腕力、走力において男に劣る女を、スリは狙うのである。犯行を気づかれた時にふりきって逃げやすいターゲット。男より女を若者より老人を。身体的弱者を襲わないなどというきれいごとを言っていたら、プロのスリは務まらない。
  それでも、伝説の名人早田勘介は、盗人の仁義を重んずる昔気質の紳士的スリの生き残りであった。暴力を嫌った。カモが決して気づかない神業のような軽妙なタッチを誇りとした。金額の多少より、いかにしてそれを手に入れたかという点にこだわった。あんな人はもういない、と辻は思う。あんな腕のいい、あんな古臭い考え方のスリはもういない。今日、これから辻がやろうとしている"ブランコ"という手口などスリの技とは断じて認めなかった。ただの置引きだと吐き捨てる。
——なあ、おじいちゃん、今日はね、ハンディー、ノルマ、タイム・リミットと三拍子そろってんだよ。勘弁してくれよな。
  辻は胸の中で言い訳した。
  彼もまた、一番身近で育てられた弟子だけに、頑固な職人気質と古めかしい犯罪美学の持ち主なのだった。
作者: minimro23    时间: 2008-4-9 09:53
へー?まさか?--玉木宏と小池徹平の映画の原作?
作者: koume88    时间: 2008-4-14 10:21
新幹線には独特の匂いがある。グリーン車にはまた少し違った独特の匂いがある。余計に払っている料金分のぜいたくな匂いがあると辻は思う。
  進行方向に向けて真中からやや後ろ、左側の座席だった。悪くない。ショルダー・バッグを足元に投げ出し、シートを少し倒して寄りかかり、キヨスクで買った漫画週刊誌を開いた。三角巾は目立つのではずしておいた。退屈そうな表情を作って、前後と右に客がやってきて座るのを待った。
  新幹線グリーン車の"長箱"は、仕事場とする東京近郊の電車の"箱"以上に運が必要だった。いくつもの電車を乗り換え、カモを値踏みし、タイミングを図って近づく、という回転の良さがない。一発勝負の博打に似ている。自分の周辺に豊かな金脈が存在するか否かにかかってくる。ただし、確率は高い。特別料金を払っても十分に見合うだけの、十数万円という稼ぎが期待できる。運が良ければ数十万円。一千万円入りの手提げバッグにぶつかったスリの話もあるくらいだ。
  東海道新幹線のグリーン席の乗客の多くはなかなか良い財布を持っている。そして、赤ん坊のように他愛いなく眠る。あるいは、本や雑誌に音楽にノート・パソコンに没頭する。他人には徹底して無関心だ。そして——。
  夏場、男性諸君は、財布の入った背広を脱いで窓際の座席のフックに掛けておく。そこは自分の領分だと信じている。自分の座席内の場所だから安心だとごくあたりまえのように思い込んでいる。
   
  ひかり三三七号は東京駅を発車した。
  前の座席には四十前後の中間管理職風の男が座った。背広は脱がない。隣はパステル・グリーンの立襟のスーツを着て、女性アナウンサーのように行儀良く膝をななめにそろえた小柄な老婦人だ。後ろは空席だ。新横浜で乗車してくれるといいが。今のところ、この席にはあまり運がついていない。
  やはり、本職の"箱"で勝負すべきだったかなと、自分の弱気を少し後悔した。一発勝負に勝つためには、最低でも博多の二往復くらいは必要だった。まあ、いい。だめなら、自分から出歩いて見つけるまでだ、通路を歩きながら。トイレを待ちながら。ホームに降りながら。機会はある。この車両の網棚に幸運が転がっている可能性だってあるのだ。

『あのねえ、あなた、お仕事は何をなさっているのかしら?』
  隣の老婦人が話しかけてきたのは、まだ列車が新横浜に到着する前のことで、辻はまったく不意をつかれてドキリとしてしまった。きれいに切りそろえた白髪のオカッパ。遠慮のない明るい丸い目をしていて、人なつこくニコニコ笑っている。ただの世間話のとっかりに しては、心臓に悪い台詞だと辻は腹を立てた。だいたい、新幹線の、それもグリーン席では世間話など仕掛けないのが暗然のルールである。ルール違反をするのは決まってこういうおめでたい顔つきのばあさんなのだ。
『色々と、ね』
  辻は面倒臭そうにつぶやいた。少しでも隙を見せると、ばあさんはかさにかかってしゃべりつづけるかもしれない。
『ええ。色々、ね』
  相手は落ちつきはらって繰り返した。
『今の若い人は色々というのが好きよね。私の息子も、色々が大好きでねえ。色々と商売に手を出して一時はビルを十個くらい持っていたことがあったわ。今は三つくらいに減ってしまったけれど、それでもまだ懲りずに色々をやっているわよ』
  息子がビル三つのオーナーということは母親もやはり金持ちだろうか、上品な身なりだし、骨ばった指にはめているエメラルドは本物だとするとまことに巨大だが、これはもしかするとネギをしょったカモがすりよってきて自己紹介をしているのかもしれないと、辻はひそかに舌なめすりした。
『父親がそんなだから孫もビジネスマンなの。今日は私が帰るからってお弁当を作ってくれてね、まあなんてカワイイと思ったら、九百八十円も払わされたのよ』
  老婦人は丸い目をくりくり動かした。
『なんで九百八十円もするのか、さっぱりわからないの。見せてくれないの。開けてびっくりの玉手箱なんですって。どう思う?私はなかなか商才があると思うのだけど』
  辻もそう思った。
『あとでいっしょに食べましょうよ』
『いや。俺はさっき食ったばかりだから』
『そんなこと言わないでよ。私、何が入ってるのかと思うとドキドキしちゃって、こわくてきっと開けられないわ。お願いだから、ぜひ、つきあってちょうだいよ』
『孫って、年、いくつよ?』
『四歳よ。男の子。父親そっくりなの』
  断固として断る口実を考えているうちに、列車が新横浜に到着し、後ろの席に二人連れが座った。窓際に父親らしき男が陣取り背広を脱いでフックにかけてくれたのはありがたかったが、隣に十歳くらいの女の子がいる。子供は目ざとい。いやだなと思う。
  商才のある四歳児の祖母はしゃべりつづけていた。もし、仕事をする必要がなかったら車中の暇つぶしには格好の話だった。彼女の人生は波瀾万丈であり、それを語りつくす術を心得ていた。静岡駅を通過する時、ばあさんはやっと十八歳だったが、空襲で家を焼け出されて戦後に一家で奈良に越し、女学校で数学の教師と熱列な恋愛を始めたところだった。辻は狸寝入りを始めた。目を閉じてから五分ほどして、ようやく朗朗としたソプラノの声が『あらまあ』と一オクタープ低くつぶやいてとぎれ、静寂が訪れた。待ちかねた静寂だったが、どうも居心地が悪かった。隣の席からは身動きする気配が伝わってこない。偽の寝顔をいつまでもじっと見つめられているようで、頬のあたりの筋肉がぴくぴくとひきつれてきそうだった。
『ねえ、パパ!』
  その時、後ろの席の女の子がかん高い声で叫んだ。辻の心臓ははねあがった。
『あたし、凍ったみかんが食べたくなった』
『そんなもの、どこにあるんだい?』
  とパパは眠そうな声で返答し、辻は本日の運勢について再び悪い予感を抱いたのだった。
  列車は浜松の駅を通過した。隣の老婦人はすやすやと眠っていた。辻は起こさないように気をつけながら、シートをいっぱいに倒した。老婦人は半分くらいしかリクライニングをしていないので、シートの背もたれの隙間から後ろの席がよく見えた。パパはガラス窓に頭を押しつけて熟睡していた。その娘はコミックスに没頭していた。ようやく仕事のできる環境が整ったようだった。好機を逃してはいけない。一分後には老婦人が目覚めるかもしれないし、女の子が凍ったスイカを欲しがるかもしれない。
  辻は窓に身体の正面を向け、夜景に見入るようなふりをしながら、左手を窓とシートの隙間に差し入れて、ゆっくりと伸ばしていった。指先がフックに掛けた背広に触れる。ひにゃりした布地の感触を楽しみながらさらに指を伸ばし、背広を揺らさないようにしてふくらんだポケットを探した。やはり、内ポケットだ。財布の感触。窓ガラスを鏡代わりに使って老婦人がおとなしく眠っていることを確かめる。列車の揺れに逆らわないようにリズムを身体に刻み込むようにイメージし、人差指と中指でチョキを作り、その二本の指で端をはさんでそっとポケットの中から持ち上げていく。
作者: zsfzsf    时间: 2008-4-18 11:17
不错的文章哦
谢谢搂主
作者: rainingwing    时间: 2008-4-18 13:56
谢谢楼主分享
作者: koume88    时间: 2008-4-29 10:05
背中をツンツンと小突かれた。
  まったく予期していなかっただけに思わず悲鳴が漏れそうになったが、声を出さなかったのはプロのたしなみだった。
  ふりむくと、シートの背もたれの上に、すばしこそうな目つきの女の子の顔があり、細かい腕を伸ばしてマーブル・チョコレートの筒の先で辻の背中をもう一度つつこうとしていた。
  見られた?まさか?信じられない!気づかれるほど大きく背広を揺らしただろうか?
『ねえ、何が見えるの?』
  と女の子はマーブル・チョコレートの筒をぶらぶら振りながら、のんびりと尋ねた。『暗くても何か見える?夜は暗闇を電気の光しか見えないからつまんないってパパはあたしを窓んとこに座らせてくれないの』
  辻は、リスかハムスターを思わせるような女の子の細かい顔をつくづくと眺めた。バレたのではなかったか?それはそれで、なかなか信じられないことだった。
『看板を——数えてたんだ』
  思いついたことをでたらめに口から出したら、女の子は興味深そうに目を細めた。
『いくつ、あった?百六十個?』
『まだ始めたばかりだから、ただの六個』
『なんだ、つまんないの。ねえねえ、しりとり、やんない?ポケモンの名前しりとり』
  やらないときっぱりと断って女の個を撃退し、シートのリクライニングを隣と合わせて隙間を埋めた。
  どうも厄日だな、と思った。ツキがない時は無理をしないほうがいいのだが、ここで弱気になるのも悔しかった。後ろの背広が格好のターゲットなのだが、恐るべき番犬少女がついている。前の座席のフックには背広がかかっていない。辻の視線は隣の席の老婦人が膝に抱えるようにしている小型のボストン・バッグに吸いついた。狙わないのは馬鹿げていた。いつかく千金、の可能性だってあった。
  名古屋まで三十分あまり。気づかれた場合逃げ場がないのが"長箱"の恐さだった。彼女とは話をしている。顔を覚えられている。目を覚ましたら、たぶん彼女はバッグを開けるだろう。トイレに行ってハナカチや化粧道具を出すため。何か飲み物でも買おうと財布を出すため。それから、そうそう、商才のある孫のお弁当を食べようと取り出すため。バッグを開ける可能性はほぼ百パーセント。財布がなくて隣席の若者が姿を消していたら、トイレの隅々まで乗務員といっしょに捜しにくるだろう。問題はどのあたりで、彼女がお目覚めになるかということだった。行く先は終点の新大阪だと言っていたが。
  危険といつかく千金の可能性をはかりにかけて、可能性の魅力にわずかに傾いた。初めて早田のおじいちゃんの手伝いをして財布のリレーを受け持った七歳の時から、常に大金奪取の可能性に魅せられていた。あと五分だけ待とう。いや十分。その時、まだ彼女が眠っていたら、一か八か勝負に出てみよう。
作者: 荔枝    时间: 2008-5-1 20:08
有中文版对照吗?
作者: koume88    时间: 2008-5-7 13:56
不好意思,没有中文版的,自己慢慢看,多看几遍就能懂了,呵呵。
最近没时间更新,真是对不住各位了。接下的几天会尽快更新。
作者: 荔枝    时间: 2008-5-7 17:09
都是你一个字一个字打出来的吗?
作者: koume88    时间: 2008-5-21 13:19
是呀,打出来的.
不过要用业余时间,所以更新比较慢.
作者: koume88    时间: 2008-6-11 11:22
ごめん、この間は北京へ旅行に行ったので、長い時間で小説を更新してなかった。
これから、続きます。

  隣を起こさないように息をひそめて腕時計の針を見つめる。咲が二十歳のバースデー・プレゼントに買ってくれたスウォッチのブラック・フライデー。鼓動が少しずつ高まっていく。掌にじわりと汗を感じて、これはいかんと左のほうをジーンズでこする。妙な緊張感だ。やはり自分は一発勝負の"長箱"より、テンポのいい"箱"のほうが性にあっている。
  十分。
  ゆっくりと視線をめぐらし、聴力を研ぎ済ませる。通行人はいない。こちらに注目している人も、しそうな人もいない。後ろの席の女の子がびっくり箱の中身のようにふいに飛び出してくると困るが、偶然が二度は続かないだろうと割り切った。
  相手は右側にいる。右手を使いたいが我慢する。座席の肘かけに右腕は固定して上半身をねじって窓に背中を向け左手が楽に届くようにした。人に見られたら不自然な体勢だが人に見られないことを前提としている。
  彼女の腕と手は鞄を守るように周辺をぐるりと取り巻いている。本当に守らなければならないのは横腹ではなく、ジッパーのある上部なもだが......
  簡単な仕事だった。ジッパーの端を指でつまんで、ゆっくりと静かに引き開けるだけ。車両四つ離れたトイレで、辻は獲物の中身を確かめた。まず財布。シャネルの白っぽい牛革の札入れで実にスマートな造りだが、中身もいたってスマートで、千円札一枚にコイン少々、カードもない。何度も中を改めて、辻は首をかしげて歯ぎしりした。信じられない!まあ、待て待て。いくらなんでも、千円札一枚でグリーン席に乗る奴はいない。ここにどっさりと入っているのだ!これが楽しみなのだ!
『畑山不動産』とネームの入ったずっしりと厚みのある茶封筒。A4サイズくらいのものを二つ折りにして布テープで厳重に口を止めていた。苦労してテープをはがすと、また同じテープで止められた同じ茶封筒が出てきて、ぐるりと取り巻いたテープを苦労してはがし、ついについに箱を開けると、文庫本が二冊重ねてあり、隙間にはびっしりと緑色のビー玉がつめこまれていた。
  正体を見破るのに数秒かかった。
  これは、もしかして、九百八十円で売りつけられた例の"お弁当"か?文庫本の裏表紙がご飯、ビー玉は、そうだな、枝豆か?うっかりそんな推理を働かせてしまい、それから、瀕死の金魚みたいにパクパクと口を開けたり閉じたりした。
  バッグの中はじっくりと探った。他の財布や封筒の類はないはずだ。あのばあさんは本当に千円しか持っていないのだろうか。それとも腹にサラシでも巻いて大枚を隠し持っているのだろうか。席に舞い戻って、ばあさんを叩き起こして詰問してやりたい気がした。実に残念だ。彼女が"お弁当"を開ける時の顔だけは見たかったのに。
  辻はショルダー・バッグから、超薄手のビニール手袋とハンカチを取り出して、財布の指紋をきれいにぬぐった。次に、コンビニの袋を出して、"弁当"の中身と財布を入れて口をきつく縛る。封筒と箱は細かく破いて便器に流す。それから、トイレを出て、コンビニの袋をゴミ入れに押し込んだ。
  さてー。
  固定しておかなければならないはずの肩が危険信号を発するようにジンジンと痛んでいた。
  車内アナウンスがまもなく名古屋へ到着しますと告げている。
  一瞬、迷った。が、すぐに動いた。
作者: koume88    时间: 2008-6-11 11:47
7
    予定は色々と変わるものだ——というのが名古屋市内のビジネスホテルのベッドの上でよく冷えた缶ビールを飲みながら一番に浮かんできた感想だった。
  出所後にビールを飲む予定。最初はもちろん早田家のちゃぶだいで皆で祝杯を上げるつもりだったし、次は西武新宿線の少年スリを居酒屋へ連れていくつもりになったし、結局のところ東京から遠く離れた馴染みのない町の殺風景なホテルで一人きりでラガービールをごくごくあおっている。
  冷たく、苦く、辛い。
  舌や胃袋より心臓にしみるような缶ビールの味だった。辻は、まったく骨の髄からくつろいでいて、そのことを何となく後ろめたく感じていた。一人きりでいることが嬉しい。嬉しくて嬉しくて思わずニンマリ笑えてきてしまう。血管の中を自分の血液がようやく、じゅんじゅんと正常にめぐりはじめた気分。なんたる解放感!どこへでも行ける。なんでも出来る。なんでも出来る!しかし、この感情は、明らかに、早田の家族への裏切りだった。
  ベッドの背板に枕を立てて、頭と左肩をもたせかけ、足はクロスさせて、身体全体の力を抜いている。左手にビールのロング缶。一本目は一気に飲み干し、二本目は少しペースダウンしてあおっている。右肩がずきずき痛むが、どうってことはない。どんどん飲み続ければ、そのうち痛みも薄らいでくるだろう。
  久々に口にしたビール、それもすきっ腹に入れたアルコールはよく効いた。頭も身体もぼうっと燃えているのに胃袋だけひにゃり冷たい。ビールは空腹にかぎる。渇いた喉と空っぽの胃袋を張りのある液体がひたひた満たしていく感覚がたまらないのだ。群青色のじゅうたんに長細い銀色の空缶を三本転がして、ようやく満足した。腕時計を見ると十時半過ぎだった。ほろ酔いの身体をだるそうに動かして足元のバッグを引き寄せた。ショルダー点バッグの内ポケットのジッパーを開く。事務用の茶封筒を一つ取り出した。
作者: koume88    时间: 2008-6-17 10:15
封をしていない口を開けて中からお札をまとめて取り出そうとして、どうもベッドの上では落ちちかなくて床に降り、入口を背にしてあぐらをかき、背中を丸めて胸の前で抱え込むようにして、もそっとつかみだす。パラパラと繰る。もちろん、それほどもったいをつけるような大金ではない。ただの習性である。久屋大通駅のトイレで確認して額はわかっているので、数えるというよりはお札の手触りを楽しんでいるのだ。
  万札が十三枚、五千円札が一枚、千円札が八枚。次に内ポケットからビニール袋を出して縛った口を開き、コインも勘定した。全部で千三百四十二円。合計十四万四千三百四十二円とすぐに暗算する。この暗算の素早さ、正確さも彼の特技である。目標の半分までは届かなかったが、スタートのつまずきを思うとかなり挽回したのではないかと納得した。
  名古屋到着前の数分で、トイレ付近、通路付近、どちらもすれ違いざまに背広の内ポケットを狙って仕事をした。きわどい仕事になった。スるという所作そのものより、カモの下車駅がわからないところが、実にきわどくて危険だった。トイレのカモの財布には乗車券がいっしょに入っていて行き先が東京だと知れたが、通路のカモのほうは不明だ。隣席の白髪の老婦人、トイレのカモ、と少なくとも二人の被害者がまだ乗っている"長箱"に長居は禁物で、辻自身は名古屋で降りるしかなかった。
  下車したあとは、ひたすら急いで改札を抜け、一番手近な地下鉄桜通線にもぐりこんだ。もし三人目の通路のカモが名古屋で降りていたら駅で騒ぐはずだ。一刻も早く手の届かないところへ逃げ去るにかぎる。五分近く乗ってから、久屋大通で一度降りてトイレで財布の中身を調べ、入れ物は始末した。五万六千七百十二円と八万七千六百三十円。なかなか常識的な良い財布であった。カードの類は少し考えてから捨てた。身分証明書の電話番号や生年月日の組み合わせをクレジット・カードのCD機で試すのは意外と成功率が高いものだが、土地勘のない場所で夜間にやるのはうまくない。
  宿代はもったいなかったが、出所した夜にいきなり野宿というのもいやだった。むくつけき男どもが鼻先でごろごろしている環境も当分まっぽらだったのでカプセルホテルやサウナはパスして電話帳で見つけた今池のビジネスホテルを奮発した。
  お札を元どおりに封筒に戻し、ショルダー・バッグの内ポケットのジッパーを閉めて、枕の隣に置いた。
  何か食べ物を手にいれてくるか、面倒臭いからこのまま眠ってしまうか、それとも......。電話機を見つめていた。クリーム色の平たい四角いプッシュホン。五分ばかり頭をひねったが連絡をしなくても良い理由は何一つ思いつけなかった。
  誰が受話器を上げるだろう。お父ちゃんか耕二ならいい。ダチにばったり会って飲むから帰れないとでも告げればいい。もし、咲の細かい澄んだ声が川崎の彼方から電話線を伝って流れてきたら、そんな適当な嘘をつけないし、一言もしゃべれずに絶句してしまいそうな気がする。
  咲に嘘はつけなかった。嘘をついたほうがいい場合でも、なぜか、どうも、ぼろぼろと本当のことをしゃべってしまう。盗みの詳細、少し勤めた仕事先でのトラブル、女の子とつき合ったこと別れたこと。
  咲はたいていはおとなしく黙って聞いているだけだったが、ごくたまに素朴な、それが辛辣にも響く感想を述べることがあった。そんな言葉を辻はいちいちよく覚えていた。——どうやって、ウチに帰るのかな?
  小学校の頃だった。電車の中で財布を盗られた人がどうやって家へ帰りつくのか、彼女は単純に知りたがったのだ。
——駅から歩けるウチだといいけど。バスの定期があるといいけど。帰れなくなったら、その人どうするのかな?
——タクシーで帰りゃいいさ。家の前で待たしておいて金を取ってくるのさ。交番へ行けばオマワリが貸してくれるし。
  まともに返事をしている自分が、なんだかずいぶんとマヌケに思えたものだ。
  千円札一枚でグリーン車に乗っていたばあさんは、どうやって家へ帰っただろうと、辻はぼにゃりと考えた。正直正銘の富豪で、新大阪駅に運転手つきのロールスロイスが待っていたのかもしれない。そうなら良いのだが......。
  タイトルも見なかった二冊の文庫本、暗緑色の十数個のビー玉、三重になっていた不動産の封筒、自分が盗って壊して捨ててしまった"お弁当"の記憶。
  盗むのはお金だけではない、そのお金を使うはずだった予定、相手の人生の一部を無残にもぎとっていくのだ、といつかお母ちゃんに説教されたことがある。
  別に"お弁当"を盗むつもりはなかったのだ。不動産屋の封筒でラッピングした孫が悪いのだ。やれやれ。どうでもいいよ。そんなことは。辻はうんざりして思った。馬鹿げている。感傷的になるのは、まことに馬鹿げているし、まことに危険なことだった。
『もしもし』
『——ああ』
『おやっさん?』
  短い沈黙のあと、がばりと身を起こすような気配があり、
『お?よう!マッキーじゃねえのか?』
  と鼻にかかったダミ声が受話器の向こうで吠えた。
『俺だけどサ』
『おい、おめえ、どこにいんだよ?』
『......ちょっと遠くに』
『外国かな?』
『もうちょっと近くに』
『はっきりしろよ!』
『どこだって、いいしゃないよ』
『よかねえよ!勘太の野郎が夕方ウチまで来やがってよう、俺がおめえを押し入れに隠してるんじゃねえかって疑うんだぜ』
『お父ちゃんが?』
『おめえ、とりあえず、一度は家帰ってやれよ。親分の真似しなくていいからよ』
『......』
『早田の親分も、若い頃、出てきたばっかで電話寄越して、今パリなんだけどね、なんて、あのとぼけた声でさ。こちとら、ぶったまげたもんよ。おめえ、どこにいんだい?』
『名古屋だよ』
『シケてるな』
『どういう意味だよ』
『もう"買った"のかい』
『まあね』
  しばらく沈黙がおりた"買う"というのは古い隠語で、スる行為のことだった。早田勘介は、とうの昔にすたれたような、そんな時代がかった言葉を使うのが好きだった。勘介の一番弟子の西方三太郎もその習癖を受け継いでいた。
『そうかい』
  西方はどっしりと太い声を出した。彼は、小所帯ながら一家を構えてスリ業を営む、今時珍しい"親分"である。
『そっちで、いい引きがあったのかい?』
『そんなんじゃねえよ。なりゆきの仕事さ』
『そうだな。おめえは、組んでやるのが嫌なんだよな』
作者: koume88    时间: 2008-11-17 10:58
  早田勘介の死後、何度に西方に「ウチへ来ないか」と誘われたが断ってきた。勘介に一人立ちを許された十八歳の時から、ずっと"一匹狼"を通している。相棒と呼吸を合わせ、獲物を分け合うよりも、好き勝手に一人で動くほうが楽だった。迷惑を掛けることも掛けられることもない。
 「お父ちゃんに言っといてくれよ。しばらく帰らないって。心配するなって」
 「なんで自分で言わねえんだよ。俺ンとこなんてかけてないで、さっさと電話すりゃいいだろう」
 「それがいやだから、おやっさんとこ、かけてるんでしょ。頼まれてよ」
 「絶対に御免だね。勘太ならいいけどよ、かみさんがやってきて俺をぶんなぐらア」
 辻は声をたてずに笑った。そして、その話題を打ち切りにして——当人がどう言おうと西方に伝えておけば必ず早田家に彼の消息が伝わるのは間違いなかった——、質問した。最近、西武新宿線で仕事をすることがあるか、こういう風体の高校生くらいのスリ・グループを知らないか。電話代のことが頭をかすめたが、早く情報が欲しかった。
 西方は知らないと言った。その連中とどういう係わりがあるのかと逆に問われたので、あいまいに答えて電話を切ってしまった。
 下着の替えがないのでシャワーを浴びるのはやめた。眠ろうと思って明かりを消すと、急に空腹を覚えた。でも、出かけるのは気が進まなかった。知らない町、肩の痛み、疲労、明日の仕事。まあ、いいや。腹っぺらしで眠るのは何も初めてってわけじゃない。
 小鳥のように朝寝起きの習慣が身についていたが、なかなか眠りにつけなかった。目が冴えてしまっている。部屋の暗がりに心身が馴染まなかった。重く、息苦しく、薄気味悪い。刑務所の中は、夜でもこうこうと電気がともっていて馬鹿に明るいのだった。
 明かりをつけた。
 ほっとした。少し物悲しい気分になった。晴れてシャバに出てきたというのに、暗がりが怖いとはとんだお笑いぐさだった。
 その時、ふと、昼間という小男に笑われたことを思い出した。ムショぼけしたという辻を、一年ぐらいで目がくらむのかとあっさり笑ったあの男。目はくらむし、闇は怖いし、なんだか情けねえんだよな、と辻は心の中でつぶやいた。昼間氏は金策に成功しただろうか。自分は今日中に東京へ戻れなくさったし、三十六万円はもう必要ないかもしれない。
 昼間の家賃を肩代わりするというのは、スリを始めるための口実に過ぎないのだが、それでもやはり、あの男に借りを返したいと思っていた。気まぐれな並みはずれた好意に対し、同じく気まぐれな並みはずれた好意で返礼したいのだった。
 明日、朝一番の新幹線で東京に向かい、目標額が達成して、とりあえず三沢屋敷へ行ってみようと決心した。
 こうこうと部屋の明かりをつけたままで、スリの若者はようやく平和な眠りについた。
作者: koume88    时间: 2008-11-17 17:23
8
 檜山法律事務所にかけた電話は、若い女の子の声が応答し、すぐに義兄に取り次いでくれた。幸運はそこまでだった。義兄はこれから人に会うけれど九時までには帰宅するから家に来て待っていてくれないか、久しぶりに一杯やりながら話をしようと、あわただしい陽気な口調で一方的に決定した。
 えらいことになったなと昼間は呆れた。檜山の家は広尾の高級マンションで、リビングのサイドボードには義兄の趣味である珍しいアイリッシュ・ウィスキーがぞろぞろ並んでいた。一杯やることに関してはまったく異存はなかった。ただ、リビングのサイドボードの脇のソファーに姉が並んでいなければの話である。おおいに、いやな予感がした。こんな予感がはずれるようでは占い師の看板を下ろさなくてはならないだろうし、当たるようでは赤坂のボロ屋敷の看板が比喩ではなく現実に消えることになるかもしれない。姉の前で借金の申し込みなんてできるわけがない。
 広尾駅前の明治屋で義兄の好きなブルーチーズを手土産に買ってから、ガーデンヒルズの西麻布寄りの建物を訪ねた。八時五十五分。オートロックのプッシュボタンで部屋番号を押すと、予感通りに、この世で一番聞きたくない人物の声が耳に届いた。防犯カメラを通して姉の目が自分を見ているのかと思うと早くも落ち着かなくなった。
 「薫です」
 緊張を振り払うように、めったに使わないファーストネームをはっきりと告げると、「どうぞ」
 法廷用ではなく、顧客用でもなく、日常用の姉の声がそっけなく響いた。
 エレベーターを上る間に、用意しておいた三つのストーリーのどれを使ってこの場をやり過ごそうかと考えた。決心がつかないうちに6Fについてしまった。

 姉の冬美とは九つ年が離れている。身長もたっぷり五センチは負ける。マンダリン・オレンジの洗いざらしのムームーをふわりと着て、ミドルのウェービー・ヘアをタオル地の太いバンドでまとめ、派手な目鼻立ちをさらに強調する絶妙なフルメイクの口紅だけが落ちているのが妙にセクシーな美女である。「さっき道雄から電話があって、少し遅くなるから先に二人で一杯やっていてくれって。どうする?」
 どうする?と尋ねるのが冬美らしいところで、相手の思惑を尊重しているようで実はとりつくしまがないほど無愛想なのだった。
 「それなら、後日、出直します」
 昼間は慎重に答えた。
 「義兄さんがゆっくりできる時に」
 「あら、そうなの」
 冬美はくっきりとアイラインを入れた二重の目で冷たく弟を見つめた。
 「二人でこそこそやりたいわけね」
 図星なのだが、まさかそうも言えず、
 「いいんですか?姉さん、つきあってくれるんですか?時間があるんですか?」
 儀礼上そう言うと、冬美は肩をすくめて、くるりと背を向けて玄関ホールを横切って、リビングへ通じるドアを開けた。
 リビングに明かりはついていたが、冷房はほとんどきいていなくて、冬美もまだ帰宅したばかりかもしれないと昼間は思った。
 毛足の長いグレーのじゅうたん、凝った細工のイタリア製のサイドボード、大きな革のソファー・セット、釣り鐘型のガラスを連ねた豪華なシャンデリア。リッチなリビングの定番のようなインテリアなのに、どうも事務所の匂いがすると昼は感じ、夫婦で弁護士をやっている、しかも流行っている法律事務所を経営していることへの一種のひがみだろうかとおかしくなった。
 「眞子ちゃんは?」
 小学四年生の姪でもからかって時間をつぶせないものかと期待して尋ねると、サマーキャンプで軽井沢だという。
 「三日で五種類くらいの仮病を使ってみせたけど、あきらめて出かけたわ」
 昔、ガール・スカウトの優秀なリーダーだった姉は信じられないという口調で話た。
 「あの子、変にデリケートなのよ。ママに、お祖母ちゃんに似ているのかしら」
 ちょっと不本意そうに付け加えた。
 「あなたにも似ているわね」
 姉の目から見ると、自分は母親似なのかと昼間は不思議な気がした。姉は父親に生き写しだった。容姿、性格、人生の目的までも。
作者: koume88    时间: 2008-11-18 14:46
  冬美はブルーチーズを受け取って台所へしまいに行き、お盆にバカラのグラスを二つとアイス・ペールと水差しを載せて戻ってきて、サイドボードに並んだ洋酒の瓶を迷わずに一つ抜き出した。昼間の知らない銘柄のスコッチだった。オンザロックを作ってもらう。良い香りだ。スモークの利いたきりっとした辛さが舌を刺す。
 姉と差し向かいで酒を飲むのは、父が卒中で亡くなったすぐ後、遺産分けの話をした時の一度きりだった。あの時の冬美は、弟が依頼人であるかのように終始一貫して、事務的で穏やかな態度をとっていた。
——あなたは勘当さてれいるけれど、法律的には無意味だし、父ももちろん遺留分のことは承知しているから、きっちりそれだけの額が残されています。
 ・・・・・・といっても、たいした額ではなかった。残っていたのが借金でなかったのが不思議なくらいで、父は腕のいい弁護士ではあったが腕のいい経営者とは言い難かった。弱者の人権擁護を生涯のテーマとして手弁当で奉仕することが多く、弁護士会の政治活動などは嫌悪していた。事務所の維持は借金との戦い。そのために病弱な母も常に外で働いていた。母は父より先に逝った。父にすりへらされて寿命よりはるかに早く逝ってしまったように息子は感じた。彼が二十歳の時だった。もともと呼吸器系が弱く、気管支炎が持病のようだったが、肺炎をこじらせて、あっけなく他界してしまった。美しかったが、影の薄い女性だった。いつも夫の顔色ばかり見ているような妻だった。もし、母が生きていたら、自分は勘当を言い渡されるまで父に逆らうことができただろうかと、時々昼間は考える。スコッチをすすりながら母の顔を思い浮かべようとして、それがなかなかはっきりと映像を結ばないのをもどかしく感じていると、「あと二年ね」
 姉が急に独り言のようにつぶやいった。
 「三十まで」
 「——私?」
 いき遅れの娘の年の話のようで、思わず、昼間は聞き返してしまった。
 「ワタシって言うの。気障ねえ」
 「格好をつけてるわけじゃないですよ。使い分けがなくて便利なんです。仕事と生活の」
 「それでも気障よ」
 姉はテーブルからキャメルの箱を取って一本取り出し、銀のダンヒルのライターで火をつけた。
 「そのデスマス口調もね」
 昔——例えば大学生の頃——は、冬美にどんなふうにしゃべっていたのか、昼間はどうしても思い出すことができなかった。
 「個人的な見解を述べると」
 冬美は上品に薄くたなびくような煙を吐き出した。
 「モラトリアムは三十歳までね。三十を過ぎて自分と向き合えない人間は見苦しいわよ」
 「中本と同じ見解ですね」
 「少し違うわね」
 冬美は正方形のぶあついガラスの灰皿に、一センチばかり吸った煙草を押し付けて消した。姉が、いつも、そうしたひどく贅沢な吸い方をすることを昼間は思い出した。理由は知らない。聞いてみようと思ったこともない。昼間は占い師になった時に煙草をやめた。愛煙家だったので大変つらかったが、謎めいた白いドレスの占い師がヤニ臭くては興ざめだ。
 「中本君は、いまだに、あなたの頭のネジが飛んだと思い込んでいるわよ。私は違うの。もっと確信犯だと思うの。ポルシェが高速の追い越し車線をわざと八○キロかっきりで走ってるのよ。余裕を見せているわけ。悪ふざけというか。お遊びというか」
 冬美はまた新しい煙草に火をつけた。
 「ねえ?立派なものじゃないの。占いで食べていくのはなかなかむずかしいと思うわ。一流の接客術よね。判断力、弁論能力、雰囲気作り。たいした才能よ。貴重な人生体験だと思うわ。」
 「ものすごい見解ですね。街角に立って占いをやるのも、弁護士の修業の一環ですか」
 昼間はグラスの氷をチャラチャラと鳴らしながら、姉の言葉が皮肉ならいいが意外と本気かもしれないと思って、恐ろしくなった。
 冬美は黙っていた。まだ長い煙草を灰皿でさっさとオシャカにして、相手が何かしゃべるのを待っていた。
 「まったく、あなたたちは・・・・・・」
 と昼間は仕方なく続けた。
 「人間は二種類しかいないと思っている。弁護士と弁護士になれなかった人間」
 「あなたたち、というのは、弁護士全員を指しているの?それとも私とパパのこと?」
 父さんと姉さんと中本と、それからかなり多数の弁護士の皆さんだと昼間は思った。
 父親は息子が司法試験を断念することを許さなかった。なまじ自分にそっくりで特別優秀な娘などを持ってしまうと、息子の何もかもがお粗末に見える。叱責の言葉の端には必ず姉の名がちらついた。冬美は、冬美は、冬美は、・・・・・・なのにおまえは!
 「ねえ。あなた、自分に超能力があると信じているの?」
 冬美は思いもよらない角度から攻撃を仕掛けてきた。痛いところをつかれて一瞬ひるんだ。
 「どうでしょうかね」
 はぐらかすように微笑んだが、隙を見逃すような相手ではなかった。
 「占い師としてのあなたの成功はサイキックな力によるものじゃないと思うの。あなたに神秘主義者の匂いはないわ。超能力じゃなくて能力があるのよ」
 そんなこと、断言しないでほしい、と昼間はしみじみと悲しくなった。客の前でカードを並べる時にいつもかすかな不安と罪悪感を覚えるのは、自分が権利のない土地にずかずかと踏み込んでいるのではないかという思いだった。ひらたく言うと、これは単なるイカサマではないかという・・・・・・。
 昼間は溜め息をつくようにつぶやいた。
 「姉さんには関係ないでしょう」
 それは負けを認める一言であり、会話のルールを破る一言であり、本来、昼間のプライドが許さない感情的な一言でもあった。
 冬美はフィルターぎりぎりまで吸った短い煙草を、何か忌まわしい物でも見るかのように顔をしかめて揉み消した。姉はまだ自分に何か期待している、とその短い吸い殻を見て昼間は悟った。でも、なぜ?姉弟愛だなどとぬかしたらこのリビングの洋酒の瓶を全部持って帰ってやるぞ。社会正義というならまだわかるけど、それもたいがい迷惑である。
 「道雄に何の用件?」
 姉はオリーブ色のタオル地のヘアバンドをはずすと、ゆるいウェーブをあてた髪を指先で軽くほぐした。
 占いの客の金銭的トラブルを専門家の手に委ねたほうがいいと思い、義兄を、檜山法律事務所を紹介したい——というストーリーを語るつもりだった。まったくの嘘ではない。そういう客がいないわけではない。ただ、目下のところ、その客は、まだ、弁護士への相談料より占い師への見料のほうが安くていいと迷っている様子だった。
 「借金のお願いです」
 昼間はきっぱりと言うと、姉の目を静かに見つめた。
 「いくら?」
 相手は動じなかった。
 三十六万と言おうとして思い直して五十万と答えた。明日までに五十万。
 何に使うのかと冬美は尋ねなかった。黙って席を立つとりビングのドアを開けて出ていって、階段を上るスリッパの軽い足音がかすかに昼間の耳に届いた。ああ、やれやれと溜め息をつく。いつの日も姉は自分より一枚上手である。ここで説教でも始めてくれたら落ちこぼれの弟役をのんびり務めているだけでよかったのに。
 グラスにスコッチを新たについて、透明な薄茶色の液体をしげしげと眺めた。ローマで出会った占い好きの老女マルチェラは、昼間薫の瞳の色がウィスキーに似ていると不思議がったものだ。東洋人らしくないと。どこか西洋の血が混じっているのかと。そうではない。色素が薄い東洋人もたまにはいるのだ。母親譲りの目と髪と肌の色だ。淡い色。希薄な生命力。
作者: koume88    时间: 2008-11-18 15:11
 黒髪に薄黄色の肌の標準的東洋人、強靭な生命力を誇る東洋人が目の前に現れた。手にした茶封筒を彼の前に差し出した。檜山法律事務所の名前入りの封筒は、ちょうど一万円札五十枚分くらいにふくらんでいて、ありがたくも不吉な予感が現実のものとなったようだ。
 「今度からは私のところへ来てちょうだい。道雄のところじゃなくてね」
 タロット・カードの裁きの女神のような容赦ない口調で姉は言った。
 「次回があってもいいわけですか」
 昼間が受け取る気配を見せずに尋ねると、
 「悪ぶるのはやめて」
 冬美は彼の手の中に封筒を押し込んだ。
 「気取るのもやめて」
 昼間は丁重に頭を下げた。そして、気取った口調で丁重にお礼を言った。
 
 外気はもったりと重かった。これで心置きなくあの暑い家に帰れるのかと思うと、何やらヘラリと疲れた笑いが口元に浮かんでくるのだった。サラ金に行くべきであった。いやまったく、五十万円を手に入れたというよりは、身ぐるみ剥がれてむきだしの尻を五十回叩かれたような気分がした。
 義兄さんに会えなかったなあと少し寂しく思い、あの姉を堂々と妻にしている男はどんな神経と肝っ玉を持っているのだろうとつくづく驚異の念を抱くのだった。
 封筒の中身がまるで爆弾か毒物のように物騒に思われた。金をそのまま三沢に渡してしまったら、明日から、暑い家で寝起きして、カードを手にして、暑い路地に見台を出して客の話にじっくり耳を傾けるという気力が、日々の生活を継続する気力が根こそぎなくなってしまいそうだった。
 この金は使えない。この金を使わずに家賃を払う方法が一つだけある。
 ギャンブル。
 五十万円元手があれば、もう五十万を稼ぐのは夢物語ではない。一万円から十万円は作り出せるが百万円となるとなかなかむずかしいことを昼間は骨身にしみてわかっている。五十万もあれば・・・・・・
作者: koume88    时间: 2008-11-21 15:24
9
 「「エブリ・ナイト」?あら、いいわね!」
 突然の電話にも驚いた様子もなく、女優の北キタは元気に声を張り上げた。
 「でも、今、あたし、アジがないのよ。三日前に運転席で逆立ちしたの。スリップ事故。伊豆の山奥でね、見物人がいなくて残念だったな。それで、カレラを修理に出しちまったから、タクシーで行くわね。先に入って待っててくれる?」
 
 六本木の防衛庁の裏手の路地にある、会員制カジノ・バー「エブリ・ナイト」は、モデル・エージェンシーやデザイン事務所などの酒落たテナントの目立つビルの地下にある。看板は一切出ていない。ぶあつい木の一枚扉にはチャイムもノッカーもなく、一見の客が近寄れないように出来ている。
 三ヶ月前の深夜に初めて来た時は最初から北キタが一緒だった。階段を降りてここへ立ったとたん、まるで自動ドアか、オカルト・ハウスのように扉がすっと開くのに驚いたが何のことはない、中から監視カメラでチェックしているだけである。
 今日もノックする前に勝手に扉は内側に開いた。ただし三十センチほど。黒いタキシード姿のドア・マンはジェラール・フィリップに似た美麗な顔を用心深く隙間からのぞかせた。昼間が自分と女優の名前を告げると、静かに一礼してドアを大きく引き開けた。
 砕氷で作ったような奇妙な形の大きなシャンデリアが白く輝いている。じゅうたんは赤葡萄酒色。緑のラシャ張りのゲーム・テーブルがくっきりと浮き立って見える。いつ見ても胸のときめく色彩である。バカラ、ブラック・ジャック、ルーレット、クラップス、セブン・スタッド・ポーカー。ディーラーは皆若い女性で白いタキシードで宝塚のように男装している。
 正面奥にバーがある。カウンターと四つのボックス席。バーテンの吉原は有名人で、彼の辞書に不可能の文字はないと言われている。どんな珍しい洋酒を注文しても、出てこなかったためしはない。カクテルは芸術作品である。食事はイタリアンの軽食。各種のピザがうまい。
 昼間はルーレットとポーカーのテーブルの間を抜けて、奥のバーのカウンターの隅に陣取った。吉原は中央の二人連れの男の相手をしており、イワン・レンドルに似た目のくぼんだバーテンが注文を聞きにきた。
 「アンチョビ・ピザとコーヒー」
 と昼間は頼んだ。宵の口のバーで――それも吉原のようなバーテンのいるバーで――コーヒーを注文するのはいかにも不粋だった。しかし、背に腹はかえられない。姉のところで飲んだオンザロックはただ二杯半だが、ハード・パンチャーのボディーブローのようによく効いていた。酒は決して弱いほうではない。姉と飲むとアルコールのまわりが速いというのはどんな科学的根拠があるのだろうと、強い香りのブラック・コーヒーをゆっくりすすりながら考え始めた。
 まだ夜は長かった。「エブリ・ナイト」の営業時間は一時までだが、二時から本物の"夜"が始まる。一杯やりながらゲームを楽しむお洒落な遊び場が、一杯やりながら現ナマのやりとりをするお洒落な修羅場に変貌する。色とりどりのプラスチックの丸いチップは、今はただのオモチャだが、午前二時以降は同じビルの三階にあるアート・スタジオで換金できるようになる。むろん法律違反である。オマワリさんに見つかれば、皆、即逮捕である。入口のドア・マンは二人になり、店の外やビルのまわりなどに用心棒がさりげなく巡回を始める。連中は皆、拳銃を所持しているという噂がある。
 しかし、「エプリ・ナイト」は換金できるアングラ・カジノの中では、かなり安全な店だった。店主はビルのオーナーであり、財界の大物の私生児と噂のある若手実業家の藤堂だ。地元の警察と暴力団への根回しは万全という話だった。

 北キタは十一時過ぎに現れた。公証四十五歳だが、まったく年齢不詳だ。形のいい頭蓋骨を強調するベリー・ショート・ヘア、見事なピジョン・ブラッドのピアス、刺繍入りのヌードカラーのロングのクリップ・ドレスの上に白いシルクのガウンを袖を通さずにふわりと羽織っている。抜群のプロポーション。顔は山羊に似ている。
 「東横線で来たわ。速いと思って」
 北キタは優雅な身のこなしで、昼間の隣のスツールにすべりこんだ。自宅は大倉山なので日比谷線直通の電車に乗れば六本木まで一本で来られるが、この身なりでは舞台の上のストリップ嬢のように注目を集めただろうと昼間は思った。
 「あなたを待たせたらいけないと思ってとっても急いだんだけど、でも、こんなに早く来てどうするの?」

 北キタはバーテンの吉原に指二本で挨拶してマティーニを注文した。そして、昼間のコーヒーとピザを見て、とがめるように眉をつりあげた。
 「何さ?胃に穴でもあいたわけ?ねえ、あなた、まさか素面で、廃盤レコードやりトグラフやアンティーク・ドールのやりとりをしようなんてつもりじゃないでしょうね?」
 平常の営業時間の「エブリ・ナイト」は、ゲームの勝ち点をカードに記して、一定期間内に高い点数がたまると、希少価値の芸術的な景品をもらえるというサービスがあった。
 「違いますよ」
 昼間は相手の勢いに押されて少し困ったように微笑んだ。
 「久しぶりだから、ゆっくりお会いしたかったんですよ。キタさんがこんなに簡単につかまるとはおもわなかったし」
 「何、あたしは暇なもんよ。また独り者になると、あきれるほど時間があるわ」
 舞台、テレビ、執筆、取材、遊び、恋愛、どんな過密スケジュールでも、北キタは決して忙しいと口にしなかった。昼間は彼女の私生活の細部にいたるまでよく知っていた。占いの顧客なのである。彼女のようにエキセントリックで自己主張の強いタイプほど、占いのようなあいまいなものに深くのめりこむ傾向があるようだった。
 「さあさあ。誘ったのはあなたなのよ。気持ち良く酔っぱらってちょうだいよ。あたし、素面の相手とゲームするのは大嫌いなのよ」
 昼間はライト・ビアを注文して北キタにたまにらまれてから、仕方なく次はワイルド・ターキーのソーダ割りに切り替えた。
 まもなく午前一時になる頃、昼間はこの店に来たこと、いやこの店に早く来すぎたことをはっきりと後悔した。連れはもうジンのカクテルを七種類くらい飲んでいた。こちらはソーダで胃袋が破裂しそうになり、四杯目からはオンザロックに切り替えたが、なんだって、よりによって大きな勝負を控えたこんな時にこれほど酒を飲み続けなければならないのだろうとぐらぐらする頭で考えていた。
 北キタが無類の酒好きで底なしのザルだということと、「エブリ・ナイト」の会員すべてと親密な関係にあるということが原因だった。俳優、推理作家、漫画家、ロック・シンガー、テレビプロデューサー、画廊経営者、DJ、コメディアンなどが入れ替わり立ち替わり現れては北キタの隣のスツールに座り、そのつど新しい酒が注文されて昼間の目の前にもドカンと並ぶのだった。
 占い師の営業という面では大成功の夜だった。北キタは皆にマルチェラを最大限の賛辞を添えて紹介し、五人が強い興味をしめし、二人がその場で予約を入れた。
 もともと、「エブリ・ナイト」というのはそういう場所なのだった。会員やゲストであることのステイタスを生かし、粋に遊びながら仕事や私生活での人脈を拡大するナイト・クラブ。
 しかし、酔っぱらった。必要以上にうんと気持ち良く酔っぱらってしまったようだ。
作者: koume88    时间: 2008-11-21 15:25
 ブラック・ジャックはカードの合計点数をできるだけ二十一に近づけるという単純なトランプ・ゲームだ。カジノのディーラーが親で、複数の客と勝負する。
 「エブリ・ナイト」のカードはU.S.プレイング・カード社のスタンダード・タイプで、七デッキをシューケースに入れ、最初の十枚をディスカード(捨て札)として除く。客のカードはすべて表にして配られる。カード・カウンティングやイカサマを防ぐための本式のカジノのやり方である。
 昼間は一デッキをディーラーの手が配り、自分の手で開くやり方が好きだった。イカサマはやらないがカウンティングの真似事はできる。何よりカードにタッチしないと気分が乗らない。地元赤坂の六丁目にある喫茶店「カスバ」には、同じような考えのカード仲間が集めって古風なトランプ博打をするのだが、レートはあくまで趣味の域で、五十万円で五十万円を稼ぐのには向いていない。
 「スプリット」
 と昼間は言った。声がヨコヨコしているのが自分でもわかった。「カスバ」に行けば良かったかな。あそこでも酒は出るが、少なくとも自分のペースで飲むことができる。五人の面子から五万ずつ巻き上げれば――たったの二十五万か・・・・・・。半分か。いやはや、五十万円というのはまことに大金である。
 よろしい。今は「エブリ・ナイト」にいるのだ。女優のゲストでなければ来られない豪華なアングラ・カジノにいるのだから、少しくらい声がヨコヨコしていようが、頭がウロウロしていようが、よろしいではないか。
 手札はエースが二枚。やっと少しツキがまわってきたようだ。親のアップカードは6だから、今度こそ勝てるだろう。そうとわかっていればもう少し張り込んだのに、と歯ぎしりしながら、五千円分のチップを二枚追加する。スプリットというのは同じ点数のカードが二枚配られた時、足さないで分けて二つの手を作り、同額のチップをもう一つの手にも賭けるというオプション・ルールである。
 カードが配られる。エースのスプリットの場合、一枚ずつしか要求できず、普通、裏向きにされるが、徹底して表で来る。2、そして3。冗談だろう?隣に座っている北キタが低い声でウフフと笑い出した。どうしたら、そんなにポカなカードが続けて来るの?と彼女の目が問いかけている。知るものか!唇が逆向きに曲がってへの字を描いた。ツキの問題だ。判断の問題ではない。とにかく、すべてが裏目、裏目に出るのだ。確率的に少ない方向に走り、昼間に損をさせる。
 お隣のハンドは5が二枚。もちろん、スプリットせずに十点にしてカードをもらう。ジャックが来た。絵札は十点だから二十点。
 「来た来た」
 と北キタがつぶやき、手でスタンドのジェスチャーをする。なるほど良い芸名をつけたものだと昼間はうらやましくなった。
 ディーラーは念入りに手入れされた爪と、念入りに調整された眉を持つ美人だったが、鉄仮面のような無表情でホールカードをオープンにする。8が現れた。合計点数は十四。ディーラーのハンドが十六以下の時はドローというルールがあるので、彼女は新たなカードを引いた。
 8、9、10、もしくは絵札!と昼間は心中で叫んだ。親がバストしてくれさえすれば二万円を失わないで済む。それどころか二万円を手にいれることができる!
 カードは2。合計点数十六。まだ引かなければならない。昼間は背筋がゾクリとした。バストの確率が高くなった。こんな形勢の悪い勝負を逆転できれば、運もツキも向いてこようというものだ。
 来い、来い、来い、来い、来い・・・・・・!
 6、7、8、9、10、もしくは絵札!
 再び心の中で絶叫したつもりがうっかり声に出していて、店内の注目を一身に浴びた。いや、店中の人間に一人残らずにらまれたというほうがいい。プレー中の私語は禁止というのがマナーだった。プレー中の絶叫はやはりマナーに反するのではないか。
 すべては酒が悪いのだ。少し飲みすぎた。顔が熱く火照っているのは恥ずかしいからではなくて飲みすぎているからである。あるいはもっと飲んだほうが良いかもしれない。酔っぱらうと恥ずかしいことをきれいに忘れられるから。
 ブラック・ジャックのテーブルのディーラーの手は宙に静止していた。昼間の掛け声に金縛りにあったように。今、その手が再び動いて新たなカードをつかんだ。
 5!二十一点!
 「よしてよ!負けちまったじゃないの」
 北キタが小声で毒づいた。
 「あんたがコイコイコイコイコイなんて言うもんだから」
 「どうですか?このへんでマティーニでも一杯」
 昼間は誘った。
 「いいわね。ツキが落ちそう」
 北キタは椅子から腰を浮かした。
 「飲んで取り戻さないとね」
 「もちろん、そうこなくっちゃ」
 昼間もゆらりと立ち上がった。
 二人は手を取り合って、店内のバーに踊るような足取りで歩いていった。
 吉原の作るカクテルは絶品である。「エブリ・ナイト」は素晴らしい店である。
 「あなた、楽しそうね」
 北キタは少し呆れたように笑った。
 「あたし、だから、あなたが好きなのよ。とっても負け方がきれいなのよ」
 「まだ、負けてませんよ」
 と昼間は力強く言った。
 「五万円あれば五十万円作れる」
 「そういうことも、まあ、ありうるけど」
 北キタは首をかしげた。
 「ねえ?ありうるでしょう?」
 昼間は無邪気に北キタの顔をのぞきこみ、グラスのカクテルを口に運んだ。
 吉原の作るマティーニは絶品である。「エブリ・ナイト」は素晴らしい店である。
作者: koume88    时间: 2008-11-28 14:49
10
 
 正午に客が来ることになっていた。予定通りに来て見料を払ってくれれば一万円が手に入るはずだが、今更一万円を手に入れてどうなるというのだろう。
 午前五時に帰宅して、蒸し風呂のような二階の部屋で四時間ばかり熟睡して汗を一リットルばかりいて目覚めた。パジャマが二枚目の皮膚のように全身にぴったり貼りついていてひどく気持ちが悪い。気持ちが悪いのは肌だけではない。胃袋も頭も、ぐいともぎとってゴミ入れに捨ててしまいたいくらい不快な存在だった。まさに、この頭は不要だと昼間は思った。二日酔いの多くは自己嫌悪とともに味わうものだが、今朝は自己嫌悪に陥れるほど自分の心身に執着がなかった。神様に頼んで、もう少しまちもな水準の頭と交換してもらおう、それまではこの布団から起き上がるのをやめようと考え始めた。
 しかし、だらだら寝そべっているには、あまりに暑すぎた。それに、ゆうべの「エブリ・ナイト」でのことを思い出さずにいることもできなかった。姉に借りた五十万円をパーにしてしまったのは、まあ、いい。真剣勝負の結果、武運つたなく敗れ去ったのなら、まあ、いい。酒を断りきれずにのんきに泥酔して、いつのまにか紙クズをふりまくように捨て去ってしまったのはあまりと言えばあんまりだった。
 必要な金なのだ!
 にもかかわらず、自分はあの金をカジノにわざわざ捨てに行ったのではないかという気がした。姉に恩義を感じたくないなら姉に近寄らなければ良いのだ。姉ではなく義兄に頼むつもりだったことは言い訳にならない。
 ああ、そんなことは、もうすべてどうでもいい。自分が優柔不断で無計画で見栄っぱりなろくでなしなことは前々からよくわかっているし、もう一度再確認したところで、この壮絶な頭痛やむかつきが減るものでもなかろうに。
 昼間は布団からのそりと起き上がった。
 この和洋折衷の古風な西洋館の二階は二間続きの和室だった。襖を開けはなって、二部屋の窓という窓も常時開けはなって、一番風の通りの良い場所に敷き布団だけの万年床をこしらえてある。もうじきここで眠れなくなると思うと恨みがましいような奇妙な愛着を覚える小さないように寝床であった。
 昼間は寝床から一番近い北向きの窓辺に歩み寄って、ギシギシといやな音をたてる鎧戸を壊さないように気をつけながら、いっぱいに開け広げた。まぶしい晩夏の光に目がくらむ。晴れ上がった空が何やら青い怪物のように圧倒的な迫力でのしかかってくる。そのまま首を垂れて視線を落した。
 二つの建物の中間にある門の扉は開いていた。自分が五時に帰ってきた時は閉めておいたので、三沢医師が開けたものと思われる。三沢は頑健な年寄りらしく早起きで、夏は六時頃に目覚めて、狭い芝生の庭で、うーふーとうなりながらストレッチ体操のようなものをやっている。さて、あのじいさんのところへ何時頃出頭して、ここを出て行くことを告げようかと考えていると、門をくぐって入ってくる人物が目に止まった。
 少し猫背のノッポの男で黒いベースボール・キャップをかぶり、ブルー・ジーンズにダンガリー・シャツ、黒い大きなショルダー・バッグを肩からさげている。
 夢で見た人物が現実に姿を現したような奇妙な感覚に陥った。昨日、新宿の街角で拾ってきたスリの男が、今、なぜ、またここにやってくるのだろう。しかも、彼はためらいがちにゆっくりと歩いていて、あたりをうかがうように落ちつかなげにきょろきょろと視線をめぐらし、一度足を止め、また歩き出し、また足を止めた。彼の職業のことを思うと、まさにトラブルが服を着て訪ねてきたようだったが、昼間はなぜか嬉しいような気持ちがした。
 気になる男だった。家まで連れてきながら深く事情も聞かずに中途半端に放り出してしまったようで、ずっと心のどこかで引っ掛かっていた。上から声をかけようとした。名前も聞いていないことに気づいた。おーい、スリくん、と呼ばわるわけにもいくまい。スリくんは、またのろくさと歩き出し、こちらではなく、隣の三沢医院の建物のほうへ向かった。
 なんだ、診療にきたのか、肩でもひどく痛むのかなと思い、男が三角巾を吊っていないことに気づいた。嫌な予感がした。嫌な予感はもうこりごりだが、怪我が悪いのなら心配だし、彼が三沢を脅したりユスったりしないという保証はどこにもない。
 昼間はよろめきながらパジャマを脱ぎ捨てた。緑の濃淡のチェック・シャツにハーフパンツという一番手近にある服を急いで身につけた。コップ一杯の水で頭痛薬を五錠ばかり飲んで、しかるのちに、そのすべてをさっぱりと吐き出してしまいたいという強烈な欲望にかられたが、少し辛抱することにした。

 診療所の待合室のドアを静かに閉めた。待合室には患者の姿はなく、薄い壁越しに診療室から三沢医師の大きな筒抜けに響いてきた。患者が三角巾をはずしっぱなしにしておいたことを叱りつけている声だった。診療室のドアをノックしようとして、ふと思い直して待合室のソファーに腰を下ろし、耳にすませた。
 スリの男の声は、低くて小さく聞き取りにくい。反対に三沢医師の声はすこしボリュームを下げてほしいほど勇ましくびんびんと鳴った。
 「なんだって?昼間さんの家賃がどうしたというんだ?」
 あまり物に動じないほうだと思うのだが、この時ばかりは号令をかけられたように腰が浮いて半分立ち上がった。
 スリの男が何かつぶやいた。三沢が吠えるように返答した。
 「三ヶ月分の三十六万円だが、あんたがそれに何の関係があるんだ!」
 昼間は立ち上がって壁にすりより、ぴたりと耳を押し付けた。
 少し長い沈黙のあと、言いにくそうにスリの男が口にした言葉が今度は聞き取れた。
 「持ってきました。ここに、届けるようにって、彼が・・・・・・」
 言葉は聞こえたが、意味を理解することができなかった。昼間という男がもう一人いて、その知らない分身が知らないうちにそんな結構な命令を下したのだろうか。
 チーとチャックの開くような細い音、パサパサと紙が鳴るような音。お金を出している様子だ。今、自分がヤモリのように壁に貼りついていることを中の二人が知ったらどうだろう?それより、今、この待合室に三沢の患者が入ってきたら、どうしよう?
 「しかしだね」
 と三沢は怪しむように言った。
 「なぜ、あんたが、だね?昼間さんはどこにいるんだね?」
 「ちょっと調子悪いみたい。俺はゆうべは泊めてもらったんだけど、ヒルマさんが外から帰ってくると、それ、さっきなんだけど、貧血っつうか、暑気あたりっつうか、動けなくなっちまってサ、それで、俺が肩をどうせ診てもらうから届けるってことにしたワケ」
 「よし。確認しよう。どうぜ受け取りも渡さんといけない。二階で寝てるのかね?」
 「寝てるよ。もし少ししてから行ってやってよ。よく眠ってるからさ」
 じゃね、とスリの男は軽く挨拶して立ち上がったようだった。
 昼間は壁から離れた。待合室のドアを開けて廊下に出て音をたてずに閉めた。それから三沢医院の玄関を出て、庭で足を止めて、少し迷った。家の二階でおとなしくのびていたら、降って湧いた幸運のシナリオ通りに三沢がやってきて受け取りを渡してくれるのかもしれない。しかし、それでは、シナリオライターの意図は一生わからないままで終わる。
 「こんにちは」
 と昼間は三沢医院の玄関から出てきたノッポの男に声をかけた。先方は幽霊でも見たように文字通りギョッとして、大きな目をいっぱいに見開いた。
 「また会えるとは思いませんでしたよ」
 姉が聞いたら気障だと罵りそうな台詞を口にして、昼間は人生にはずいぶん面白いことがあるものだなあと感心した。
 「よもや、あなた、貧血と暑気あたらいで寝ている病人を放り出して、出ていったりしませんよね?」
 「もしかして・・・・・・聞いてた?」
 スリの男は非常に低い声で尋ねた。
 「私の病状は、正確には暑気あたりじゃなくて二日酔いです」
 昼間は質問には答えずに訂正を入れた。
 廊下を歩む嵐のような足音がして、やがて三沢医師の大きな身体が玄関から飛び出してきた。
 「昼間さん!」
 三沢は昼間の鼻先に人差指をつきつけた。
 「あんたは、貧血っつうか、暑気たりっつうかで、二階でよく眠っているはず・・・・・・」
 「――なんですけどね、あそこは暑いんですよ。外よりもっとね」
 昼間は三沢の言葉をさえぎった。
 「領収書はあとで頂きに上がります。冷房のきいた店で冷たいものでも飲んで少し頭を冷やしてきますよ」
 「おい、待て。どうも気にいらんな。あれは変な金じゃないだろうな」
 三沢は険しく目を光らせて、昼間と辻を交互ににらみつけた。
 「変な金って何です」
 「警察に追いかけられるような類の金だ」
 「大丈夫です。姉から借りたものです。心配だったら、電話番号を教えますので確認して下さい。檜山法律事務所の経営者の一人で、弁護士です。檜山冬美と言います」
 昼間はてきぱきと話した。胸のむかつきが少しマシになっていた。
 「ほう。お姉さんが弁護士の事務所をやってるのか。本当かね。そういや、保証人の友人ってのも弁護士だったな。まあ、色々な人生があるもんだな」
 三沢は皮肉たっぷりにうなずいた。
 「そう、色んな人生がある・・・・・・、みんなが三沢さんみたいに言ってくれると、ありがたいですね。」
 昼間のほうは大真面目にうなずいた。そしてあとでうかがいますとまた繰り返して、今にも隙を見て逃げ出しそうな隣のノッポの男の無事なほうの腕を引っぱるようにして、門へ向かって歩き出した。
」
作者: koume88    时间: 2008-11-28 15:27
 路地を出て一ツ木通りに向かう道にある共同ビルの二階の喫茶店に、昼間たちは入った。モーニングやランチのサービスがあり、夜にはカラオケも歌えるという、会社員向きの店だ。午前十時という半端な時間帯のせいか、客は一人しかいなかった。ジーンズ姿で無精ひげをはやした男が、テーブルいっぱいに台本やメモのような紙を広げて書きこみをしている。テレビ局の人間だろうか。
 窓際の隅の席に向かい合って座り、昼間はレモンティーを注文し、連れは困った顔をしながら同じものを頼んだ。
 「朝食は済みましたか?」
 昼間は尋ねた。
 「ここのモーニングはおいしいですよ。サラダのレタスが新鮮で、ヨーグルトのブルーベリージャムがとてもおいしい」
 「じゃあ、そいつにするよ」
 と連れは言った。そして、長い足を狭い席の中で持て余すように位置をずらしながら、
 「なんだか、あんたって人は・・・・・・」
 少し呆れた口調で言い出した。
 「ピストルを頭に突きつけられてても、そろそろ雨が降りますよ、とか言いそうだな」
 「そんなハードボイルドじゃないです」
 昼間は苦笑した。
 「現実に直面するのが苦手、ということらしい。もうじき三十路に差しかかるのにね」
 「あの、医者のじいさんが言うのか?」
 「いいえ、姉です」
 「やっぱり育ちがいいんだな」
 ゆっくりうなずくと、少し恥ずかしそうに目の縁にしわを寄せて小さく笑った。
 「金なんて、余計なお世話だったな」
 「とんでもない。姉に借りたのは本当だけど、もう使ってしまって文無しなんですよ」
 昼間は白状した。
 「でも、なんで、そんな親切にしてくれるんです?あなたにとって、三十六万の金は端金ということはないでしょう?気安く他人にくれてやるほど小さな金額じゃないでしょう?」
 「ま、もともと俺の金じゃないし」
 向こうもあっさりと白状する。
 「医者のじいさんの言うとおりさ。警察が追っかけてくるような金だよ。まあ、あんたのところまで追っかけてはこなりけど」
 「その手で?」
 昼間は三角巾で吊っている右腕を見た。
 「どうやって?」
 「こっちも使える。少し性能は落ちるけど」
 スリの男は左手を目の前にすっとかざしてみせた。
 「ちょっと楽なやり方をした。そんなことはどうでもいいよ。あんたには世話になったからお礼をしたいと思ったけど、それが全部じゃないんだ。まあ、なんていうか、やりたくなっちまったのさ。我慢できなかった。そういうこと。金はいるならもらってほしいけど、恩に着せるつもりはぜんぜんないからさ」
 早口でたたみかけるようにしゃべり、トレーを持ったウェイトレスが近寄ってくるのを見て、ぎょっとしたように口をつぐんだ。
 昼間は紅茶にレモン・スライスを入れて、紅の液体の色が薄くなるのを見てから温まったレモンを受け皿に引き上げた。飲む気にはならなかった。相手は玉子サンドを早いペースでたいらげていた。かなり空腹の様子だった。
 「昔話みたいですね」
 と昼間はティー・スプーンでレモン・スライスを押しつぶしながら、ぽつんと言った。
 「貧乏な旅人を泊めてやると、それが神様で、あとから、びっくりするくらい、いいことがある・・・・・・。どんないいことだったかは覚えてないけれど。そんな話がたくさんありますよ。それから恩返しの話。鶴や狸や」
 「タヌキ?」
 「知りませんか?落語でね、狸が恩返しにサイコロに化けて、いい目を出して稼いでやるんです。もちろん、オチがあるけれど」
 「そんなんじゃないよ。そんなふうに思わないでよ。勝手にやったんだからさ」
 「スリって楽しいですか?」
 どこか爬虫類を思わせる彼の大きな目をのぞきこむようにして尋ねると、返事をしないでへらへらと笑っている。
 「わかりました」 
 昼間はうなずいた。
 「あの家を叩き出されたくないから、ご好意を受けます。でも返しますよ。ちゃんと返します。連絡先を教えてくれますか?」
 「いいってばさ」
 相手はじれたようにかぶりをふった。
 「ツルかタヌキだと思ってくれよ。そんなもんだよ。当面、住み家もわかんねえし」
 「困りましたね」
 本当に困った。困った、どうしようかと思い、酸っぱい紅茶をうっかり一口飲んでしまって、吐き出しそうになった。
 「じゃあ、どうですか?しばらく、ウチで暮らします?私のところで」
 口にしたあとで、なんで、そんあことを思いついたのか、昼間は自分でもよくわからなかった。相手もひどく驚いたようにギョロリと目をむいた。
 「まあ、新たな住まいが決まるまででも。暑いし、風呂はないし、大家は意地悪だし、快適とは言いがたいですけれどね。もし、あなたが家に帰りたくないなら」
 言ってしまってから、最後の一言は余計だったなと少し後悔した。
 スリの男はまじまじと昼間の顔を眺めた。気分を害したり怪しんだりというよりは、むしろ途方にくれたような表情になった。そんな顔つきをすると、彼は正直者に見えた。スリの常習犯が正直者であるという可能性、そのアンバランスな可能性について昼間が考えている間、彼はずっと、窓の外やテーブルの上や天井に視線をさまよわせて黙りこんでいた。沈黙はNOの返事に思えた。
 「ツルは嫁に来たんだっけ」
 しかし、やがて、彼は独り言のようにつぶやいたのだった。
 「俺も朝飯ぐらいは作れるかな。このモーニングより、ちょいマシなやつ」
作者: koume88    时间: 2008-11-28 15:28
「第1部 愚者」が終わりました。どうも~
作者: bakemono    时间: 2009-5-25 14:25
辛苦楼主咯。我放到电子辞典里去看了。嘿嘿
作者: luojianwen    时间: 2009-6-6 21:51
すご~い。自分でいちいち入力しましたか。感心しました。
作者: nikonyang1986    时间: 2009-6-17 17:59
感谢楼主分型~~!
作者: klackkent    时间: 2009-8-21 13:20
阿里嘎多,楼主撒嘛!!!
作者: senya    时间: 2009-9-10 21:13
感谢suru
作者: monomania    时间: 2010-6-1 10:48
不知道还有没有第二部??
那么多的文章内容 一个字一个字打
版主辛苦了
作者: rainbowzjq    时间: 2011-2-19 21:32
。。。。。。。。
作者: koume88    时间: 2011-12-30 16:14
皆さん、ご無沙汰です。
元旦後、この小説を続けてアップロードします。楽しみにしてね!
作者: 妖妍·堕落    时间: 2012-1-6 10:18
楼主真的不是一般人!你太牛了!继续坚持吧,支持你!
作者: koume88    时间: 2012-1-9 09:18
スキャンしようと思ってたが、はっきり見えないので、やはり手で打ちましょう。
作者: koume88    时间: 2012-1-9 11:35
第2部
魔術師
最初になすべきことは、自分の環境のなかでいかに生きるかを生ぶことだろう。
アルフレッド・ダグラス

1
 昨夜はあまりよく眠れなかった。刑務所の居房にくらべれば天国だが、ビジネスホテルの快適さにはほど遠い。二間の和室のうち南側を貸してもらい、風が少しでも通るようにと、間の戸襖はどちらも開け放したまま、もちろん、すべての窓も全開にしておいたが、あきれるほどに暑かった。風のかわりに街の音がどんどん入りこんできた。車のエンジン音、クラクション、酔っぱらいの歌声、しゃべり声、ラジオの音、犬のおたけび、物のぶつかるような音、何かの電子音、正体不明の地鳴りのような鈍い音。
 なかなか寝つけないまま、布団の上をごろりごろりとして、一年の間に街の夜の物音をすっかり忘れてしまったのだろうかと考えた。蒲田のアパートは京急の線路に近かったので電車の音がしょっちゅう聞こえたが、夜半は静かなものだった。川崎大師の近くの家は宵の口からひっそりとしていた。赤坂は、そのどちらの街とも違う。うるさい。いつまでも、うるさい。夜の街全体が、鈍いどんよりとしたスモッグのような騒音のハーモニーに包まれて、眠りにつくことを拒否している。
 つけっぱなしの天井の電灯、二つの輪の蛍光灯を一つに絞り、しばらくしてから豆球だけにし、やはり落ちつかなくて白々と明るくした。
 昼間薫は仕事で出かけていた。遅くなるから先に寝ていてくれといい置いて、四時過ぎに家を出ていった。もし、何か困ったことがあったらここに連絡してくれと、「なかもと」という小料理屋の電話番号をメモしていった。相変わらず親切で気のまわる男だった。
 いつのまにか、うつらうつらしていたらしい。玄関のドアの閉まる音で目が覚めた。階段をのぼる小さな足音。辻は眠ったふりをしているべきか、「おかえり」と迎えるべきか迷った。そのうちに、エキゾチックな香水のような匂いが鼻をつき、ぎょっとして目を開けたが、出かけた時の白いシャツに黒いチノパンの昼間薫の姿だった。足音を忍ばせて部屋に入ってきて、電灯のひもを引いて豆球にした。辻はぎゅっと目を閉じた。なぜか、起きていることを知られたくなくて息をひそめて身を硬くしていた。
 それからは、さらに浅い眠りになった。ふと目覚めると、暗がりと、戸を開け放した隣の部屋の昼間薫の寝帰りの音と、南国の花のようなかすかな匂いが気にかかった。眠りの中ではいくつかの夢を見た。誰かに追われていたり、誰かに追いかけていたりする忙しい疲れる夢で、そのどちらもぜんぜんうまくいかないで息切ればかりするのだった。
 今日も暑くなりそうだ、と午前八時過ぎに、三沢屋敷の門を出ながら、辻は思った。約束通りにに朝食を作ろうとしたのだが、なにしろ、肝心の家主が一向に起きる気配がない。台所をのぞいてみれば、もう何年も人の訪れない山小屋のように調理器具も食材もなく、がらんとして荒れ果てていた。鍋の一つも買ってこないと、と辻は考えた。だが、まず、昼間薫が本当に自分をしばらく置いてくれるつもりがあるのかどうか確かめないといけない。落ちつかない一夜を過ごしたあと、白日のもとで三沢屋敷を見ると、昼間とのやりとりの何もかもが夢か冗談のようにも思われてくるのだった。
 千代田線の赤坂駅から綾瀬行きの電車に乗った。さて、どこへ行こう。どうやって連中を捜そう?いざとなると、これはもう、曇をつかむような頼りない話だった。とりあえず、連中に会った西武新宿線に乗ってみることぐらいしか思いつかない。奴らの縄張りは、どのあたりなのだろう?高校生ぐらいに見えたが、同じ学校の生徒なのだろうか。川越、所沢、小平、池袋、大宮——辻は、幾つかの町をポイントにして、頭の中で、東京と埼玉の接する地域におおまかな線を引いてみる。西武新宿線、西武池袋線、東武東上線、川越線。電車で考えたほうがわかりやすい。そうだな。とっつきとして、このあたりのラインを乗りまわしてみるとするか。
作者: koume88    时间: 2012-1-9 15:44
 辻が三沢屋敷にたどりついたのは、「夕焼小焼」のメロディーが非常時用スピーカーを通って町中に響く午後五時だった。それはまさにたどりつくという表現がぴったりで、肩はずきずき痛む、頭はがんがん痛む、足の筋肉はみしみし痛む、埼玉ではなくタクラマカン砂漠から帰還してきたような悲惨なくたびれ方だった。
 無駄な一日だった。捜す連中のにおいも嗅げなければ、財布の一つも取れない。名古屋まで遠征した無理がたたって肩の状態は良くないし、一年を超える監禁生活による体力の低下も馬鹿にならない。とにかく、くたびれた。一刻も早くどこかで横になりたい。帰れる場所があるのがめっぽうありがたかった。
 開いた門を通り、芝生の小道を上っていくと、いきなり雨だれが頭や顔にふりかかってきた。驚いて明るい空を見上げると、
「おい、君!君!」
 背後から大音響がとどろいた。まるで青大将かなにかのようにゴムホースを鷲づかみにしてぶんぶんふりまわしている三沢医師のがっしりとした老体が目に飛び込んできた。ホースの先端からは水が出ていて、空中にSの字を連続して描いている。医師は、白衣ではなく、藍色の作務衣のような服を着こんでいた。
「君はどうして三角巾を取っちまうんだ?」
 警告のために指をつきつけるつもりだったのかもしれない。たまたま、その指に散水中のホースが握られていただけなのだろう。疲れきったスリの青年のみけんを水が直撃した。爆弾のように顔中ではじけた。
 辻は悲鳴を上げた。許可なく三角巾をはずした罰にしてはいささか厳しかった。「なんたるこた!」
 医師は詫びるどころか、いよいよ憤慨した声で叫んだ。被害者は、左腕で顔をぬぐい、口に入った水をぺっぺと吐き出した。「じいさん」
 何度も瞬きをして、ようやくあたりの景色が見えるようになると辻は呼びかけた。医師は診療所の入口近くにいて、水道の栓を止めている様子だった。「じいさんよ」
 振り向くのを待ってもう一度声をかけた。
「あのボロ家に風呂がないからって、シャワーの出前を頼んだ覚えはないぜ」
「洒落たことを言うじゃないか」
 早足でのしのし戻ってきた医師は、辻の前で足を止め、ふんぞりかえって腰にてを当てた。
「お前さん、何だって、ここにいるんだ?」
「泊まり賃を払ったのさ」
 辻は駅前のマクドナルドで買ってきた夕食が無事かどうか確かめながら答えた。幸いにもぬれていなかった。
「君に貸した覚えはないぞ」
「親切な人が、ひとりいるのさ」
「それは契約違反だ」
「かたいこと言うなよ」
 疲労と空腹と水をかけられた腹立ちで、三沢医師のむこうずねを蹴飛ばしたくてうずうずしてきた。
「占い師の先生は得体の知れない男だが、身許ははっきりしている。君のことは何もわからん。診療を受けられただけでも幸運だと思うべきだ」
 医師は一言一言に威厳をこめるように重々しく申し述べた。辻が言い返す言葉を考えていると、三沢屋敷の玄関のドアが開き、和装の中年の婦人が、そして白い頭巾に白いドレスの異様な姿の人物が続いて現れた。
 辻はぽかんと口を開いた。和洋折衷の新種の花嫁衣装か何かだろうか?目があった。見覚えのある印象的な薄い色の瞳だ。
「え?昼間さん?」
「あれはマルチェラだ」
 三沢医師の渋い口調にはかすかに笑いのようなものが混じっていた。
「そんなこともしらんのか?」
 いかにも水商売の女性らしい、しなしなとした色気にあふれた和服の婦人は、露骨な好奇心を表して辻のほうを見つめた。こちらは金縛りにあったように目のやりどころもわからない。
「おい。マルチェラさん」
 三沢医師は意地の悪い口調で呼びかけた。
「わしに無断で男を連れ込んだりしないでほしいね」
 すると、和服の婦人も意地の悪い笑顔になった。
「あらやだ」
 あらやだ、と辻も言いたくなった。占い師の性別はともかくとして、ノーマルにもアブノーマルにも自分とはいっさい性的関係はないのだときっぱり弁解しなかった。
「彼は友人ですよ」
 占い師マルチェラはいささかも動揺を見せずに涼しい顔でそう言った。
「東京に出てきたばかりで住む場所を探しているんです。決まるまでしばらくここに滞在しますのでよろしくお願いします」
 大家に向かってエレガントに一礼したが、
「ふん。どっから出てきたんだか」
 三沢は勘の鈍いところを見せた。
「それでは、また。いつでもお電話下さい」
 占い師は三沢の言葉を無視して、お客の婦人に挨拶をした。婦人は白粉をこってりと塗った顔にあまり上等とはいえない笑みを浮かべて辻の脇を通り過ぎ、門から出ていった。いい勝負だな、とこちらに近寄ってきた占い師の顔の人工的な白さを見て辻は考えた。三日月にくっきりと描いた眉、バラ色にやつやつ光る唇、尼さんのような白い頭巾、ロングタイトの白いドレス。覚えのある淡い香水のにおい。
「いいかね、昼間さん、身許不明の男に部屋を又貸ししないでほしい」
 三沢医師は断固たる口調で言い切った。いかつい顔は、占い師に対する強い否定的感情と不信感にあふれていた。
「三沢さん」
 占い師は落ちつき払って、やりかえした。
「私の顧客の前での先ほどのあなたの言動は、明らかな営業妨害と悪意の誹謗中傷として告訴の対象となりますよ」
「だから、なんだっていうんだ!」
 医師はがなりたてた。
「辻くんの身許は私が保証します。あなたの患者でもあるわけだし怪我が良くなるまで三沢医院の隣で療養していても、何も不自然なことはないでしょう。それをあたかも二人が特別な間柄であるようなことを気安く口にする、私の顧客の前でですよ、しかも、同性愛のほのめかしをするというのは、明らかないやがらせ、営業妨害、人権侵害……」
「やかましい!」
 かんしゃくを破裂させてさえぎった。
作者: koume88    时间: 2012-1-10 11:36
「なんておしゃべりな男なんだ。化粧して街角に立つ男が、得体の知れない野良犬みたいな男を部屋に引っ張りこんで、そいつがのうのうと居座ってるんだ。どんな大家でも黙っちゃいないぞ」
「言葉に気をつけて下さい。刑法二三○条。名誉毀損罪。純然たる私事・私行に関する場合は、事実が真実であっても社会的評価を低下させた場合は名誉毀損として不法行為になる、という解釈が適用されますよ。まあ、刑事事件にはならないでしょうが民事的にも問題にできますから、精神的苦痛に対する慰謝料を請求しますよ」
「昼間!」
 よく通る若々しい声が呼びかけた。
「おい、昼間。そういう台詞は司法試験に通ってからのほうが効き目があるぞ」
 紺サージのマーツいっぱいに中身が詰まっているといったふうな小太りの明るい目をした男が門から姿を現していた。
「来年は再受験するんだよな?な?」
 マルチェラこと昼間薫は、アイラインとマスカラで際立たせた目をさらに大きく見開いて、強い困惑の表情を浮かべた。
「中本。何しに来た?」
 昼間の低い声と丁寧さのないその口調は辻の聞いたことのないものだった。
「何しに来ただと?来てほしくなけりゃ、心配させるような真似をするんじゃないよ。おい、いったいどんなドラブルに巻き込まれたんだ?」
 そこで声をひそめたのだが、わざわざボリュームを下げたことによって、いっそう劇的効果を添えて周囲の耳に鳴り響いた。
「姉さんに五十万も借金して」
 昼間は目を閉じて嘆息した。
「まったく口の軽い・・・・・・」
「そうじゃないんだよ!」
 中本は通常の倍の身振りで忙しくかぶりをふった。
「薫に最近何か変わったことはないかって、冬美さんが僕に聞くんだよ。あの冬美さんがだ!わかるだろ?僕は断然追及したよ」
「何もないよ。こういう商売だ。波がある」
「うまくいってないのか?」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、何だ?」
「何でもないよ。税務署に転職する気か?」
「少しは腹を割った話し合いをしろよ!友達だろう?」
 そうか。友達なのか。この真面目で勇ましい太っちょ野郎は。辻はなんだかおかしくなってニヤニヤした。すると、そのニヤニヤを素早く見とがめて、中本は質問した。
「何を笑っているんだ。君は、昼間の借金と関係あるのかな?」
「知らねえな」と辻は答えた。
「昼間さん、金ないのは知ってるけど、なんでないのかは知らないよ」
 今度は占い師がニヤニヤする番だった。
 中本は憤慨したよな心を傷つけられたような顔になった。
「君は会うたびに、どんどん変な方向へねじ曲がっていくんだな。人の話を聞こうともしないで。グレたふるをしているうちに本当にグレちまったらどうするつもりだ?」
 その声があまりに真剣で、悲痛な響きすらあったので、昼間薫は過保護な母親を持て余す少年のように恥ずかしそうに顔をそむけた。
「ねえ、大家さん。三沢さんでしたっけ」
 中本は医師のほうへ向き直った。
「昼間のトラブルのことを何かご存知ですか?」
「さあね」
 三沢は無愛想に答えた。先刻まで怒りに凝り固まっていた老人が——怒った顔はそのままだが——、一歩間違うと笑い出すのではないかという奇妙な印象を辻は抱いた。
 三沢はわざとらしく一度咳払いした。
「家賃をなかなか払わん。このうさんくさい男をかくまってる」
 トラブルを二つ挙げてみせた。
 中本は背筋をぴんと伸ばした。
「いったい君は何者なんだ?」
 改めて辻の顔をのぞきこむようにして仰々しい尋ね方をした。
「辻ってもんだよ」
 辻がさりげなく名乗ると、
「何をやらかしたんだ?」
 新米の警官みたいに率直に尋問した。
「よしてくれよ」
 辻はうんざりした声を出した。
「俺はガイシャなんだからよ。やられたほうだよ。知らないガキにいきなりぶん投げられて、腕がオシャカになっただけだよ」
 まったく、このいまいましい話を何度繰り返すはめになるのだろう。
「三沢先生の患者さんですよ」
 昼間が言葉を添えた。いつもの声とじゃべり方に戻っていた。
「倒れて動けなくなっているのを私が連れてきたんです」
「K札には届けたのか?」
 中本は意気込んで尋ね、返事を聞かないうちにまた続けた。
「示談にするにしても、相手のタチが悪いとつまらない目にあうから、三沢先生にちゃんと診断書をもらって、場合によっては弁護士をたててだな・・・・・・」
「捜してるんだよ」
 辻は中本の言葉をさえぎって、そっと肩に手をやってさするようにした。
「僕が引き受けようか?」
 ついさっきまで辻を犯罪者扱いしていたのを忘れたかのように、中本は大真面目に申し出た。
「弁護士じゃねえよ。犯人のほうだよ」
「なんだ。逃げられたのか?K札はなんて言ってるんだ?」
「サツの世話にはならねえよ。こんなケチな話でサツが動くもんか」
「やけに詳しいじゃないか」
 三沢の目が面白そうに光った。
「俺は、だいたい、じいさんが思ってる通りの男だよ」
 辻はゆっくりと言った。そして、反応を楽しむように、三沢の目をまっすぐに見据えてニヤりとした。もう、とっくに腹はくくっていた。この成り行きでは居候を決め込むことは無理だった。今夜は公園のベンチで寝ればいい。明日になって、もう少し元気がでたらしばらく泊めてくれそうな友達か昔の女を訪ねてみればいい。問題は早田咲の知らない古い知り合いが存在するかどうかだった。その点では三沢屋敷は絶好の隠れ家だったが。
 辻の挑発を受けても、三沢は表情を変えずに落ちついて質問した。
「君らはどういう取引をしたんだ?家賃をこの男が代わりに持ってきて、部屋に居座っている。友達だと言うが、そうは見えん。恋人同士にも見えん」
「友人ですよ。彼は今住むところを捜しているので、空いている部屋を使ってもらっています。又貸ししているわけじゃない。問題ないでしょう?」
 三沢の顔つきは、問題ないというには程遠ものだった。
「僕は話がよくわからないが、冬美さんへの借金について説明してくれないか?」
 中本が口を出した。
「トランプだよ」
 昼間は簡単に答えた。中本は理解できないというように眉をしかめた。
「ブラック・ジャック。特別に運の悪い日だったね。いつもはあんな下手な勝負はしないけれどね」
「スッた奴はみんなそう言うよ」
 辻は面白くなさそうにつぶやいた。
 ユスりの相手は捕まることも諦めることも死ぬこともあるが、博打狂は不治の病だ。その恐ろしさは知り抜いている。昼間の借金の原因は、やっぱりギャンブルか、と辻はいやな気分になった。
「そんなにみんなで困った顔をしないで下さい。これからは真面目に働きますから」
 占い師姿の、人を食った男が真面目に言えば言うほど、その言葉はおよそ不真面目に響いた。中本は心配そうに眉をひそめ、三沢は呆れたように肩をすくめた。
「おや信用がないですね。私が真面目に働いたら、どのくらい稼げるかを知らないんですね。なかなかのものですよ。三沢さん、少しの間、片目をつぶって見ていてくださいよ。もう家賃の滞納はなませんから」
 三沢は返事をしなかった。
「もう、いいよ。昼間さん」
 と辻は言い出した。
「俺は出ていくよ」
 三沢は辻をじろじろと眺めた。
「その前に肩を見せなさい。今度、三角巾をはずしているところを見つけたら、水の代わりに熱湯をかけるぞ」
 昼間の顔に感謝するような微笑みが浮かんだ。
「三沢さん、ありがとうございます」
 医者は露骨に顔をしかめた。このじいさんは見かけより、だいぶ、気立てがいいのではないかと辻は考えながら、やはり感謝するようにぺこりとお辞儀をした。
作者: koume88    时间: 2012-1-11 16:33
2
 九月は長雨と台風の季節だった。三沢屋敷の壊れかけた屋根や、はずれかけた鎧戸や、抜けかかった床にとって、大変危険な季節だった。建設会社は応急処置には乗り気でなかった。ちょっとした修復作業が被害を拡大させる恐れがあることを強調し、やるならば根本的、徹底的にリフォームする必要があるが、それは新たに家一軒を建てるよりも金がかかることをはっきりと告げた。古い家屋の維持は巨大な費用がかかるのである。
 三沢にとっては年中行事のようなものらしい。九月が来る度に借家人は不平を訴え、建設会社は本格的改築を勧める。小金はあるが大金はないと大家は言い続けてお茶を濁してきたが、今年ばかりは様子が違っていた。借家人が不平を言うかわりに、自ら屋根に登ってしまったのだ。
 その男は雨漏りをバケツで耐えることを拒否して、庭から梯子を立てて、遺跡のような屋根に修繕に出かけた。まだ肩が完治していないというのに。昼間薫ははらはらしながら同居人が屋根から転がり落ちてくるのをじっと待った。奇跡的に彼は五体満足で梯子を降りてきた。その日を境に雨漏りはぴたりとやんだ。彼が直したのは屋根だけではない。芸術的に変形した鎧戸を開閉可能にし、廊下の床の穴もベニヤ板で補強した。大工顔負けの腕前だった。
 男を見る大家の目が明らかに変わった。ただのゴロツキから、役に立つゴロツキに昇格したようだ。だが、昼間は思っていた。あのヒネクレじいさんは最初から辻牧夫が気にいっているんだろう。彼はどこか妙に人好きのするところがある。そうでなければ、いくら自分が巧みにそそのかしても、肩の治療はともかく、隣に住んで良しとまでは言わないだろう。
 占い師とスリの同居生活は一カ月を経過した。辻牧夫はとんと出てゆく気配を見せず、右手が使えるようになると、鍋やらフライパンやら食材やらを買い込んできて料理をおっぱじめた。本格的に居座るつもりだろうかと昼間薫は呆れた。
 スリのプライドとは大変なものである。彼は本気で復讐するつもりだった。一見あっさりした気性に見えるだけに、あてのない探索を日々繰り返す執念、その無駄な根気とも言うべきものが、昼間には不思議に思えた。
 休日以外はほとんど顔を合わせる機会がなかった。昼間が起きる頃には辻はすでに外出しており、街占から戻る頃にはすでに眠っている。彼はこの家で占いの顧客と絶対に鉢合わせしないように神経質なまでに気を配っていた。
 お互いに相手の詮索はしなかった。過去のことも未来のことも知らない。一つ屋根のしたにいても、行きずりの他人だという距離間がこの奇妙な同居生活を支えていた。
 九月の最後の週は毎日雨が降った。街占に出られない夜はトランプ・ゲームと決めていたが、現在、借金返済のため自粛中である。仕方がないので、得意客と飲んだり、占いの出前に行って過ごした。ふだんは断るような気前のいいチップも受け取り、いつも以上ににこやかに振舞い、喜ぶ相手には必要以上のお世辞を並べ、あまり深刻でない相談の時はイカサマまがいの良いカードをどんどん繰り出した。お金はたまったが疲れもたまった。
 その日、昼間薫は、夕闇の中を降りしきる雨を客間の北側の窓から眺めながら、客用のソファーにぐんにゃりと伸びていた。顧客の国会議員が株の投資について占いの出前を求めていたが気が進まなかった。恋愛問題、人生問題であれば、洞察力、分析力、己の美学、哲学を総動員して、カードを足掛りに何かを語ることはできる。経済問題についてはお手上げだった。株の何たるかもよく知らない。もちろん、顧客も相場についての実践的なアドバイスを望んでいるわけではないので、知りたいのは、今は良い時期か悪い時期かということなのだ。潮が来ているかどうか。占い師としては、己の霊感をずばり試されることになる。やはり、中本や姉が言う通り、司法試験に再トライすべきだろうか。弁護士になれば霊感を問われることはまずなかろう。
 突然、胸の奥から突き上げるように、カードがやりたい、と思った。タロットではなくトランプである。七ならべでもいい。一勝負十円でもいい。「カスバ」に行きたい。自分ややらなくても、人の勝負を見ているだけでもいい。グラスにジム・ビーム、つまみにピーナッツ、BGMにバド・パウエル、封を切ったばかりのトランプのにおい、軽口の応酬、運と金のささやかなやりとり。
 仕事に行けばおそらく十万、霊感が当ればご祝儀にプラス二十五万。博打に行けばおそらく五万、運が悪ければマイナス五万。最高の差額で三十五万か。それは辻牧夫に借りたのとほぼ同じくらいの金額で、やはり金というのはアブクに似ていると妙に醒めた気持ちで思うのだった。
 雑念を排除し、集中力が戻ってくるよう、目を閉じて雨音に耳を傾けているうちに、いつのまにかうたたねをしたらしい。ジンジンジンと鳴る旧式の電話のベル音に昼間は跳ね起きた。くだんの国会議員が約束をキャンセルする電話で、当方より先方のほうが霊感がありそうだと昼間は思った。
 窓の外は暗がりだった。ひたひたと陰気な雨の音が続いていた。強い空腹を感じた。こうなると、禁を破るのはいともたやすい。世界中で自分のいる場所が「カスバ」以外にあるとは思われなかった。意志の弱さを嘲笑った。ついでに喜びのあまりバグズ・グルーブのテーマを口笛で吹きそうになった。
 イタリア製の猫足の電話台の引き出しを開け、生活費を入れている古びた革の札入れを取り出した。二十万くらい入っているはずだ。万札を五枚勘定して抜き取ろうとした時、玄関で物音がした。ぎょっとして、お札を丸めてズボンの後ろポケットにねじこみ、あわてて引き出しを閉めた。廊下を通り台所に向かっていく軽い足音。
 昼間はふうと息を吐き出した。自分の金をどう使おうと自分の勝手じゃないか。盗みの現場を見つかった泥棒のように泡を食うことはない。しかし、まさに、そんな感じがした。借金を返さずにいる以上、手持ちの金は本来みな辻牧夫のものだともいえる。
 客間を出て、玄関から続く廊下の左側の台所に首をつっこむと、辻が冷蔵庫茶色い卵を並べているところだった。
「よう」
 とふりむいて彼は言った。挨拶に「よう」と言う人間はいそうでいないものだが、と昼間は妙なことを考えた。
「飯、食う?チャーハンでも作るけど」
 一瞬うなずきそうになった。彼のチャーハンはうまかった。チャーシューもザーサイもネギも特別なものではないというのに、味付けの秘訣か、中華鍋の揺すり方のコツか、店の味とも家庭の味とも違う独特のうまさがあった。昼間が誉めると、中華屋で育ったからさ、と辻は照れた。どこの町にもあるケチな中華食堂だよ、わかるだろ?
「出かけるから」
 と昼間は断った。食べてから出かけてもいいのだが、それではなんだか二重の裏切りになるような気がした。さりげなく言ったつもりが、声はそっけなく響き、辻は相手の口調などをいちいち気にするタチではないと思いつつ、かすかな自己嫌悪を覚えた。
「今夜は仕事がないから、ゆっくり銭湯にでも行って、ぶらぶらしてきますよ」
 うかつに言い訳を初めて、おや、これでは「カスバ」の前に銭湯に寄らないといけなくなったなと少しいらいらした。
「風呂なんか、隣で借りればいいじゃん」
「隣はどうもね・・・・・・」
 昼間は口ごもった。じいさん、風呂貸してよ、とずかずか乗り込んでいく辻の人なつこさはとてもじゃないが真似できない。
「ここから壊れたんだってな。台風で真っ二つ」
 三沢から話を聞いてきたのか、辻はそんなことを言い出した。
「つぶれちまったほうにあったのが、食堂に風呂場?昔は豪勢なお屋敷だったそうじゃないの」
「よほど愛着があるんでしょうね」
 と昼間はうなずいた。
「半分だけでも残そうとするんだから。十年くらい前らしいですけど、大正時代の擬西洋館を完全に修理、復元するのは、まあ天文学的なお金が必要だということで、三沢さん、あきらめたわけですよ。それで、住み心地のいいレプリカをこしらえた。こちらは個人に貸すつもりじゃなかったみたいですね。公共の財団とかね。何かの資料館とか文庫とか美術館とかそんなものを作りたかったらしい」
「とんでもないジジイだ。お化け屋敷がいいとこだ」
「まあね」
 昼間は笑った。それじゃ、と辻に背を向けて玄関のほうに行こうとすると、
「昼間さん」
 と呼びとめられた。辻がいつのまにか背後に歩み寄っていた。振り向くと、彼の長い指が肩のあたりにあり、その二本の指の間にしわくちゃのお札が一枚はさまれてひらひらと揺れていた。
「ハンカチじゃないからな。ポケットからのぞかしちゃダメさ」
 昼間はハッとしてズボンの後ろポケットに手をやった。強いショックを感じた。身につけている物を盗られるという、しかも魔術のように軽々と鮮やかにスリとられるというのは、どこか、人前で裸にされたような恥ずかしい頼りない悔しい感情的体験だった。そんな思いが露骨に顔に現れていたのだろうか。辻は一歩後ずさると、照れと後悔の入り混じったニヤニヤ笑いを浮かべた。
 昼間はいつものように場をやり過ごす適当な台詞を口にできなかった。それほどショックが大きかった。あるいは、禁を破って博打に出かけようとしている後ろめたさのようなものも尾をひいていたのかもしれない。自分がどんな男といっしょに暮らしているのか、初めて本当にわかった気がした。
「あんたは財布を持たないタイプじゃないと思うけどね」
 辻はぽつんと言った。彼らは人を見る時に第一にそんなことを考えるのだろう。財布を持っているか、どこに持っているか、どんな中身の財布なのか。
「ええ。たいがい持ちますけどね」
 これ以上の沈黙は不当な非難になると思って、昼間は答えた。
「俺の育ての親は言ってたよ。博打に行く時はでっかい財布を持ってけってね」
 辻は言った。博打という言葉に昼間は再びショックを受けた。
「現ナマをバラして持ってると、もうその金を捨てたもんだと、てめえのもんじゃないとどっかでそういう考えがあるんだとさ」
「博打をよくやる人なんですか?」
 けだし至言だ、と昼間は感心した。
「すきだよねえ」
 溜め息をつくように辻は答えた。
「でもね、早田のお父ちゃんはわけのわかったギャンブラーだよ。風向きの悪い時には無理しない。負けても引ける。でかい勝負はしないし、まあお母ちゃん恐いからな」
「趣味、の域ですね」
「俺の親父のほうはそうはいかなかったよ」
 辻は台所の窓から闇の中を降りしきる雨を見やりながら、つぶやいた。
「俺の親父と早田のお父ちゃんは家が隣で博打仲間だったんだけど、親父のほうは完全にイカれていたね。とっつかれてた。仕事もやめちまってさ。けっこう腕のいい時計職人だったらしいんだけど、俺が物心ついた頃はもう博打一本よ。カミさんには逃げられて。ガキは隣ンチに放り込んで」
 思いがけず身の上話が始まり、昼間はいささか緊張してスリの青年の横顔を見つめた。
「競輪競馬くらいにしときゃ良かったんだけどよ、ヤクザもんと無茶なレートの麻雀をやりだして、後はもう地獄までまっさかさま。二月の朝に、新宿の横丁で、ぐでんぐでんに酸っぱらって、凍死体で見つかったわけよ」
「それは・・・・・・事故ですか?」
「まあね。身体に傷とかなかったからね」
 辻は昼間のほうに視線を戻すと、急にはにかんだように笑った。
「つまんねえ話だけどさ。俺としては、誰かが博打をやってると、凍死体にならねえといいなと、ついつい気になるわけよ」
 軽い口調だが心がこもっていた。
「私は・・・・・・」
作者: koume88    时间: 2012-1-11 16:33
 そんな無茶はしない、と言いかけて、必ずしも正確な表現ではないと思い直した。
「前に、二年くらい外国をその日暮らしでふらふら歩いてたことがあるんです。ギャンブルの味はその時に覚えました。負けが払えなくてチンピラに殴り殺されそうになったことがあって、血だらけでゴミのように路地に転がっていたんですよ。親切な老婦人が助けてくれました。見ず知らずの異国人をね」
 昼間は老婦人のことを思い出すと、どうしても感傷的になるのを止められなかった。
「彼女はマルチェラという名前で、ローマの生まれ、色々な民族の血が混じっていて祖先はジプシーだったとも言っていました。彼女の一族は魔女狩りにあうほど霊感に優れている者が時々現れ、占いをよくしたそうです。マルチェラ自身は才能がなかった。子供も親族も誰もいない。一族に伝わるタロット・カードというのを持っていて、私にくれると言いました。私は占いをする力があると」
 辻は黙って聞いていた。
「本当はタロットのデッキは人に譲ったりしてはいけないんですけどね。使い手の霊感や思念や感情や色々なものをカードが吸収しているんです。生き物なんでえすよ。優れたタロットのデッキは。うかつに手を触れてはいけない」
「じゃ、もらってこなかったわけ?」
「いえ、いただきました。形見になってしまったから。持柄の心臓発作で亡くなったんですよ」
「ふうん」
 と辻は真面目な顔でうなずいた。
「じゃあ、あんたはそのばあさんのせいで、占い師になったわけか」
「あなたは、いつ頃、自分の才能に気づきましたか?」
 昼間は尋ねた。
「馬鹿馬鹿しいと思うでしょうけどね。私は誰かに才能があると本気で信じてもらうのは初めてだったんですよ」
「俺はもうほんとにガキの時分から、おじいちゃんの手伝いをしてたね」
 と辻は言った。
「隣ンチに凄腕のスリのジジイがいてよ、面白半分に、孫にね、やらすわけ。ハンガーに背広吊って、揺らさないで財布を抜き取る、なんてのね。孫はどっちも鈍くてダメさ。俺は見込みがあったわけよ」
「才能があった」
「そう」
 辻はギョロリとした大きな目の中になつかしそうな色をちらりと浮かべた。
「ウマがあった。おじいちゃんとは。おじいちゃんのあとをくっちていくのが、何より面白かった。お父ちゃんもお母ちゃんも怒ったけどね。でも、俺たちはやっぱりいっしょにいたよ」
 そうして、一人のスリと一人の占い師が誕生し、現在、顔を突き合わせているというわけか、と昼間薫は思った。
 奇妙な人生。奇妙な二つの人生。
 昼間は辻に手渡されたお札をいつのまにか手の中で細かく折りたたんでいた。そして、辻が博打の話を持ち出したのは偶然なのか、それとも自分の行く先を勘づいているのか、と考えてみた。
「やっぱりチャーハンいただきましょうか」
 昼間は言った。先刻までのトランプ・ゲームへの込み上げてくるような強い欲望がすっかり失せていた。見事に水を差された。
 辻は嬉しそうにニヤリとした。
「じゃあ、ワンタンメンも作ろう」
「あなたの中華は一味違いますね。お宅のお店で作っていたんですか?」
 と昼間は聞いてみた。
「ぜんぜん」
 辻はかぶりをふった。
「なんとなく見て覚えただけ。雑用はさせられるけど、野菜洗ったり、丼運んだりね、鍋なんて触らせちゃくれない。そんな大層な店じゃないんだけどさ、お父ちゃんもあれでけっこう気難しくて」
 肩をすくめるようにして付け加えた。
「息子が跡を継ぐんだよ。あいつは真面目なんだ。手先は不器用だけどよ」
 血のつながらない家族への率直な愛情と、かすかな疎外感のようなものを昼間は嗅ぎ取った。辻牧夫の存在がなまなましく感じられた。こんな立ち話などするのではなかったと急に後悔した。
 本物の盗人。父親を博打で失った少年。
 ごくわずかなエピソードからでも、その人間を全体的に立体的に思い描くことができるのは、天性の資質でもあり、仕事の修練でもあった。好奇心という爆弾も抱えている。
 同居人は、もはや昔話のツルでもタヌキでもなかった。
 ノッポの背中を屈めるようにして、ステンレスのシンクでリズミカルにネギを刻んでいる青年の後ろ姿を、昼間はキッチン・テーブルの椅子に座って黙って眺めていた。
 彼の存在は不快ではなかった。不快ではないという事実は、昼間をかえって不安な気持ちにさせた。
作者: koume88    时间: 2012-1-11 17:20
3
 警視庁の統計によると、スリの被害件数は年々増加している。グラフの上昇カーブに貢献しているのは、外国人や万引き感覚の素人である。催涙スプレーや包丁で武装した外国の暴力スリ団が観光ビザで来日して短期間に荒稼ぎをし、まじめな会社員や主婦が出来心でふと他人の財布に手を伸ばす。その一方で、国産の昔ながらの職人的スリは姿を消しつつあった。
 トキみたいだな、ツシマヤマネコかな、絶滅寸前で希少価値なんだから、せいぜい保護してもらいたいものだ、と西方三太郎は笑っていた。その臼のように四角いゴマ塩頭、ぽっちりと小さい丸い優しげな目、ガニ股の短躯、袢纏の似合う下町職人的風貌を辻は好ましく思い起こしていた。
 西方に会うために、辻は京浜急行線に乗っていた。朝、電話をかけたら、ちょうど今出かけたところで、たぶん行く先は花月園じゃないかと西方の女房が言ったのだ。A級戦の決勝日だからね、と。
 “ガキのスリ団”の探索は、完全に行き詰まっていた。東京から埼玉へ向かう電車を毎日せっせと乗りまわしていても何の成果もなく、千葉方面へルートを広げても変わらず、出所からはや二カ月がたとうとしていた。少年の消えていった新宿の街も歩いた。稼ぎのうちの少なからぬ額がビールや焼酎に消えていた。もう、これ以上、一人で行き当りばったりに捜しまわっても埒があかないことを辻は認めざるを得なかった。
作者: koume88    时间: 2012-1-11 17:20
3
 警視庁の統計によると、スリの被害件数は年々増加している。グラフの上昇カーブに貢献しているのは、外国人や万引き感覚の素人である。催涙スプレーや包丁で武装した外国の暴力スリ団が観光ビザで来日して短期間に荒稼ぎをし、まじめな会社員や主婦が出来心でふと他人の財布に手を伸ばす。その一方で、国産の昔ながらの職人的スリは姿を消しつつあった。
 トキみたいだな、ツシマヤマネコかな、絶滅寸前で希少価値なんだから、せいぜい保護してもらいたいものだ、と西方三太郎は笑っていた。その臼のように四角いゴマ塩頭、ぽっちりと小さい丸い優しげな目、ガニ股の短躯、袢纏の似合う下町職人的風貌を辻は好ましく思い起こしていた。
 西方に会うために、辻は京浜急行線に乗っていた。朝、電話をかけたら、ちょうど今出かけたところで、たぶん行く先は花月園じゃないかと西方の女房が言ったのだ。A級戦の決勝日だからね、と。
 “ガキのスリ団”の探索は、完全に行き詰まっていた。東京から埼玉へ向かう電車を毎日せっせと乗りまわしていても何の成果もなく、千葉方面へルートを広げても変わらず、出所からはや二カ月がたとうとしていた。少年の消えていった新宿の街も歩いた。稼ぎのうちの少なからぬ額がビールや焼酎に消えていた。もう、これ以上、一人で行き当りばったりに捜しまわっても埒があかないことを辻は認めざるを得なかった。
作者: koume88    时间: 2012-1-12 15:58
 選択肢は三つあった。すっぱりとあきらめる。馴染みのオマワリにタレこんで情報交換を持ちかける。助っ人を頼んでもう一頑張りする。K札の線は最初に消した。そして、すっぱりとあきらめるくらいなら、西方一家に協力を要請してもいいのではないかと考えた。西方親分は何十人もの子分を抱えているわけではないが——実のところほんの三人ばかりなのだが——、顔が広く、なかなか結構な情報網を握っている。前に一度尋ねた時は知らないと言っていたが、あれから二カ月のうちに何か耳に入ったかもしれないし、これから入ってくるかもしれない。
 西方が競輪場で仕事をしているなら都合がいい。ぶらりと出かけて偶然出会ったような形でさりげなく話を切り出すことができる。
 花月園は駅から続く坂道を五分ほどのぼり続けた丘の上にある。色あせた、古ぼけた、カジュアルな服——青や茶やグレーのジャンパー、ウールのシャツ、だぶだぶのズボン、野球帽など——を身につけたオヤジやジジイがアルコールとニコチンのにおいをふりまきながら、ぞろりぞろりと行軍する。どれだけ世の中が変わっても、この連中のいでたちは変わらないだろうと、辻はどこか苦々しい思いの入り混じった奇妙な敬意を抱いた。十五年前の川崎とまるで同じだ。
 家から自転車で十分ほどの川崎競輪場には店の定休日によくお父ちゃんと出かけた。子供三人を従えて行くと、お母ちゃんがさほどガミガミ小言を言わないので、よくダシにされたものだ。咲や耕二は喜んでいたが、辻は競輪場は好きになれなかった。実の父親のせいで、博打に係わる場所はどこも本能的な嫌悪感を抱くようになっていた。
 エスカレーターをのぼった先に、巨大な電光掲示板で席の有無を示している特別観覧席売り場があった。客のなりは変わらないくても施設のほうは小綺麗にご立派になっているようで、メイン・スタンド二千円、バック・スタンド千円というのはずいぶんボッてくれるじゃないのと思う。要は西方がどこにいるかなのだが、まだ昼前だというのにバック・スタンドの席はほとんど埋まっているので売り切れると困ると考えて、千円を奮発することにした。
 指定席の売れ行きほどに場内は混雑していなかった。これくらいなら、西方を見つけられるだろうと安心した。せっかく買ったことだし、まず、チケットの席へ行ってみようかと決めた。
 バック・スタンドのてっぺんで係員にチケットに鋏みを入れてもらい、バンクに張り出したガラスの箱のような建物に入る。煙草のにおいが強烈に鼻をついた。机のついた二人掛けの席が横に長く連なり、どこからでも、正面のガラス越しにバンクを広々と見下ろすことができた。
 レースの真っ最中だ。蛍光色の華やかなユニフォームの選手たちがきれいに一列になって、あまり速くない周回を続けている。この高さからだと、バンクの端の傾斜がよくわかる。スタンドに向かってせりあがってくる急斜面を使って、ぐいとダッシュして前に出てゆこうとするレーサーの動きはスリリングで爽快だ。列はばらばらに崩れ、スピードはどんどん上がっていく。特観席の客たちから、うめき声のような地鳴りのような低いどよめきが湧き上がった。興奮が振動となって共鳴している。
 入口近くの最後尾に立ったままの辻は視線をそっとずらして、右端に一人だけいる警備員の視線の動きを確かめた。警備員はむろんレースは見ていない。しかし、それほど熱心に客も見ていない。西方が特別や記念などの大きなレースよりヒラ開催の小さなレースを好むのは、レーサーの脚力同様、警備員、捜査員の量と熱意が落ちるからである。あいつ、一人だけかな?ほかに私服はいないのかな?自分が仕事するわけでもないのにオマワリを捜すのは、もう第二の天性のようなものである。
 レースは終わり、連れのいる客たちの私語がさざなみにようにあたりに広がり始めた。まだ今のレースの着順は発表になっていないのに、モニター・テレビは早くも次のレースの情報を流し始めている。座っていた客たちもぞろぞろと立ち上がっている。何人かが払戻窓口へ向かう。
 この特観席に西方がいないことを辻は確認した。向かいのもっと大きなメイン・スタンドの特観席はがらがらのようだった。おやっさんも金網の口かもな、と辻は考えた。早田のお父ちゃんは、バンクを取り巻いている金網のそばで観戦して大声で選手を野次るのが好きだった。
作者: koume88    时间: 2012-1-17 11:55
 バック・スタンドを一番下までおりで、金網に沿ってバンクのまわりを歩き始めた。金網の周辺に人が多いのは、ゴール付近のメイン・スタンドの方角だ。スタンドの一般席にいる客の顔を一人ひとり確かめながら、辻はゆっくりと進んだ。
「まもなく投票締め切り五分前です」
 というアナウンスが響いた。まだ正午を過ぎたばかりなので、レース間の間隔が短い。車券を買う、そしてレースを見る——おそらく三十分に満たない時間の中で繰り返されるこの動きに素直に従っていないと、この場所では目立つことになると辻は気がついた。波に逆らって動く者、賭けをしない者、これは当然、警備の目をひく。今日は仕事をしないからいい、というものではない。もし西方を見つけた場合、自分にマークがついていれば、彼らの仕事の邪魔になる。
 ゴール付近の金網にも、西方の姿はなかった。3レースが始まっていた。辻はレースが終わるまでじっとしていた。そして、客の流れに従ってメイン・スタンド裏の投票場のほうへ向かった。
 予想屋が四人ばかり店開きしている。人だかりがしているが、よく見ると予想屋の客ではなく、皆、オッズのモニターの客である。黙って、食い入るように、細かい数字の並ぶ高い位置の画面を見上げている。競輪場がにぎやかになるのはレースの終盤のヤマ場だけで、あとは不気味にしんとしている。個々の賭けの予想と欲得と計算と見果てぬ夢の中にひたすら埋没している。他人のことにはあまり構わない。自分と自分の金、そしてオッズとレース、それだけである。スリの仕事場としては上等だ。しかし、どうも気が滅入る。沈黙と喧騒の落差とその繰り返しに神経が苦労する。博打場特有の陰気な熱気にどうしても肌が合わないのである。
 野津を見つけた時には、ほっとした。
 西方の一の子分で、年齢は三十七、八。こめかみあたりがややハゲあがった、ラッキョウを逆さまにしたような顔。青いプラスチックの小型ペンシルを耳に差し、片手に投票用紙、片手に小銭、鼠色のウールのシャツをだらしなくズボンの上に出し、世間に詫びを入れているような猫背の姿勢はいつも通りだ。
 バック・スタンド裏の投票所の短い列についていて、小銭だけでケチな車券を買った。ゆっくりと引き返す時に、やや離れて立っていた辻と目があい、表情の乏しい穏やかな顔に電光のような驚きが一瞬さっとよぎった。マッキー!と言いかけて、とっさに声を飲み込んだ。こちらは目に見えない程度に小さくうなずいた。そして、窓口から投票用紙を一枚取ると、オッズのモニターの人だかりにまぎれこんだ。
 スリ団の仲間は現場では決して知り合いに見えてはいけない。自分が仲立ちして野津と西方を結びつけてはいけないと、辻は素早く自制したのである。
 予想通り、西方はまもなく姿を現した。視線が西方の動きを露骨に追わないように注意しながら、辻は自分の勝手な都合で、相手の職場にのこのこ乗り込んできたことを今さらのように恥ずかしく思った。スリのチーム・プレーのデリケートさを忘れたとでも言うのだろうか。ほんのわずかの呼吸の狂いが命取りになる。長すぎる凝視、一瞬のよそ見、集中力の欠如。早田家や西方一家の前から行方をくらましている辻牧夫の存在は、まさに、そういう、失敗の原因に結びつくものだった。
 しかし、西方は辻を見なかった。目に入らなかったのではなく、目に入れなかったのだ、と辻は確信し、同じく早田勘介の弟子である年配の男への尊敬を深めた。
 西方はカモをマークしていた。特に目立った動きをしているわけではなく、ただ、一人の男のあとを一メートルほどの間隔をあけてゆっくり歩いているだけなのだが、同業の者、そしてスリ担当の優秀な刑事なら、彼の狙いは一目瞭然だった。
 カモは四十代とおぼしき、スリムな体型の男で、黒のタートルネック・セーターの上に、ラフなカットのグレーの千鳥格子のスーツを三つ目のボタンをはずして気障に着こなしていた。あごひげを薄く伸ばし、日焼けした、一昔前の二枚目という容貌は、ヒモに転身した元映画俳優か、ホストに転身した元モデルといった、独特の色気と水っぽさが漂っていた。女がらみのアブク銭のにおいがぷんぷんするのである。いいぞ、と辻は胸がときめくのを感じた。まさに、スリに逢うために生まれてきたような男だ。
 カモ氏は鞄の類は持っていなかった。スーツの右ポケットに丸めて差した競輪新聞を抜き取って一度何かを確認するように眺めたあと、オッズのモニターを一分ばかり見つめていたが、ようやく投票用紙をとって記入し、窓口に並んだ。西方もワンテンポ遅れてすべて同じ行動ととった。
作者: koume88    时间: 2012-1-17 15:37
 野津は壁際の椅子に座って、競輪新聞に首を埋めながら、時折オッズのモニターに目を走らせていた。あとの二人の子分、巨体の角田と韋駄天の隼人の姿は見えなかった。
 辻はカムフラージュ用に競輪新聞を買ってくればよかったと後悔しながら、投票用紙で間に合わせて、モニターの前の人込みで、カウント・ダウンの始まったスリ劇の開幕を待った。ここでやるのだろうか?投票所の付近は警備が厳しいと聞いているが、もちろん、そんなことは西方は百も承知のはず。オマワリの目を求めてキョロキョロしたくなる衝動を必死でこらえて、西方一家の一員になったように余計な気配を消すことに専念した。残念だった。スターティング・オーダーからはずされた三割バッターのような気分がした。ヒラ場のチーム・プレーなどもっとも縁遠い仕事なのに、やはり、いざ現場に立ち会うと、自慢の指先にうずきを覚える。
 ここでやるのだ。百八十五センチ、百九キロの巨体の元相撲取り、角田の姿を視界の左端にとらえて辻は納得した。色白でふくよかな童顔の二十六歳の青年は、スクール・バスに乗り遅れそうな子供のようにあわてた顔でのしのし歩いていた。相変わらずのウドの大木めが。野津の爪の垢でも煎じて飲んで、ポーカー・フェイスの稽古を積めよ。おまえさんは息をしてるだけでも目立つんだよ。
 カモ氏の順番がまわってきた。角田はぎりぎり間にあったのだろうか?それとも?カモ氏はスーツの左ポケットから二つ折りのぶあつい財布を出して、一万円札を三枚、窓口に差し出した。なかなか景気がいい。ちっちっ、もったいねえ。辻は自分の財布から金が飛び去っていくような未練を感じた。早くやらねえから三枚もなくなっちゃって。
 カモ氏は釣り銭と車券を受け取ると、くるりとこちらに向きなおり、ゆっくりした足取りで歩き始めながら、釣り銭だけを手早く財布にしまいこみ、その財布と車券を左ポケットにつっこんだ。まさに、その瞬間が無防備であることを辻は経験から知っていた。財布を元の位置に戻した直後、持ち主の頭の中から財布の存在が完全に消え失せる。
 カモ氏は足を止はしなかった。足の向かう方向を変えた。おそらく無意識のうちに。そのくらい、野津の動きは自然だった。カモ氏の進路をさえぎるようにふらふらと横切ったのだが、締め切り間際の窓口をまっすぐに目指す男の足取りに見えた。カモ氏は自分が並んでいた列に押し戻されるような形になった。西方はもう車券を買い終わっていた。まわれ右をした彼の身体はカモ氏にぴったりと並んでいた。財布のあるカモ氏の左ポケットと西方の右手が並んだ。西方の手の動きは辻には見えなかった。おそらく、誰にも見えなかったはずだ。角田の巨体がブロックしている。そして、いつのまに現場に馳せ参じたのか、自慢の古着のライダー・ジャケットを薄い肩にひっかけた隼人が競輪新聞を広げてブロック、そして——。
 その一瞬だけ一点に交わった関係者が、三々五々に散った。隼人は二つ折りの競輪新聞を四つ折りにし、右手をジャケットのポケットに突っ込んでいた。韋駄天と呼ばれているが、五十メートルを七秒で走るらしいが、バイクに乗せるとさらにそのスピードへの傾倒が增すらしいが、今は馬鹿にゆっくりと歩いている。口笛でも吹きたいような顔つきで。こいつも、ポーカー・フェイスにはまだまだだと辻はおかしくなった。
 仕事は成功のようだ。そして、カモ氏がよくよく鋭い目と記録の持ち主でないかぎり、犯人グループの誰の姿も脳細胞に刻まれていないだろうと思った。
作者: koume88    时间: 2012-1-17 15:54
 西方一家のその日の仕事は、4R前後に集中することになった。4Rは、大本命が落車失格する波乱の展開になり、六千三百二十円の好配当になった。その荒れたレースの終盤に、メイン・スタンドのホーム・ストレッチ金網そばで、西方は大胆に三人もの財布をズボンの尻ポケットやジャンパーのポケット、リュックサックの中からつかみだした。
 レースの終了時には、財布のリレー役であり始末役でもある鈴木隼人の姿は消え失せていた。
 西方は人の流れに従ってメイン・スタンド裏まで歩き、屋台のラーメン屋の丸椅子にのっそりと腰を下ろした。辻は隣の椅子が空いているのを見て、しばし迷ってから座った。
「ネギ味噌がうまいぞ」
 無視されたかと思いきや、西方はボソリと声をかけてきた。
「ああ、そう」
 辻はネギ味噌ラーメンを注文した。ここからだと、A2の払戻窓口が正面に見える。
「どうだい。さっきの穴は」
 辻は世間話のように尋ねた。
「俺は、ハズレだ」
 西方も同じ調子で答えた。しかし、その言葉には言外の含みがあることに辻は気づいた。4Rの前と最中に計四個の財布をせしめている。一緒にスリとった車券があるのかもしれない。その中に当りがあるのかもしれない。もし、あのニヤケたスーツ野郎の車券なら、これは大きい。
 払戻窓口にぽつりぽつりと人がやってくる。大穴とは、当る人が少ないというこちでもある。西方は音をたててズルズルとラーメンをすすりながら、窓口の金額と人相風体をチェックしている。
「うまいよなあ」
 辻は箸を動かしながらつぶやいた。
「そうだろう」
 西方はうなずいた。ラーメンの話でないことをおやっさんはわかってるな、と辻は思った。
 制服姿の警備員が連れだって歩いてくる。一瞬、緊張したことを西方に悟られなければいいと思った。警備員は払戻窓口を見張っている。こちらには背を向けている。もうスリの被害は届いているだろう。さっさと立ち去ればいいものをまだやるつもりかと、辻はいささか呆れながら、熱いスープをすすった。
「今日はいかんね」
 西方は首をふりながら言った。
「もう一レース打ったらお帰りだな。家に帰るしかないわな。あんたはどうする?電車賃ぐらいは残ってるんだろ?」
「そうだな」
 辻は言った。そして、立ち上がった。鮫洲の家で待っていろという、西方の合図に従うつもりだった。
作者: koume88    时间: 2012-2-6 11:19
4
 鮫洲商店街は、京急の線路に並行して、青物横丁から鮫洲の先までだらだらと長く続いている。電気屋、八百屋、米屋、花屋、コンビニ、喫茶、駅前商店街にありそうな店は一通りそろっていて、床屋も当然ある。ヘアサロンと呼べそうなガラス張りの洒落た店、続き物の漫画単行本の在庫が豊富なオーソドックスな店、その二軒に営業的にどう対抗しているのか不思議な「西方理容店」は、平屋のトタン屋根に黒ペンキの色も薄れかけた達筆の手書きのやけに大きな木の看板をのせ、曇りガラスとトルコ石色のタイル壁がなんとも前時代的な外観だった。
 西方の女房の父親が建てた家で、生きていたら三沢のじいさんと話が合うのではないかと辻は考えた。西方理容店の二代目はめったに店に寄りつかないゴロツキの婿さんではなく、鮫洲小町と常連の年寄り連中にあがめられる美人の娘の清美だった。
 店の正面のドアではなく、脇の小道に面した裏口の戸をノックもせずに押し開けて中に入る。土間から狭い台所を通り、一年中しまわれることのない置きごたつのある茶の間を通り、納戸のような窓のない四畳半にもぐりこんだ。ここで西方一家は獲物の金勘定と分配をする。仕事の細かい取り決めをする。
 茶の間では、床屋の客でもある博打仲間が、懐具合によって点5から点10のレートで麻雀を打つ。花札をする。西方は、理容店を支えているのはかみさんの色気ではなく、彼の怪しげな人脈であると公言してはばからなかった。博打仲間が始終出入りすることによって、スリ仲間の出入りが目立たなくなる。仕事の話の時に博打仲間に邪魔されないようにするのはおかみさんの裁量だった。
 しばらく待つことになるな、と辻は折りたたみ式の小さなテーブル一つだけの暗い和室で電灯もつけずに、ゴロリと横になった。いつのまにか眠ってしまったらしい。
「ちょっと、いやだね。声をかけてよ。裏からこっそり入ったりしてさ」
 清美の声に目をさました。
 白いぽっちゃりした瓜実顔に、目も眉も口もおっとりとした和風美人である。これほどの容色の持ち主が、なぜ西方のような不細工な犯罪者と一緒になったのか不思議な話であるが、西方に言わせると、あれは実は大変な女で俺ほどの度量と技巧の持ち主でなければ亭主はつとまらない、となる。清美が時折気にいった男をつまみ食いしては亭主に打ち明け、それでこの夫婦はうまくいっているらしい。西方の自慢まじりの愚痴を辻はあまりまじめに聞いたことがなかった。他人の女房の話など聞くものではないと思っている。
「会えたの?」
 清美はいつも舌がからんだようなゆったりとしたしゃべり方をする。ある種の男にとっては魅力なのだろうが辻は耳障りだと思う。
「会えたよ」
 簡単に答えてそっぽを向いた。それでも、西方の女房を嫌いなわけではなかった。いくら浮気を重ねても、西方と西方の仕事に忠実で信用が置けるのは承知している。
「相変わらずそっけないのね。あんた、その気になればモテるだろうに」
 窓のない暗い部屋で二人きりでそんな話はしたくないよと困っていると、鈴木隼人がひょっこりと顔をのぞかせた。
 小柄で細身で精悍で競馬の騎手のような雰囲気の二十歳の若者で、茶色のラム革のレザー・ジャケットもジーンズも辻にはただの小汚い普段着にしか見えないが、かなり値の張る古着だという。即配便のバイト代や仕事の分け前をすべて衣類とバイクにつぎこんでいると西方はなげいていた。
 隼人は西方の遠縁に当たる。不良というのではないが、人嫌い、学校嫌いの子供で、高校に入ったものの一月も行かずにやめて、定職につく気配もなくぶらぶらし、実家で持って余されていた。いっしか西方の家に出入りするようになり、技を駆使して金を稼ぐことを覚えた。もともと得意なバイクの技。新たに仕込まれたスリの技。
「よう。えらい荒稼ぎするじゃねえか」
 辻は長い身体を横たえたままでニヤリとした。青年は堅苦しく無言でうなずいた。いつも寡黙で、警戒心の強い野生動物のような目をした青年が辻は好きだった。
 隼人は“アンカー”だった。獲物を受け取って安全なところへ持ち去り、財布を始末する。新人がつくポジションだが、現行犯逮捕のスリの犯罪性質上、引き抜き役の次に危険である。誠実さも期待される。犯行後、人目につかないところで財布から二、三枚札をちょろまかしても誰にもわかりはしないのだ。
「おまえが最初に帰ってくるとは思わなかったよ」
 辻は言った。
「初めのほうでイケると、先に帰される。俺も、角田さんも」
 隼人はボソリと言った。
「あとはオマケってわけか」
 辻の言葉を受けて、
「でかいのを一発じっくりと狙う」
 隼人は説明した。西方と野津のベテラン・コンビで、ビッグ・チャンスを待つわけだ。経験が浅く、人目につきやすい体型や雰囲気の隼人と角田は一つの現場に長く置かないほうがいいのかもしれない。
「どのぐらい、イケたのさ?」
 清美が犯罪者の女房らしく、おっとりした顔立ちに似合わぬ伝法な口をきくと、
「まだです」
 隼人は木で鼻をくくったような返事をした。自分の手持ちの金は勘定してあるはずだが、西方より先に女房が知る必要はないと思っているのか、全員の顔がそろい合計金額を出すまで本日のアガリはわからないという意味なのか。
 茶の間のほうから地響きをたてて、元相撲取りの角田の巨体が現れると、清美は肩をすくめるようにして店のほうへ姿を消した。
「マッキー!」
 古い安物の建材の西方理容店がぐらぐら揺れそうな大声で角田は叫んだ。
 相撲取りは——相撲取りになろうと夢みた男は、こんなににぎやかなお調子者であってはいけないのではないかと、角田に会うたびに辻は考える。
「あんだ、指名手配になってますよ。どうしちゃったんですか?」
 二つばかり年上なのに中途半端な敬語を使うのは、スリとしての辻の技量と実績を認めているせいだろうが、下手に出られると、こちらもつい威張りたくなる。
「ボリュームを下げろよ。馬鹿野郎。これから俺の歓迎パーティーをやるってわけじゃねえだろ?」
「やってあげてもいいですよ。ねえ、見てたでしょ?今日はいい景気でしたよ」
 角田はうきうきと言った。
「馬鹿野郎」
 と辻はもう一度繰り返した。今度は口先だけではない馬鹿野郎呼ばわりだった。同業者の華麗な仕事ぶりをあまりに見せつけられるのは面白くない。自分があまりパッとしなくて、助力を求めに来ていたりする場合は特にそうである。
 角田は、相撲部屋をクビになったあと、牛丼屋で無銭飲食をしてK札に突き出されそうになったことがあって、たまたま居合わせた西方が勘定を払ってやった。以来、忠実なセントバーナードのように新しい“親方”に仕えている。
 西方のあと、野津が最後に戻ってきた。この地味な男が席に加わると、すべて駒がそろったという雰囲気になる。
 折りたたみ式のフォーマイカのテーブルの上にそれぞれ獲物の現金を置く。威勢がいいわりに角田は持っていない。ちょっと寂しそうな顔になっている。彼は何十年西方の下にいても、ガードなどの補助的な役割しか果たせないだろう。彼の巨体の功罪はほぼ等しい。あまりに素直になつかれていて西方も振り切れないのだろうが、一家に不可欠の人材ではない。隼人は違う。あれは鍛えれば使える。
「二百二十一万八千とんで三十二円」
 隼人は自分で数えた金額を口にした。札束と小銭は三つの山に分けてあり、入れておいた封筒に薄く鉛筆で書かれた数字を几帳面に読んでいく。
「4R前、投票場の財布、現金六十一万四千三百三十五円、当り車券一枚、配当六千三百二十円の二万張りで百二十六万四千円、計百八十七万八千三百三十五円。4Rレレース中の財布三個、まとめて、三十三万九千六百九十七円。以上です」
 獲物の山分けというより、経理報告みたいだと辻は呆れた。
 西方と野津は金額については、そんなに細かい報告はしなかった。総計をざっと述べただけ。西方が十二万。野津が二十九万。しかし、仕事の手順と成果はそれぞれ詳しく語った。
作者: koume88    时间: 2012-2-6 11:29
「4Rのあと、A2の払戻窓口を張ってて、例のラーメン屋な、万張り六十三万て見当のジジイを見つけたんだが、警備の野郎が二人もずっとマークしてて手が出せなかった。マークがきつくなってた。やれないこともないが今日はまあまあの収穫があったから無理はしない。ジジイは6Rで半分くらいスッちまって、頭に血ィのぼって騒ぎだして、やかましくて、みんな見やがるもんで、あぶねえからよそいったよ。でも、惜しいカモだから、野津に張らせた」
「9Rの前、A1の投票所からつけて、スタンドに向かう途中でやった。じいさん、ズボンの尻ポケットとジャンパーの右のハンド・ポケットに札をナマでつっこんでて、追い越しざまにうまいこと両方盗れた。全部じゃないけどな、盗れるだけ盗ったよ」
「ついてねえよな?ついてるくせによ?」
 西方は皮肉ると豪快に笑い出した。
「どうやって……?」
作者: koume88    时间: 2012-2-8 09:36
 興味で目を鋭い光らせて隼人が尋ねるので野津は手真似で簡単に実演してみせた。
「ここに新聞、ここから、こうやって手を持っていって、こう、それで、こう……」
 野津は進学塾で英語を教えている。優秀な教師なのではないかと辻は思う。スリになったきっかけも西方との縁も辻は知らない。尋ねたことはあるが西方が言葉を濁したので、それ以上追及していない。
 西方一家はみんな副業を持っている。角田も、週日の半分くらいは日雇いの土木作業に出かけている。西方すら、気が向けば、客の髪を洗ったり、髭を剃ったり、蒸しタオルを用意したり、無駄話をして嫌がられたりしている。
 無理な仕事をしないように、と西方は常々言っている。捕まらないスリが一番うまいスリだと言っている。しゃくにさわる台詞である。俺は捕まったよ。一人で電車に乗って、ちまちま稼ぐだけで、二百万を越える獲物なんてめったにお目にかからないよ。でも、そんなパート感覚の仕事はしたくない。辻はぼんやりと考え込んでいて、西方が話しかけているのに気がつかなかった。同じ言葉を繰り返したらしい。
「一緒にやる気になったんだな?」
 辻はぎょろりと目をむいた。
「だって、そうだろ?おめえさんがわざわざ見にくるんだからよ」
「悪かったよ。ムショぼけらしい」
 辻は謝った。
「現場に行くこたなかった。最初からここ来りゃ良かった」
 見たい気持ちもどこかにあったんだ、と辻は思った。保護が必要な天然記念物のように正統で古典的なスリの仕事を。本物のチーム・プレーを。
 じゃあ、何かい?というふうに、西方は辻の顔をじろじろ見ていた。仲間にはならない、だが、ただで手を貸してほしい、という頼みは、はなはだ虫がいいように思われた。それでも、辻は話した。
「まだ、そんなガキどもを追っかけてんのかい」
 西方は気にいらなそうに首をぐりぐりまわしながら言った。
「気が済まねえんだ」
 辻は低いがはっきりした声でささやいた。
「たいがい、しつけえな」
「忘れっぽい奴にゃ向かないよ、この仕事」
「まあ、そうだよな」
 西方は笑った。
「で、どうすんだよ?おめえさん、そいつら、見つけたらさ」
 ひどい目にあわしてやる、と考えていた。毎日、毎日、もう二カ月近くも考え続けていた。空想上ではもう何千回とあの暴力少年の横っ面に一発食らわせてザマアミロと叫んでいたが、現実はザマアミロのザまでも言えないうちに身体中の骨をガタガタにされるに違いなかった。暴力で勝てる相手ではない。
「その連中を現行犯でとっつかまえて、所沢に渡してやるかい?」
 黙ったままでいると、西方が提案するような口調で質問した。
 所沢というのは、警視庁捜査三課のベテラン刑事で、辻の天敵だった。こいつらがスリを働きました、とガキどもを所沢のもとへ引っ張っていったら、どんな顔をしやがるだろうと辻は考えた。パッと見は高校生くらいの普通のガキだ。こちとらは前科一犯、本職のバリバリだ。
「所沢は喜ばねえだろうよ」
 辻は渋い顔で言った。
「俺のほうにワッパかけるかも」
 連中を現行犯で逮捕するにも、巧妙な罠か、卓越した腕力が必要だった。
「俺がジャムみたいにグチャグチャにつぶしてあげますよ」
 角田が突き押しと張り手のポーズをとっておそろしげな申し出をした。
 暴力に暴力で対抗するのは、辻の流儀に反していた。あの武道の心得のある少年を元相撲取りにノシてもらって、ハイ終わりというわけにはいかない。しかし、どこかで角田の力を借りなければならないだろう。あの少年が暴力を振るわないように押さえつけておいてもらうために。ボスはたぶん彼ではない。辻が本当に用があるのはボスだった。まさか、あの抜き取り役の女の子じゃないだろうが。
「あいつらをぶっつぶしたいとか、パクりたいとか、それだけじゃねえんだよ」
 辻は西方の顔を見て言い出した。
「あいつらが何やってるのか知りたいんだよ。マジでうまいんだよ。きれいなチーム・プレーをする。あんたらみたいにさ」
 最後の一言が西方の気持ちを動かしたようだった。気持ちを害されたというべきか。
「たまたま、じゃねえのか?」
 西方はぶすっとした顔でいうと、現金がドサリと積まれたテーブルを見やった。これだけの稼ぎができるのか、とでも言いたげに。
「万引きならわかるよ。たまたま、うまくいくこともあるだろうさ」
 辻はそう言って、ちょっと言葉を切った。
「でも、スリだぜ。チームのスリだぜ。全員、どう見ても十代だ。学校や塾やゲーセンが教えてくれるようなぎ技じゃない。誰が教えたんだ?教えた奴は絶対プロだ。腕のいい本物のプロだ。俺たちが知ってるような奴だ」
「ふむ」
 西方はうなずいた。
「ま、おまえさんがそこまで言うなら、昔の知り合いに少し当ってみようか」
「頼むよ。おやっさん」
 辻は頭を下げた。欲しいのは西方の人脈と情報、そして、いざという時の角田のバカ力。目的は果たしたはずだが、どうも、あまりすっきりしなかった。じれったい。自分の思いが皆に伝わっていない気がする。皆は、あのガキどもを見ていないから、わからないのだ。なんと言うべきか、あの一種異様な、あのまがまがしさ!少年少女の皮をかぶった、巧みなスリの技と遠慮のない暴力。プライドの問題だけではない。自分がとらわれているのは、それだけではない。
「何かわかったら連絡する。どこに掛ければいい?おめえが今いるとこに電話はあるのかい?」
 西方に聞かれて、辻は一瞬返事につまった。電話は、ある。昼間薫の占い用の客間に置かれた年代物の電話が。
「泊めてもらってる奴の仕事場の電話なんだよ」
 辻は言った。
「俺から掛けるよ。ちょくちょく連絡入れるから」
「女か?」
 西方の問いに辻はまた一瞬考えた。迷うこともなかったが。すぐに、きっぱりとかぶりをふった。
「男だよ」
 西方は疑わしげにしばらく辻は見つめていた。それから、ぼつりと口にした。
「なんで帰んねえんだよ?」
「事件の最中に?」
 質問に質問で答えると、なんの事件だってんだよと西方はつぶやいて鼻で溜め息をついた。
「これが終わらないと堅気にはなれないね」
 辻は言うと。
「別にいいじゃねえか。無理に堅気にならなくても」
 西方は断固たる口調で言い切った。
「おめえさんはいい腕があるんだ。要は稼げりょいいだ。生活できりょいいんだ。そうだろ?」
 辻はうなずくよりは唇をすぼめてみせた。早田家の連中が同じことを言うかどうか。
「なあ?」
 西方は辻の目を正面からしかととらえると、かつて聞いたことがないような糞真面目な声でささやいた。
「おめえ、早いとこ、さっちゃんを嫁にもらってやれよ」

作者: koume88    时间: 2012-2-8 15:48
5
 今やインタネットが各種の占いのニーズに応えてパソコンの画面に性格診断やら本日の運勢やらをすらすらと呼び出すご時世なので、生身の占い師としては客の五感に強烈にアピールする演出を工夫する必要があった。オカルト色を強めるか、リラクセーションの路線で行くか、昼間薫は迷っていた。むろん、ケース・バイ・ケースなのだが。神秘と刺激を求めて来る客もいれば、慰めとくつろぎを欲してやまない患者もいる。
 アイドル路線にも当面活路を見出せるかもしれない。マルチェラは北キタを始めとして芸能人の顧客をかなり持っていた。赤坂という芸能色の強い土地柄と趣味のギャンブルなどを通じた人脈によるものもある。最近、アイドル雑誌で、ゲストの誌面占いの連載を引き受けてから、客の年齢層がずんと下がってきたのを感じてきた。「赤坂の姫」にアイドル御用達というブランドが加わるのが良いことなのか悪いことなのか、アルチェラにはまだわからなかった。
「で、「スペシャル6」のミキは、恋愛相談とかするんですか?彼氏の名前とか言うんですか?」
 三人掛けのソファーに座った三人の制服の女子高校生のうち、一番ご面相の悪いのが、先ほどかあ懲りもせずに質問をぶつけてくるので、アルチェラはついに曖昧な返事をやめた。
「医者や弁護士と同じでね、私は占い師にも守秘義務があると思うのですよ」
「なにそれ?」
「プライバシーの保護です」
 保護すべきプライバシーがあるとは見えない、鳥類を思わせる尖った顔と痩せた身体の少女は遠慮なくチッと舌打ちました。
「一時間のお約束ですが、どなたのお話をうかがいましょうか?」
 マルチェラはゆkっくりとうながすように尋ねた。
 鳥顔の少女は、隣に座っている、丸々とした身体にオカッパの髪がまるで金太郎のような少女と顔を見合わせた。
「私が予約した松崎でェ」
 鳥顔は威張った声で名乗った。
「とりあえず、このコなんだけど」
 と金太郎を肘で小突いて、ずるそうな表情をさっと浮かべた。
「ええと、岡田が三十分占ってもらって、それで、そのあと、私が三十分。学割で三千円ずつ払うってことでェ」
 占いの仕事は時給六千円というわけではなく、一人観るのと二人観るのとでは労力が倍違う。対話がメインで低料金の街占ならそんな気難しいことは言わないが、きちんとカードを並べる宅占では願い下げた。
 少女はもう一人いる。量の多い長い髪の毛に埋もれているような、下ばかり向いている女の子。
「そちらの彼女は?」
 マルチェラは念のために尋ねた。三人目に十分のオプションな要求されたら困る。
「え?このコォ?」
 松崎はなんて馬鹿なことを聞くのだというように眉を吊り上げた。
「別に悩みとかないし。ただ、ついてきただけで。ね、永井、帰れば?」
 最後の言葉は当人に向けられ、永井と呼ばれた少女はビクリと身をすくめてソファーから腰を浮かせた。
「三人、二十分ずつ。でなければ、一人が一時間としましょう」
 マルチェラは嫌がらせのように提案した。松崎のあまりに他人の思惑を考えない言動に腹が立ったためだが、言ったとたんに後悔した。この年齢の少女たちの、特に学校という狭い世界の力関係をみくびってはいけない。松崎は露骨に気分を害した顔をし、永井は怯えた様子で挨拶もせずに立ち上がって帰ろうとした。
「座れよ」
 岡田が永井の手を乱暴に引っ張って男の子のような口調で命令した。
「おまえ帰ったら、あたしら二人、観てもらえなくなったら、どうするんだよ?」
 どうするんだろう、とマルチェラは思った。殴ったり蹴ったりすることはないだろうが、しかし、今時の普通の格好の中高生を甘く見てはいけない。
作者: koume88    时间: 2012-2-8 16:17
 カモミール・ティーを出して、ソファーでしばらく雑談した。何を占ってほしいのかを尋ねる。その質問を邪道とする占い師もいるが、マルチェラはそこまで見栄を張らない。会話の間に、客の性格や問題の背景について情報を仕入れる。客がおしゃべりだとすすんでしゃべる。寡黙な場合は、口調、表情、身振りなどから推察する。
 金太郎は片恋のアプローチ法、鳥顔は自分の女優としての素質を知りたいそうだ。三人とも、マルチェラが名前を知らない私立高校の一年で演劇部だという。永井は占いのテーマを尋ねても答えなかった。膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、うつむきかげんだった顔をいよいよかたくなに傾けて、こちらを見ようともしない。かわいそうに。これは、松崎と岡田にせいぜいリップ・サービスをして気をよくさせて、永井への攻撃の鉾先を鈍らせなければ、とマルチェラは心に決めた。
 ティー・タイムの情報収集が終わると、客とともにソファーから窓際のカード・テーブルに移動して占いに入る。ここから先は、すべてが儀式である。
 円形のカード・テーブルは直径一メートルほどの大きさで背が高い。やはり背の高い木のスツール二つとともに、神宮前のカフェのお古を頂戴してきた。黒い長いクロスで覆い、月の満ち欠けの浮き彫りのある白木の箱を中央にきっちりと置いている。
 客をスツールに座らせると、テーブルの隣の丸い木のワゴンの上の真鍮のハーブ・キャンドルに点火する。タロット占い師はよく香を薫くが、昼間薫は強い匂いが苦手なので、ハーブ・キャンドルを好んで用いる。水を張った小さな器にエッセンシャル・オイルを数滴垂らし、下から蝋燭の火で暖めて香りを流す。今日はラベンダー。
 客の向かい、窓を背にした、もう一つのスツールに自分も腰掛け、厳粛な手つきで、白木の箱の蓋を開けて、タロット・デッキを箱から取り出す。空いた箱のみを、上段にキャンドルののったワゴンの下段に収める。
 一人の少女のカードが並べられている時、あとの二人はやや後方の左右に陣取り、まるで護衛のようにかしこまって立って眺めていた。
 昼間薫はトランプ・ゲームのちょっとしたイカサマの手口に通じているが、それを応用してタロット・カードを偶然のように思い通りに並べることもできた。完璧にやるためにはあらかじめ仕込んでおかなければいけないが、いきなりでも多少のトリックはできる。ただし、トランプ・ゲームでイカサマをやってもバレさえしなければトラブルはないが、占いでイカサマをやると、どうも、そののち体の不調をきたすのだった。強烈な頭痛、胃の鈍痛、全身的倦怠感など。その時だけは、昼間も占いの神様の存在を信じてしまうのだった。
 松崎と岡田にはイカサマをするまでもあるまいと判断した。タロットのことは詳しくなさそうだ。出たカードは予想通り平凡で否定的なものだったが、拡大解釈をして、おおいに期待と希望を抱かせてしまう。口先だけのイカサマは心も体も痛まない。
 そして、永井。
作者: koume88    时间: 2012-2-10 11:58
「あなたが本当はどんな人なのか。思いがけない発見があるかもしれなせんよ」
 占いのテーマを語らない永井に、あなたの内面探索をしますと予告すると、少女は初めてふいと顔をあげた。すっとうつむいていたからわからなかったがずいぶん大きな瞳だった。黒目の分量が多すぎて表情がぼやけたような目だ。
 マルチェラは一瞬息を止めた。非常に強い感情の波動を感じた。永井の無言と無表情な目の奥に、隠されている、押し潰されている、何かの大きな感情?
 全身が緊張し、神経がとぎすまされ、集中力が高まっていく。一対一、気合で渡り合うという点で、占いは武道に似ている。ただ、自分の気合で相手を打ち負かすわけではないので、武道というより波乗りのたとえのほうがいいかもしれない。相手の感情や思念の波を追いかけて全身を浸して、翻弄されないように飲み込まれないように、バランスをとって運ばれていく。
 永井がシグ二フィケイターを選んだ時点で、占い師はサーフボードが足からするりと離れるのを感じた。冷や汗が出る。悪い予感だ。何かがある。この少女には何かがある。それも、大変良くない何かが。
 シグニフィケイターとは、質問者や質問内容を象徴するカードのことだ。占いに先がけて一枚、客に選んでもらう。
 タロットの一デッキは通常七十八枚で、一般に有名な大アルカナ二十二枚、トランプに似た四種のスートの数札と人物の絵札の小アルカナ五十六枚である。
 アルチェラは、シグ二フィケイターに数札は使わない。三十八枚のカードを円形テーブルに並べ、気になる一枚を選んでもらう。好きなカード、目が魅きつけられるカード、直感で自分と結びつきそうなカード。タロットに詳しい人ならカードの意味を考えて選んでもらってもいい。
 永井は初め気がなさそうに、ただぼんやりしており、「早くしなよ」と松崎にせかされると、急に集中力を増して、ぱっと一枚をピックアップした。
 大アルカナの「吊された男」。
 シグニフィケイターにこれを選ぶ人は非常に珍しい。過去にあったかどうか、マルチェラは思い出せなかった。
 カードの絵は、若い男が木製の絞首台に片足をくくりつけられ、宙に逆さ吊りになっている。マルチェラの使う古典的なマルセイユ・タロットは、子供の絵のように素朴で稚拙な絵柄なので、二本の木の股に棒を差し渡した絞首台はリアルなものではないし、吊されている男の表情はのんきでどこか楽しげである。人をおちょくっているような奇妙な冗談のような、不思議な芸当のような……。
 それでも、やはり、不吉なカードである。殉教のカードなのである。死や悲劇をそのまま暗示するものではないが、光よりは闇について語るカードである。
 なぜ、「吊された男」なのだろう?少女永井はタロットのカードの知識があるのだろうか。
「どうして、このカードを選びましたか?」
 マルチェラはなるべくさりげない口調で尋ねてみた。永井はまたぼんやりと押し黙っていたが、やがて、ぽつりと、
「さかさまの感じが……」
 とつぶやいた。思ったよりも低い声だった。思ったよりも率直な響きがする。ひねくれたタロット・マニアではない。彼女の中の何かが「吊された男」と共鳴するようだ。さかさまな感じが——好きなのだろうか、快いのだろうか、気に掛かるのだろうか。
作者: koume88    时间: 2012-2-10 14:31
 木と木の間に片足でぶらさがって、さかさまになって、らくらくと、ただ世の中を眺めていたらどんな気分だろう、とマルチェラは考えた。「吊された男」について、そんなふうに考えたことは一度もなかった。
「吊された男」を手元に残して、カードを集め、よけておいた四十枚を加えて七十七枚にして裏向きにざっとテーブルに広げた。シャッフル(カードを混ぜる)してくれと永井に言う。松崎たちのするのを見ていたので、両手でのろのろとかきまわす。すぐにやめてしまった。カードに触れるのがいやだという雰囲気である。
——やめましょうか?
 言葉が喉元まで出かかった。
 カードのカッティングを始めた少女の手さばきは、ゆっくりだがなめらかだった。二人の友人のようにカードをこぼしたり裏返したりすることが一切ない。カードを扱い慣れている?なぜ?もちろん、トランプ・ゲームが好きなだけかもしれない。手先が器用なだけかもしれない。
 カッティングを終えてカードを受け取る時永井の目をじっと見つめた。一瞬ビクリと肩を揺らしたが、大きな瞳の表情は相変わらずぼんやりとしていて、空でも見上げるように漠然と占い師の顔を眺めている。
 なぜ、その時、中止しなかったのか、マルチェラは自分でもよくわからなかった。好奇心とおせっかいは職業病のようなものだが、もう一つ、運命的な偶然を信じてしまうのも占い師の性だった。永井が自分のところにやってきたのは、運命によって定められた何らかの必然性があるのではないか——?
「あと六枚、カードを使います。上から順番に取ります。それでいいですか?」
 七十七枚のタロット・カードを永井に示してみせた。すぐにうなずかないので、
「もう一度カッティングしますか?自分で好きに抜き出してもいいです」
 永井はのろのろとうなずいた。マルチェラがカードを渡そうとすると、のろのろとかぶりをふった。松崎でなくても、いらつきそうな煮え切らない少女だ。
 マルチェラは上からそのまま六枚取った。ユングのスプレッドをする。一枚目は先ほどの象徴カード。その右斜め上に二枚目、その隣に三枚目、象徴カードの右に四枚目、隣に五枚目、象徴カードの右斜め下に六枚目、隣に七枚目。
 オープンにして並べ終わると、まずカードの顔ぶれを見て全体的なイメージをつかむ。あやうく呻くところだった。一枚をのぞいて全てが大アルカナだ。大アルカナはどれも強い意味を持つカードなので、スプレッドに多く現れる時は、その占いを重視しなければいけない。大アルカナが多い時は運命が“決定的”であり、小アルカナが多い時は“流動的”とも言われている。
「特にテーマを設けない占いの場合、私はこのスプレッドをよく用います。あなたがどういう人間であるのか。カードによる内面的な探索です」
 マルチェラはゆっくりと話し始めた。
「この「吊された男」が、あなた自身を表します。セルフと呼びます」
 一枚目のカードを指差した。
「このカードに関連して、他のカードを読んでいきます」
 むずかしいのはカードをいかに読むかだけではなく、客にどう伝えるか、そして今のようにあまり好意的ではない野次馬がいる場合はさらに細かい配慮を必要とする。
 二枚目、三枚目のカードを指差して、
「この位置のカードは、あなたがどのように育ってきたか、どんな教育をされ、どんな価値観を作ってきたかを示すものです。アニマと呼びます」
「「愚者」の逆位置と「月」。もともとのあなたは、外からの影響を受けやすい、とても柔らかな心の持ち主です。無防備でそれゆえに不安定で、多くの声に耳を傾けてきた結果、今は混乱と不信の中にいます」
 占い師はわざと断定的な物言いをした。しかし、永井は表情を変えずに、ただじっと二枚のカードを見つめている。
 アニムス、と四枚目、五枚目のカードを呼んで、
「これまでの教育によって、現在のあなたが日常的にどんな行動をとるかを示します」
「「戦車」の逆位置と「塔」」
 一度言葉を切って笑顔を作った。
「ちょっと物騒なカードが出ましたね。この取り合わせには破壊の匂いがあります。あなたは何か日常的な行動で“暴走”しているかもしれない。行き過ぎなところがあるかもしれない。あるいは、何か思い切ったとんでもない行動をすることによって、現状を打破しようとしているのかもしれません。隠れた衝動かもしれません」
「マジ?」
 と松崎が反応した。
「永井、いきなりキレるかもしんないって」
「おとなしいヤツのほうがヤバいよね」
 と岡田が同調した。
 永井は頭を半分後ろにネジ曲げ、友人がどこまで本気で言っているかを探るような目つきをした。松崎が鼻を鳴らして低く笑った。その蔑むような笑い声にむしろほっとした気配を見せて永井は肩を落とした。
 マルチェラは突然わけのわからない不安に襲われた。こんな通り一遍のリーディングでいいのだろうか。何か大きな情報を見落としていないか。
「最後の二枚は、チャイルドといい、あなたが真に人生に求めているもの、必要としているものです」
「カップの2、「恋人たち」の逆位置」
「カップ——聖杯は人間の感情を表すスートです。一枚きりの小アルカナなので、逆に大切なカードと見なします。「恋人たち」は選択のカードと呼ばれていますが、この場合、人間関係を意味するように思います」
 カップの2は愛や友情のカードだが、永井という少女が愛や友情を求めていると口に出すのは、なぜか残酷な気がした。
「あなたは、あなたのまわりにいる人々をとても大切にします。仮に困難な状況になっても断固として守り抜こうとする……。あなたにとって、友人や恋人との関係が何よりかけがえのないものなのです」
「永井にカレシなんていないよ」
 岡田が避難するように声をあげた。
「恋人がいるかいないかはわかりませんが、恋に関する少し複雑な暗示があります」
 永井は急にイヤイヤをした。かぶりをふるというより、まさに子供がダダをこねるような幼い仕種で初めて意思表示をしてみせた。
「そんなこと……ない」
「当んないってサ」
 松崎が言った。マルチェラは笑った。読みようによければ、マゾヒスティックで無鉄砲な性格の永井が、もつれた恋愛関係による破壊的な暴走をしていることにもなるのだ。
「アニムスの「戦車」と「塔」が示す破壊のイメージについて、もう一度違うスプレッドで試してみましょう」
 とマルチェラは申し出た。破壊の暗示がただの願望に過ぎないのか、現実に始まっているのか、どの程度のスケールなのか。すげてが思い過ごしなのか。
 永井はまたイヤイヤをした。
「もう、いい。いらない」
「いいんだって。もし、時間余ってるんならあたしがもう一回聞きたいこと……」
 松崎が割り込むように言い出した。
 気になる子だとマルチェラは思い、顔を伏せてしまった少女のほうをじっと見つめた。
作者: 口罩面    时间: 2012-2-13 12:13
楼主不能发个TXT之类的版本么..
作者: koume88    时间: 2012-2-13 14:58
口罩面 发表于 2012-2-13 12:13
楼主不能发个TXT之类的版本么..

手打的,没有TXT。。。。扫描出来的又不清楚~~~~
作者: 口罩面    时间: 2012-2-14 21:05
koume88 发表于 2012-2-13 14:58
手打的,没有TXT。。。。扫描出来的又不清楚~~~~

soga、辛苦了=3=
作者: koume88    时间: 2012-2-15 13:11
口罩面 发表于 2012-2-14 21:05
soga、辛苦了=3=

打つスピードを練習しながら。。。(^0^)/頑張ります。
作者: koume88    时间: 2012-2-15 14:33
6
 二階の北の部屋の電灯のスイッチを手で探りながら、日が短くなったな、と昼間薫は思った。まだ六時半にならないのに、こう完全に真っ暗では……。
 蛍光灯の白々とした光が占い師マルチェラの姿を化粧台の鏡に映し出した。この衣装を一度脱いで鞄につめて「なかもと」でもう一度着替えるのは実に面倒だった。えい、このまま行ってしまえと、三度に一度は考える。家の門のあたりで三沢ににらまれるのがいやだというのではなく、夜でもこうこうと明るい一ツ木通りを横切るのが恥ずかしいというのでもなく、ただマルチェラの姿であまり日常空間をうろつかないように努めているだけだ。マルチェラが存在するのは、この世で二カ所だけ。三沢屋敷の客間と「なかもと」の脇の路地裏。因縁のある所にだけ現れる幽霊みたいなものである。
 白いドレスを脱いで、半裸のままで、ていねいにたたんでいると、化粧台の鏡の中の闇で何かが動いた。悲鳴をあげずに済んで幸いだった。同居人が帰宅していることをまったくしらなかったとはいえ、着替えを見られたくなかったら、ただ戸を閉めれば良いのである。
「失礼」
 昼間薫は南の部屋の暗がりにむかってつぶやくと戸襖を静かに閉めた。
 きっかり五分後に外出の示度を整えて、その戸襖を押し開き、やはり隣の部屋が暗く、ひっそり静まったままなのを見て、少し迷いながらささやくように声をかけた。
「辻くん?寝てるの?」
 同居人は小鳥のように規則正しい生活習慣を身につけているが、いくらなんでも眠るには早すぎるだろうと考えた。
「具合悪いんじゃないでしょうね?」
 万年床に転がっている長身の輪郭は否定的な音声をたてた。そして、腹筋運動のようにむっくりと上半身を起こした。
「マッキー!」
 呼び名を訂正されるのは初めてではなかったが、昼間はどうしても、そのアメリカンにしてライトフルなフィーリングにすんなりと馴染めなかった。
「オマワリだって俺を辻とは呼ばないよ」
「そうでしたね」
 曖昧に返事をして逃げ出そうとしたが、マッキーこと辻牧夫が眠りもせず病気でもなく暗がりでいったい何をしていたのだろうと不思議になった。完全な暗がりではない。鎧戸を開けたままの南の窓からはミュージカル劇場の広告塔の派手な明かりがちらちらと差し込んでくる。辻牧夫の顔は時折青く電飾される。妙にまじめくさった顔をしている。憂鬱そうな、といってもいいくらい。
 昼間はまた迷った。別に急いでいるわけではない。しかし、同居人の私生活にこれ以上踏み込みたくはない。
「何か、まずいことでも……?」
 それでも結局は問いかけてしまう自分の性格が嘆かわしかった。
「——結婚、したことある?」
 予想外の話題だった。
「いえ」
 昼間は小さくかぶりをふった。
「考えたことは?」
「それは、あります」
「でも、やめちまった——」
 詳しい話をうながすというよりは、過去の恋を悼むような低いつぶやきに心を打たれて、昼間は南の部屋の入口近くの畳に腰を下ろした。
「お粗末な話でね」
 ゆっくりと口を開いた。
「二人とも若くて未熟で。大学を出たばかりで……」
 昼間の人生の流れを大きく変えた恋の終末である。老女マルチェラに一度話しただけで、以来、自分からは口に出したことがない。
「ダメになった恋というのは、言葉にすると、どれも、どことなく似ていて陳腐ですね」
 占い師として数知れぬ失恋に付き合ってきた昼間は醒めた口調でそう語った。それ以上語るつもりはなかった。
「どんな女?」
 しかし、スリの青年が、およそ無神経とも言えるざっくばらんさで尋ねてきたので、
「小さい女」
 昼間薫はそれだけ答えて微笑んだ。微笑んだつもりだったが、唇のひきつりのようなものに終わったようで、部屋が暗くて助かったと思った。
 辻は、ふうんと言ったきり黙っていた。好奇心があるのかないのかわからない男だ。
「まあねえ」
 しばらくたってから、ぽつんと言い出した。
「俺も自分よりデカい女は嫌だな」
 昼間薫は今度は本格的に微笑した。
「目立つカップルになるでしょうね」
 それから、ふと気持ちを変えて言い継いだ。
「私たちも結構目立ったようでした。彼女は百四十八センチしかなかった。同じ法科のゼミで、そこだけ小学校だと」
 相手がニヤリとするのがはっきりと見てとれた。窓の外の街明かりと、暗がりに慣れてきた目の力を侮ってはいけない。
「なんで逃げられたのさ?」
「逃げられた——と、なぜ思うんです?」
「わかんねえけどさ。逃げた話より、逃げられた話のほうが面白いでしょ」
 昼間薫はその一言に呆れるあまり、警戒心の最後の一かけらを失った。
「彼女の愚痴話を私がちゃんと身を入れて聞かなかったからです」
「そりゃ、ないでしょう」
 辻はあっさりと言い放った。
「うるせえって怒鳴ってやれば良かったんだよ」
「そうかもしれないですね」
 昼間は吐息のように静かに言った。
「本当にそうかもしれない」
 その声の調子に、相手がわずかに目を見開くのがわかった。
「私はうるさいって言えませんでしたよ。代わりに、電話のコードをひっこぬきました。会社の人間関係の愚痴なんて毎晩毎晩聞きたくなかった。自分の司法試験のことで手一杯で。そうしたら、彼女、果物ナイフで手首を切った。未遂でしたけどね。狂言かもしれませんけど。でも、そこまで追い詰められていたのをぜんぜん気づかなかった」
 人の話を聞くというのはむずかしいものです、と昼間は自分に言い聞かせるようにひっそりと付け加えた。
「そういう女は何度でもやるよ」
 辻牧夫はつぶやいた。
「相手があんたじゃなくても、たぶん、やるよ。自殺とか、そういうの」
「そうかもしれない」
 昼間は言った。
「でも­——」
「気にすることないんじゃないの」
「中本は」
 昼間はやはり同じゼミだった弁護士の友人の名前を持ち出した。
「あいつは、私が後悔とヤケのあまりに、司法の道を踏み外して、彼女に殉教したと信じていますよ。でも、そうじゃない」
 きっぱりと断言する。
作者: koume88    时间: 2012-6-5 11:04
「なんだかね、その事件以来、世の中が違ったものになってしまったんですよ」
 話がやめられなくなってきた。
「私は優等生だったわけです。父親に絶対服従の。父と姉の人生観に支配され続けていた優等生。それで、逆に、彼女のエキセントリックなところに魅かれたんですが、その本物のレジスタンスではない。自分の鈍感さもたちらなく嫌でしたが、彼女の弱さもショックでしたね」
「昼間さん」
 辻はかぶりをふった。
「俺は大学で法律の勉強をしてないから」
「法学じゃない。心理学ですね」
「よくわかんねえけど、もうお勉強はやめちまったってこと?」
「そう。法律のお勉強はやめました」
「で、博打」
「人間研究です。カードによる人間学のお勉強。タロット・カード。トランプ・カード」
「極端だねえ」
「そうですかね」
 昼間は言い返した。
「もともと、こういう人間なんですよ。化けの皮が剥がれただけです」
 辻は首をかしげたが黙っていた。
「あなたがうらやましい気がする」
 昼間はとがめるような口調で告白した。
「犯罪者だが、実に首尾一貫している」
「そんなに簡単じゃないよ」
 辻は反対側に首をかしげた。
「俺だってね、色々とややこしいんだよ」
「結婚——という話でしたよね」
 昼間はふりだしに戻った。
 辻は、もういいよというふうに首をぐりぐりと振りまわしたが、
「結婚したい人がいるんですか?」
 自分ばかりしゃべらされてはたまらないとばかりに昼間も追及した。
「俺は」
 辻は溜め息をつくように言った。
「ぜんぜん考えてねえんだけど。まわりが勝手にね」
 キリッと歯を食いしばった。
「だってよう、ぜんぜんつきあったりするような女じゃないんだせ。一緒に育ったんだぜ。なのにさ、みんな、そういう目で見やがるんだ。言われたのは初めてだけどさ」
「その、相手の人に?」
「違うさ。外野だよ」
 それで、暗がりで沈没しているわけか。いっぱしの遊び人風の悟った口を叩くわりに、とんでもない純情野郎だ、と昼間はおかしくなった。
「うらやましい話だ」
 と昼間は言い、その言葉に辻が眉をひそめる様子を見て、一度ならずニ度までもうらやましいと口走ってしまった自分を少しさびしく感じだ。
「本当にね。祝福しますよ」
 素直に羨望をあらわしたつもりだが、どこか皮肉な響きがあり、自分でも驚いた。
「よしてくれよ」
 辻は力なくつぶやいた。彼の困惑は思いのほか深いもののようだった。
作者: shgjhcqqq    时间: 2012-6-5 11:58
感服の至り、大変ご苦労さまでした。
頑張ってください。
作者: koume88    时间: 2012-7-17 10:37
 三沢屋敷を出た時に門の前ですれちがった小柄な——自分よりは大きいが——革ジャンの青年が一瞬まじまじとこちらを見つめたようだ。見慣れない青年だった。しかし、昼間は特に気に留めなかった。赤坂の街には見慣れない青年がうようよ漂っているし、性別をしりたそうに好奇の眼差しを向けられるのは珍しいことでもなかった。
 夜風はひやりとしていた。長い革コートを通し、薄いウールのセーターを通し、下着替わりのTシャツを通し、素肌を通して、しんしんと血の中にしみこんでくるような十月末の夜気だ。一ツ木通りの街灯の光もネオンサインも車のブレーキ・ランプもショーウィンドウのガラスも宝石のように華やかに透きとおってきらきらしている。
 古いデュエット・ソングのフレーズにもなったこの通りは、テレビ局とナイト・クラブで有名だが、間口の狭い肉屋や魚屋や乾物屋や和菓子屋が点在する商店街でもある。日常と非日常のちゃんぽん。並行して走るみすじ通りが一番飲み屋街の色彩が濃く、さらに並行する田町通りはここ数年でファッション・プラザや洒落た造りの飲食店ビルが立ち並び急にきらびやかでスマートになった。長引く不況で高級クラブや料亭に陰りが見え、社用族や政治家や芸能人という金回りのいい大人の街から、普通の若者向けのプレイ・スポットに変わりつつあるのだろうか。街の毛細血管のような路地に店を開いて占いなどをやっていると、そんな変化が敏感に感じ取れる。若い客が増える。浅い悩みや期待が語られる。そう。ニ度とは来ない客が増える。
 ふと、今日の午後にやってきた三人連れの高校生のことが頭をかすめた。二人はちょうどそんなタイプだった。もう一人は——自分のことをまるで語らなかった永井という少女は?あの子もおそらくニ度とは来ないだろうが、悩みも期待も決して浅いものではなさそうだ。あの子の印象はいつまでも頭の中から消えなかった。何か、胸騒ぎにも似た不吉な感覚を覚える。なぜなのだろう。ただの内気な少女ではないか。あの子が今夜にでも人生に絶望して手首をかき切るとでもいうのだろうか。
 昼間薫は身震いした。
 もっと、ちゃんと話を聞き出しておけば良かっただろうか。たとえ、彼女を馬鹿にして邪魔にしている友人の前でも。いや、そういう問題ではない。自分は一介の職業占い師である。彼女の恋人でも家族でもない。
 まったく、昔話などするのではなかった。あの辻という男はやっかいだ。あの男と一緒にいると、時々、自分の言動や感情の流れの予測がつかなくなる。行きずりの他人として日常を共にしている気軽さ。そして、あの男のいかにも小悪党らしい、勘の良さ、したたかさ、気取りのなさ、のんきさ。ついつい引き込まれてしまう。
 彼の言葉には不思議なくらい虚飾がなかった。
——気にすることないんじゃないの。
 中本にも姉にも何度も言われて、その度に反発と嫌悪を覚えた言葉が、辻牧夫の口から彼の声にもせて差し出されると、まるで違った軽さと重さをそれぞれ持って心の奥にすとんと落ちていくような気がした。
 当時はともかく、五年の月日が流れた今は毛ほども気にしていないつもりだったが、そうでもないのかもしれない。罪の意識というほどのものではない、ささやかな自責の念が、表層意識からは巧みに追い出されて、深層心理に溶け込んでいるのだ。
 あれ以来、真剣な恋はしていない。父に勘当されて外国をふらふらしていた時に幾つかの軽いアバンチュールはあったが、帰国してからは、私生活の上でも彼は常に占い師マルチェラであった。性を超越し、ストイックである。どんなに優しく接しても、決して心の素顔をさらすことはない。
 自分が不幸だとは思わない。今のまま、川に浮かんだアブクのようにふわふわふわふわと流れつづけていくのがいい。時にはパチンとはじけるだろう。でも、また、すぐにプクリと生まれてくるだろう。
 ゆっくりと深呼吸とした。
 少女永井の大きすぎるばんやりとした瞳がダーク・グレーの空から、じっと彼を凝視しているような気がした。

 一ツ木通りとみすじ通りを結ぶその路地は、ネオンとネオンの光の間にたたずむ細く短い暗路である。飲み屋街の抜け道として夜はそこそこの人通りがある。料理と小便とエアコンの排気の匂いがいつもかすかに漂っている。
 マルチェラの背後は「なかもと」の板塀、目の前は共同ビルの青い横壁が続く。軒下というわけではないので、雨天即休業である。
 見台は廃材のベニヤ板で制作した。見台を覆うクロスは中元家の物置にあったピアノカバーを元にして縫い上げた黒と赤葡萄酒色のリバーシブルだ。灯りは代官山の雑貨屋で見つけた山荘風のガラスのカンテラ。自分とお客の座る二脚の椅子は「なかもと」のお古なので少しばかりがただたしている。薄いプラスチックの板と油性ペンキで仕上げた立て看板には、タロット、手相、人相、千円と書いてある。
 基本的に天候以外の理由ではマルチェラは休まなかった。行列のできる日もあり、できない日もあったが、客の来ない日というのは決してなかった。
 勤め帰りのOLの川原さんのもつれた三角関係の相談にのり、毎日家の中で貴重品をなくしてしまう老紳士の三宅さんのパテック・フィリップの腕時計のありかを考え、一人娘の中学受験先に悩む主婦の木村さんの教育戦術にとっくりと耳を傾け、狭い新築ともっと条件のいい中古のマンションのどちらを購入すべきか今日こそは結論を出してくれと迫る四十代の夫婦の正田さんに自分は物件を見ていないのだから参考意見に留めてほしいと説得する。説得が功を奏さず、占いのはずが夫婦喧嘩の仲裁になって、いささかうんざりしかけた時、路地の暗がりの中をやけに身体の大きな男が落とし物でも捜すように下を向いてのそりのそりと歩いてゆくのを目にした。男は見台の脇を通り過ぎる時、一度だけ、まるで盗み見るようにぱっと視線をこちらに投げてよこした。おや?と思う。しかし、次の瞬間、正田氏が妻ばかりいつも椅子に座り自分が立ちんぼうでいるのはまことに不公平であると大声でわめきはじめたので、マルチェラはあわてて立ち上がって自分の椅子をすすめ、巨大な男のことは忘れてしまった。
 それから、十人ばかり客を観た。常連が五人、初顔が五人。そして、しばらく客足が途絶えた。
 お客たちの悩み事、声、気配、そんな置き土産が煙のおうに夜空に消えてゆき、代わりに昼間個人の日常的な雑念がふつりと湧き上がってくる。
 ちょうど、そんな時だった。
 みすじ通りの向かい側の歩道をゆkっくりとした足取りで歩いていく髪の毛の長い女の子の姿が視界をかすめた。黒っぽいトレーナーにジーンズに小さなリュックの中肉中背のごく普通の女の子だ。マルチェラは椅子からガバッと立ち上がった。いや、立ち上がりかけて、また腰を落とした。ああいう女の子はいくらでもいる。顔が見えたわけでもない。
 まったく、と少しいらいらして思った。どうして、あの子のことが気になるのだろう。悩みの一つだって打ち明けられたわけじゃない。もっと深刻な差し迫った悩みを抱えた客ならほかに何人もいるではないか。話を聞けなかったからかもしれない、とふと思いついて嫌になった。悩みを抱えていながら、その悩みを口にしていない、そんな状況に自分は過剰に反応するのかもしれない。
 また黒っぽいトレーナーとジーンズだ!長い髪だ。同じ子?同じような人影が同じようなのろい歩調で今度は反対方向にやってくる。今度こそマルチェラは立ち上がった。見料を入れた箱もそのままで、定位置の暗い路地から白いドレスの裾をひるがえして、華やかなすじ通りへ走り出た。
「永井さん?」
 トレーナーの色は濃紺だった。
 少女は振り向いて、まさに幽霊を見たようにひどく怯えた。走り出した。赤坂見附の方向に向かって、みすじ通りをまっしぐらに逃げていく。占い師は二メートルばかり追いかけてあきらめた。低いビールだが、こんなサンダルでは走れない。第一、「赤坂の姫」が走って女の子を追いかけるなど前代未聞だ。
 そう。マルチェラはこんなふうに明るい通りに出てきてはいけない。マルチェラはこんなふうにあわてた風を見せてはいけない。マルチェラはお客の名前を叫んで呼びかけたりしてはいけない。そもそも、彼女の名前を呼んだ声はマルチェラのものではない。少し気取って神秘的に優しくささやくような占い師の声ではない。澄んでよく通る中性的な高い声——昼間薫の地声ではなかったか!




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