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标题: [山田風太郎] 忍法帖系列~魔界転生 上 [打印本页]

作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:29
标题: [山田風太郎] 忍法帖系列~魔界転生 上
山田風太郎忍法帖6
   魔界転生 上
[#地から2字上げ]山田風太郎 著



  目 次
 地獄篇第一歌
 地獄篇第二歌
 地獄篇第三歌
 地獄篇第四歌
 地獄篇第五歌
 「敵」の編制
 故山の剣侠
 |黄泉国《よみのくに》
 |黄泉坂《よみのさか》
 やるか
 ゲームのルール
 |西《さい》|国《ごく》第一番|札《ふだ》|所《しょ》
 岸打つ波

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作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:29
案内しながら、小笠原の侍|内《ない》|藤《とう》|源《げん》|内《ない》がすこしきげんが悪かったのは、足かけ五ヵ月のいくさがやっと終わって、|朋《ほう》|輩《ばい》とともに勝利の盃をあげようとしたところを、面倒な風来坊のためにその盃をとりあげられたということもあるが、この相手がどこか気にくわないせいもある。
 どこが気にくわないのか、じぶんでもよくわからない。
 年は三十三四であろう。――いや、ひょっとしたら、もっと若いかもしれない。髪を総髪にし、色白で、態度は軍師のように荘重だが、眼は若者のようにかがやき、よくうごく。しゃべり出すと、意外に|愛嬌《あいきょう》がいい。
 が、内藤源内がちょっと面白くなかったのは、浪人と名乗りながらこの男が、黒羽二重の衣服に|繻《しゅ》|子《す》の袴、こうもり羽織という、このまだ血と硝煙の匂いの残っている場所にふさわしくない、ふさわしくないどころか人をくったいでたちをしていることで、いま本人もぬけぬけといくさの見学にきたといったが、いったいこの天下の大乱をどう思っているのか、服装のみならずその|口《こう》|気《き》にも、愛嬌のいいわりに、どこか人をくっているところがある。――そんな点に反発をかんじていたのかもしれない。
 それくらいなら、はじめからはねつけてしまえばいいものを、この由比民部之介という男には、二三語、押し問答をしているうちに、フラリと相手をじぶんの註文にのせてしまう奇妙な呼吸がある。――
 で、内藤源内はつい彼の案内に立ちながら、仏頂面をして、
「かりにも軍監への面会者だからひき合わせるが」
 と、いった。
「新免武蔵どのは、小笠原家に仕官なされておるひとではないぞ。いわば、臨時やといの軍監じゃ。そのつもりで逢った方がよろしかろう。――」
 この浪人が、もしや新免武蔵を|手《て》|蔓《づる》にして、小笠原家に|禄《ろく》を得ようと志してもそれは無駄だ、と|釘《くぎ》をさしたのである。
「ほ、では客分でござるか」
 と、由比民部之介は案外な顔をした。
「客分、というほどでもない。――武蔵どのはあのお年になって、いまだ諸国を|乞《こ》|食《じき》のようにさまよっておられるらしいが、小倉には数年にいちどのわりで現われなさる。それ、例の|佐《さ》|々《さ》|木《き》|小《こ》|次《じ》|郎《ろう》をたおした船島が当藩にあるからよ、当人も、小倉にくるのがいちばんなつかしく、また肩身がひろいらしい。――とはいえ、あれはもう二十数年も昔、また小倉も当時の細川の代からわが小笠原に変わって六七年になる。べつに、さしたるあしらいもせなんだところに、このたびの乱が起こった。――」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:30
仏頂面をしていた源内は、新免武蔵のこととなると、急に|饒舌《じょうぜつ》になった。しゃべらずにはいられない対象であるらしいが、しかし好意の感じられない|語《ご》|韻《いん》であった。
「すると、武蔵どのが是非参陣したいとおしかけて申される。ほかのときではない、ともあれいちじは世にきこえた剣客、いくさならば使いようがあろうと、一応軍監の名目で加わってもらったが」
 源内は肩をすくめた。
「何の役にも立たなんだな」
「そんなことはありますまい」
「貴公、このいくさを見ていたとあれば、寄手の難儀ぶりの一通りではなかったことは知っておろう。たかが百姓一揆、とたかをくくっていたが、どうしてどうして、きゃつら、殺しても殺しても、クルスとやらをささげ、魔軍のように刃向うてくる。たびたびの夜襲は神出鬼没、十二万余の寄手が顔色を失って逃げまどったことさえあった。もっとも、城に籠っておったのは百姓ばかりではない、敵にもなかなかの軍師がある。天草四郎という小わっぱの知恵ではあるまい、たしか森宗意軒とかいう豊臣方の遺臣が采配をふるっておるときいた。――」
 海風がつよくなり、|吐《はき》|気《け》をもよおすような匂いがいよいよ濃くなった。
「とにかく、それを見ながら、武蔵どのは、何をするというでもない。あの音にきこえた二刀流とやらをふるって敵を|斬《き》りちらすどころかよ、まるで石ころのように座っているばかり」
「なんぞ、ふかいお考えでもあったのでござりましょうか」
「といって、べつに兵略軍法を進言するというわけでもない。なんのための軍監か、わけがわからん。……もっとも臨時やといの軍師にうごかされるわが小笠原藩でもないが。――ともあれ、いくさは終わった。武蔵どのも、まずこれでおはらい箱じゃな」
 波の音がしだいに高くなった。原城の北方の島原湾沿いに布陣している小笠原軍であった。
「感心したのは、江戸から救援にこられた老中の松平伊豆守どのだ。あのお方は政務に練達のおひととはきいておったが、兵法の達者とはきいたことがない。しかるにそのお方が総大将となられるや、いままでてんでんばらばらであった諸大名が、まるで|織《は》|機《た》のようにうごき出した。――」
「知恵伊豆、と申される」
「それを、如実に見たぞ。要するに、もはや戦国時代の軍略兵法はあまり用をなさんな。ましてや古怪な剣法のごときをやだ。いわゆる剣豪、などというものは、これからさきは、いくさにおいても|案《か》|山《か》|子《し》同様だ、ということがわかった。……お、あそこだ、新免武蔵どのの幕屋は」
 ふいに内藤源内は、声をひそめて、かなたを指さした。

長い攻撃戦であったので、寄手もそれにそなえて、たんなる野営ではない、本格的な陣屋をつらねていたが、そこの海ぎわにぽつんとひとつ離れて、小さなむしろ張りの小屋があった。海から吹く風にむしろがめくれて、粗末な燭台にあぶら皿の火がゆらめいている。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:31
【二】

「わしはここで帰る。貴公、ひとりでゆけ」
 と、源内はいった。冷淡といえばいえるが、それより妙にしりごみした気配であった。声をひそめて、
「ところで、いまわしがいった武蔵論、これは告げ口せんでくれよ」
 逃げるようにひきかえしてゆく内藤源内を見送るのも忘れて、由比民部之介はむしろ張りの小屋をながめた。
 五十なかばとみえる男がひとり、灯の下に座って、黙々と何やらけずっていた。ひざの上から、むしろにいっぱいの|木《き》|屑《くず》がちらばっている。
 横顔が見えるだけだが、たかく飛び出したかん骨の下は、えぐりとられたように|頬《ほお》がこけて、それに|髯《ひげ》がまばらに生えて、渦をまいていた。あかちゃけた髯であったが、ところどころ白いものもひかっているようだ。髪はちぢれっ毛で、さかやきをぼうぼうとのばしていた。その頭をうつむけて、まるで内職でもするように、彼はいっしんに作業をつづけているのであった。
 ――何を作っているのか?
 なぜということもなく、足音をしのばせてちかづきながら、由比民部之介はくびをのばしてのぞきこんだ。
 ――|櫂《かい》らしい。
 と、民部之介は見た。
 すぐそばの海辺からひろって来たものであろうか。たしかにながい一本の櫂を彼はけずっている。どうやらそれは木剣のかたちに変わりつつあるようだ。
 卒然として民部之介は、その男がまだ若かったころ、豊前の船島で佐々木小次郎という名剣士と決闘したとき、舟の中で櫂をけずって木剣とし、これを武器としたという話を思い出した。
 これはこの男のくせであろうか。それとも。――
 海鳴りの音がきこえる。それとも――その潮の声にさそわれ、二十何年かむかしのあの劇的な試合を思い出すよすがとして、またもそんなことをはじめたものであろうか。
 ふと、民部之介は、この人物にあわれみにちかい感情をおぼえ、
「先生」
 と、呼んだ。
「新免先生」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:31
男は、ふりかえりもしない。仕事に没入しているのか、放心状態なのか。それとも耳でも遠いのか。
 遠くちかく、海鳴りと、それにまがう|波《は》|濤《とう》のような酒歌のかちどきをよそに、孤影、惨たり、「それから」の武蔵。
 それでも、由比民部之介は、むしろ小屋の入口に手をつかえた。
「宮本武蔵どの、ここにおわすと承り、是非門人としていただきたく、はるばる江戸から浪人由比民部之介参上つかまつりました」
 武蔵は手も休めず、ちらっとこちらをふりむいた。
 一瞬、由比民部之介は、茶金色の|光《こう》|芒《ぼう》で面を射られたような感じがした。
 が、はっとまばたきして見返したときは、いまの一べつは錯覚ではなかったかと思われるほど、武蔵は何事もないかのように櫂をけずりつづけている。
「先生」
 と、民部之介はまた呼んだ。
「宮本先生がほとんどお弟子をとられぬことはうけたまわっておりまする。それは……おそらくなみの人間が先生の御|鉗《けん》|鎚《つい》に耐え得ぬからでござりましょう。さりながら、この由比民部之介はちがいます。およそ人間のなし得ることを、なし得る極限まで、あえてなしとげてみたいと、この年まで仕官もいたさず修行しておる者です。鈍骨ではござれど、われに七難八苦を与えたまえ、と、神仏に祈っておる者です。宮本先生、よっく拙者の顔をごらんくだされい」
 顔をあげた。|白《はく》|皙《せき》のひたいに、自信の炎が燃えしきっている顔であった。決して鈍骨などといった眼つきではない。知恵と敏捷と好奇心と野心のひかりにキラキラとひかっている瞳だ。
 武蔵は答えない、黙って木剣をけずっている。
「ただいま小笠原の家来から、先生のことをうけたまわりました。恐れながら、彼らは決して先生を買ってはおりません。いや、先生の使い方を知らないのです。あ、これは失礼、先生の御真価を知らぬのです。彼らは剣のみを以て武蔵先生を判断しようとしておる。しかし、拙者の見るところでは、先生はさらに大きなものをお望みでござる。民部之介のこの眼にまちがいはござりますまいが」
 武蔵は、無表情というよりむしろ|沈《ちん》|鬱《うつ》な横顔をみせて、黙々と手をうごかしている。ただ白い木片がはねとんで、かすかな音をたてている。
 いちど、むっとして、
「しかも、|郎君独寂漠《ろうくんひとりせきばく》。――」
 と、気をとりなおした様子で、いっそう愛嬌にみちた笑みを片頬によどませた。
「それは、先生御自身にも責任がござりまするぞ。お見受けしたところ、先生はあまりに孤高|峻峭《しゅんしょう》、人をして容易に近づくをゆるさざる秋霜の気を発し――発しすぎておられるようです。孤掌鳴りがたし、天下になすあらんと望まれるならば、もうすこし御身辺に春風を漂わせられることが必要でござる」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:32
こう臆面もなくずばりと切りこむのが彼の独壇場だ。どんなにかまえている人間でも、初対面から彼のこういうなれなれしいもののいい方に逢うと、ふっと虚をつかれたような表情になり、そして苦笑する。
「拙者、先生のために春風の役を相つとめましょう。きっと先生を売り出してごらんにいれる」
 そのすきに、するりと彼は相手の腹中にすべりこむ。
「そもそも宮本武蔵どのともあろうお方が、たかが十五万石の小笠原藩などにちぢこまっておられるのがおかしい。いや、先生も御本心ではありますまい。拙者ですら――拙者はさきの征討使板倉内膳正どのの知遇を得て、かくのごとく陣中往来の鑑札をいただいているほどでござりまするが、それでも板倉家ごときに仕える気は毛頭ござらなんだ。拙者のねらっておるのは、ただちに幕府そのものです。とはいえ、無名若輩の拙者には、なかなか一足とびにこれはむずかしい。そこで、先生を旗としてかかげたいのです。十分先生は旗となり得るお方です。事実、先生は、そのようなお望みと自負を抱いておられたものと拙者は見ておる。いや、こう申せば先生を御利用するだけのことと思われましょうが、決してそうではない、先生を|劉邦《りゅうほう》|劉備《りゅうび》とするならば、拙者は|張良《ちょうりょう》|孔《こう》|明《めい》。――」
 弁舌さわやか、長広舌である。最初のしおらしい弟子志願の口上などはどこへいったのか。
「お笑い下さるな、これでも拙者ひそかに、張孔堂、と号しておる者です。お笑いになりましょうが、先生、いちどだまされたと思うて、この民部之介をお手もとにお使いになって下されませぬか、少なくとも先生にないものが、この拙者にはある、そう御納得になるでござろう。――いや、お笑い下さるな」
 武蔵はニコリともしない。黙って、ひざの上の櫂をにゅうと向こうへさしのばした。それはもはや、あきらかに木剣のかたちをしていた。
 むしろの隅に、七八本の筒切りにした|孟《もう》|宗《そう》竹がころがっていた。この老剣士は、彫刻とか細工物の余技があるとみえて、それは花生けにでもしかけた案配であったが、その一本を、きれいな反りをみせたその木剣のはしでおさえた。
 ぴしっ――という音がした。
 由比民部之介の眼は、かっとむき出された。
 かるくおさえたと見えただけなのに、そのふとい孟宗竹が木剣のさきで籠みたいにピシャリとひしゃげたのである。
 はじめて武蔵は、こけた頬をつりあげて、きゅっと笑った。作りつつある木剣を、まずこれでよし、と見た会心の笑いであろう。いままでの民部之介の|饒舌《じょうぜつ》など、ほとんど耳にも入らなかったように思われた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:32
そして武蔵はその木剣を頭上にふりかぶり、真一文字にふりおろした。むろん、素振りだ。かつ、民部之介とは反対の方角にむかってふりおろしたのである。――が、それは空気を|灼《や》き切るような凄絶なうなりを発して、入口に座っていた民部之介が、見えない突風に吹かれたようにのけぞった。
「お師匠さま」
 そのとき、外で少年の声がした。
 ピタピタと草履をはねあげる音が走って来て、可愛らしい声がまた呼んだ。
「お師匠さま、城からだれか――ヘンな|爺《じじ》いと女がふたり、海へ逃げてくぜ」
 むしろ張りの小屋のすきまを通す灯影の中に、ひとつ小さい影があらわれた。
 見れば、十ばかりの少年だ。つんつるてんの着物をきて、かっぱみたいな髪をして、じぶんの背丈くらいもある木剣を腰にさしている。
 それが、素足に大人の草履をはいて|駈《か》けてきて、
「お師匠さまっ、寝てるのかい」
 といいながら、ヒョイと入口に座っている民部之介を見たが、べつに|挨《あい》|拶《さつ》をせず、
「なんだ、起きてるじゃないか。――たいへんだよ、落武者だよ、みんな追っかけてくよ」
 と、息はずませていった。
「ほう、まだ城に生きていた者がおったか」
 と、武蔵ははじめてこちらにむきなおった。
「しかし、追手が出たというなら、それでよかろう」
「それが、なんか敵の大将とかいったぜ」
「大将?」
 武蔵はくびをかしげた。
「まさか、天草四郎ではあるまいが」
「おいらが城のうしろをあるいていて見つけたんだ。ヘンな爺いとふたりの女だよ。それでお侍衆を呼んできたら、しばらくして、だれかが――ありゃ森宗意だ、森宗意軒だ――って、しめ殺される鶏みたいな声を出したぜ」
「なに、森宗意軒?」
 武蔵より、由比民部之介が、しめ殺されるような声を出した。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:33
森宗意軒――それこそは敵の首脳のひとりだ。いったいこんどの乱の首謀者は、小西行長の遺臣たちであるといわれ、それらが作戦の指揮をとっていたことはあきらかだが、なかでも森宗意軒という名が寄手に|妖《よう》|異《い》のひびきをおびて知られていたのは、乱の起こるまえ、首領の天草四郎という少年が、さまざまの神秘的な――たとえば、キリシタンの|呪《じゅ》|文《もん》とともにみるみる暁に西の空を夕焼けとしたとか、天から鳩を呼び、掌上で卵を生ませ、卵の中からキリシタンの経文を出したとか――余人には容易に信じられないことだが、キリシタンでない一帯の百姓たちもたしかにそれを見たといい張ってやまないのだが、そんな行為をするとき、必ずそばに枯木のごとき老人が侍立していて、それが森宗意軒という人物であったといわれていたからであった。
 しかし、その森宗意軒も、おとといたしかに討たれたはずだ。石火矢をかけられ、炎上した原城の断末魔であったから、顔もわからぬ焼死体も多かったが、とにかく|蟻《あり》の|這《は》い出るすきもない攻囲の中にあって、しかも徹底的な|掃《そう》|蕩《とう》|戦《せん》の結果、女子供をとわず三万七千の叛乱軍は一兵もあまさず|殺《さつ》|戮《りく》されたはずだ。
「はて」
 武蔵もいった。
 ぬうと起つと、六尺にあまる長身であった。その影が民部之介を無視して、つかつかと大股に小屋の外へ出ていって、
「伊太郎、案内せい」
 そういったとき、少年はもう三間も先を走っていた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:38
【三】

 夜風をついて|駈《か》ける少年を武蔵は追う。
 それをまた由比民部之介は追いながら、ふとこの新免武蔵という人間が、壮年時から弟子らしい弟子をとらず、ただ時に童子を拾って、これをつれて歩いたという逸話を思い出した。……いまの少年もそれであろうが、ともかく一時あれほどの剣名をはせながら、一風変わった、へんくつですらある、民部之介などからみると判断に苦しむ武蔵のくせだといわなければならない。
 夜風は生あたたかく、潮気をおびていた。……かつ、それに異様な匂いがまじる。
 小笠原の陣は、原城の北方にあった。だいたい、この城は北をのぞいて三方が断崖と海で、その北方も一帯の潮田、沼田で、そのために幕府軍が難戦したのである。その海ぎわの道ともいえない道を、少年と武蔵は駈けていった。
 いや、武蔵は大股に歩いているだけだが、五十なかばとは思われぬ足の速さである。やせてはいるが、骨太で、みるからに|強靭《きょうじん》だ。民部之介は息が切れた。
 一帯の沼田には、刀、槍はもとより盾、竹束、材木、|土《ど》|嚢《のう》、旗差物、そしてまだ死体までが散乱して、これが道を作っている。そのかなたにもはや焼けつくしたであろうに、原城のあとが、ドンヨリと魚のはらわたに似た赤い火照りを夜空にあげていた。
 左手に海が見えてきた。星はないのに、それは黒々とうすびかって、うねっていた。
 南風がはげしくなるとともに、潮風にまじる異臭はいよいよ鼻をついた。もう護る兵もいないいくつかの焼けこげた木戸や|柵《さく》を通る。
 もはや岩だらけの場所を通って、城の裏手にまわる。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:39
武蔵と少年がそこに立ちどまっている。とみるまに、ピタと地に伏した。民部之介はやっと追いついた。
「どうしたのでござる」
「――しっ」
 と、はじめて武蔵が彼を相手にひくい声を出した。武蔵は、じっと前方に眼をすえていた。
 民部之介も、あわてて地に|這《は》いながら、眼をあげて――いま「しっ」と制されたのに、思わず「ああ」とうめき声をあげていた。
 すぐうしろにそそり立っている城の断崖の下から海へかけて、死体の荒野だ。いや、ここにそんな荒野があったわけはないから、おそらく海――少なくとも荒磯だったところであろう。そこが死体で埋めつくされているのだ。
 月もなく、もとより火影はないのに、一帯にただよっている蒼白い微光はなんであろう。……ここらの海で名高い|不知火《しらぬい》か、それとも――|冥《めい》|府《ふ》にもえるあの鬼火というものではあるまいか。
 それで、気がつくと、首のない死体が多い。落城とともに前代未聞の大虐殺を受けた|一《いっ》|揆《き》軍は、すべて首をはねられて、城外に立てならべた青竹一本ずつにかけられたからだ。……その数三万七千。そして、あと首のない死体は、ことごとくこの断崖の下へ投げおとされたのだ。
 三月一日の夜であったが、これはいまの暦でいえば四月のはじめである。それに春の早い九州の島原である。民部之介は、先刻小笠原の侍が「死体が腐っておるのだ」といった言葉を思い出した。吐気のするような匂いのもとはこれであった。ひるまから地肌もみえぬほどのおびただしい蠅の発生地はここであったのだ。
 コ、コーン。
 どこかで、木と木のふれる音がした。
 |鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》[#電子文庫化時コメント 底本のルビは繰り返し記号=大返しを使用。以下同様]。――いや、その声すらもないこの死の世界に、あの物音は?
 民部之介はぎょっと眼を凝らして、死体の荒野の果てに、小さくうごいている者をおぼろに見た。
 三人だ。――たしかに少年が告げた通り、具足をつけた白髪の老人と、白いきものをきた女ふたりが、死体の尽きるところ、海のきわで働いている。
 武蔵が、這ったまま、じりっ、じりっ、とうごき出した。
「どうした」
 と、きいている。
 はじめて民部之介は、すぐちかくに生きている人物がいることに気がついた。
「……恐ろしい奴だ」
 と、あえぐような返事がした。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:39
「九人、追いかけて、三人殺された」
「……あの老人にか?」
「あの老人に」
 生きているのは、二人の侍だった。さっき少年が、落武者を追っていった侍たちがあるといったのはこれであろう。――見わたせば、いかにもほかにそれらしい影はない。
「生き残った者のうち、われわれを除いて、助けを求めに陣の方へかけもどっていった……」
 侍がつづける。歯がカチカチと鳴っている。むろん、そばに来ているのが新免武蔵とは知らないらしい。
「あと、われわれが見張っておるのだが……」
 コ、コーン、コーン、とまた木の音がきこえた。
「あれは何をしているのだ」
「落ちてきた木、流れついた木で、|筏《いかだ》を組んでいるらしい」
 老人と、白衣のふたりの女は、必死にうごいていた。生きている者があろうとは思えない原の城から、忽然とあらわれた三人は、いまや筏を作って海峡のかなたへ逃げようとしているのであった。
「……あれが、森宗意軒?」
「知っておる奴があって、そういった。いった奴は殺された……」
「刀でか?」
「いや、|鎖《くさり》じゃ。鎖のただひとなぎで、三人がいちどに頭をたたきつぶされた……」
 そのとき、背後から黒いつむじ風のようなものが駈けてきた。十数人の武装した一団であった。
「どこだ、落武者は?」
「もはや、逃げたか? ――いや、逃げられぬはずだ」
「その|妖《あや》しき|爺《じじい》と女はどこにおる?」
 血相変えて、大声でわめく。
「あそこだ!」
 と、見張っていた男が指さすと、追跡隊は武蔵などには気がつかないふうで、死体の海を踏んでその方へ駈けていった。
 老人と女がふりむいて、立ちあがるのが見えた。
 からだに具足だけはつけているが、それが重げにみえるほどやせこけた影であった。ただ漂う|燐《りん》|光《こう》に、頬からあごにかけて吹きなびく|髯《ひげ》が銀のようにひかって見えた。
 左右をふりむいて、何かいったふうである。そして老人は一刀をぬきはらった。
 いちど立ちあがった武蔵がそのままうごかなくなってしまったのは、そのときふたりの女が、思いがけぬ行動に出たからだ。――殺到してくる武者たちを迎え、ふたりの女は、きていた白いきものをみるみるぬぎ出したのである。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:40
あきらかに若い――一糸まとわぬ雪のような|裸形《らぎょう》がそこに立った。
 老人は刀をふるった。なんと、敵にではなく、そのひとりの女の胸から腹へかけて、縦に|刃《やいば》を走らせたのである。
 まだ三四間の距離にあるのに、さすがの武者たちもたたらを踏んで立ちどまった。
 女のぬめのような胸から腹へ、黒いすじが走った。血がにじみ出したのだ。とみるまに、そこから八方に、あきらかに血ではないひびみたいなものが入って、それが網の目のようにひろがった。
「あーっ」
 悲鳴をあげたのは、女ではない。武者たちだ。
 そこに彼らは、実におのれの眼を疑う光景を見た。女のからだが裂けたのである。割れたのである。はじけたのである。全身の網目から白い皮膚が卵の|殻《から》みたいに|剥《は》げおちて、その内部から、べつの人間がニューッと現われてきたのである。
 むろん、はだかの人間だ。それが女のからだを押しわけるように現われて、なおふくれあがってきたところを見ると、男であった。髭すらはやし、筋骨たくましい壮年の男の裸身であった。……何が、どうなったのかわからない。彼を「|孵《ふ》|卵《らん》」した女は、皮膚の残骸に似たものを枯葉みたいにその足もとに積んだようだが、どこに消えたのかわからない。
 もうひとりの女が、地におちていたかいどりと刀をひろって、彼にわたした。
 老人が化鳥のような声で何かさけんだ。
 その男は、肩からかいどりを羽織り、手に一刀をひっさげて、フラフラと夢遊病者みたいにこちらに歩いて来た。
「来い。――来い。――地獄へ来い」
 と、彼はいった。地からわき出すような声であった。
 ……この世に起こり得ることではない。
 追撃してきた武者たちは、武者人形の一隊と化して、そこに凝然とかたまっているだけであった。二三人、ズルズルと、死体の上に座ってしまった者もある。
「来い。――来い。――地獄へ来い」
「卵生」してきた男はまたいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:40
すると、四五人の男が泳ぐようにすすみ出た。――これが、勇気をもって立ち向かっていったものでなく、魔につかれた行動であったことはすぐにわかった。
 まるで吸いこまれるように近づいていった彼らが、その男の周囲をめぐり、もつれかかるように見えたが、たちまちひらめく白刃に|斬《き》りたおされたのである。刀の打ち合うひびきもない。大根でも切るような|殺《さつ》|戮《りく》であった。
 が、血しぶきだけは飛んで、その「剣鬼」ともいうべき男の半顔を染めた。その男自身からも、ぼうと燐光が発していた。四十歳くらいの|沈《ちん》|毅《き》重厚な顔だちであったが、いま血をあび、燐光を放っている姿は、陰惨凄絶、あきらかにこの世の人間ではない。
「来い。――みんな、地獄へ来い」
 それが、また地からしみ出るような声であった。
「|又《また》|右衛《え》|門《もん》」
 と、うしろに寂然と立っていた老人がいった。
 呼ばれて、彼はフラフラとその方へもどっていった。まるで夢遊病者みたいな足どりだが、老人のまえに立って首を垂れた姿は、犬のように従順に見えた。何か老人にいわれて、彼は海ぎわに歩いていった。
 コ、コーン。コ、コーン。
 彼はそこで|筏《いかだ》を作る仕事を受けついで、その作業にとりかかった。
 気死したように立ちすくんでいる追跡隊を、老人はたたずんで、じっと見すえている。くぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくに、冷たく、あきらかに笑っている眼であった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:40
【四】

「……武蔵どの」
 死体の中に|這《は》いつくばったまま、由比民部之介は、のどに鉄丸でもつまったような声を出した。
「……ありゃ、なんでござる?」
 武蔵は答えない。……が、さすがにびんの毛がそそけ立っているのが夜目にも見える。
「武蔵どの。……あれは切支丹バテレンの術でござるか」
「――あれは」
 と、武蔵はうわごとみたいにうめいた。
「たしかに荒木又右衛門。……」
「な、なんでござる。荒木。――」
 由比民部之介はうなされるような眼つきで、幻影に似た白いしぶきの中に、筏を作っている影を見つめた。
 荒木又右衛門。――その柳生流の名剣士の名は、彼も知っている。伊賀の上野、|鍵《かぎ》|屋《や》の辻で三十数人の大集団を相手に死闘し、みごとめざす敵を討ちとった話もきいている。寛永十一年初冬。いまから四年ばかりまえのことだ。
 しかし、その又右衛門は、たしか去年死んだときいている。
 いわゆる伊賀越えの|復讐《ふくしゅう》は、たんにやや規模の大きい|仇《あだ》|討《う》ちであったというだけではなく、実はその背景に大名対旗本の対立という重っ苦しい時代相をもった事件であって、又右衛門は首尾よく義弟の助太刀をして敵河合又五郎を討ったものの、又五郎の後盾となった旗本一派の再復讐を警戒してか、もとの主君大和郡山の松平家から、因州鳥取の池田家に籍を移した。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:41
鳥取に移った又右衛門は、その仇討ちのときからわずか三年を経ずして、この世を去った。享年四十一歳という。
 あれほどの剣名をとどろかせた壮士の最後にしては、あまりにも唐突でかつあっけなさすぎるので、旗本一派からの暗殺者に殺されたのだとか、或いはそれを怖れた池田藩の方で彼が死んだということにしたとか、いろいろと噂もながれたが、とにかく去年、寛永十四年八月二十四日、彼は死亡したということになっている。
 その荒木又右衛門が生きていた!
 いや、正確にいえば、|甦《よみがえ》った。つづけて生きていたとは信じられない。女体の中で胎児以外の人間があんなかたちで生きているなどということはあり得ない。――といって、眼前にその怪異言語に絶する光景を見ても、これまたあり得ることとは信じられないが、ともかく彼は再現した。いつ、どこで会ったのか知らないが、さしもの宮本武蔵が眼を張りさけんばかりに見ひらいてそううめいたのだから、あれが又右衛門であることにまちがいはあるまい。
 剣豪荒木又右衛門はここに復活した。しかも切支丹の|妖術師《ようじゅつし》森宗意軒の弟子として。
 いま彼は古代|奴《ど》|隷《れい》のごとく|筏《いかだ》作りに精を出している。
「お、お師匠さま。あいつ……女の皮をかぶっていたのかい?」
 と、伊太郎がいった。
「まことにそう見える。わっぱにそう見えるのは、むりもない」
 と、武蔵はいった。由比民部之介は声ふるわせて、
「な、なんたる妖術。……あ、あのようなことが、この世にあろうとは。……」
「待て」
 と、武蔵はその口を封じた。
 森宗意軒は追手を金縛りにしておいて、しずかにもうひとりの女をふりかえった。その白い裸身は、|凍《こお》りついたようにうごかない。
「又右衛門、できたか」
 と、老人はしゃがれ声できいた。
「まず、大体は」
 と、又右衛門はのぶとい声でこたえた。
 うなずくと、老人はまた刀身をひらめかした。
 白い女人の胸から腹へかけてまた|刀《とう》|痕《こん》が走り、八方にひびが入り、そして、卵の|殻《から》を破るようにして、またもやひとりの男が現われた。
 やはり全裸であったが、十七八の前髪立ちの世にも美しい少年が、そこに夢みるように立っていたのである。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:41
宗意軒は、やはりそこにおちていた女の|衣裳《いしょう》をわたして、彼にまとわせた。
「いざゆこう、四郎」
 その美少年をうながして、海の方へ行く老人を――その方へ走ってゆくべつの黒い影には視点も合わせず、武蔵は|茫《ぼう》|乎《こ》とながめていた。
 のどの奥でつぶやいた。
「……四郎、とは、天草四郎時貞のことか?」
 |一《いっ》|揆《き》の首領に立てられた美童天草四郎もまたえたいの知れぬ人間であるが、ともかくも彼は落城の炎の中に討たれた。その首は、彼の母が見て証言したし、すでに塩漬けにして江戸へ向かって送り出されたはずである。
 が、森宗意軒があのように親しげに、四郎と呼ぶほかの四郎が、この城にいるはずがない。また宗意軒が、かかる大幻術をもって島原から逃がそうとしている四郎が、天草時貞以外の人間であるはずがない。……
 あれは、天草四郎だ。彼もまた|甦《よみがえ》った。
 いや、これは甦ったというべきであろうか。ほんものの天草四郎はたしかに討たれ、首は江戸に送られ、首以外の死体は――ひょっとしたら、この死体の「埋立地」のどこかで腐れつつあるかもしれない。しかも彼とそっくりの顔と身体をもった人間は、いま女身を介してこの世に生まれ出て来たのである。あたかも父そっくりの子のごとく。死んだ父の年齢に達した子供のごとく。
「お師匠さま。……いまの男、逃げてったよ」
 伊太郎が、武蔵の袖をひいていった。
 それは武蔵も知っている。ほんのいま、じぶんのところから、|塹《ざん》|壕《ごう》を飛び出す兵士のように駈け出していった由比民部之介の黒い影は、彼も視界の隅に入れていた。
 民部之介は、逃げていったわけではない。海ぎわの筏にのりかけていた森宗意軒のそばへ駈けていって――斬りつけるのではない、その足もとにひれ伏して、しきりにお辞儀をしている。
 何をいっているのか、声はきこえないが、武蔵にはよくわかる。――先刻、じぶんに対してのべた言葉と、大同小異の言葉をのべているにちがいない。あの奇怪な幻術師の弟子たらんことを切願しているに相違ない。
 ……無限ともいうべき野心を抱き、あらゆることに好奇心をもち、自己のために利用し得るものは利用しようとし、目的のためには手段をえらばない、精力と才能にあふれかえっている男、由比民部之介。
 ――あれもまた一人物だ。
 由比民部之介とはいかなる男か、さっきの彼の自己紹介と|一《いち》|瞥《べつ》以外に、武蔵は何も知らないが、それだけは認めざるを得ない。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:41
――が、しょせん、おれの剣の弟子となり得る男ではない。
 |一《いち》|瞥《べつ》で武蔵はそう見て、彼を黙殺した。
 黙殺されて腹をたてたか、期待にはずれた|蕭条《しょうじょう》たる武蔵の存在ぶりに失望したか、それとも、おれの剣以上に恐るべき幻術をいま眼前に見て、その方に心を奪われたか?
 森宗意軒は、じっと由比民部之介を見下ろしている。
 森宗意軒はうなずいた。
 民部之介の懇願をどうきいたか。――承知したようだ。
 それから、海ぎわに歩いていって、もう筏の上に立っていた荒木又右衛門と天草四郎と二こと三こと何やら話を交わしていたが、やがてユラリとその上に乗った。民部之介があわてて追いかけて、それに飛び乗ると、槍を櫂とした又右衛門と四郎が、筏を「屍体の岸」からつき離した。
 この原の城の南は約一里余をへだてて天草島をひかえ、そのあいだの早崎海峡――いわゆる瀬詰の瀬戸は、満干のとき、鳴門、赤間に匹敵する急潮を現出するのであった。いまその満潮のときなのだ。波は西の天草灘から東の有明湾へ、|滔《とう》|々《とう》の声をあげていた。
 筏はもとより波にのって、東へ矢のようにながれ去った。
 東へ――月はないのに、|渺茫《びょうぼう》、まるで|不知火《しらぬい》のもえているように|蒼《あお》白い有明の海の水平線のかなたへ、|妖《あや》しい四人の男を乗せたまま。――
 彼らはどこへいったのか?
「――お、お師匠さま、……お師匠さまっ」
 これまで、まるで|呪《じゅ》|縛《ばく》されたように身うごきをとめ、黙りこんでいた伊太郎が、ふいにまた武蔵の袖をゆさぶり、腕にとりすがった。
「いっちゃったよ。あいつら、いっちゃったよ。……あれア何だ?」
「伊太郎、さめたか」
 と、武蔵がいった。
 伊太郎はキョトンとして見あげ、キョロキョロとまわりを見まわし、また武蔵をにらみあげて、
「お師匠さまっ。……おれ、夢を見ていたんじゃあねえやい!」
 とさけんだ。
 武蔵は少年を吸引するような眼で見下ろして、
「夢じゃ。おまえはこわい夢を見たのじゃ。伊太郎、またこんなこわい夢を見たくないと思えば、いま見た夢の話を、だれにも口外するでないぞ」
 と、いうと、まだその屍体の浜の一角に凝然と金縛りになっている武者たちを、ちらと見ただけで、風のようにもと来た方角へ帰っていった。
武者たちには、武蔵も、それを追う少年も、やはり悪夢の中の幻影のように思われた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:43
【五】

 ……さて、この夜の怪異の噂は、もとより寄手の陣にひろがった。
 ともかく十人ちかくの人間が、声ふるわせて証言したのである。しかも、現実に四五人の追手が殺されたのである。……が、あまりにも、その目撃者の証言の内容が常識を絶し、且また叛乱軍の首領天草四郎、軍師の森宗意軒らがこの世に甦って海のかなたへのがれ去ったなどということは|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》をきわめているから、全幅的に信ずる者は少なかった。
「切支丹の亡霊にたたられ、たぶらかされたのじゃ」
 せいぜい、そう解釈してくれる者のあるのがまだしもであった。
 ――卵をわるがごとく女体から荒木又右衛門があらわれた、|蝉《せみ》のぬけがらをぬぐがごとく天草四郎が出現した、といっても、ではその女体の|殻《から》、ぬけがらはどこにある? ときかれて、翌朝、目撃者たちが、おそるおそる一帯をさがしにいったが、ふしぎなことに、そんなものはどこにも見えなかった。
 もっとも、そこはいよいよもの凄じくなった|腐《ふ》|爛《らん》の泥海で、息もつまるばかりの悪臭と蠅のむれが渦まき、たちまよい、数分と現場にとどまっていられるものではない。
「武蔵どのにきいてくれ」
 ついに、彼らはそういい出した。
「小笠原の軍監宮本武蔵どのも、たしかにそれを見たはずじゃ。うそだと思うなら、武蔵どのにただしてみるがよい」
 ところが、その武蔵は、
「……一切、左様なことは存じ申さず」
 と、答えただけであった。
「それは」
 と、目撃者たちはいきまいた。
「あれを知らぬという。……そうまことにいったとあるなら、武蔵は恐れたのだ。いや、あの妖怪どもを、われわれのみに追撃させて、じぶんはただ手をつかねて見ているだけで逃げ去ったのを恥じて、頬かぶりですまそうとしておるのだ」
 その勢いのはげしさに、その夜の怪異を信じないものたちまでが、武蔵の卑怯だけは|喋々《ちょうちょう》と口にした。
「武蔵は臆病風に吹かれたのだ」
「新免、老いたり」
 はては、
「そもそも彼は、なんのつもりでこのたびの陣に参加していたのか」
 という、それまでの無為無能ぶりまでが、あらためてむし返された。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:43
そんな風評に小笠原家の方でも困惑して軍監の肩書を解いたのか、または本人自身がたえかねたのか、それともかねてからじぶんできめていた行動か、宮本武蔵が島原を去ったのはそれから数日ののちである。
 まだたたかいのあと始末に|忙《ぼう》|殺《さつ》されている小笠原の侍たちで、ほとんど見送る者もなかったが、朱盆のごとき落日のかなたへ、童子ひとりをつれて消えていった老武蔵の姿は、いかにも|孤愁粛殺《こしゅうしゅくさつ》たるものがあったという。――
 その後、彼はいちど筑前の黒田家に三千石で召しかかえられようとする機会があった。が、藩の幹部から異議が出て、このことは沙汰止みとなった。
 さらにその後、寛永十七年、ついに武蔵は奉公口を得た。肥後の細川家、食禄はわずかに十七人扶持、現米三百石であった。
 しかし、藩主の細川忠利は、武蔵へ渡される合力米をとくに堪忍分と呼ばせ、屋敷もあたえ、鷹野もゆるした。食禄に比しては特別待遇をしたのである。
 しかるにこの細川忠利は、その翌年三月にこの世を去った。――
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:43
地獄篇第二歌


     【一】

 正保二年三月のある夕方のことである。
 名古屋城下広井郷といえば、いまの中区中ノ町にあたるが、当時はいかめしい屋敷町で、しかも尾張藩の高禄の士の下屋敷が多かった。
 堀川にちかいこの|一《いっ》|劃《かく》にかまえる尾張藩兵法師範|柳生《やぎゅう》家の下屋敷に、よろめくように入って来た若い武士がある。
「こちらに柳生|如《にょ》|雲《うん》|斎《さい》先生がおわすと承ってたずねて参ったものでござる」
 と、彼はいった。
 柳生家をたずねて柳生先生云々といったのは、ここに住むのが当主の|茂《も》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》|利《とし》|方《かた》ではなく、隠居をしているその父如雲斎|利《とし》|厳《よし》だからで、この訪問者が名古屋の人間でないことを示している。事実、彼は|埃《ほこり》にまみれた旅姿であった。
 埃にまみれた旅姿――というより、取次に出た侍は、眼を見張った。のびた|月《さか》|代《やき》、のみでそいだような頬、透き通ってみえるほどの皮膚の色――よごれているのに、美しい。美しい|幽《ゆう》|鬼《き》のような男だったからである。年はまだ二十か、二十一であろう。
「先年、如雲斎先生にいちどお指南をねがい、おゆるしを得なんだものでござりまするが――」
 みなまでいわせず、
「いや、お手合わせのことなら、いまも御無用にねがいたい。老師はもはや御隠居なされており、どちらにも左様なことは一切お断わりしておる。それに、あすあさってにも老師は旅にお出かけなさるとて、そのお支度にいそがしい――」
「それを望んでおたずねしたのではありませぬ。ただ二三日、お宿をかりたいと存じて――」
 といって、武士は|咳《せ》いた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:44
その咳の音と、異様なばかりのやつれぶりを見くらべ、ききくらべて、
「――貴公、御病気か」
 と、取次の侍はきいて、いやな顔をした。
 相手はそれにこたえず、
「二三日、とは申しませぬ。今宵一夜、或いはきょうじゅうにも用は達せられるかも知れませぬゆえ――」
「用が達せる、とは?」
「実は、西国より拙者をたずねて、この名古屋の柳生さまのお屋敷にやってくる者があるのです。まことに勝手至極にて恐れ入った儀でござるが、いちど如雲斎先生にお目通り願ったものの御縁におすがりいたしたいと存じまして――」
 まったくその通りだ。突然やって来て、二三日宿を貸せという、ここは尾張にきこえた柳生家の下屋敷だ。|旅籠《はたご》ではない――といいたいところなのに、それに加えて、相手はすでにそうひとりできめていて、どうやらここをだれかと待ち合わせの場所に指定しているらしい。
 しかし、取次の侍は、それよりも相手の言葉にいぶかしさを抱いて、
「まえに、老師にお会いしたと? 貴公の御姓名は?」
「いいおくれました。拙者、|田《た》|宮《みや》|坊《ぼう》|太《た》|郎《ろう》と申しまする」
「なに、田宮坊太郎?」
 と、取次の侍はさけび声をたて、まじまじと見まもって、
「ほう、あなたが、田宮坊太郎どのか。――」
 と、もういちどうめいた。こんどは言葉があらたまっている。
「そういえば、数年前、田宮坊太郎どのが老師を訪ねられたとあとになってきいたことがある。あれは御本邸の方でござったな。いや、そのときは拙者存ぜなんだが、あとで貴公が四国の丸亀であの名高い大仇討をとげられたとき、ああ、それならば拙者もいちどお目にかかっておけばよかったとほぞをかんだが、いまはじめてかように御健在の――」
 といいかけたが、幽鬼のような相手の姿に絶句して、
「いや、何はともあれ老師に申しあげて参る」
 と、あわてふためいて、奥へ駈けこんでいった。

田宮坊太郎は、すでにひとりで立つのも耐え得ぬらしく、玄関の柱にもたれかかるようにして、のびた髪を風になぶらせつつ、ただ熱っぽい眼で、夕焼けの春光にみちた庭の方をながめている。ちる桜の花より、門の方を見ているようだ。待ち人、いまだ来らずや、と。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:44
【二】

 彼は|讃《さぬ》|岐《き》の丸亀に生まれた男であった。この丸亀の生駒藩に仕える田宮源八郎は、抜刀術の開祖として有名な田宮平兵衛重正の一族で、これまた田宮派の名手であったが、それをそねんだ藩の剣法指南堀源太左衛門に謀殺された。寛永元年八月のことである。たまたま臨月であった源八郎の妻は、変をきいて失神中に一子を生みおとした。これが坊太郎である。
 |爾《じ》|来《らい》、彼は|復讐《ふくしゅう》の一念にもえ、|金《こん》|比《ぴ》|羅《ら》大権現に誓いをたて、江戸に出て柳生|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》の弟子となり、ついに寛永十八年、丸亀に帰って父の敵堀源太左衛門を|斃《たお》した。――さっき取次の侍が、「あの名高い大仇討」といったのはこれである。
 それから四年。――彼は江戸にあって、若くして父の仇を討った名剣士として世にもてはやされているときいていたのに――思いきや、この名古屋に、病みおとろえて|凄《せい》|惨《さん》なばかりの姿をあらわしたのだ。
「おお、田宮どの」
 先刻の取次の武士とともに、四五人の侍がどやどやとまた出て来た。
「老師がお逢いになると仰せられる。こちらへ、こちらへ」
 彼らは抱きかかえんばかりにして、坊太郎を奥の一室に通した。
 やがて、隠居の柳生如雲斎があらわれた。六十七歳、すでに尾張藩剣法指南のあとを一子茂左衛門にゆずっているが、大兵肥満、その皮膚は黒いあぶらをぬったようにつやつやとして、ぶきみなくらい精気にみちた老人であった。頭をつるつるに|剃《そ》ってはいるが、決して|悟《さと》りすました風貌ではない。その眼にはむしろ獣にちかいほど精悍なひかりがある。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:45
田宮坊太郎は平伏した。
「四年ぶりじゃな。あのときは、おまえはまだ前髪立ちの十七八の美少年であったが。――」
 と、如雲斎は会釈して、
「お、田宮、そちゃ病んでおるな」
 何か答えようとして、またはげしく|咳《せ》きこむ坊太郎に、如雲斎は厚い|唇《くちびる》でつぶやいた。
「|労《ろう》|咳《がい》か。……そういえばおまえは、四年前、あのときから病んでおったのう。――」
 労咳とは肺結核のことだ。
 如雲斎は、四年前のこの坊太郎がまだ十七八の少年としてここを訪れてきたときのことを、思い出すようなまなざしをした。
 そのとき坊太郎は、いよいよ敵を討つために江戸から四国へゆく途中、江戸の柳生道場で血のにじむような修行をつづけて来たのにまだ不安があるといって、如雲斎のところに立ちより、一手指南を請うたのである。
 如雲斎は坊太郎を引見して、
「それには及ばず」
 といっただけで立ち合わなかった。なお切願する坊太郎に、
「江戸柳生と尾張柳生はちがう。この土壇場になってわしの指南を受ければ、おまえの剣法にかえって迷いと乱れが生じるだろう」
 と、如雲斎は答えた。
 それに。――
「……病んではおったが、あのころ、敵の堀源太左衛門がどれほどの使い手であろうと、剣をとっておまえと互角な奴が、そう世にざらにあるとは思わなんだ」
 と、いまも如雲斎はいった。
 剣とは真剣のことだ。彼は、この病める少年が、病んでいるがゆえに、また少年であるがゆえに、かえって純粋無雑、澄みきり、冴えわたり、剣の化身となっていることを見ぬいたのであった。
「……案の定、おまえはめでたく敵を討ち……若年にしてそれほどの剣法を抱き、あれから四年……おまえは何をしておったか。ただ病んでおったのか、田宮。――」
「そのことについては、申しあげとうございませぬ」
 と、坊太郎はいった。
 ひとを訪ね、ひとに尋ねられて、こんなよそよそしい返答をする無礼をたしなめることをひかえさせるものが、わずかにあげた坊太郎の|惨《さん》|澹《たん》たる面貌にあった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:45
「拙者、まちがえました」
「何を」
「人生を」
「とは?」
「拙者、生まれ変わったら、剣を捨てまする」
 そして坊太郎は、またはげしく咳いた。しばらく、じいっとそれを見つめていた如雲斎の眼がしだいにひかり出すと、声をおさえてきいた。
「田宮。……すりゃ、何ゆえ、ここに来たか」
「好きな女と|逢《あ》うためでござりまする」
「何と申す」
 ここに至って、柳生如雲斎もついに高い声をあげた。
「左様な女がどこにおる?」
「ここにはおりませぬ。四国の丸亀から参るはずになっておりまする」
 さすがに坊太郎の顔に、|羞恥《しゅうち》と恐縮の色が浮かんで、さてこんなことをいった。
 四年前仇討をとげたあと、じぶんには丸亀で恋人ができた。恋人というより、じぶんを慕ってくれた娘であった。美しい、|可《か》|憐《れん》な娘で、その慕情をいとしいと思いつつ、じぶんはそれをふりすてて、江戸へ去った。剣の道のじゃまになると思ったし、江戸に|虹《にじ》のような望みをかけていたからである。
 しかし、江戸につくと同時にじぶんは血を吐いた。それをまた意に介しないほど、じぶんは剣に心を奪われていた――その果てのいま。
「拙者はもはやあと七日と命はありますまい」
 と、坊太郎はいった。
 命の灯がゆらめきはじめたのをおぼえ出したとき、じぶんの胸にはあの娘の姿が去来した。――じぶんの短い人生は何であったか。ただ|復讐《ふくしゅう》と剣だけを思いつめた荒涼たる青春ではなかったか。じぶんは、誤った。せめて、仇討をとげたあと、剣を捨てて、じぶんを恋う娘と、おだやかでゆたかな生活を送るべきではなかったか。――
 このとき、さる人が現われて、四国からその娘を呼んできてやろうといった。しかし、それにしても間に合わぬ。じぶんも、よろめき、よろめき、一歩でも西へゆこう。――
「まことに恐れ入ってござりまする。そこで思い出したは、江戸と丸亀のまんなかあたりにあるこの名古屋におわす柳生如雲斎さま、いちど御引見をたまわりましたる先生におすがりいたし、そのお屋敷を借りて待ち合わせようという約束をむすんだのでござります」
 坊太郎はまたがばとひれ伏した。
「ここで逢うて、何とする」
「その女と、ちぎりまする。……」
「……ちぎる」
「実に以て勝手至極、厚かましきはからいにて、全身より汗のにじむのをおぼえるほどにござりまするが、田宮坊太郎、|生々世々《しょうじょうせぜ》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「せゞ」]までのお願い。――」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:46
と、いいかけて、顔をあげて、
「御恩は、やがて拙者、ふたたびこの世に生まれ変わってから、改めてお返し申しあげますれば」
 と、奇怪なことを口にした。
 いままでの彼の述懐から、彼自身もみとめる独断の得手勝手さに、しだいに入道頭にみみずのような血管をうかべかけていた柳生如雲斎は、一瞬ふっと不快を制されて、けげんな表情で|瀕《ひん》|死《し》の若者を見た。
「なに、またこの世に生まれ変わってから?」
「|御《ぎょ》|意《い》」
 坊太郎はじっと如雲斎を見返して、
「そのわけを、おきき下さりましょうか?」
「……きく」
「では、しばらくお人ばらいを願いまする」
 そのとき、門弟のひとりが入って来て、
「ただいま四国より男女ふたりの旅人到着、こちらに田宮坊太郎どのがおいでではあるまいか、とたずねておりまするが」
 と伝えた。
「おお、やはり来てくれた!」
 と、坊太郎はさけんだ。眼をきらめかせて、
「ここで待ち合わせると約束はしていたが、江戸と四国から、ほとんど時を同じゅうして到着するとは、やはり魔道のなすところ。――」
 と、いった。それから、ふたひざばかりにじり寄って、
「先生、お願いでござりまする。拙者がいうよりも、その御仁の話をきいて下さりませ」
「御仁?」
「江戸で拙者が師と仰いだお方、またいま四国より娘を伴って来てくれたおひと、由比民部之介と申す御仁でござる」
「……よし、通せ」
 と、如雲斎は門弟にいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:46
【三】

 彼はもとより田宮坊太郎の口走ったことがよくわからない。こやつ、気がふれているのではあるまいか、と疑ったくらいである。しかし、それにしても、如雲斎の心をとらえる何か妖しい力が、田宮坊太郎の挙動にあった。
 まもなく、二人の人間が、書院に通されて来た。ひとりは四十前後の総髪の男であり、ひとりは二十歳あまりの美しい武家風の娘であった。
 坊太郎と娘はじっと見合わせた。
「よう来てくれた、お類どの」
 かすれた声で、坊太郎がいった。――はじめ坊太郎のあまりにも病みやつれ、変わりはてた姿に、ぎょっとして息をのんでいたお類という娘は、たちまちまろぶように馳せ寄って、
「田宮さま!」
 と、しがみついた。
 坊太郎は頬ずりをして、
「では、由比先生のお言葉をきいてくれたのじゃな、お類どの、かたじけない。……いままで、そなたを捨てたままにしておったこの坊太郎のために」
「いいえ、坊太郎さま、あなたのためなら、お類は、何なりと」
 と、娘は眼に涙をうかべて、身もだえした。
 如雲斎はあごをしゃくった。門弟たちを去らせたのである。そして、じっともう一人の男に眼をやった。
「はじめて御意を得まする」
 と、その総髪の男はものやわらかに、しかし学者の荘重な威儀を失わず、如雲斎に一礼して、
「拙者、江戸|牛込榎坂《うしごめえのきざか》に軍学の道場をひらきまする、張孔堂、由比民部之介正雪と申すものでござる」
「……ふむ、ここのところ十余年、江戸に出たことはないが」
 と、如雲斎は会釈して、
「由比正雪、その名はちらと耳にしたことがある。……そなたか」
 と、いった。
「で、この田宮のこと、いかがしたのじゃ」
「まだ田宮からお話し申しあげませぬか」
「きいたが、よくわからぬわい。……そなたにきけと申したが」
 そのとき、くゎっと妙な音がした。ふりかえると、坊太郎に抱きしめられている娘の肩に鮮血が飛びちるのが見えた。
 坊太郎の口は血にまみれていた。彼は血を吐いたのである。
「や」
 さすがに|動《どう》|顛《てん》して立ちあがろうとする如雲斎を、
「しばらく」
 と、正雪はとめた。
 田宮坊太郎はお類をつきはなすようにし、たたみに|這《は》いつくばったまま、泡立った血を吐きつづける。お類は悲鳴をあげて立ちあがり、ウロウロして、泣きそうな顔をふりむけた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:47
「由比さま、由比さま、どうしたらよいのでござります?」
 ゆったりとした容貌なのに、妙に冷たい眼でこれをながめていた正雪は、
「ふむ、これは、ことをいそがねばならぬな」
 と、つぶやいて、娘に声をかけた。
「お類どの、では、田宮とちぎり、田宮の子を身ごもりなされ」
 お類の満面はさっと赤くなり、それからみるみる|蒼《そう》|白《はく》になった。
 正雪は如雲斎をかえりみて、片手をつかえた。
「先生、田宮の余命いくばくもありませぬ。で……まことに以て|唐《とう》|突《とつ》慮外なことを申しまするが、この若者と娘、即刻|合歓《ね む》のしとねをお設け下さりますまいか」
「なに?」
 如雲斎は眼をむいた。
「合歓のしとね」
「お類に、田宮の子を|孕《はら》ませまする」
「左様に……たやすく孕めるか」
「まちがいなく孕みまする。……そして……」
「そして?」
「少なくとも一ト月を経ますれば以後、いつなりと、お類は田宮の子を生みまする」
「一ト月で? 死産してか」
「あいや、いまの田宮とおなじ大きさ、おなじ顔――寸分変わらぬ田宮を」
 ついに沈黙してしまった如雲斎に、正雪はぬけぬけと、
「と申すより、病める肺はきれいに|癒《なお》った新生、再生した坊太郎そのものを」
「――ば、ばかっ」
 と、如雲斎は|大《だい》|喝《かつ》した。
「うぬは正気か。……そういえば由比張孔堂、江戸で軍学とやらを講じておるが大山師という噂をきいたこともあるぞ、うぬはこの如雲斎を|嘲弄《ちょうろう》に来たか」
「山師という噂は、存ずるところあって、拙者がわざと立てさせたものでござる」
 正雪は平然といった。
「いや、口で申してもお信じなされぬのが当然、何よりまず事実を|御《ぎょ》|見《けん》にいれてから御講評を承りとう存ずる」
 田宮坊太郎と由比正雪と、江戸でどういう風に知り合ったのか知らないが、あの虚無悽惨の気をたたえた若者が、この正雪を見るときだけ、ひどく信じ切った瞳の色になったようだ。――たしかにこの由比張孔堂のきれながの眼には、ふしぎに人を魅する力がある。
 それに吸いこまれたように如雲斎は、
「誰かある」
 と、呼んだ。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:47
廊下を小走りに駈けてくる軽い|跫《あし》|音《おと》がして、
「はい、御用でございましょうか」
 と、女がひとり手をつかえた。
「加津か。……おまえでは」
 如雲斎の顔にやや|狼《ろう》|狽《ばい》の色があらわれた。二十四五の、紅梅のように美しく、りんとした女であった。――それが、むろん、|喀《かっ》|血《けつ》した田宮を見て、はっと眼を見ひらいている。
「ま、よい、ほかの弟子には知られとうない」
 と、如雲斎は思いなおしたようだ。
「加津、すまぬが、隣に夜具を敷いてやってくれい」
 と、命ぜられて、おそらく病客のための|臥《ふし》|床《ど》と判断したのであろう、女はいそいで隣室に去った。――見送って、正雪がたずねた。
「ほ、世にも美しい女人、どなたさまでござります」
「|伜《せがれ》、茂左衛門の嫁じゃ。所用あって、きょうこの下屋敷に参っておる」
 と、如雲斎は答えた。
 やがて、嫁のお加津が、お支度ができました、と報告に来た。
「では、かねて申してあるように」
 正雪に合図されて、田宮坊太郎とお類は、隣室に去った。このときはよろめいているのはお類であり、それを支えているのは血まみれの坊太郎であった。
 それから十数分。――如雲斎らは、ただ音だけをきいた。
 かすかに、かすかに。――しかし、たしかに男と女のあえぐ声が起こり、しだいにそれが高まっていった。
 いていいものやら、去っていいものやら、迷い、けげんそうな表情をしていたお加津の顔が、ふいに赤く染まった。黙って、お辞儀して、ひき|退《さ》がろうとする。
「お待ちなされ」
 と、正雪がとめた。
「御当主の奥方さまなら、知られてよいことです。しばらく、お待ちを」
 甘く、熱いあえぎの声が、ふいにまたお類の悲鳴で断ち切られた。
「ああっ、坊太郎さま!」
 それから、よよと泣き|崩《くず》れる声に変わった。
「――はて」
 正雪はくびをかしげた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:48
「田宮、相果てたかもしれませぬな」
「相果てた?」
「あの病気のところへこの|昂《たか》ぶり、ひょっとしたら、このまま死んだかもしれませぬ。いや、たとえ生きておっても、もはや生ける|屍《しかばね》、|蝉《せみ》のぬけがら同然、そのいのちもまもなく灯の消えるがごとく消える運命でござりますれば、いっそいま、このまま死んだ方が世話要らずにてよいかもしれませぬ」
 正雪は立って、隣室に入った。
 それからさらに十数分。――隣で何をしていたか、やがて彼は出て来た。お類ひとりをつれている。
「案の定、田宮は絶命しておりました」
 と、彼は何のこともなげにいった。
「その屍体でござるが……如雲斎さま、あとになって新しき田宮がまた出現したとき人騒がせになってはうるそうござるゆえ、どうぞ人知れぬよう、腹心の御家来を以て、どこかへ片づけさせていただきとう存じまする」
 如雲斎は黙したまま、お類を見た。
 お類の頬はややあからんで、眼は宙を見たまま、|恍《こう》|惚《こつ》とうるんでいるようだ。――この娘がいま何をしてきたかと思う。江戸と四国から、時を合わせて相逢うた恋の二つ星、話をきけばふつうでない娘としか思われないが、さっきちらと見た印象では、ただひたむきなだけの|初《うい》|々《うい》しい武家娘に見えた。それがいま――相手の星は落ちた。あからさまにいえば、彼女の肉体の中でくだけ散ったらしいのに、それももはや念頭にない様子で、彼女はウットリとして、むしろ妖気をたたえてしずまりかえっている。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:48
この娘は変わった! なんとなく如雲斎はそう感覚して、ぞっとした。
「この女人は、まちがいなく田宮の子を孕んでおりまする。……その証拠を少なくともあと一ト月お待ちいただかねば、先生の御見に入れられぬのが残念至極」
 正雪はいった。
「先生、一ト月お待ち下されませ」
「一ト月」
 と、如雲斎はいった。すでになかば、正雪の奇怪な言葉に乗せられた調子である。
「わしは、あすあさってにも、旅に出ようと思っていたが」
「旅へ? 恐れながら、その御老体を以て、どこへ?」
「九州の熊本へ」
 しばらく如雲斎を凝視していた正雪は、やがて、
「熊本――と仰せられると、もしやしたら宮本武蔵どののところではありませぬか?」
「どうして、知っておる」
「武蔵どのは、この冬ごろから病んでおられると承りましたゆえ」
「左様。で、見舞いにゆこうと思ってな」
「ふかく|御《ご》|昵《じっ》|懇《こん》でござりまするか」
「相知といえば相知。|迂《う》|遠《えん》といえば迂遠。――正雪、そなた武蔵どのを存じておるのか」
「はっ。……実は、七年ばかりまえに、ちょっと」
 由比民部之介正雪は、ちょっとキナくさいような顔をした。七年ばかりまえ、すなわち寛永十五年三月、島原の一夜を思い出したのである。
「よし。一ト月待とう」
 と、如雲斎はうなずいた。
「そなたの申すこと、田宮の件、何とも|解《げ》せぬところがある。そなたも、この娘御も一ト月ここにおれ」
「すりゃ、正雪の申すことお信じ下さる」
 正雪は微笑した。
「如雲斎さま、このことはあなたさまだけ――少なくとも、あなたさまが秘せと命ぜられて秘するお方以外には絶対秘密のこととして下されませ。実はこの田宮坊太郎とお類のちぎる為にお邸をかりましたは、如雲斎先生も是非御覧ねがいたいと存じたからでござる」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:48
【四】

 ……もう二十何年か前になるであろうか。
 名古屋城の|濠《ほり》|端《ばた》を両方から歩いて来たふたりの武士が、三間ばかりの間隔をおいて、ピタリと釘づけになった。ひとりは尾張藩士らしい姿であったが、もうひとりは|垢《あか》じみた|牢《ろう》|人《にん》|風《ふう》の男であった。
 ただふたりだけ、そこですれちがおうとしたのではない。ほかにも行人がいたし、その行人のだれもが、このふたりが立ちどまったことさえ、特に眼をとめた者はなかった。ましてや、両人のあいだに異様な空気がピーンと張りつめたことなど知るよしもない。
 ややあって、牢人者が声をかけた。
「ひさびさに、生きた達人に逢うたものかな。もしやすると、あなたは柳生兵庫どのではありませぬか」
 すると、武士もうなずいて、
「はじめてお目にかかるが、あなたは宮本武蔵どのではおわさぬか」
 そして、ふたりはニヤリと笑った。
 柳生兵庫は、如雲斎の本名である。――これが、この当代の二大剣人の最初の出会であった。
 兵庫は武蔵を屋敷につれて来て、一夜兵法話を愉しんだ。
 翌日、武蔵は、尾張藩の家老大導寺|玄《げん》|蕃《ば》の屋敷に移った。彼は大導寺を訪ねて名古屋へやって来たものであった。
 大導寺玄蕃は、武蔵を、藩主徳川義直に兵法指南役として周旋する希望を持っていた。尾張藩にはすでに柳生兵庫という師範があるが、江戸の将軍家にも柳生但馬守と小野次郎右衛門という二人の師範があるように、尾張のごとき大藩では、充分武蔵を受け入れる余地があったからである。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:49
しかし、この交渉は成功しなかった。
 尾張藩では、武蔵を非常に愛惜したものの、旧来の柳生兵庫が五百石であるから、新任の武蔵をそれ以上の|禄《ろく》を以て召しかかえることはできないという方針を崩さなかったからだ。この内意をきいて、武蔵はしばらく沈思していたが、
「御縁なきものと諦めるよりほかはござるまい」
 と、|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげていった。そして彼は孤影|飄然《ひょうぜん》と名古屋を去った。――いったい武蔵は、どれくらいの禄をみずからにふさわしいと思っていたのか、というと、どうやら少なくとも三千石は見ていたらしいという。
 そういう話を、柳生兵庫はあとできいた。きいて武蔵を|傲《ごう》|岸《がん》とも、それをついに受け入れなかった藩の処置を痛快とも思わなかった。
「……江戸の柳生ですら一万石じゃからの」
 と、兵庫は|憮《ぶ》|然《ぜん》としていった。
 彼は、武蔵の自負を当然と理解した。そして、それをつらぬき通した武蔵に|羨《せん》|望《ぼう》をおぼえた。兵庫は、武蔵とじぶんと性格的に相通ずるものがあるのを感じていた。おのれをたのむことふかく、容易に妥協することがない。……ただ、それでも五百石に甘んじているじぶんよりも、はるかにそれは強烈である。
 爾来、柳生兵庫――如雲斎は武蔵に|逢《あ》ったことがない。
 武蔵はあれ以来二十数年、なお一剣を抱いて漂泊の旅をつづけていたらしい。如雲斎は武蔵という孤高の人間に、いよいよ敬意といたましさをおぼえた。
 そして、この春、ふと、武蔵が熊本で病んでいるという話をきいたのである。それが再起できぬほどのものであるかどうかは知らず、年も年だ、出来るならもういちど逢うておきたいという望みにつきうごかされた。
 さいわい彼は、あとを一子茂左衛門にゆずり、べつに三百石の隠居料をもらって下屋敷――というより隠居所に閑居している身分である。如雲斎は主君のゆるしを得て、明日にも九州へ旅立とうとしていた。
 そこに突如として訪れた怪異である。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:49
一ト月、彼は待った。
 田宮坊太郎のなきがらはひそかに処置した。
 正雪はこのあいだ、東と西へ、一、二度飛脚を出したようであった。東は江戸で彼が経営しているという軍学道場へであろうが、西へはどこへ飛脚を出したものであろう、そう疑問に思ったが、べつに如雲斎は何もきかなかった。
 お類という娘は――変わったともいえるし、変わらなかったともいえる。
 彼女は妊娠したようにも見えなかった。たとえ妊娠したとしても一ト月くらいで目立つ変化があるわけではないが、それにしても彼女の姿態は変わらなさすぎた。ただ皮膚が青味をおびて、半透明の気味をおびて来たくらいである。にもかかわらず、たしかに何かが変わって来た。それが、眼――ときに名状しがたい凄壮のひかりをはなつ眼にあることを如雲斎は気がついた。
 それに――言語動作が、あくまで尋常であるにかかわらず、どこかふしぎに、夢の中に漂っているか、何かに|憑《つ》かれているようなところがあった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:50
【五】

 一ト月たった。四月の末になった。
 ふたたび如雲斎の旅支度を手伝うために、嫁のお加津が本邸からやって来た。
 それを知って、正雪がいった。
「あまりお待たせするもいかがと存ずる。では例のもの、|御《ぎょ》|見《けん》に入れよう」
 そして彼は、お類が一子を|分《ぶん》|娩《べん》するための一室を拝借したいといった。
「……お加津さまにも御覧ねがいたい。いや、お手伝い下されとは申さぬ」
 その一室に、柳生如雲斎とお加津は待った。
 やがて由比正雪は、お類の手をひいて入って来た。お加津があっとさけんだのは、そのお類が一糸まとわぬ姿となっていたからである。……しかし、腹部にはなんの異常もなかった。ただ彼女の顔は、恐怖ともみえる緊張のために能面のようになり、皮膚はいよいよ青味がかっていた。
「では。――」
 というと、由比正雪は一刀をぬきはらい、そこに立っていたお類の頭上から真一文字に|斬《き》り下げた。
「この世に出でよ、田宮坊太郎!」
「――おおっ」
 と、如雲斎はさけんだ。
 正雪は女を|唐《から》|竹《たけ》|割《わ》りに斬ったのではない。――ただ、そのひたいから鼻ばしら、胸から腹へかけて、うすくすじを入れただけだ。
 いかに兵学者と称しているとはいえ、この男にこれだけの神技があろうとは思われぬ。如雲斎の眼には、はじめから対象の内部にすじが入っていて、ただ正雪の刃風を受けただけで、それがみずからはじけたように見えた。
 一瞬、お類の顔からからだにかけて、赤い線が走った。そこから、顔にもからだにも八方に亀裂が散り、網の目を作ったかと思うと、その皮膚をおし破って、内部からべつの人間がニューと出現して来たのである。
 声にならぬ悲鳴をあげて、お加津は如雲斎にしがみついた。
 刀をつかんだ如雲斎をふりむいて――由比正雪は、片眼をつむって、にっと笑った。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:50
お類は八方に破れた風袋みたいなえたいのしれぬものと化して、たたみの上にぬぎすてられた。中からあらわれたのは、二十歳すぎの美青年――スラリとしていながら、|鞭《むち》のように筋肉のしまった田宮坊太郎その人であった。
 むろん、彼はまっぱだかだ。
 はじめ、天地|晦《かい》|冥《めい》の中にあるように|茫《ぼう》|乎《こ》としてつっ立っていたが、ふいにその|双《そう》|眸《ぼう》がかっと見ひらかれて、じいっと一点にそそがれ、妖しいひかりをはなち出した。――お加津の方へ。
 フラフラと彼は歩き出した。
「田宮」
 と、正雪がさけんだ。
「ちがう、早すぎる。それは柳生さまの御妻女であるぞ」
 田宮坊太郎はふいにがばと座り、両手をつかえた。それが如雲斎にはまるで主人のまえに前肢をそろえた犬みたいに見えた。
「……どうしたのじゃ、正雪。……」
 と、如雲斎はかすれた声でいった。
「もはやお信じ下さりましょうが。……新しい田宮が生まれたのでござります。坊太郎が再生したのでござりまする」
 そういいながら正雪は、いつのまにか用意していた衣服を坊太郎に投げあたえた。坊太郎はそれを身にまといはじめた。夢の中にいるか、何かに|憑《つ》かれたような動作だが、一方で妖炎のチロチロと燃えているような眼をお加津の方へ投げる。――
「こ、こりゃまことに|曾《かつ》ての田宮であるか」
 なおお加津をひきつけたまま、如雲斎はきいた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:51
「同一人にして、また別人」
 と、正雪は答えた。
「とは?」
「魔人の田宮坊太郎」
「魔人。――」
「剣技は以前の田宮と同一ながら、魂は魔物でござる。……こやつを飼い馴らすは拙者か、あるいはもうひとりのあるお方だけでござろう。正直なところ、拙者にもちと心もとないほどで」
「田宮は」
 と、若い|狼《おおかみ》と相対した老虎のごとき眼でにらみすえながら、如雲斎はいった。
「生まれ変わったら、剣を捨てると申したが」
「それは、剣の天才よ、剣の孝子よともてはやされ、ガンジガラメとなり、ついに剣によって青春を失ったと悔いておる若者の嘆きの声にしかすぎませぬ。いま、新たに再生すれば話はまた別。むしろ、剣によって欲望をほしいままにすることができると知ったなら。――これ、まだ早いと申すに、焦るな」
 と、正雪はまた坊太郎を叱った。これは獣の調教師のようなおもむきがある。
 お加津に、ぶきみにひかる眼を吸いつけて、舌なめずりする坊太郎に不安を抱きつつ、大刀をひっつかんだまま、如雲斎はなおきく。
「正雪。……これは男なら、誰にも成ることか?」
「いや、それは成りませぬ」
「誰にも成らぬと?」
「左様、まずだいいちに、かかる再生をなすことのできるだけの比類なき体力の所有者でなければなりませぬ。次に、是が非でも再生したいという強烈無比の意志を持たねばなりませぬ」
「もういちど生まれ変わりたいという欲なら、この世に生を受けた者なら、誰でも持っておろうが」
「それが、かいなでの欲では|叶《かな》わぬのでござる。人間、ふだんは不足不満をのべたて、|愚《ぐ》|痴《ち》|溜《ため》|息《いき》を吐きちらしておるようでござるが、これで存外死するにあたって、ほぼ大過なき人生であったと|諦《てい》|観《かん》したり、或いは、この業苦にみちた命の終わるのをかえってよろこびとしたり、いやいや大半の人間は、ただただ気力も体力も喪失し、うつろな眼を見ひらいて死んでゆくばかりです。ましてや、いま申したような気力体力絶倫の人は、当然満足すべき生を送ってきたものでござれば――」
「満足すべき生――」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:51
如雲斎の眉に、苦笑がにじんだ。それをじっと凝視して、
「されば、この再生を行ない得るものは、死期迫ってなお超絶の気力体力を持ちながら、おのれの人生に歯がみするほどの悔いと不満を抱いておる人物、もうひとつ別の人生を送りたかったと熱願しておる人物でなければならぬのでござる。……それほどの人は、存外この世に少ないものでござる」
「死期迫って――」
 如雲斎は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「わしはまだ死なぬぞ」
「そのように相見えまする」
 正雪がけろりとしていうのを、如雲斎はわれにかえったようにながめかえして、
「なるほど、死期迫ってなお女と交合するほどの奴は、ただ者ではないかもしれぬ。――で、もしそれほどの人間ならば、相手の女は誰でもよいと申すのか」
「いや、その人間が、深く恋慕しておる女にかぎります」
「ふむ」
「さらに、その女に、あらかじめ術をかけておかねばなりませぬ」
「術」
「されば、はじめこそ子宮に宿し、やがてその子宮を溶かして腹腔に育て、ついにはその体内すべてを子宮と化して、卵を割る鳥のごとくに人を生む女体」
 如雲斎は、たたみの上を見た。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:52
さっき皮袋のごとくぬぎすてられたそれは、いつしか肉色の泥のようなものになり、さらに液体化しつつあった。いまの季節でもおそらく十数日はかかるであろう|屍《し》|体《たい》現象が、数分のあいだに起こりつつあるのだ。
 ただ、当然これにともなうべき腐臭はない。いや、それも腐臭かもしれないが、人間ではなく地に散りたまった花の腐るような甘ずっぱい|匂《にお》いが、あたりいちめんに濃くただよっていた。――しかし、それも如雲斎は感覚しない。
「あの娘。……おのれがかくなることを知っておったのか」
「覚悟しておりました。|惚《ほ》れた男のためには、じぶんはどうなろうといとわぬ女心。哀れと申そうか、あっぱれと申そうか」
「田宮は、生まれ変わったら、好きな女とおだやかな暮らしをしたいと申していたが、生まれ変わったら、その女はこの世におらぬではないか。いや、その女が死ぬことによって生まれ変わるのではないか。両人、それも承知か」
「そういう理窟になりますな」
 正雪はうす笑いした。
「そこが、それ、魔道に|憑《つ》かれ、忍法にとらえられた両人、死をかけて交合する虫のごとく、また死するを承知で産卵のため川をさかのぼる魚のごとく」
「忍法と申したな」
 と、如雲斎はきっと正雪を見すえて、
「由比、その方は、かかる幻怪の忍法をいずれより習った」
「拙者、習いませぬ。拙者には及ばぬことです」
「何?」
「すべて拙者の師のなされたわざでござる」
「そなたにも……まだ師匠があるのか。そ、それは、何という――」
「ここで申しあげてようござりまするが、奇縁、奇縁、先生は熊本に参られるとか、熊本にゆかれて、そこでじかにお|逢《あ》いなされた方がよろしかろう」
「……その人物は、熊本に住む人か」
「いや、そうではござりませぬ。――四国にいって、いまのお類と申す娘に忍法をかけたのち、その足で熊本へ参られたのでござる」
「何のために」
「死期迫った宮本武蔵どのを、この田宮のごとく再生いたさせるために」
「な、な、なんと申す。……武蔵どのを?」
 如雲斎は、彼自身が|瀕《ひん》|死《し》の人のごとき|喘《ぜん》|鳴《めい》をもらした。正雪の顔から、うす笑いが消えた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:52
「いま、先生の熊本ゆきを奇縁と申しました。またそのことを、拙者飛脚を以て師へお知らせしました。……が、師には、或いははじめから、柳生如雲斎さまが宮本武蔵どのの死に立ち会われることをお見通しであったかもしれませぬ。――」
「武蔵どのは……死なれるというのか」
「わが師がゆかれた以上、そうでござりましょう。あたかも、死の匂いをかぎつける大空の|烏《からす》のごとく」
 正雪は笑いを消したのみならず、むしろ厳粛の気をおびた眼で、
「さて、如雲斎さま」
 と、いった。
「田宮再生のこと、お加津さま、誰にも申してはおられますまいなあ」
「……いってはおらぬはずだ」
「茂左衛門さまにも?」
 如雲斎はじろと嫁のお加津を見た。なかば喪神した、紙のような顔色で、お加津はわずかにうなずいた。――彼女はそのことを、正雪のみならず、|舅《しゅうと》の如雲斎からも命じられていたのである。
 正雪は、そうお加津に念をおしただけで、平伏した。
「では、拙者ども、これにておいとま仕りまする。……ごらんのごとくこの田宮、やがて次第に心のかたちをととのえて参りますれど、いまのところまだ女人に対して獣同然にござりますれば、一刻も早う御当家を立ち去るにしかず――」
 正雪は坊太郎をひっ立てるようにして身を起こした。
「御宿拝借、かたじけのうござった」
「待て、正雪」
 と、如雲斎は呼びとめた。――むしろ、|沈《ちん》|鬱《うつ》な眼をあげて、
「おまえは、わしがこのことを余人の誰にもあかさぬと信じ切っておるように見える。いや、いつぞや、この田宮と女のちぎる場所を借りたは、たんに田宮とわしが旧知の縁であるというばかりでなく、このわしに見せたいからだと申したな。……これほどの怪異、わしに見せて、わしがおまえらをこのまま見のがすものと思うておるか?」
 いま見のがすどころか、そもそも一ト月まえから、この柳生如雲斎が|唯《い》|々《い》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「いゝ」]としてこの奇怪な三人に宿を貸し、黙々としてその行状を見るだけで過ごすのみかお加津に口外することを禁じたのは、ふしぎなことだ。彼のはげしい性格からしても尾張藩士たる立ち場からしても、あり得ないことであり、あってはならないことである。事実、彼自身、じぶんの態度をふしぎに思っている。たんなる好奇心ばかりでなく、何やら夢魔のようなものが、如雲斎の魂をつかんでいるようであった。
 正雪はあたりまえみたいな顔をして、うなずいた。
「左様に信じ申しあげておりまする」
「なぜ?」
「あなたさまもまた、ふたたび生まれ変わりたいと念じておられるお方でござれば」
「なに?」
「あなたさまも、おのれの人生に歯がみするほどの御不満を抱き、もうひとつ別の人生を送りたかったと熱願しておられるお方でござれば」
 柳生如雲斎は、はっと瞳をぬかれたような顔をした。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 11:53
【六】

 ……そもそも柳生如雲斎こそ、柳生家の正系なのであった。
 というのは、彼の父柳生新次郎|厳《よし》|勝《かつ》が、太祖石舟斎の嫡男だったからだ。しかし、この新次郎は、祖領柳生の庄を戦国の嵐から守りぬくためのいくたびかのいくさのあいだに傷つき、若くして不具となった。
 二男久斎、三男徳斎は出家し、四男五郎右衛門もまた討死し、石舟斎は五男又右衛門|宗《むね》|矩《のり》を徳川家康に仕えさせた。文禄三年、まだ秀吉の全盛時代であり、ときに又右衛門は二十四歳であった。
 嫡孫、柳生兵庫はまだ十七歳で、石舟斎はこれを掌中の珠として手もとにとどめおいた。
 剣聖石舟斎は、この孫こそおのれの刀法を伝えるに足る|天《てん》|稟《りん》をそなえたものとし、その性剛強無比、容易に人の下風に立たぬものと見て、二十六歳のときまで|膝《しっ》|下《か》で薫陶したが、このとし、慶長八年、加藤清正の懇望により、ついに加藤家に仕えさせた。二十六歳の若さを以て、三千石の高禄である。同年、彼とは七歳の年長たる叔父又右衛門は徳川家にあって、まだ二千石にしかすぎなかった。
 このとき、石舟斎は清正にむかって、とくに、
「兵庫儀は、ことのほかなる一徹者でござれば、たとえいかようのことを仕出かし候とも、三度までは死罪を御免なされ候え」
 と、願ったという。以て彼のただならぬ性格のはげしさを知るべきである。
 慶長十一年、太祖石舟斎は七十八歳を以て柳生の庄に歿した。
 それからまもなく、柳生兵庫は加藤家を辞して浪人した。祖父が案じたような衝突を主家とのあいだに起こしたというのではないが、やはり奉公を窮屈に思ったからであろう。彼は一剣をたずさえて、諸国を放浪した。
 彼が尾張大納言義直に奉公したのは、それから十余年後の元和の時代に入ってからのことである。すでに四十歳ちかくになっていた。
 このときの彼の受けた扶持は五百石であった。この事実が、時の移り変わりと、そして彼の心境の変化を物語っている。
 兵庫が加藤家に仕えたことと、その後の浪人時代の空白は、徳川家に仕えた叔父の又右衛門宗矩とのあいだに、決定的な落差を作り出してしまった。そしてそれは、時のながれとともにいよいよひろがっていった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:29
叔父である。それを不服と思うわけではない。しかし兵庫が釈然たり得ないのは、江戸の柳生一門が、柳生新陰流の本流のごとき顔をしていることであった。
 血統としては、兵庫の方が正系だ。のみならず。――
 太祖石舟斎は、五男但馬守にさえゆるさなかった一国一人の新陰流の印可状を嫡孫の兵庫に相伝したのである。
「但馬、何ぞや。……彼は剣人にあらずして政治家ではないか」
「……江戸柳生何するものぞ」
 この自負と|叛《はん》|骨《こつ》と|冷《れい》|蔑《べつ》は、兵庫、入道して如雲斎となったいまも、ついに彼の胸から去らなかった。いや、年とともにむしろ妄念と化して暗い炎をあげていた。
 |曾《かつ》て田宮坊太郎が彼の教えを請うたとき、「江戸柳生と尾張柳生はちがう。いまわしの指南を受ければ、かえっておまえの剣法に迷いと乱れが生じるだろう」としりぞけたのは、それはそうにちがいないが、一方で、ひとたび江戸の但馬守の剣風の洗礼をあびた者に対する、大人気ないといえばいえる反撥もあったのである。
「……で、ござろうが」
 いま由比正雪がうすら笑いをうかべ、上眼づかいにいうのに、とっさに柳生如雲斎は返答の言葉を失った。
「――と、わが師が申されたのでござる」
「正雪」
 と如雲斎はしゃがれ声でいった。
「……おまえの師とは何者か?」
「九州へおゆき下さればわかるでござろう」
「……そも、何の目的あって、かかる怪異のわざをなす?」
「それも熊本にて、わが師におききなされませ」
 正雪は一礼した。
「では、これにておいとまつかまつる」
 そして、彼が田宮坊太郎をひっ立てるようにして出てゆく姿を、柳生如雲斎は悪夢にうなされたような眼で見送ったまま、それ以上これをとめる力を喪失していた。
 ――史書によれば、田宮坊太郎国宗の病歿したのは、正保二年三月二十三日と伝える。これはそれから一ト月たった四月二十四日の話である。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:29
数日たって、柳生如雲斎は孤影|飄然《ひょうぜん》と西へ旅立った。
 はじめの予定では、七八人の門弟を同伴することになっていたが、如雲斎はすべてこれを断わり、考えるところあってただひとりでゆくといい出したのである。
「それは、いかに何でも、六十七歳の御老体が」
 と、子息の茂左衛門はおどろき、気づかったが、如雲斎は、
「ばかにするな、こう見えて、おまえより若いぞや」
 と、一笑した。
 事実この老人は元来大兵肥満、皮膚は黒いあぶらをぬったようにつやつやとして、ぶきみなくらい精気にみちていたが、このとき何かに|憑《つ》かれたように眼が異様なひかりをはなって、茂左衛門を沈黙させた。もともといい出したらきかない性分なのである。
 如雲斎が熊本についたのは五月十九日のことであった。
 熊本は彼にとってはじめての土地ではない。まえにものべたように、彼は若いころ、ここの領主が加藤家であったころ奉公していたからである。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:56
地獄篇第三歌


     【一】

 そもそも最初、柳生如雲斎が武蔵を見舞おうという気を起こしたのも、熊本という土地に対する懐旧の念もいささかまじっていなかったとはいえない。
 むろん、それから四十年ほどもたち、領主は細川家に変わっている。しかし旧知の家があって、その知人から如雲斎は、藩老長岡|監《けん》|物《もつ》に紹介された。もとよりそんな因縁がなくとも、柳生如雲斎の剣名はこの熊本にまで知られている。
 監物はすぐに引見して、
「実は、武蔵は岩戸山の霊巌洞に|籠《こも》っている」
 と、いった。
 岩戸山なら、如雲斎も知っている。熊本の西にそびえる金峰山の中の一峰で、そこに雲巌寺という禅寺がある。その寺からまた一山越えた山裏の中腹に霊巌洞という岩窟があって、ここに石体四面の観世音が安置してあるが、めったに常人のゆくところではない。
「武蔵どのは、病んでおるのではありませなんだか」
「この二月のころより病んでおります。病むと同時にそこに上って、ひき籠ってしまったのでござる」
「ほう」
「もともと、武蔵はそこが気に入って、ここ数年しばしばその岩窟内で座禅し、また書き物などをしてはおったが」
 長岡監物は、ふと何かを思い出したように手をたたいて小姓を呼び、何かを命じた。小姓が厚い書き物を持って来た。
「これは武蔵が先年より霊巌洞にて書きつづけ、藩中の弟子にさずけたものでござるが、如雲斎どのならばお見せしてもよかろう。御覧なされ」
 監物はその書き物をさし出した。
 如雲斎は受けとって、それをひらいた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:56
「五輪書」
 という文字がまず眼を射た。
「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練のこと、はじめて書物にあらわさんと思い、時、寛永二十年十月上旬のころ、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信。年つもって六十」
 そして十三の年より二十八九まで、六十余度の決闘を重ねてきたが、ついに一度も敗れたことはなかったとのべ、
「……それより以来はたずね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事に於て我に師匠なし。いまこの書を作るといえども、仏法儒道の古語をもからず、軍法軍記の古きことをも用いず、この一流の見たて実の心をあらわすこと、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜、|寅《とら》の一点に筆をとって書きはじめるもの也」
 寛永二十年。――いまを去ること二年前である。
 十月十日の夜寅の一点(午前四時)といえば、山上の夜いまだ明けず、寒天の星なお凍る時刻であろう。――以下、「地」「水」「火」「風」「空」の五巻にわけて、これは武蔵が一代のあいだに編み出し、到達した兵法の哲理を解き明かしたものであった。
 一行また一行。
 そこにかかれてある文字は、柳生如雲斎の胸奥に弦音のごとき共鳴りを発しないものはない。
 いくたびもその文字に眼が吸いつけられ、めくってゆく指がうごかなくなるのをおぼえながら、如雲斎はむりにそれを卒読して、
「で、いま、武蔵どのは?」
 と、監物を見あげた。
「霊巌洞で病んでおるらしい」
「だれもそばについておる者はないのでござるか」
「ただひとり、武蔵が以前から使っておる伊太郎という十七八の少年がついて世話をしております」
 と、監物はいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:57
「この三月の半ばごろまでは、当藩の門弟ども数名、なお世話をしておったが、そのころから伊太郎以外は身辺に近づくをゆるさず、ただ伊太郎が食物、水などをとりにくるのを麓で手わたすばかり。……そうそう、十日ばかりまえ、伊太郎が妙なものを注文しおった」
「何でござる」
「|甲冑《かっちゅう》一式。しかも侍大将の」
「ほう」
「きけば、武蔵はそれを身につけたまま死のうとしているらしい」
 如雲斎はしばし沈黙してかんがえこんだ。それからこの剛毅の老人は、ふいにかすかに眼に涙をうかべた。
 侍大将の|鎧《よろい》に身をかため、山上で下界を見わたしたまま死んでゆこうとしている老武蔵。それは彼の一代の夢想を死の瞬間にかなえようとする子供らしい欲望であるかもしれぬ。如雲斎は、その心を思いやって涙をおぼえたのだ。
「武蔵は石の上に座禅を組んでおるが、日に日に衰えてゆきつつあるらしい。……のみならず、そばについておる少年伊太郎もみるみるやつれ、このごろは人間の顔色をしてはおらぬという。あれやこれやで、熊本城下にもいろいろと風評がたち、なかには深夜、岩戸山を亡霊のごとき白い影が上がってゆくのを見たという者まであらわれ……武蔵をいたむ心はべつとして、実はわれらも少々困惑しております」
「亡霊のごとき影。――」
 と、如雲斎はつぶやいた。
監物は眉をひそめて、
「それも、武蔵のあまりに常人とはなれた所業ゆえの流言でござろう。ともあれ、柳生如雲斎どのがおいでとあれば、いかな武蔵でもお逢いせぬということはござるまい。こちらよりお願い申す、如雲斎どの、是非いちど見舞うてやって下されい」
「では、これから」
 と、如雲斎は身を起こした。
「これから? ……きょうは、もう日が暮れますぞ」
「いや、一日おくれてついに生きておる武蔵どのに逢えなんだとあっては、とりかえしがつきませぬ。即刻、参ろう。岩戸山は、拙者も存じておる」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:58
【二】

 五月十九日の太陽は西へかたむいていた。
 熊本の西方一里――金峰山へむかって歩めば、落日を追うことになる。
 長岡監物のつけてくれるという案内役を断わって、ひとり山へいそぎながら、如雲斎は、武蔵はあれだと思った。落日のことだ。
 曾て武蔵という剣の太陽が中天にかがやいたことがあった。慶長九年に於ける吉岡一門との激闘、また慶長十七年に於ける佐々木小次郎との決闘がそれである。
 が、それは武蔵自身がいっているように、彼が二十八九までのことであって、「それより以来はたずね入るべき道なくして光陰を送った」のである。世間的にいえば、彼はこの剣名高い期間に、出世の馬に乗りそこねたのである。
 無為に光陰を送ったのではない。江戸に出て直接幕府に仕官しようとしたことがある。尾張藩に仕えようとこころみたこともある。筑前の黒田家に奉公の口がきまりかけたこともある。幕府そのものはもとより、他のいずれも大藩であって、彼の大志を見るべきである。小笠原の軍監などいう肩書を持ったこともあったが、おそらく彼ははじめから、たかが十五万石の小藩にじぶんを売りこむ気はなかったであろう。
 要するに武蔵は、そのどれにも|頓《とん》|挫《ざ》した。あまりに高く吹っかけすぎたからだと世人は評した。
 そして、とどのつまり、彼は、細川藩にわずか十七人扶持三百石で骨を埋める結果となった。しかも、最後に骨を拾ってくれた細川忠利も、その翌年にこの世を去ったのである。
 挫折の生涯である。不遇の人生である。薄運の一生である。――表面的に見ればだ。
 ――しかし、如雲斎は、挫折、不遇、薄運の武蔵にひかれた。そういう武蔵であればこそひかれるといっていいほどであった。
 なんとなれば、そんな運命がじぶんに似ていると思うからだ。じぶんも加藤家を辞してから、十余年浪人した。そして、ただ柳生一族というおのれの家名に屈して、ついにまた不本意な仕官をしてしまったが、その漂泊をほとんど生涯つらぬき通した宮本武蔵という人間は、じぶんよりもはるかに強いと思う。最後に彼が細川家に入ったのも、もはやただ墓に入るつもりの心境であったろう。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:58
げんに、さっき読むことのできた武蔵の「遺書」ともいうべき文章の中に、なお如雲斎の胸に彫られている数行がある。
「|独行道《どくぎょうどう》」
 と題するもので、
「一、身に、たのしみをたくまず。
 一、われ、事に於て後悔せず。
 一、いずれの道にも、別れを悲しまず。
 一、恋慕の思いに、寄る心なし。
 一、一生のあいだ、欲心思わず。」
 など。……
 世俗的には、まさに武蔵は無為に光陰を送ったが、心の上では、断じて無為に光陰を送ったのではないことを、如雲斎はみとめざるを得なかった。
 如雲斎がこんどの旅を発心したのは、まさにそういう武蔵の心境に触れたいがためであった。入道してもなおたちきれぬ自分の妄執を、彼はいかに|解《げ》|脱《だつ》したか? と、武蔵によって吹きはらってもらう望みを抱いてのことであった。
 果たせるかな、武蔵はここまで到達している。落日はただひとつ、荘厳な炎をあげて沈みつつある。
 ――その落日を追いながら、しかし如雲斎の心には、もうひとつ別の雲がわいていた。
 いうまでもなく、
「死期迫った宮本武蔵を再生させるために、わが師が熊本へ参られておる。すべては九州におゆきになればわかるでござろう。そこにてわが師にきかれませ」
 といった由比正雪の言葉から発した雲だ。
 いまや如雲斎がここへ旅してきたのは、むしろこの言葉に憑かれてのことだといっていい。それ以上、如雲斎は正雪からきかなかった。彼ほどの人物が恐怖のために、それ以上きけなかったのだ。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:58
熊本に来て、さらに彼は、長岡監物が奇怪なつぶやきをもらすのをきいた。
「深夜、岩戸山を亡霊のごとき白い影が上ってゆくのを見た者がある。――」
 監物はどういうつもりでいったのかよくわからないが、如雲斎としては、心中にうめきをあげざるを得ない。
 夕焼けの金峰山の山塊を、竹杖をついて如雲斎は上っていった。岩戸山はその一峰だ。
 上ってゆくにつれて、東の空には遠く阿蘇の噴煙のたなびくのが見えた。また西の方、樹間をこえて有明の海の水光が見えてきた。いずれも朱色に染められている。
 岩戸山の雲巌寺にたどりつくと、そこから七八人の武士が走り出て来た。
「待て。……どこにゆかれる」
 これが細川の藩士で、武蔵の門弟たる面々であろう、と見ながら、如雲斎は答えた。
「武蔵どののお見舞いに名古屋から参ったものじゃ。……武蔵どのは、この奥の霊巌洞におわすな」
「名古屋から?」
 さすがにおどろいたようである。
「名は何と申される」
「柳生如雲斎。……兵庫と名乗っておったころ、武蔵どのの知遇を得たものじゃ。左様にお伝え下されい」
「柳生兵庫……どの!」
 およそ、剣法を修行する者で、その名を知らぬ者はあるまい。武士たちは驚きと敬意を浮かべた眼で、まじまじとこの入道頭の|魁《かい》|偉《い》な老人を見まもった。
 すると、ゆくての雲巌寺の方から、またひとり飛鳥のように走り出て来た者がある。
「いけない! 何ぴとであろうと、ここは通してはならぬ!」
 前髪立ちの十七八の少年であった。
「拙者以外には、この門弟の方々も、ここより奥へは入ってはならぬことになっておる。せっかくですが、おひきとり下さい!」
 如雲斎は、じろと若衆を見た。そして、これが監物からきいた、ただひとり武蔵の身辺に侍しているという、たしか伊太郎という弟子であろうと思った。
 その伊太郎がいまここにいるということは、他の弟子たちのところへ用あって来たか、物でもとりに来たのか。――
「藩の重役であっても、ここから帰っていただいておる。おひきとり願いたい」
 と、伊太郎は大手をひろげてまたくりかえした。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:59
美少年だが、話にきいていた通り、異様にやつれている。それが眼を血ばしらせて、必死の形相なのだ。
「武蔵どのは御存命でおわすな。ならば、ともかく柳生兵庫が来たと申してもらいたい」
「どなたさまであろうと、きょうはならぬ」
 伊太郎は絶叫した。
「このわしでさえ、きょうはそばにいてはならぬとお師匠さまからいわれたのだ。お帰り下さい!」
「きょうは?」
 如雲斎は、この若者の様子にただならぬものをおぼえた。何事かが、いま武蔵の身の上に起こりつつある、と感じた。武蔵はきょう死ぬのではないか。いまのいま、死につつあるのではないか、それとも、ひょっとしたら。――
 黙って、如雲斎は足を踏み出した。
「ならぬと申すに!」
 伊太郎は刀のつかに手をかけた。如雲斎は重い声でいった。
「どけ」
 伊太郎の刀身がひらめくと、そのまま彼はからだをくの字なりにして、どうと地にたおされて|悶《もん》|絶《ぜつ》している。如雲斎は杖としていた青竹でその胴をなぎはらっただけであった。
「これは|狼《ろう》|藉《ぜき》!」
 そこにいた七八人の武士は騒然とした。一瞬、抜きつれたのは、相手がだれかということを忘れたわけではあるまいが、武蔵の門弟としては当然な反射的行動だ。
 夕焼けに|灼《やき》|金《がね》のごとくかがやいた乱刃は、しかし次の瞬間、|凄《すさま》じい音をたてて、その五本までがたたき折られて宙に飛んでいた。刀身を折ったのは、ただ青竹の|一《いっ》|閃《せん》であった。神技としかいいようがない。
 そのままあともふりかえらず、如雲斎は奥の山道にかかった。そして、棒立ちになって立ちすくんでいる侍たちを、ここではじめてふりむいて、
「来てはならぬぞ」
 と、まるでどちらが武蔵の守護者かわからないような言葉を、ニコリともせずに吐いて、スタスタと山道を上っていった。
 霊巌洞は、雲巌寺の奥の院というかたちで、さらに一山越えたところにある。その途中の夕日もささぬ小暗い杉林の中の小道に、じっと笠をかぶった鼠色の影が二つ立っていた。
 如雲斎がちかづいても、うごこうともしない。――かえって、向こうから、
「そこに参られたは柳生如雲斎どのか」
 と、|錆《さび》をおびた声をかけて来た。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 14:59
【三】

 鼠木綿のきものに、やはり鼠色の|手《てっ》|甲《こう》|脚《きゃ》|絆《はん》、それにいわゆる|六《ろく》|部《ぶ》|笠《がさ》をかぶった――いうまでもなく、六十六部だ。
「どうもそのような虫の知らせがあって、ここまでお迎えに参った」
「――そなたらは?」
 すでにあることを予感しながら、如雲斎はきいた。
「正雪からおききでござろうが」
 こう、やや笑いをおびた声でいうのは、どうやら老人らしく、もうひとりの六部は、若い、というより十七八の少年に見えた。
「まず、間に合うてよかった。武蔵はまだ生きておる。間に合うたということは、やはり例のことを如雲斎どののお眼にかけようと、魔天の神もこころがけられたとみえる」
「何のこと?」
「などと、いまさらおとぼけあるな。あなたがひとりでここに来られたのが、それを見ようという思いに憑かれての何よりの証拠」
 ひくく笑いながら、老六部は暗い杉木立を先に歩く。無礼な言い分である。ふだんの柳生如雲斎なら、決してただではおかぬところだ。にもかかわらず、如雲斎は、その老六部の|仏《ぶつ》|龕《がん》を背負った背を見つつ、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたようであった。
「正雪が田宮坊太郎を以て|御《ぎょ》|見《けん》に入れたはず。……それを、これより宮本武蔵を以てふたたびお見せしようというのじゃ」
「武蔵どのが」
 と、如雲斎は息をつめていった。
「女と交合して……再生するというのか」
「やはり、御存じじゃな」
「――ば、ばかな!」
「如雲斎どの、それが決して荒唐無稽のわざでないことは、田宮坊太郎を以てとくとお知りなされたはず」
「あの若者とはちがう。武蔵どのはことし六十二じゃ。しかも……修行のため、いまだいちどとして妻帯なされたことのない孤高の剣人じゃ。いや、哲人といってもよい。それが。――」
「身にたのしみをたくまず。――恋慕の思いに寄る心なし。――ふふ」
 と、相手はまた笑った。例の「独行道」を知っているのだ。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:00
「そのおのれの生涯を、武蔵は悔いているのでござる」
「なに?」
「あの武蔵ほどの超人的な体力を持っておる男が、一生女知らずに道を求め、悟りを求めて悪戦苦闘、六十二年の命の果てに何を得たか。あわれ、三百石の捨扶持のみ。――いや、禄のことをいうではない、彼もいまさらそれを不服には思うていまい。それ以上の――すべて、ひっくるめて、残ったのはただ|惨《さん》|澹《たん》たる|空《くう》の思いだけではなかったか?」
 そして老六部は「空」そのもののような声でつぶやいた。
「われ、事に於て、後悔せず。――ふふ、ふふ」
「きのどくなことに、武蔵は、恋のみならず剣すらも捨てた」
 杉木立の中の細道を歩きながら、六部はいう。
「実は、われらが武蔵に逢うたのは、こんどがはじめてではない。伊太郎なる弟子の話によれば、七年前、武蔵は島原でわれらを見たことがあるという。――わしが、落城した原の城外で天草四郎などを再生させるのを見たことがあるという。――」
「何という。天草四郎を――天草四郎といえば――」
「にもかかわらず、武蔵は黙して、それを見のがした。武蔵はすでに剣を捨てていたからじゃ。武蔵自身の語によれば、剣法を|一《いち》|分《ぶ》の兵法と呼び、大軍の指揮、政道むきの工夫を|大《だい》|分《ぶ》の兵法と呼ぶ。武蔵は三十にして一分の兵法を捨て、大分の兵法を志したのじゃ。三十以後、武蔵は剣をふるってはおらぬ。少なくとも、人を殺してはおらぬ」
「…………」
「が、思うてもみるがよい。三十以前六十余度に及ぶ決闘のあいだに、武蔵はどれほどの敵を作ったか。その敵が三十以後にどのようなかたちで武蔵のまえに現われたか。これに対して武蔵がついに剣をぬいたことがないということは、その|猛《たけ》|々《だけ》しい気性からして、どれほどの|克《こっ》|己《き》|堅《けん》|忍《にん》を要したか。察するにあまりある。つまり、武蔵はそれほどまでにして大いなる兵法を志したのじゃ。――いかんせん、世はそんな武蔵を求めなんだ」
 老六部は冷たく笑う。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:00
「|斬《き》りたかったであろう。武蔵は、さぞ斬りたかったであろう。……新免武蔵の本領はそこにある。豪剣をふるわざる武蔵というものは存在し得ないのだ。世の人の値ぶみは正しい」
 糸のように細く、しかしぞっとするような声であった。
 このあいだ、もう一方の六部は一語も発せず、ただわらじの音だけをヒタヒタと土にたてている。
「あのとき武蔵が挑んでくれば、ほかにも追手あり、われらとてどうなったかわからぬ。が、武蔵は見のがした。善因善果、見のがしたおかげで、きょうわれらから、文字通り再生の恩を受けようとはな」
「む、武蔵どのは、そのことを承知したのか」
「少なくとも、われらと逢い、言い分はきいた。そして、きょう弟子の伊太郎を遠ざけた。――おのれの死期を、きょうと悟ったからでござる」
「…………」
「|粛殺落莫《しゅくさつらくばく》たる武蔵の人生に、ただいちど、最後にいまや花ひらかんとする。――世の何ぴとも知るまいが、如雲斎どのだけには是非お目にかけたい。ようおいでなされた」
「花」
 如雲斎はいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:01
「女がいるか」
「われらがつれて参った」
「どこのいかなる女を」
「お通という女人を」
「お通。――」
「武蔵の生国播磨宮本村の娘で、いまから三十数年前、武蔵を愛し、武蔵もまたふかく愛したが、剣の修行のさまたげになるとついに思い切った女。――」
「その女か」
「いや、その女は捨てられて、嘆いて死んだ」
「では?」
「その女の姪じゃが、名もおなじお通。その母が若くして死んだ姉の名をとってつけたものであろうが、村人にきけば昔のお通にそっくりの娘じゃそうな。年は二十三、それを探して、つれて来た」
「正雪は」
 と、如雲斎は記憶をよび起こしながらいった。
「その女は、当人がふかく恋着しておる女にかぎるといった。武蔵はその二十三の娘に恋着したのか」
「はじめは昔の女の姪と承知しておった。しかし……しだいに迷って来た。その娘と昔の女との見さかいがつかなくなって来た。まず見られい!」
 突如、杉木立を出た。
 一瞬、視界はふたたび朱色に変わった。それは先刻の赤さよりもっと赤い――血に染めつくされたようなひかりであった。
 そこに如雲斎は、それまで想像していたよりもさらに|妖《よう》|異《い》|凄《せい》|絶《ぜつ》の光景を見たのだ。
 彼らはちょうど横から出て来たことになるが、西に向かう岩戸山の中腹に、人の背丈にあまる|窟《いわや》が洞然と口をあけていた。霊巌洞である。
 ふだんなら暗い穴であろうが、ちょうど前面に|俯《ふ》|瞰《かん》できる有明海に朱盆のような落日が沈みつつあるので、そのひかりにぬれて、巨大な獅子が真っ赤な口をひらいているように見える。岩肌から|雫《しずく》がおちているのが、それも血潮さながらに見えるのだ。
 その赤い口の中に、ひとりの武者が端座していた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:01
【四】

 文字通り、鎧武者だ。|甲冑《かっちゅう》というより、|剽悍《ひょうかん》無比の黒ずんだ当世具足の姿だが、それもまた|兜《かぶと》から鮮血をあびたようだ。ただ兜の下の|頬《ほお》|当《あて》のあたりだけが暗かった。ひかりの陰というより、死の|翳《かげ》りのようであった。
「……武蔵でござる」
 老六部はつぶやいた。
「あの鎧姿も、女を魔性のものと見て、それから身を護らんとするあがきでござった」
 さしてひくい声というわけでもないのに、武蔵にはきこえないらしい。耳をすますと、その鎧がカチャカチャと鳴っている。武蔵は、|瘧《おこり》のようにふるえているのであった。
 柳生如雲斎も、立ちすくんだままふるえた。
 洞窟のまえはやや広い空地となっていて、まわりは奇岩と石の五百|羅《ら》|漢《かん》にとりかこまれている。五百羅漢のうち十数個はその広場にたおれて、散乱していた。
 その中に、石の羅漢とは見まがうべくもあらず、一枚のむしろがしかれ、そこに一糸まとわぬ若い女が雪白の裸身を横たえているのであった。
 眼をとじた頭を西へむけて、両肢をひらいて――すなわちひらいた足を武蔵へむけて。
 暗かった兜の下に、二つ燐光のようなものがひかり出した。――武蔵の眼だ。
 おのれが愛し、しかも修行のためについにしりぞけた昔の女――いや、それにそっくりの娘がいま美しい裸身を夕焼けにぬらして横たわっているのを眼前にして、いままで武蔵の胸にいかなる思念が渦まいていたのか。
 一瞬、青く燃えたその眼には、あきらかに苦悶がはためきすぎたようであった。いまや耳をすまさずとも、その鎧の音はいよいよはげしく鳴りさやいだ。
 ふいに彼はぬうと立ちあがった。
 あごの緒に手をかけて兜をぬいだ。腰におびた陣刀をはずした。頬当をとり、胴丸をぬぎ、膝当を去り――ことごとくこれを投げすてた。鎧を迅速につけ、またぬぐのはもののふの習練の一つだが、この場合、それはこがらしに巨木が枯葉をふり散らすように見えた。
 そしてそこに、裸の武蔵が立った。
「……む、武蔵どの!」
 如雲斎は両腕をさしのばしてうめいたが、うめいたことを意識しなかった。声にもならなかった。また声になったとしても、武蔵に聴感覚はないように思われた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:01
兜をとった武蔵の髪は灰色であった。くしけずったことのない|蓬《ほう》|々《ほう》[#電子文庫化時コメント 底本は濁点付き大返しであるが、参照したすべての版・大辞林は「ほうほう」]たる髪、渦をまいてまばらにのびている頬ひげ、はねあがった眉、高い鼻、えぐったようにこけた頬――それは昔見た通りの武蔵の相貌にまぎれもないが、あきらかに老いている。それ以上に、病みやつれている。
 ただ裸になった六尺ゆたかの肉体は、ふとい骨格の上に筋肉を盛りあがらせて、一見壮年と変わらない。
 曾て見た独特の茶金色の眼が、いまぶきみに青くひかっている。――如雲斎たちには視線もくれず、その眼は地上の女身に吸いつけられている。
 武蔵は歩み出した。
 そして柳生如雲斎は、この老武蔵が朱金の落日の中で女を犯すのを目撃したのである。愛撫というより、それは老いたる獅子の交合のごとく凄絶、むしろ荘厳の気をおびた光景であった。
 ――日が|昏《くら》くなった。朱盆のような太陽が不知火の海に落ちたのだ。
 |仄《ほの》白い|裸形《らぎょう》に覆いかぶさった武蔵のからだは、いつしか黒ずんで、うごかなくなっていた。それは花にとまった巨大な黒い|蜘《く》|蛛《も》のように見えた。
「忍法魔界|転生《てんしょう》、ここに成る」
 と、老六部がつぶやいた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:02
【五】
       
「四郎、武蔵はすでに女に入った。介抱してやれ」
 もうひとりの六部がすすみ寄って、うごかぬ武蔵のからだを朽木でも移すようにひきおとし、女を助けて立たせ、そばにぬぎすてられたきものを手わたした。如雲斎は悪夢からさめたようにいった。
「武蔵どのは――死んだのでござるか?」
「いや、女の胎内で生きておる」
 若い六部に手をひかれて、女が歩いて来た。いまの無惨の姿態は、あれは夢ではなかったかと思われるような、おぼろ月のような佳人であった。
 むろん、はじめて見る顔だが、如雲斎はどこかで見たような気がした。――そして、あれはお類という娘であったと思い出した。田宮坊太郎を再生させた娘だ。もとより容貌はまったくちがう。それにもかかわらず、どこか非常によく似た感じなのだ。
 半透明な、青味をおびた皮膚、美しい顔に似合わぬ凄壮なひかりをはなつ眼、しかも、どこか夢の中にいるような、何かに憑かれたような感じがそっくりなのであった。
「武蔵はこの女の胎内におります」
 と、老六部はくりかえした。
「いや、こうしている間にも刻々と子宮から腹中にひろがりつつあります」
 うすら笑いを浮かべて、ちょっとあたまを下げた。
「如雲斎どの、ではおさらばでござる」
「待て」
 如雲斎は呼んだ。
「そなたは何者だ。名を名のれ」
「森宗意軒」
「何?」
「天草の乱、原の城で死んだといわれる森宗意軒は、ここにかくのごとく生きておる」
「森宗意。――」
 かっと眼をむいて、銀のような白髪とひげに覆われた枯木みたいに痩せた長身の老六部を凝視したまま、柳生如雲斎の脳髄はしびれたようであった。
「おなじく、ここにおるは、天草四郎時貞」
 六部笠の下で、十七八の少年は、にっと妖しく笑った。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:02
天草四郎は七年前島原で死んだ。ときに十七歳か十八歳かであったという。それなのに、いま天草四郎と紹介されたその少年は、依然として十七八に見える。――とはいえ、如雲斎にはそんなことを怪しむ余裕はない。
「と申しても、常人ならば信じまいが、田宮の一件をごらんになった以上、如雲斎どのならばお信じいただけよう。では」
「ま、待て」
 如雲斎は思わず手をさしのべた。
「な、ならば天下の逆賊、さなきだにこの怪事を見せて、やわかわしがこのまま見逃がすものと思うておるか?」
 正雪に吐いたのと同じ言葉を、ふたたび如雲斎は吐かずにはいられなかった。
 森宗意軒はおちつきはらってうなずいた。
「その通り」
 うす笑いを消さずにいう。
「わしらを斬られれば、武蔵はもはやこの世にあらわれることはできぬ。……如雲斎どの、もういちどあの不幸不遇なる大剣士を、この地上に見とうはござらぬか?」
 如雲斎は、息のつまったような顔をした。
 ――少なくともあと一ト月たてば、眼前にいるこの美しい娘のからだを押し破って、武蔵が再誕してくることが可能であることを、彼は知っていた。
「あなたならば、もういちど武蔵を|甦《よみがえ》らせたいはず。武蔵に――あくまで武蔵でありながら、別の人生を送らせてみたいとお思いのはず」
 と、森宗意軒はいった。しずかな声であったが、それにきまっている、という絶大な自信のひびきがあった。
「とすると、この女人を逃がすよりほかはない。またわれらを見逃がすよりほかはない。――」
 |髯《ひげ》の中で、きゅっと笑った。
「そう思って、お呼びしたのでござるよ。いや、そもそものはじめから、田宮の一件をわざわざお見せしたのでござるよ」
「宗意。……なぜ、わしに見せた? なぜ、このわしをえらんだ?」
 如雲斎は恐怖の声を発した。恐ろしいのは、相手のふるう驚倒すべき忍法よりも、むしろそのことであった。
「正雪よりおききのことと存ずるが、……いずれあなたも魔界に|転生《てんしょう》していただこうと思うてな」
「――わしを」
「これで、魔界に転生するだけの力、望みを抱いておる人間は、ありそうで存外ない。わしは探しておる。先年来より探し、またこれからも探そうとしておる。あなたはその貴重なる人材のおひとりで」
「な、なんのために?」
「いずれそのことは、あなたが魔界へ転生されてから申しあげる」
「いつ? ……それは、いつのことじゃ?」
「さあて」
 森宗意軒は、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》の奥から、|梟《ふくろう》みたいな眼で如雲斎を見た。如雲斎の背に冷気がながれた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:03
「ふふ」
 と、宗意軒はやがてふくみ笑いをした。
「それもいずれ。……あなたがこの世を去られるまえに、わしがお訪ねして申しあげる。万事は、その節」
 そして老六部は、若い六部と女をうながした。
 すでにまったく海の果ての残照も消えて、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる山肌を、彼らは「亡霊のごとき白い影」として西へ下ってゆく。
 彼らはどこへゆくのか?
 それをきこうとして、如雲斎はきく気力すら失っていた。
 世の人が知ったら|震《しん》|駭《がい》せざるを得ない人物、生きているはずのない七年前の天草の乱の首謀者、天草四郎と森宗意軒と名乗られながら、如雲斎は人も呼ばず、追いもせず、彼自身の方が死びとと化したかのように凝然と立ちすくんで見送っているばかりであった。
 そして――柳生如雲斎は、やがて岩戸山を下り、熊本を去ったが、ついにこの怪異を他にもらすことがなかった。

 ――正保二年五月十九日、宮本武蔵死す。彼は岩戸山の洞で、具足をつけたまま|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》して死んだとも、まだ息のあるうちに門弟らが背負ってはこび、熊本の私邸で死んだとも世には伝える。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:03
地獄篇第四歌


     【一】

 正保三年二月半ばのある午後のことである。
 名古屋広井郷にある柳生家の下屋敷に、また奇妙な来訪者があった。また――というのは、取り次ぎに出た侍の頭を、ちょうど一年ばかりまえにやってきた幽鬼のような田宮坊太郎のことが、ちらとかすめたからだが、しかしこの屋敷の門を、風変わりな客がたたくのは、さほど珍しいことではない。主としてそれは兵法者である。
「如雲斎先生はおいででおわそうか」
「御用は?」
「一手御指南をたまわりたい」
「あいや、それならば名古屋三の丸にある御本邸の茂左衛門先生の方へお回りねがいたいが」
「それが、存ずるところあって、是非如雲斎先生とお手合わせねがいたいのでござる」
 こういう問答は、例によって例のごとしだ。隠居したとはいえ、如雲斎の剣名の方が高いからである。
「如雲斎先生は、去年から京へゆかれてお留守でござるが」
「ほ、京のどこへ」
「一応、|洛《らく》|西《せい》妙心寺の中に|草《そう》|廬《ろ》を結ばれておるが、しかしいまもそこにおわすかどうか、しかとはわからぬ」
 そう答えながら、侍はまじまじと訪問者を見つめていた。
 風変わりな旅の兵法者は多いが僧とは珍しい。――玄関に立っているのは、雲水だったのである。しかも、槍を立てている。その上、美しい女をひとりつれている。――
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:03
年はもう五十をこえているであろう、背は五尺そこそこと見えるほどひくいが、横はばは異常にひろく、まるで碁盤みたいに頑丈なからだである。くりくりと|剃《そ》ったというより、|禿《は》げた大きな頭に、眼がギョロリとひかっていた。澄み切って|精《せい》|悍《かん》きわまるその眼は、日にやけて黒びかりしている頭に似ず若々しい。とにかく、ただ者でない眼光である。
「……御坊、槍をお使いなさるのか」
「されば。――」
 と、いったまま、雲水は思案している。如雲斎不在ときいて失望したらしい。
「……やむを得ぬ。またいずれかの日、参るとしよう」
 と、うなずいて、雲水はうしろの女をかえりみた。
「佐奈、ゆこう」
「あいや、念のため承っておきたい。御姓名は?」
 槍をあやつる雲水とは――と、好奇心にかられて侍はきいた。
「愚僧、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》と申す」
 みじかく答えて、その老いたる金剛力士のような雲水は、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をかぶりなおし、長大な槍をかついだまま、スタスタと門の方へ出ていった。女がそのあとを追う。
 あっ――と口の中でさけんだきり、侍は眼をむいてそのうしろ姿を見送った。
 取り次ぎの侍は、田宮坊太郎が訪れてきたときよりも驚いた。
 それはそうだろう。宝蔵院という名は、兵法の道に入った者なら誰でも知らぬ者はない。
 奈良の宝蔵院は、興福寺四十余坊の一つで、春日明神の社務を担当しているものだが、戦国時代、その院主に|胤《いん》|栄《えい》なる者あり、僧にして刀槍の術を好み、柳生石舟斎などとともに剣法を上泉伊勢守に学び、やがて槍術を独創して宝蔵院流の名を世にとどろかせるに至った。この胤栄を初代とする。
 爾来、この宝蔵院では、ここに勤める僧のうち、仏道ならず槍術に長ずる者を住持とする不文律をたて、これによって二代目をついだのが――いま、名乗った|胤舜《いんしゅん》だ。
「その槍法神に入る」
 という噂はきいたことがある。
 が、その胤舜も、もう十数年まえに院主の地位から去り、すでに宝蔵院は三代目胤清にゆずられたときいている。が、この胤清は先代ほどの達人ではないということも耳にしたことがある。――その達人胤舜が、|飄然《ひょうぜん》としてこの尾張柳生の如雲斎を訪ねてこようとは。――
 かんがえてみれば、いままで訪ねてこなかった方がおかしい。
 たったこれだけの挨拶で帰ってもらっていい人物ではない、と取り次ぎの侍は狼狽したが、しかし、どうすることもできなかった。さっき胤舜にのべた口上は、まさにその通りだったのである。去年の夏、九州からいちど帰った柳生如雲斎は、かねてから親交のあった妙心寺の霊峰禅師のもとへ参禅にゆくと称して、また京へ旅立ったのである。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:04
【二】

 ――柳生の下屋敷を去った宝蔵院胤舜は、しかし京とは反対の方角へ――東へ歩いていった。如雲斎に逢うことはあきらめたとみえる。
 碁盤のような雲水が、長い槍をかついでポクポクとゆく。たとえ槍に革鞘ははめてあろうと、人目をひかざるを得ない。その対照がむしろ珍なのに比して、これとならんで歩く女が、異様なばかりに美しい。美しいというより肉感的である。
 年は二十七八であろうか、一見、武家風だが、身なりはそまつだ。それだけに、その肉感的な美貌がさらに異様に浮き立つ。あぶらののった白い肌、ぬれひかっているあかい唇。……しかも、この女は|白《はく》|痴《ち》のように無表情であった。
 その女の美しさにひかれて、街道ではしばしば妙な男がのぞきにやって来た。そのたびに雲水はジロリと網代笠の中から眼をむける。それだけで、たいていな人間が身うごきできなくなるほどの眼光であった。
 二月半ばといえば、いまの暦でいえば三月半ばだ。
 すでに梅もちり、風は春の気をおびた東海道を、名古屋から岡崎へ、浜松から天竜川へ――日数をかさねてゆくうち、宝蔵院胤舜は、じぶんたちと前後して東へゆく三人の六部に気がついた。
 二人は男だが、一人は女であった。
 三人の六部のうち、ひとり長身の男は六部笠の下を白い|頭《ず》|巾《きん》でくるんで、眼ばかりのぞかせているから顔はよくわからないが、どうやら四十前後の年ばえらしい。あとの男女一組は若い。男はまだ十七八である。これがおぼろ月のような美少年であった。女ははたちあまりか、これまたふっくらとした美しい娘であった。
 この若い一組が、顔に似合わず、実に放胆なまねをする。
 路傍に座って、人目もはばからず抱き合って、口を吸い合ったりしているのだ。人目もはばからず――といっても、そのとき通りかかったのは胤舜たちだけだが、それにしても傍若無人である。だいいち、もうひとり年長らしい六部がいつも傍に座っている。もっとも彼は、うなだれたまま腕組みをしたり、向こうをむいて、頭巾を下ろして|煙管《きせる》をくわえたりしていた。
 たしかこちらが通りぬけて前に出たはずなのに、彼らはいつのまにか|忽《こつ》|然《ぜん》と先に廻って、またこの抱擁の光景を見せるのだ。口を吸い合うばかりではない。少年が娘の|袖《そで》から手を入れているのがあからさまに見えたこともあるし、ときには|膝《ひざ》の上に横ずわりに抱いて、身をゆすっていたこともある。
「――きゃつら、わしに見せつけようとしておるな」
 ついに胤舜は気がついた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:05
「――なんのためか? 雲水のわしが女をつれて歩いておるので、それをからかおうとしておるのか?」
 それにしても、あの者どもも六部である。諸国の神仏を巡礼している行者のはずである。何とも奇怪な、人をくった奴ら。
 そう思いながら、胤舜はそしらぬ顔をしてゆき過ぎた。彼は旅のあいだに、これと大同小異のいたずらに逢うことは、いままでいくども経験していたし、それにこんどの旅には、もっとほかに気をとられることがゆく先にあった。
 が、それでも、胤舜たちが|旅籠《はたご》に泊まるとき、三夜に一夜は、その六部一行もわざわざ隣室に部屋をとって、そしてからかみ一重越しに、あからさまな愛撫の声をきかせるには閉口した。それは、あの声があの少年と娘かと疑われるほどあらわでけだものめいたあえぎ声であった。
 それを五十六歳の槍術の達人宝蔵院胤舜は、じっと座禅して、鬱血しそうな顔色できいているのであった。
 すぐまえには、お佐奈という同伴者が、すでに夜具に身をのべている。胤舜に対して、何のはばかるところもないのか、彼女はしどけない半裸といっていい姿だ。それは白い液体がトロリとよどんでいるような光景であった。
 それを見ながら胤舜は身じろぎもせぬ。
 そもそも宝蔵院の僧は、すべて肉食妻帯せぬ清僧ばかりである。胤舜もその通りだ。五十六歳になるいままで、この槍の達人僧は童貞であった。
 じぶんにつきまとう三人の六部を「――何とも奇怪な奴」と宝蔵院胤舜はつぶやいたが、彼自身、それにおとらぬ奇怪な生活をつづけていることを、本人は自覚していたか、どうか。――
 胤舜は、これを修行だと思っている。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:05
 ――彼は五十六歳のいまでも、七日にいちどは夢精するほどの肉体の所有者であった。夢みて射精するのではない。はっきりと眼をあけていて、しかも猛烈な噴射を行なう。ただ、それは|空《くう》に向かってである。
 いつのころからであったろう、もう七八年にもなろうか、彼はじぶんの槍術に苦錬し、しかも天下広大、上には上があるということを知って|悶《もだ》えていたころ――ふと、じぶんのこの精がたまり、濃縮化し、その限度に達したとき、異常な能力を発揮することに気がついた。そんな場合、槍をつかんで立てば、木にとまった小鳥すらも狙っただけでうごかなくなり、水を刺せば、十数秒のあいだ槍のあとをとどめているのである。
 で、胤舜は、女をひとり召し抱えた。お佐奈というこの女は、もし彼が清僧の|掟《おきて》にとらわれない立ち場の人間であったら、もっとも官能をゆさぶられるたちの女であった。
 事実彼は、官能をゆさぶられている。それだからこそ召し抱えたのだ。が、彼はお佐奈に対して、曾て破戒の所業に出たことはなかった。それはただ寺法の掟に縛られているからではなく、彼自身、腹の底からそれが修行だと信じているからであった。
 胤舜の生活、あくまでも女を断つ。この戒律を破れば、おのれの槍術すべてがくだけちるような気がする。
 槍のための女だ。女は槍術の神髄をふるわんがための|賦《ふ》|活《かつ》|剤《ざい》だ。
 わざと命じて、女にしどけない、なまめかしい姿態をとらせながら、この老金剛童子は、三尺はなれてがっきと座禅をくみ、そして堂々と空にむかって射精した。
 こういう風に、女は飼い馴らされた。――たんに金で傭われているばかりでなく、お佐奈という女は、この達人僧の眼光にとらえられて、とうてい逃げることもできなかった。
 しかし、こんな奇怪な生活をつづけているうちに、女はどうなるか。
 最初彼女はむしろ利発な快活な女であったのに、いつしか、まるで白痴のような女になってしまった。女というより、それはただ白いやわらかい匂いある物体に変質していた。
 それを胤舜はふびんとも残酷とも思わない。彼の眼中にはただ槍だけがあった。
 その槍を|足《あし》|蹴《げ》にしたものがある。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:06
【三】

 |遠江《とおとうみ》最後の宿場|金《かな》|谷《や》の旅籠を立とうとして、|胤舜《いんしゅん》とお佐奈がわらじをはいているときであった。まだ明けきらぬ早春の朝である。
 いきなり、うしろからバタバタと駈けて来た女が、何をあわてていたのか、傍に立てかけてあった胤舜の槍を蹴たおした。――と、それを追っかけて来た男が、飛鳥のごとく土間にとびおりると、なんと、たおれてくる槍を、これまた足をあげてはねかえした。
 槍はゆっくりとはねかえって、ヒョイともとの位置にもたれかかった。
 立ちあがった胤舜を見て、男はニヤリと笑った。例の六部の美少年だ。女はいうまでもなくあの娘であった。むろん、いまは六部姿ではない。どちらもきものをまとっているともいえぬ姿であった。
「そなた、まだけさのつとめを果たさぬぞ。……いまさら何をいやがるのじゃ」
 と、少年はおっとりした調子でいった。
 そういって、娘のほそい胴に手をまわし、そのまま奥へひきかえしてゆこうとする。胤舜に対しては、一笑を見せただけで、それ以上の挨拶はない。
「待てっ」
 と胤舜は、槍をひっつかんでさけんだ。黒い顔が、紫色に変わっていた。
 声に、ふりむいた少年と娘は、じぶんの方にむけられている槍を見ると、|鞘《さや》がはめられているのに、まるで蛇に魅入られた小鳥みたいに身うごきもできなくなった。
「しばらく」
 槍と、ふたりのあいだに、すっと大きな影が入った。これはすでに旅支度をして、六部笠までかぶっているが、依然として笠の下の顔は白い布につつまれている。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:07
「御無礼、この娘、実は|唖《おし》でござりましてな。おわびも申せなんだのは、ひらに御容赦」
「なに、唖?」
 唖にしては、夜毎の|嬌声《きょうせい》はばかにはでにもらす。――と思ったが、そういえば、いままでの道中、この娘が何か人語をしゃべったのをきいたことはない。
「娘はともかく、そこな若僧、わが槍を足蹴にして一言の挨拶もないは、これまた唖か」
「これは、口はきけまするが、口をきくのがひどく|億《おっ》|劫《くう》なたちで」
 代わって白い頭巾がいう。これもあまりしゃべるのが得手なたちではないらしい、野ぶとい声だ。重々しい声で、人をくったことをいう。
「おまえはなんだ、その白いものをとってものをいえ」
「これをとれば、天刑病で」
「なんじゃと?」
 ふっと頭巾のあいだの眼を見て――いまの言葉はあきらかに嘘だと看破した。天刑病とは、|癩《らい》のことだ。深沈たる眼が笑っている。――逆に、胤舜の眼が、そのままうごかなくなった。
 もとより終始この男が顔を見せぬのは奇怪だ。が、いま胤舜の胸に、はてな? という疑惑を起こしたのは、その眼をたしかにどこかで見たことがある――という記憶であった。
 それが誰だかわからない。
 わからないが、はじめて思い知った。こやつら、たんにこちらを女づれの奇僧とみてからかっておるのか、と見ていたが、わしが何者であるかはっきりと知って、敢て|侮辱嘲弄《ぶじょくちょうろう》のふるまいに出ようとしておる!
 宝蔵院胤舜は、槍をもとにもどした。が。――
「出い」
 うめくようにいった声はひくく、しかし殺気にみちていた。
「うぬらにききたいことがある。外に出い」
「四郎、支度せい」
 と、六部がいった。美少年は相変わらずおっとりとして、
「なんの支度」
「立ち合いの支度」
 愕然としたのは、むしろ胤舜の方であった。――こやつら、わしを天下の宝蔵院と承知していて、その上で立ち合おうとしている。しかも――まだ童子の面影残る若衆の方に立ち合えといっている!
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:07
 激怒から、むしろ好奇心に変わった。こやつら、そも何者か? よし、その面皮を――文字通り、きゃつの白い頭巾をはいでくれるぞ。
 黙って、ギョロリとひとにらみくれて、宝蔵院はさきに旅籠の外に出た。若いふたりの六部は身支度のため奥へ消えたが、もうひとりの六部はあがりがまちに腰を下ろし、さきにわらじをはくのにかかっている。もとより逃げる気配はない。
 夜明けの風に吹かれながら、胤舜は先刻の疑惑を追おうとした。あの六部を、わしはたしかに見たことがある。ここ五六年のことではない。もっと以前のことだ。或いは十年以上も昔のことであったかもしれぬ。しかも見たのは一度か二度だ。が、決して忘れてはならない眼だ。――にもかかわらず、彼はどうしても思い出すことができなかった。声には記憶がないのだ。
 名状しがたいいらだたしさを、彼は殺気で断ち切った。いずれにせよ、この謎はいまわしが解く。――
「お待たせ」
 と、三人の六部が出て来た。
 まるで、これからいっしょに旅に出かけるようなものごしだ。若いふたりの六部は、先刻のばかげた痴話喧嘩などけろりと忘れたように、むしろたのしげに東の空にひろがり出した赤いひかりをながめていた。
 東の地上にも、水光が漫々とうごいているのが見えている。――音にきこえた大井川であった。
「どこで?」
 と年長の六部がきいた。
「あそこの河原がよかろう」
 そういって歩きながら、胤舜はふりかえった。
「あの若僧を成敗したら、おまえ立ち合うか」
「成敗できますか」
「誰を」
「あの若僧を」
 ついに胤舜は|大《だい》|喝《かつ》した。
「うぬら、わしを何者と知って勝負を挑んでおるのか、どうじゃ?」
 返事は笑いをおびていた。
「存じておりまする。宝蔵院胤舜さま」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:07
【四】

 二月半ば――大井川の源たる赤石山脈の雪はまだ溶けぬ。名だたる大河の水は|汪《おう》|洋《よう》とながれているが、河原もまた広く、白い砂と石の上には、あちこちと枯れ草をなびかせていた。
 怒り、驚き、疑い、不快――さしもの胤舜も、これらの感情が真っ黒に体内にふくれあがってのどをふさぐのをおぼえ、もはやものもいわず、その河原の枯れ草の中を、ひとり先に、ト、ト、ト、と走るように歩いた。
 もう早立ちの旅人や川越人足たちが黒ぐろとうごいているのを遠くに見る地点をえらぶと、胤舜は立ちどまり、くるりとふりかえり、槍をとんとついた。
「ここでよかろう。……なお、いっておく。これでも|沙《しゃ》|門《もん》の身、よしなき殺生は好まぬゆえ、一応こらしめるだけのつもりであったが、ひょっとしたらいのちにかかわるかもしれぬ。|回《え》|向《こう》のために、名をきいておこう」
「荒木又右衛門と申す」
 と、覆面した六部がさりげなくこたえた。
 胤舜は、身うごきもしなくなった。じいっと相手の眼を凝視して――心の中を稲妻のごとくはためき過ぎるものをおぼえた。
 荒木又右衛門、それならたしかに――江戸の柳生道場で逢ったことがある。
 もう十数年もむかしのことだ。胤舜はそこで柳生但馬守と立ち合った。そのとき但馬守は、試合の様子をただひとりの弟子にだけ見分させた。その弟子は終始一語をも発しなかったが、道場の一隅に端座して試合の経過を見まもっている眼光は、容易ならぬ剣士であるという印象をじゅうぶんあたえるものであった。
 それからまた何年かたって、胤舜は、そのときの但馬守の高弟荒木又右衛門なる者が、伊賀の上野で敵討をとげたときいて、さもあらん、とうなずいた。
 その又右衛門がいま眼前に立っている。頭巾のあいだの眼は、たしかにあの又右衛門のものだ。先刻から、どこかで見た記憶があると思ったのも道理。――
 げんに。――
「胤舜どの、お久しゅうござったな」
 その六部笠の下の眼が笑って、そういった。
 にもかかわらず、
「ば、ばかなっ」
 と、胤舜はさけんでいた。さけばずにはいられなかった。
「荒木? 荒木又右衛門は、鳥取で死んだときいておる。たわけたことを申すな!」
「荒木はここにおり申す」
 と、又右衛門はいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:08
「御坊と立ち合うは、わしの弟子。名は申しあげるほどの奴ではござらぬ。天下の宝蔵院胤舜どのと立ち合って討たれれば、それだけで当人の本望でござろう。……ただ、立ち合うまえに、ひとつおねがいがござる。なにせ、御坊は無双の達人、この若者に少々支度をさせなければ、とうてい歯がたつものではござらぬ」
「荒木――その方が荒木として――なぜ、その方自身がわしと立ち合わぬ?」
「いや、その支度さえさせれば、この若者にてじゅうぶん間に合うでござろう」
「支度とは?」
「これなる弟子を、これなる女六部と、ここで交合させたいのでござる」
「な、な、なに?」
 宝蔵院胤舜は絶句した。
「それが支度で。――それさえおゆるし下さらば、まず大丈夫」
 頭巾の中の眼が、ひとを小馬鹿にしたように笑っている。
 いちど、やや蒼ざめていた胤舜の顔色が、また黒ずむばかりにあからんだ。――しばらく、大きな口を、ヒク、ヒク、とひきつらせていたが、たちまち、
「又右衛門、うぬにはまだきくことがあるが、あとできく」
 と、さけんだ。
「よいわ、勝手にさらせ! ただし、もはや胤舜、容赦はせぬぞ」
「おききとどけ下されて、かたじけない」
 と、又右衛門はお|辞《じ》|儀《ぎ》した。
「四郎、よいそうじゃ。……おまえも支度せい」
 と、女六部の方もさしまねいた。
 女六部はユルユルと、若い六部の方へ歩み寄る。四郎と呼ばれた六部は、胤舜の方を見て、ニヤリと笑った。ふたりは、むかい合って、笠をとり、きものをぬぎ出した。……
 暁のひかりは赤あかとして、いまや河原を染めつつある。水光を背に、赤くぬれた二つの裸形がすっくと立った。それはこの世のものとは思われぬ|妖《あや》しくも美しい影絵となった。
 ふたつの影絵は相寄り、からみ合い、ゆるやかに草の中へたおれていった。
 義眼のような眼でこれまでにらみつけていた胤舜は、このときたまりかねて、くるっとうしろをむいてしまった。
 まともに立ち合うはおとなげなし――という自負から、思わず相手の条件をのんだのだが、いざその条件を実行に移されてみると、その人を馬鹿にした「支度」は、彼の血を逆流させずにはおかない。……背後で、なまめかしいあえぎが水音を縫いはじめ、それはひとつの甘美なせせらぎとなった。
 ――胤舜は、怒りの眼で反対側をにらんでいる。その方角に、お佐奈がボンヤリ立っている。彼女はこちらをむいている。胤舜を見ているようで、その実、草むらの中でくりひろげられている行為に眼を吸われている。……彼女は顔が紅潮してきた。
 突如、胤舜ははっとした。
 これは、|嘲弄《ちょうろう》だ。いや、決闘のまえに交合するなど、あきらかな嘲弄にきまっているが、ただそれだけではない。こやつら、わしが女人禁制を以て槍術の奥儀をふるう|秘《ひ》|鍵《けん》としていることを承知しての嘲弄に相違ない!
「ううぬ」
 彼は憤怒にのぼせあがり、全身をふるわせた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:09
頭の一隅を、おのれの禁断の周期が終わって、きょうか今夜にもそれを噴出するはずになっているということがかすめた。いまやじぶんの能力は極限にちかづきつつある。いま立ち合えば、天下にほとんど敵はなかろう。――
 いつのまにか、声のせせらぎはとまっていた。のみならず、衣服をつける音がきこえる。
 きしり出すように胤舜はいった。
「――支度はすんだか」
「よろしゅうござる」
 荒木の声であった。
 胤舜はふりむいた。三間はなれて、若い六部が立っていた。|肘《ひじ》をまげ、両こぶしをまえにつき出しているが、何の武器も持っていない。腰の戒刀はそのままだ。あきれたことに、笠までかぶって、胤舜を見て、ニンマリと笑っている。――
「それでよいのか」
「よい」
 と、少年はいった。
 胤舜はかっとした。槍の革鞘が赤い|暁天《ぎょうてん》に飛んだ。うなりをたてて二尺の穂先がななめに落ちてくると、七尺の柄はピタリとかまえられた。
「……おおっ」
 かすかにうめいたのは、荒木だ。
 横に立っていた又右衛門すらが、四郎の方にむけられている槍の穂先の|閃《せん》|光《こう》に、おのれの心臓を射られたような|心《しん》|悸《き》の|急搏《きゅうはく》をおぼえた。ズングリムックリした雲水が、九尺の長槍を横たえて立つ。――それが滑稽どころか、人槍一体となってこの世で最も恐るべき武器そのもののかたちに見えた。
 槍の鞘を飛ばせた|刹《せつ》|那《な》から、宝蔵院胤舜は、怒りも不快もともに空に捨てている。ただ彼は槍の化身となり、無念無想の境地に入った。
 その槍の穂のゆくさきで、ゆるやかにうごいているものがある。ありきたりの兵法者なら、これだけですでに気死状態に陥るはずなのに。
 それは四郎のふたつのこぶしであった。それが、春の日の水車のようにゆっくりと回っている。――はっとした胤舜の眼に、そのこぶしから何やらじぶんの方へ飛んでくるものがあるのが|映《うつ》った。
 はじめて見えたのだ。それは眼にみえぬほど黒い細い|環《わ》であった。径三寸ばかりの無数の環――それが、手のうごきの緩徐なのに比して、まるで烈風に吹かれるような恐るべき速度で舞ってくる。――
「あっ」
 その環が三つ四つ、槍の穂にはまり、手前にすべって来たと見て、本能的な危機をおぼえ、胤舜は相手を突くより、槍の穂を空にあげた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:09
 怪しむべし、あとなお風に飛んで来た環は、それ自身生命あるかのごとくその穂先を追って、なお穂にはまって来る。――
「忍法|髪《かみ》|切《きり》|丸《まる》!」
 四郎が絶叫したとたん、胤舜の槍の柄は、数ヵ所で切断されて、バラバラになって地におちた。あとには、胤舜の手もとに三尺ばかりの棒が残った。
 彼がそれを投げつけるのと、四郎が鼠色の魔鳥のごとくおどりかかってくるのが同時であった。
 |戞《かつ》!
 空で三尺の槍の柄はこれまた二つになった。はじめて|白《はく》|刃《じん》をひらめかした四郎がこれを|斬《き》ったのである。
 そのまま飛び下りてくる四郎の足の下から、碁盤のようなからだをまろくして、宝蔵院胤舜はころがって逃げた。胤舜にしては、生まれてはじめてといっていいぶざまな姿であった。
 そのまえにまた四郎は飛んだ。
「それまで」
 と、声がかかった。荒木又右衛門が歩いて来た。
 胤舜は蒼白な顔を草の中からあげてうめいた。
「斬れ」
「と、仰せられるほどまじめな勝負ではござらぬよ、胤舜どの。これは冗談でござる」
 それはいっそうこの上もない侮辱だから、胤舜は激情のために口もきけなくなった。
「お腹を立てられな。――と申しても、宝蔵院どのともあろうお方が、かかる青二才にかかる目に逢うて、ただ平気でおりなされといっても通じますまい」
 又右衛門はちらと四郎を横目で見た。
「胤舜どの、あなたがいま立ち合った若者は、実はこの世のものではない。――」
「なに?」
 四郎はニンマリとして戒刀を鞘におさめている。
「と申して、亡霊、|変《へん》|化《げ》のたぐいでもない。――いちど死んで、また甦って来た男でござる。――といっても、まだ正確ではない。――」
 この奇怪な言葉に、胤舜は激情を凍結させて、相手を見あげた。
 荒木又右衛門はこういいながら、六部笠をとり、白い頭巾をぬいでゆく。――薄笑いした顔があらわれた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:09
【五】

 まごうかたなき又右衛門である。十数年前、江戸の柳生道場で見たときよりやや老けてはいるが、しかし当時から印象に残った沈毅重厚な顔だちがそこにあった。どこかあのときとは別人のような妖気がある。薄笑いした眼も、からかうというにはあまりに陰惨だ。
「この少年は、いちど死んだ。死のときにあたり、ふたたびこの世に生まれ変わって、同じおのれにして|且《かつ》別のおのれとして生きたい。――かく念力を凝らしつつ、ひとりの女と交合した。そして、その女は|身《み》|籠《ごも》り、再誕生したのがこの少年でござる。しかも|嬰児《みどりご》として誕生したのではない。女のからだを押し破って、死んだときの姿そのままで出て来たのでござる」
「…………」
「お疑いか、胤舜どの。実はこの荒木も、先刻仰せのごとく、たしかに因州鳥取で病死いたしたものに相違ありませぬ」
 彼の声は、陰々たる冥府からのつぶやきのようだ。
「おきき及びでもござろうが、拙者の上野の敵討ちも、ただ義弟の助太刀をしただけではありませぬ。大名対旗本の積年の争いが、ああいうかたちとなってあらわれたものです。――河合又五郎なる者が、備前岡山池田侯の家来渡辺源太夫を斬殺し、追手をのがれて江戸の旗本にかけこみ、救いを求めた。旗本一派は奇貨おくべしとなし、池田家からの又五郎ひき渡しの要求をはねつけた。池田家はひくにひかれぬ立場となり、大名方は池田家に味方し、又五郎をめぐって両陣営はぬきさしならぬ対立状態に陥った。……」
 又右衛門は話し出した。
「旗本八万騎の三百諸侯に対する|鬱《うっ》|憤《ぷん》ばらしの|恰《かっ》|好《こう》な道具が河合又五郎なら、それを渡辺源太夫の兄数馬とともにつけ|狙《ねら》った|拙《せっ》|者《しゃ》は、まず大名陣の選手というべきものでござった。その又五郎を、伊賀鍵屋の辻で、われらはみごとに仕止めたのです。……これにて大名方の面目は立ったわけでござる」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:10
彼一代の壮挙を語るのに、淡々――というより、むしろ風のように暗いひびきをおびた声であった。
「大名方としては、ここでこの争いをとめたかった。あと、これ以上、又右衛門をはれがましゅう世に出しては、あらためてまた旗本方を挑発するものと思案した。かるがゆえに、又右衛門を|僻《へき》|遠《えん》の鳥取に送りこみ、ふたたび世に出るを制した。されば、その扱いは一見旗本方の復讐から保護するに似て、その実配流幽閉にちかいものでござった。……又右衛門が、敵討ち後わずか三年を経ずして病死したは、この意外なる待遇に対する憂悶のためでござる。……」
 まるで他人の運命でも語るように、彼はいった。が、その冷やかな語調には、名状しがたい深刻の感がある。
 胤舜は凝然とその言葉に耳を吸われている。その姿に眼を吸われている。信じがたいが、相手の声と姿には、理非を超えて信じさせずにはおかない|妖《あや》しい力があった。
「死するにあたって、拙者は或る女人と交合した。そして約半年後……九州島原で、ふたたび世に出で、かくのごとくここに生きております」
 又右衛門はまた笑いをとりもどした。
「この若い六部もその通り。……宝蔵院どのが敗れられたからと申して、さして異とするにはあたらぬというは、かような次第だからです」
 又右衛門はきっと相手を見すえて、
「さて胤舜どの、もはや御推察であろうが、われらは最初からあなたを追い、あなたを挑発した。そのわけはいろいろとあるが、まず第一に」
「なんじゃ?」
 といったが、胤舜は、おのれの声も悪夢の中の声のように感じた。
「御坊に、御坊のようなばかげた女人禁制の戒律は、相手によっては、勝負の世界には何の役にもたたぬということを思い知っていただかんがためでござる」
「…………」
「ごらんなされ、本来ならばきょうあたり、御坊のわざはその奥儀を極めるのでござろうが」
「…………」
「にもかかわらず、ここのところ連日連夜乱倫をほしいままにし、またその直前たわけたふるまいをしてのけた若僧に、かかる惨敗を喫せられたはこはいかに」
「…………」
「|無《む》|駄《だ》、無駄、無駄でござるよ、胤舜どの、御坊の女人禁制は鰯のあたまにひとしいものでござる」
 なんといわれても、宝蔵院胤舜には一句の|反《はん》|駁《ばく》もできない。……相手の言い分にうちのめされたというより、おなじことだが、彼自身内部からの衝撃に、すべてが崩壊してゆく感覚に魂をさらわれているのだ。
「もっともいまの若者が事前に交合してみせたのは、ただ御坊をからかって落胆させるためだけではござらぬ。交合中の女人の髪が必要だったからで。――」
「髪。――」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:10
胤舜はうめいた。さっき、槍の穂に次から次へとはまって来た黒い細い|環《わ》を、坊主あたまによみがえらせたのだ。
「あれは髪か。舞って来たのは髪の環か」
「交合中の女の髪を環にしたものでござる。それが御坊の槍の|樫《かし》の柄を、|蝋《ろう》のごとく切断した。……」
「ううむ。……」
「忍法髪切丸、という声をきかれたろう」
「忍法。――」
「源氏の名刀髭切丸にならったものでござるが、あれは首とともに髭まで切った名刀、これは名刀すら切りはなす髪ゆえに名づけた忍法髪切丸」
「あれは、忍者か、又右衛門」
「忍者というより、それ、先刻申したごとく魔界に生きておる男」
「名は? あの若者の名は何という?」
 又右衛門はこれには答えず、しばらく黙っていたが、やおら腰をかがめ、顔をつき出し、
「胤舜どの、御坊の槍術、あの忍法の域にまで達したいものとは思われぬか?」
 と、ささやくようにいった。
「なれるか」
「御坊は、そのおとしであれほどの精を蔵するお方、常人ではおわさぬ。なれます。しかも、不自然な禁欲をなさる必要はない。むしろ、あれは槍術開眼のために害がある。安んじて、女と交わりなさるがよい。――」
「な、なれるか」
「なれるお方と見込んだゆえ、御坊を追うて、かくからんで来たものでござる。いまの試合もまったくそのため。――」
「なれるか、又右衛門」
 胤舜の声は|嗄《か》れ、眼はギラギラとかがやき、憑かれた男のようであった。そうなるためには何をしなければならぬか、そうなっていったいどうしようというのか、すでに冷静な理性を失っている人間の形相であった。
「又右衛門、わしは不自然な禁欲をしてきたわけではない。宝蔵院の僧はすべて清僧たるべき戒律に縛られておるのだ。しかし――槍のためなら――槍の奥儀に達するためなら――わしは何でもやる。戒律を破るのも恐れはせぬ。いや、宝蔵院胤舜は、いま槍を打ち折られると同時に死んだのじゃ」
 と、胤舜はあえぎながらいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:11
「そ、それで、わしはどうすればよいと?」
「つまり、魔界に|転生《てんしょう》なさればよろしい」
 と又右衛門はいった。いいながら、頭巾をつけるのにかかっている。
「御坊の最も好ましいと思われる女人と交合なされば、少なくとも一ト月たてば御坊はその女人の腹をおし破り、まったく新しい生命力、いや魔力を持った宝蔵院胤舜としてこの世に再生なさることになる。――」
 胤舜は、ちらっと向こうに立っているお佐奈を見た。
「ただし、もとよりそれは条件がござる」
「条件とは?」
「新宝蔵院が生まれ出るまえに、旧宝蔵院は死んでおられる必要があるのです。というより、その交合は、御坊の死期迫ってからのもの――いまや死なんとして、あくまでも再生したいという最後の念力をこめたものでなくてはなりませぬ」
「わしの死ぬとき。――」
「きょうはそのときではない」
 又右衛門は六部笠をかぶりながらいった。
「御坊は、きょうお死にになるわけではない。――が、いつの日にせよ、このこと、宝蔵院転生のこと、御承知でござるな? ――御承知ならば、相手の女人にあらかじめ術をかけておかねば相ならぬ。術をかけずして、その体内に御坊御自身を養うことなどはならぬ。――あの女人に術をかけてゆくことを、お望みになるか、どうじゃ」
「……術とは?」
「――この者がかけます」
 と、又右衛門は、そばでうす笑いしている若い六部を顧みた。
「それは、あなたはお知りになる必要はない。御存じない方がよろしい」
 胤舜は、不安と迷いの交錯した|梟《ふくろう》みたいな眼で、若い六部の方を見た。その少年六部の先日来の所業が、ありありと頭をかすめたようだ。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:12
「おいやなら、よします。世にこの魔界転生をなし得る人物はめったにござらぬ。またあったとしても、こちらが望まぬ。御坊は、われらが見込んだその貴重なるおひとりでござるが、そちらでいやと申されるならいたしかたがない。拙者ども、このままお別れいたす」
「…………」
「なお、欲せられるなら、われらのこと、公儀へなりと誰なりと、訴えられても結構。ただし、誰も信じはいたすまいが。は、は、は」
 又右衛門は六部笠をゆすって、ゆきかけた。
「ま、待て」
 胤舜はヨロヨロと歩み出て、
「ま、又右衛門、やってくれ!」
 と、肩で息をしながらさけんだ。
「ほ、では御承知か」
 又右衛門はふりかえって、ニヤリとした。
「案の定――いや、手数をかけた甲斐があったというものでござる。……宝蔵院どの、ではしばし――まず四半刻ばかり、ここで待っていて下され。うごかれてはなりませぬぞ」
「おぬしら、ど、どこへゆく」
「されば――あそこの枯れ芦のひとむらのところまで」
 と又右衛門は、そこから三十間ばかり離れた水ぎわちかい、ひときわ高い黄色い枯れ芦のあたりを指さした。
「四半刻ほどたったら、おいでを願う。……おつれのお方は、ぶじにお返し申す」
 そういわれても、胤舜はさすがに不安を禁じ得ず、またいまさらその不安を表明できないので、
「もういちどきく、又右衛門」
 と、ほかのことをいった。
「わしは、いつ死ぬか?」
「御坊が死なれるときは、われら必ず参上いたし、宝蔵院新生の産婆となってさしあげる。たとえ御坊がどこにおわそうと」
 若い男女の六部をうながし、あともふりかえらずお佐奈の方へ遠ざかる荒木又右衛門の笠の中から、声だけ返って来た。
 彼らはお佐奈のそばに寄って、何やら話しかけている。お佐奈がびっくりしたようにこちらを見た。胤舜は何ともいえないむずかしい|皺《しわ》を口辺にきざんで、「ゆけ」というようにあごをしゃくった。
 いままでも肉の人形のように、ほとんど胤舜の命令にさからったことのない――そのようにしつけられたお佐奈である。けげんな表情ながら、彼女は三人の六部とともに枯れ芦の方へ歩き出した。
 日はすでに地平から高くあがっている。明るい朝のひかりのみなぎった反対側の渡し場のあたりには、すでに旅人が雲集し、もう肩車や|輦《れん》|台《だい》にのせられて河を渡ってゆく風景も見られる。
 冷たい早春の風がサワサワと草を鳴らした。宝蔵院胤舜は、歯をくいしばり、こぶしをにぎりしめて、そこに待っていた。のびあがって見ても、背のひくい彼には、遠い枯れ芦の中で何が行なわれているかまったく見えなかった。
 四半刻たった。いや、四半刻も待ちかねて、胤舜はそこへ走った。
お佐奈は一糸まとわぬ裸体とされて、大の字になってそこに横たわっていた。乳房が大きく息づいているところを見ると、生きているにちがいない。……それどころか、何をされたのか、全身の肌は汗ばんで、ぬめのようにぬれひかっている。
 又右衛門と若い六部の姿は、忽然と消えていた。ただ、若い女の六部だけが、|叢《くさむら》の上にきちんと座って、けぶっているような表情で、お佐奈をじっと見まもっているだけであった。――胤舜はさけんだ。
「仲間はどうした?」
 娘六部はだまって河の方を指さし、笠を二三度横に、ユラユラと振っただけであった。
「――|唖《おし》か?」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:12
地獄篇第五歌


     【一】

 チラ、ホラ――と枯枝に降って、すぐに止んでしまった雪のようだ。
 わずかに咲き出したところで、三月はじめとは思われないここ数日の寒さに、そのまま凍りついてしまった桜であった。
 冷気と夕闇は、庭からしずかに座敷にはいあがってくる。
 その冷たさも暗さも意識せぬかのように、その老人は白衣をきたまま|褥《しとね》の上に端座し、すぐ横に置いてある経机の上の書類にじっと眼をそそいでいた。
 その姿勢のまま、もう一刻もたつ。
 ぽつりと、
「……十兵衛がいたら。……」
 と、ひとりごとをいった。
 江戸霞ケ関にあるこの屋敷のあるじ柳生但馬守|宗《むね》|矩《のり》である。――曾ては将軍家に剣法を指南した但馬守も、このとし七十五歳、それに、去年の暮れのころから病んで、寝たり起きたりしていた。
 いまつぶやいたじぶんの声に、ふとわれにかえったように、
「これよ」
 と、彼はいって、机の上の鈴を鳴らした。
 呼ばれるまで来てはならぬ――と命じられているので、暮れて来た外光を気にしつつ、一室おいた座敷に座っていた小姓のひとりが、滑るようにやって来て、手をつかえた。
「|灯《あかり》をもて」
「かしこまってござりまする」
「あ、それから、|主《しゅ》|膳《ぜん》を」
 と、但馬守は命じた。
 まもなく、灯が来た。それから――間もおかず、子息の主膳宗冬が来た。
「父上、御機嫌は」
 と、いいながら、顔をあげて、眉をひそめた。父がいままで横にもならず、机にむかって何やら見ていた様子を悟ったからだ。
 もっとも主膳は、父のこのような行動に、きょうはじめて気づいたわけではない。病んで床に|臥《ふ》してからも、しょっちゅう何やら調べものをしている。深夜何者かがひそかに、しきりにその部屋に入って報告しているらしい気配も感づいている。
 元来但馬守は、幕府の大目付であった。大目付とは大名に対する監察の任にあたる。いまでいえば、検事総長である。
 従って、そういう父の動静はいまさらのことではないが、しかし病んでから、かえってそれが切迫したようだ。何か重大なことが起っているらしい。
 ――と、主膳はおぼろげに察してはいるが、むろんそれがどんなことか知らない。将軍家剣法師範の役目はもうだいぶ以前から主膳にゆだねてはいるが、大目付の職務の内容は、その息子にもあかしたことのない但馬守宗矩であった。
「父上。……左様におつとめなされては」
 と、おそるおそるいう主膳に、但馬守は彼のやって来たのも気づかぬのではないかと思われるほどうごかぬ姿勢でいたが、やおら、
「主膳、大事がある」
 と、いった。
「|牛込榎坂《うしごめえのきざか》の由比張孔堂の」
 と、但馬守は口を切った。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:13
「あれが、何やらたくらんでおるということじゃ」
 由比張孔堂。――その名をいま江戸で知らぬ者はない。榎坂の大道場に、
「軍学兵法|六《りく》|芸《げい》十能医陰両道其外一切指南・張孔堂由比民部之介橘正雪」
 という、人をくった、長ったらしい大看板をかかげている人物で、その門弟三千と称されている。
 むろんそれくらいだから、その軍学は楠、真田に匹敵し、剣術一つをとっても、いまや将軍家師範たる柳生の一門中にも、当主の但馬守はもはや老いているし、正雪にあたる者はないのではないか――という評判すら|巷《こう》|間《かん》にある。
 またきくところによると、彼が|大《たい》|身《しん》の訪客に会うときは、机の間に、楠正成、正行、正澄の三幅をかけ、机に香を|焚《た》き、金の軍配と采配を飾り、髪を総髪にして、浅黄の小袖に紺地の長絹をまとって相対するという。――
「きゃつのことでござりまするか」
 と、主膳は苦笑をまじえた声でききかえした。
 父が、このごろ何やら憂悶のていをみせ、いまかくも深刻な顔つきをしている対象は、あの男のことであったか。――と、ちょっと、拍子ぬけがしたのである。
「あれは、まともな人間の相手にすべからざる大山師。――」
「――と、わしも思うておった。ところが」
 と、但馬守はいった。
「その大山師、と見せかけておるのが、あの男のかくれ|蓑《みの》ではないか?」
 主膳は、はっとして父の顔を見た。
 父の表情はまじめであった。病気にならぬ壮年のころから、どちらかといえば、小柄で、痩せぎみの但馬守である。知らぬ者が一見しただけなら、誰もこれを柳生の剣名を一世にとどろかせた人とは思うまい。いかにもさりげなく、地味で、質実で、剣をとるよりは筆をとって終日事務に精励しているのにふさわしいと見える風貌であった。
「何と仰せられまする」
「そのような評判があれば、いかに人を雲集させようと、御公儀も疑われぬ。――大山師、とは、正雪みずからが、わざと世に立てさせた人物評ではないか。わしは、きゃつ、それほどたかをくくってよい男とは思わぬ。いや、そのことが、このごろようやくわかったのじゃ」
「何か、ござりましたか、父上。――」
「このごろ、夜中、しばしば榎坂に出入りされる容易ならぬ身分のお方がある。――」
「それは」
 しばし但馬守はまた黙りこんで、
「伊賀者の報告によれば、どうやらそれは、紀州大納言|頼《より》|宣《のぶ》卿。――」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:13
と、いった。
「紀伊大納言さまが!」
 そうさけんで、息を吐いたきり、主膳は次の言葉を失っていた。
 紀州大納言――徳川頼宣、いうまでもなく御三家の一つ、五十五万五千石の大守であるのみならず、現三代将軍家光の叔父にあたる。すなわち神君家康の第十子であり、二代将軍秀忠の弟である。その性|豪《ごう》|邁《まい》不屈、ひと呼んで南海の竜と称し、みずからも南竜入道と号している人物であった。
「まさか、大納言さまが……あの山師ごときに!」
 と、主膳はくりかえした。
 由比張孔堂、門弟三千と称するなかに、むろん大名旗本もふくまれているが、調べてみると、たいていとるに足らぬ物好きで酔狂な連中ばかりで、心あるものはすぐに遠ざかる。――と、きいていたからだ。しかし、紀州大納言頼宣が「夜中、しばしば」榎坂の由比屋敷の門を出入りするとなると、これはまことにききずてならぬことであり、笑殺できぬことである。
「伊賀者は、そう申した」
 と、但馬守はくりかえした。
「そりゃまことでござるか」
「伊賀者が二人、ここに来てそう告げた。……しかし、その両人とも、恐ろしい傷を受けてもどって来て、報告の言葉もまだ終わらぬうちに落命した」
「伊賀者が――斬られましたと?」
 ことはいよいよ重大である。
 ただじっと眼を見張っている主膳の眼前で、但馬守はひたいに手をあてた。
「しかし、それが果たして紀伊大納言さまであるか、どうか、伊賀者もたしかでない風であった。というのは、その両人ともに、いまだ大納言さまをじかに拝見したことがないからじゃ。では、なぜそれを大納言さまと思うたか、と問うたのに、はかばかしい返事もせぬうちに、両人ともにこときれた。……」
 但馬守は顔をこちらにむけて、
「事は容易ならぬ。伊賀者が死んだはふびんでもあり、恐ろしいことでもあるが、かかる風評がひろがらぬうちに彼らが死んだのは、徳川家のためにはかえってよかったかもしれぬ。……」
 父の眼が、しだいにひかって来た。
「主膳、そちは城中で大納言さまを存じておるの」
「はっ。……」
「この秘事、余人にまかせられぬ。……そちが探れ」
 病んでいるとは思われぬ父の眼であった。いや、ここ十数年、しずかに老いつつあった父の、久しぶりに見る|凄《すさま》じいまでの眼光であった。
「大目付柳生但馬守として、この御用、柳生主膳に命じるぞ」
「はっ」
 両手をつかえた主膳を、じっと但馬守は見つめている。
 のちに飛騨守宗冬と呼ばれた三男坊だ。決して不肖の息子ではない。それゆえに、父はこの秘命を下した。にもかかわらず。――
 但馬守は、また胸の奥でつぶやいた。
「……十兵衛がおってくれたら。……」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:14
【二】

 柳生家に妙な訪問者があったのは、その翌日であった。
「宝蔵院が来たと但馬どのに申してくりゃれ」
 と、その客は玄関でいった。
 取次の武士は、眼をまろくした。碁盤に墨染めの衣をまとわせ、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をのせたような雲水なのである。それはいいとして、うしろに従えているのが、実にはっと眼を見張るような美女なのだ。――しかも、ふたりも。
 宝蔵院? と主人はおどろき、|胤舜《いんしゅん》坊なら通せ、と命じた。
「や、御病気か」
 座敷の入り口で、胤舜は立ちすくんだ。
 褥の上で、但馬守は座ってこれを迎えたが、このときなぜか、彼自身もひどく驚愕したように、全身がしばらくうごかなくなった。
 老いたり但馬守。――その感慨よりも、夜具をのべているその状態と、病みやつれて眼のまわりに|隈《くま》のあるその姿に、胤舜は、と|胸《むね》をつかれたらしい。――逆に、但馬守の方がはやくわれにかえり、微笑した。
「去年の暮れより、この始末じゃ。ほかの人間なら通さぬところじゃが、胤舜ゆえ、かかるありさまで失礼する。――まず、そちらも、座ったらどうじゃ」
「や、これはでくのぼうのように突っ立って」
 胤舜はあわてて座った。そして、あごをしゃくられて、うしろについていたふたりの女も、そっとそこに座った。
「これは、とんだところへ推参したものじゃ。いや。――御病気とあれば、来てよかった。いちどひき返そうとして、やはり江戸に来たのは、虫が知らせたのかもしれぬ。あらためて、但馬どの、お見舞いを申しあげる」
「胤舜坊、どこから来たか」
「どこといって、例によってあてどなき漂泊の雲水じゃが。――こんどは東海道を下って来た」
 ふっと思い出したように、
「但馬どの、おぬしには悪いが、名古屋を通る途中、ちょっと尾張柳生を訪ねて来たぞ。……どうあっても、ちかごろ工夫した槍を、如雲斎相手にためしとうなっての」
「悪い? ……何も、悪くはない」
「江戸柳生は、尾張柳生の息のかかった者をきらうであろうが」
「何を――向こうは知らず――」
 と、但馬守はこともなげに笑いすてて、
「で、どうであった」
「如雲斎どのは留守であった。京の寺へ参られたそうじゃ」
「ほう」
 と、いったが、但馬守は尾張柳生の主人公の動静にはそれ以上の興味はないらしく、
「それで胤舜坊、こんどはここへ試合に来たか」
 と、笑顔できいた。
「ううむ。そのつもりではあったが。――」
「それはきのどく。わしは、もはやふたたび起てぬ死病にかかっておる」
「死病」
 胤舜ははっとした。
「それはまことか、但馬どの」
「この腹をなでるに、シコリがある。俗にかめ腹という奴。――」
 かめ腹とは、いまでいう腹部の内臓|癌《がん》のことである。胤舜は、むろんその恐ろしさを知らない。
「かめ腹? なんであろうと、柳生但馬守ともあろう者が、そうやすやすと死んでたまるか。わしと立ち合えば、そんなもの、吹きとんでしまうのではないか」
「そうはゆかぬ。いままで、この病いにかかって|癒《い》えた奴を、わしはまだ知らぬのじゃ。……立ち合いたい、胤舜坊となら、もういちど立ち合ってみたいと、御坊のくるのをずっと待っておったのじゃが、人間の命は思うようにならぬ。はは、わしはともかく、せっかく来てくれた御坊の方にきのどくじゃて」
 自若として、但馬守は笑った。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:15
「それで、何か悟るところがあったか。御坊がまたここにやって来たとあれば、必ず何か工夫があったのであろうが」
「うむ。……」
 と、いったまま、宝蔵院胤舜はむずかしい顔をした。
 そもそも彼が、こんど江戸に旅して来たのは、この柳生但馬守と試合するためであったのだ。
 胤舜は、奈良で宝蔵院の二代目をついだあと、すぐちかい柳生谷の人々と親交があった。このころ柳生兵庫はすでに加藤家に仕えて九州に去り、さらにそこを致仕したあとも漂泊していたから、胤舜は兵庫を知らない。胤舜が知ったのは、この但馬守宗矩の方であった。というのは、石舟斎歿後、柳生の庄は徳川家から、兵庫にではなく但馬守に与えられたために、但馬守はしばしば柳生に帰ったことがあるからだ。
 年は二十ちかくもちがうが、但馬守はこの槍にすぐれた若い僧を愛した。豪快な胤舜は、年長の、しかも大名となった宗矩を、但馬どの但馬どのと友達あつかいにしたが、謹直な宗矩は、かえってそれをよろこんでいる風であった。
 しかし、胤舜の槍は、ついに但馬守の剣に及ばなかった。
 槍に関してだけは決して|洒《しゃ》|落《らく》ではない胤舜は、しだいに深刻になり、まだそれほどの年でもないのに、彼が宝蔵院を三代胤清にゆずって放浪の旅に出たのは、主としてこのためであったといってよい。
 そして胤舜は、ついに江戸のこの柳生道場にあらわれた。――もう十数年前のことだ。
 彼は一工夫を案じたから、是非お手合わせを願いたいと請うた。すでにこのころ、柳生流は将軍家指南のお|止流《とめりゅう》――他流のものとは試合をしない――ということになっていたが、但馬守はとくに胤舜と立ち合った。荒木又右衛門が見分したのはこのときであり、また但馬守が荒木ひとりに見分させたのはこのためである。
 そして胤舜は、またも但馬守の一撃に敗れ去った。――
「もういちど参る」
 胤舜は悲痛な顔をしていった。
「こんどくるときは、必ず但馬どのを破ってみせる」
 そういって去った彼は、十数年を経て、ふたたび但馬守の前に出現したのである。
 いま。――
「工夫はした。……このたびこそは、さしもの但馬どのを負かしてみせるという工夫を案じて来たつもりであったが。――」
 と、いって、胤舜は、お佐奈をふりかえった。
「細工のたねは、あの女じゃ」
「あの女人?」
 胤舜は、ぽつりぽつりと、例の――禁欲によって精を貯め、そのぎりぎりの前日乃至前夜にたたかえばほとんど超人的なわざを発揮できるという能力――を発見したことを語った。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:15
こんなことを語るのに、胤舜は実にむずかしい顔をしていたが、但馬守が破顔したのは当然である。しかし彼は、
「なるほど」
 と、うなずいただけであった。
「御坊が、女人をつれているのはおかしいと思ったが、そのためであったか」
「それが。――」
 と、胤舜は苦痛にみちた眼を但馬守にむけて、
「その工夫も、怪しゅうなった。落胆のあまり、いちどはここへくるのもやめようとした心境にまで立ち至った。但馬守どのと立ち合う以前に、わしはべつの人間に敗れたのじゃ」
「べつの人間? ……御坊にまともに立ち合える人間が、ざらにこの世にあろうとも思えぬが。……すでにあのとき――この数十年、但馬が真に冷汗をかいたは、このまえ御坊と立ち合ったときばかりじゃ。――」
「但馬どの」
 と、ふいに胤舜はさけぶようにいった。
「荒木又右衛門が生きておることを御承知か」
「荒木。――」
 但馬守はけげんな表情で、
「あれは、惜しいことに少壮にしてこの世を去った。もう十年にもなろうか」
「その又右衛門が生きておるのだ。わしは江戸へくる途中、大井川でたしかに見たのだ」
「御坊、眼がどうかしたのではないか」
 一笑する但馬守をにらみ、胤舜はうめくようにそのときのことを語り出した。
 東海道で三人の六部にからまれたことを――大井川の河原で、その若い方の六部の奇怪な術のために、じぶんがいままで味わったことのない無惨な敗北を喫したことを――年長の六部が、みずから荒木又右衛門だと正体をあきらかにし、それにまちがいなかったことを――そして、彼の語った忍法「魔界転生」のことを。
「その三人の六部のうちのひとりが、この娘じゃが」
 と、胤舜は、ちらっともうひとりの女の方を見やった。
「……この話、お笑いなさるか、但馬どの」
 但馬守は笑わなかった。
 彼は胤舜より、その女の方をじっと見つめていた。――そういえば、これまでの問答のあいだ、彼はふしんそうに、その女の方にしばしば視線をむけていたようだ。
「そうか。その女人は、はじめからの御坊のつれではないのか」
「左様、大井川で又右衛門らが姿を消したあと、この女だけ残っていたのじゃ。……やむを得ぬから、いっしょにつれて来たが。――」
「ふうむ。……」
 但馬守はなお女に眼をそそいだまま、
「そなたは月ケ瀬の女ではないか?」
「や!」
 と胤舜は大声をあげた。
「但馬どのは、この女を御存じなのか?」
「いいや、知らぬ」
「なら、月ケ瀬の女とは?」
 月ケ瀬は柳生の庄からほんの一足、東にある村で、古来梅の名所としてきこえたところだ。――但馬の頬が、この年にして、ややあからんだようであった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:15
「わしは、実は最初その女がここへ入って来たとき、はっとした。わしの知っておる或る女人に生写しであったからじゃ。月ケ瀬の娘で、名はおりくといった。……が、それはわしが柳生を出て徳川家に出仕したころじゃから、もう五十年も昔のことじゃ。そのときわしの知っておった女が、いまここにあらわれてくるわけはない。……と、すぐに気がついたが」
 彼は苦笑した。
「しかし、いかにもよう似ておる。そのおりくと血縁つづきの女に相違ない。のう、そうであろうがな?」
「但馬どの、きいてもむだじゃ」
 と、胤舜も苦笑をうかべてくびをふった。
「その娘は唖じゃよ」
「何、唖?」
「されば、わしも荒木らのことをもう少しきこうと思ったが、どうにもならぬ。狐につままれたようなきもちでつれ歩いておる」
 この問答を、ふたりの女はほとんど無表情にきいていた。
 無表情といっても、仮面のような感じではなく、胤舜の|賦《ふ》|活《かつ》|剤《ざい》たる女は、たえず全身を微動させ、あかい唇を舌でなめて、白いのどのあたりをヒクヒクうごかせ、どこか肉欲に憑かれたような姿態をみせているし、唖娘の方は、ぼうっと|春霞《はるがすみ》につつまれているようだった。ただ、但馬守と胤舜の問答は耳にしているはずなのに、それに対して全然無反応なのである。
「胤舜坊、で……御坊がその佐奈と申す女人と交わると、そなた転生いたすというのか」
「荒木はそう申した」
「もうひとりの女人は?」
「これはどうかわからぬ。この女に、しんそこ惚れた男が交われば、この女からその男が生まれるかもしれぬ」
 但馬守は黙って、またその美しい娘を、褐色に|隈《くま》どられた眼で凝視した。
「で、但馬どの、信じてくれるか」
「いや、信ぜぬ」
 と、但馬守はいった。
「わしの申したこと……夢物語と思われるかや」
「いかにも、わしは左様な怪力乱神を信じない。御坊の逢ったその荒木と名乗る男は、よう似た顔をたねに御坊をたぶらかし、からかったものであろう」
 但馬守の眼は、剣法の名人というより、現実的な政治家の眼であった。
「なんのために?」
「目的は知らぬ。が」
 と、但馬守は冷静に、
「それがまことに又右衛門なら、又右衛門はまずわしのまえにあらわれるはずじゃ。だいいち、わしが死にかけておる。御坊、死にかけた男が、惚れた女と交合すれば転生すると申したな?」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:16
このひとらしくもなく、|諧謔《かいぎゃく》のまなざしで、
「それとも、荒木め、もはやわしに交合する力はないと見くびりおったか? は、は、は」
 と、笑った。
「そうか。但馬どのはとうてい信じまい、とは思うたが、いや、わしの申すことを但馬どのならば信じてくれるかもしれぬ、とかんがえて、但馬どのだけに打ち明けたが。……」
 胤舜はさびしげに笑い、しばらく黙りこんだ。
 ふたりのあいだに、どことなく所在なげな、ぎごちないものがながれた。――胤舜はふと顔をあげ、
「御子息は? 御|挨《あい》|拶《さつ》したいが」
「|主《しゅ》|膳《ぜん》か。あれは折り悪しく、所用あってこのごろ他出しておる」
 但馬守はくびをふった。
「あれは、どうやらこうやら上様御指南を相つとめはおるが、とうてい御坊の御相手にはならぬよ」
「いや、試合のことではない。ほう、主膳宗冬どのは、たしか御三男であったな。将軍家御指南となられた、ときいて、もうそうなられたか、とおどろき、且よろこんでおった。――御長子は?」
「十兵衛か」
 但馬守はにがい顔をした。
「あれは、柳生谷にかえしておる。いや、放逐といってよい。三年前、ばかげた所業をいたしてな」
「何、柳生へ」
「御坊、御存じなかったのか」
「いや、わしはここのところ四五年、奈良へ帰ったこともないで。……そうとは知らなんだ」
 胤舜はふいに張りをとりもどして、
「柳生十兵衛。……このまえわしがここに来たときも、どこへいったか行方不明ということで、ふしぎにまだかけちがって逢うたこともないが……剣名はきいておる。ひょっとしたら、おやじどのたる但馬どのより腕は上かもしれぬ、という噂をきいたことがあるぞ」
「ばかな」
「わしはな、但馬どの、こんど江戸にくるとき――いま話した大井川の一件ある前は――但馬どのとともに、その十兵衛どのがおわしたら、これとも是非試合をしてみたい――と、こう思っておったくらいじゃ。なに、ばかげた所業をやって放逐したと? いったい、十兵衛どのが何をしたのじゃ?」
「上様に御指南申しあげて、上様が御気絶なさるほど打ちすえた」
「ほ、ほう」
 胤舜はぽかんと口をあけ、まじまじと但馬守を見ていたが、いきなりピシャリとひざをたたいた。
「噂にたがわぬ痛快な息子どのではないか。兵法の修行はさもあるべきもの。――」
「そうはゆかぬ。相手が上様じゃ」
「しかし、但馬どのは――十兵衛どのがまだ二十前後のころ――息子どのを教えていて、その片眼をつぶしてしまったというではないか」
 但馬守は沈黙した。
 その通りだ。しかしそれは、兵法修行のきびしさを教えるというよりも、その試合のとき、但馬守自身が危険をおぼえて、思わず本気の剣をふるった結果でもあった。わが息子ながら、恐るべき奴と思う。……が、その危険な嫡男が、このごろこの上もなく頼もしく思い出されるのは、どうしたことであろう?
「息子どのの所業の悪口はいえぬ。……たとえ相手が何者であれ、剣法は踊りの修行ではないはず。それで将軍家から、おとがめがあったのか」
「ない。ないが、わしが放逐した」
 胤舜はじっと但馬守を見つめて、その眼にやや軽蔑のひかりを浮かべた。
「……ははあ、一万二千五百石に縛られておると、人間、つらいものよのう」
「そうではない」
 と、但馬守はくびをふった。
「十兵衛がそれを望んだからじゃ。……あるいは、それを望まなかったからじゃ」
「――と、いうと?」
「わしも、七十をこえた。で、もはや将軍家御指南の役を、しかとだれかにゆずっておきたいと、たまたま十兵衛が旅から帰っておったのを機会に、きゃつをつれて御前に出た。すると、いま申した通りの始末となった。兵法修行のきびしさを上様にお教え申しあげる……それほど殊勝な、まともな考えをもつ男ではない。きゃつは、将軍家御指南という役がいやでいやで、それをわしに思い知らせるために、左様なまねをしてただ一撃でわしの意志をぶちこわしてしまったのだ」
「ふうむ。……いや、わかるぞ」
「きゃつは、とうてい左様な役、一万二千五百石で安閑としている奴ではない。いや、もっと大それたことを望んでおるというより、無頼奔放、常人の行儀作法にたえられぬ奴じゃ。それを当人が承知しておる。それどころか、きゃつの剣は、いわば殺人剣、柳生家をつげば、かならず柳生家をつぶしてしまうであろう。……」
「――すると、但馬どの、柳生家のあとは? あの主膳どのになさるおつもりか」
「まだ、よくきめてはおらぬ」
 但馬守は重い声でいった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:16
嫡男は十兵衛だが、次男の刑部|友《とも》|矩《のり》は若くして死んだので、あとに残るのは三男主膳宗冬だ。重い声となったのは、この主膳が、剣法に於てはいささか兄たちに見劣りすることを思い出したからであった。
「そうか、主膳どのが御指南役になったのは、そういう事情であったか。……しかし、但馬どの、さっき死病にかかったと仰せられたな。そのことを、十兵衛どのには知らせてあるのか。……」
「いや、まだ知らせてはおらぬが。……」
 但馬守の声は、いよいよ重い。
「なぜ、知らされぬ。それでは……万一の際、死に目にも会えぬことになるではないか」
「いや、知らすまい。……きゃつに知らせる要はない」
 ――重い声は、そういいながら、但馬守自身まだ迷っているところがあったからだ。
 じぶんが死ぬとき、嫡男の十兵衛がそばにおれば、たとえ彼がそれを望んでおらぬことは明らかだとしても、父として、彼をおいて家督を三男の主膳にゆずることはできぬ。しかし、十兵衛にあとをつがせれば、あれは必ず柳生家を滅ぼすにきまっている。主膳ならば、おだやかに柳生家をついでいってくれるであろう。……但馬守が、おのれの死期を十兵衛に秘しているのは、ひとえにそのためであった。
 しかし、いま胤舜に、一万二千五百石に縛られていると笑われて、そうでない、とかぶりをふったが、かんがえてみればその通りだと思う。……但馬守は心ひそかに赤面せざるを得ない。おのれの操志の衰えたことをかなしまずにはいられない。主膳が柳生家をつぐ。いま胤舜に、柳生家のあとはまだきめてはおらぬ、といったが、結局そういうことになる。それで柳生家は安泰であろうが、しかし新陰流の|淵《えん》|叢《そう》たるべき伝統は?
 いや、それより以前に、いま死期せまったじぶんが、はからずも探知したある容易ならぬ事件に、やむなく主膳を起用したものの、すでに何とも名状しがたい心もとなさをおぼえているのだ。
 ああ、かかるとき、十兵衛がいてくれたら、と、切にそれが思われる。
 ――何やら、憂わしげに沈思している但馬守に、胤舜はあたまをさげた。
「では」
「御坊、ゆくのか」
「御病中、あまりに話しこんでは悪かろう。きょうのところは」
「胤舜坊、わしはまもなく死ぬぞ。坊主でありながら、わしに引導をわたしてはくれぬのか」
「いや、それは。……」
「まあ待て、胤舜坊、ここにいてくれ。あまりながいことではない。いま御坊の来たのは|一《いち》|期《ご》の縁じゃ。ともかくも――しばらくこの屋敷に泊まっていってくれい。それらの女人ともどもでよい」
 この人にはじめて見るすがりつくような眼であった。
「せめて、主膳が帰邸いたすまで」
 ――そうまでいわれて、胤舜は辞しかねた。
 彼ら一行は、そのまま柳生屋敷に滞在した。
 泊まって、しかし、胤舜はよかったと思った。よかったといっては語弊があるが、その日以来、急速に但馬守の病状が悪化していったからである。にもかかわらず、主膳宗冬は姿をあらわさぬ。「主膳どのは?」と但馬守にきいても、語をにごしているし、家人のだれもが、それについて胤舜以上に気をもんでいる様子はあきらかなのに、だれもそのゆくえを知らないようだ。
「――はて?」
 胤舜は、彼自身ここに来た目的、あるいは但馬守の病気のことはさておいて、この屋敷にはまったく別の何かただならぬ事件が進行中であることを|漠《ばく》と悟った。
「何かある。……何が起こっておるのか?」
 春はみるみる深くなってゆく。花は咲き、そして散った。三月も末にちかづいた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:17
【三】

 三月二十五日の夜だ。というより、もう二十六日の|子《ね》の下刻(午前一時)にちかかった。
「慶安太平記」によると、由比正雪の道場は、建坪だけでも千五百七十坪あったという。これはちと|法《ほ》|螺《ら》くさいが、そう後代に法螺を吹かれるほど広大な榎坂の由比道場の裏門が、ぎいとひらいた。
 雨がふっていた。
 裏門から|一挺《いっちょう》の駕籠が出て来た。なんのへんてつもない町駕籠だが、それを四五人の男がとりかこんでいる。そのまま、ピタピタと|矢《や》|来《らい》|下《した》の方へ歩いてゆく。
「……?」
 やや離れて、それをひとりの武士が見送って、しばし迷っている風であったが、すぐに意を決して、それを追い出した。黒い|頭《ず》|巾《きん》をつけてはいるが、羽織袴の様子から、いかにも大身の武士らしい。
 これは柳生主膳宗冬であった。
 紀伊大納言頼宣卿が由比道場にしばしば出入りしている疑いがある。その実否を、なんじ、ひとりでひそかにたしかめよ。――という父の命令で、この十数日、外桜田の紀州邸やこの牛込榎坂かいわいを、ひとしれず探っていた柳生主膳である。
 幸か不幸か、この間、紀伊頼宣は外桜田の屋敷から、一足も外へ出ないようであった。
 そして今夜――夜に入ってから、ついに――ようやくその屋敷から出た一挺の乗物が、十数人の武士に護られて、この牛込の由比道場に入ってゆくのを彼は見たのだ。しかも、その裏門に。
 いま、数刻を経て、その裏門からまた一団の影があらわれた。
 さっきのような貴人用の乗物ではない。またそれをとりかこむ人数もちがう。――しかし、彼らはみな武士だ、と主膳は判断した。
 一見さりげない一団だが、それをつつむ雰囲気は粛然たるものがある。闇夜ながら、それはわかる。
 あれが紀伊頼宣卿? まさか?
 いや、あれはたしかにただ者ではない。そもそもこの夜中、あかりもなく出てゆくのがいぶかしい。大納言だ。十中八九まで紀州大納言だ。
 頼宣卿ならお顔は知っておるが、なんとかあの駕籠から出す工夫はないものか?
 主膳は気をもんだ。焦慮した。しかも、じぶんの顔をむこうに知られてはならぬのである。
 右は酒井家のなまこ塀、左は御先手組の組屋敷の土塀にはさまれた矢来下まで来たときであった。主膳ははっとあることに気がついた、もしこれが紀州頼宣卿に相違ないならば、それがくるときと帰るときと、乗物、人数まで変えているということは――追跡者があるということを知っているのではないか?
 そのとき、三四間も先をいっていた行列が、ピタリととまった。
「ここらでよかろう」
 だれか、いった。同時に、そこから何やらビューッと飛んで来た。
「……あっ」
 主膳は立ちすくんだ。
 飛来したものは、いままで彼が見たこともきいたこともないものであった。それは一つではなかった。小さな|蝋《ろう》|燭《そく》を十文字につらぬいた鉄串のようなもので、それが旋回しつつ飛来してくると、主膳とは反対側の土塀の壁に、音たててつき刺さり、四つ五つ羅列したのである。衝撃と同時に、なんたるからくりか、雨の中に蝋燭はいっせいに燃えあがった。
 くゎっと主膳は照らし出された。
「はてな?」
 向こうで声がかかった。
「これは、いつものように伊賀者ではないな?」
「武士だ」
「これはいよいよ生かしては帰せぬ」
 そして、駕籠わきに、ただひとりだけを残し、あとの四人がいっせいに抜刀して馳せ寄って来た。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:17
主膳がおどろき、狼狽したのは、その奇怪な蝋燭を見た刹那だけである。――よし、とむしろ彼はうなずいた。いかにして駕籠の中の人物を出すか、ということに苦慮していたところだ。これは向こうで、その機会をあたえてくれたものといっていい。
 壁蝋燭に照らされて、銀線のような雨の中に、白刃がきらめいた。二度三度刃がかみ合うと、四つの影は地にはった。灯影に血しぶきがとんだようにも見えなかった。
「狼藉だろう」
 はじめて主膳は声をかけた。刀身は血ぬられていない。彼はすべてみね打ちで襲撃者をたおしたのである。
 頭巾も乱さず、駕籠にむかっていった。
「どなたさまか、御挨拶なされ」
 二歩三歩、寄って、柳生主膳は、駕籠わきに残っていたひとりの男が、妖しい姿勢をとるのを見た。手には何の武器を持っているとも見えないのに、両腕をのばして頭上で組み合わせたのである。
 ――忍者だな。
 主膳の頭を、先刻の奇怪な蝋燭がかすめた。彼はピタと静止した。
「殺すな」
 そのとき、駕籠の中から、しゃがれた声がかかった。
「あれを殺してはならぬ」
 そして、みずから駕籠の垂れをあげて、ニューッと外に出て来た者がある。
 |十《じっ》|徳《とく》を着て、杖をついて、どっしりとした巨大な姿であった。しかも、入道頭だ。……主膳の頭を、殿中で見た南竜公頼宣の風貌がはためき、覚悟はしていたが、本能的にひざをつこうとした。
 ――が、次の刹那、
 ――ちがう!
 と、心中にさけび、愕然と眼を見張っていた。
 体格の大きさ、入道頭こそ似てはいるが、顔はまったくちがう。だいいち大納言頼宣卿はまだ四十の半ばのはずだが、眼前に立ってこちらを見すえているのは、もう七十にちかい老人であった。ただ、しかし、その全身からは名状すべからざる精気が発していた。
「ふむ、わしが挨拶してやろう」
 と、入道頭の老人はしずかにいった。
 ――しまった、と思うと同時に、主膳は、これ以上かかわり合えば事面倒、と判断した。
「いや、お顔さえ拝見すれば、それ以上の御挨拶は御無用。失礼いたす」
 背を返して、歩み去ろうとしたのである。
「待て、江戸柳生」
 声は、主膳の足を釘づけにした。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:18
「しかも……いまの手並からみると……おそらく柳生の御曹子、主膳宗冬と見たはひがめか。頭巾をとって、顔を見せい」
 笑みをふくんだ声をきくと、主膳はくるっと姿勢をかえした。ただ柳生と看破したならわかる。しかし、わざわざ「江戸柳生」と呼んだこの老人は何者か?
 なんにしても、柳生主膳宗冬と見ぬかれて、もはやこのまま背は見せられぬ。いや、それよりも、この老人をとらえて、頼宣卿ならずとも、その正体を明らかにしてやろう。
 いちど鞘におさめかけていた刀身をあげて、主膳はかまえた。
「名乗れ」
 老人はまだ杖をついたまま、ぶきみな笑顔で、じいっとこちらをながめている。
 ふたりのあいだに、雨はしずかに降っていた。
 主膳の背に戦慄が走った。相手はただ杖をついただけで立っている。それだけで、全身の筋肉がみるみる硬直してくるような感覚に縛られて来たのだ。
 ものもいわず、主膳は殺到していた。
「|推《すい》|参《さん》なり、小せがれ」
 その声をきいただけで、主膳は棒のようにぬかるみにたおされて、そのままうごかなくなっていた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:18
【四】

 ――その夜明方。
 雨ふりしきる霞ケ関の柳生屋敷、その門の扉に、ひとりの男がもたれかかるように座っている姿が見つけ出された。
 すぐに失神しているだけだということはわかったが、同時にこれがこの屋敷の御曹子、主膳宗冬だということもわかって、人々を驚愕させた。
 ……主膳は意識をとりもどした。はじめ暗い空に銀の雨がふっている幻覚があり、その雨の向うに、じいっとひかっている恐ろしい二つの瞳がよみがえってきたとたん――「うぬ」と主膳はとび起きようとして、右の脇腹と背の腰の部分に激痛をおぼえた。
「主膳」
 と、呼ぶ声がした。
 父の但馬守と、ひとりの僧がのぞきこんでいた。主膳はここが父の病室であることに気がついた。
 ――どうして、わしは?
「おまえは、けさこの屋敷の門前に、雨にうたれて気を失っておった。いかがいたしたのじゃ」
 但馬守がきいた。
 主膳はすべてを思い出した。……思わずさけんだ。
「あ……あの入道は何者か?」
「入道とは?」
 主膳は起きなおろうとして、脇腹と背の痛みにまたがばと伏し、歯をくいしばりつつ、けさの矢来下の事件を語った。
「……駕籠から立ちあらわれましたるときは、てっきり南竜公さまと思いましたが、よく見ればちがっておりました。おそらく拙者の追跡を知り、替玉を以てたぶらかそう――すなわちはじめ由比屋敷に入ったのは大納言さまではない――と思わせようとしたものと存じまするが」
「それが、そちを、江戸柳生、と呼んで挑んできたというのじゃな」
「されば。……うぬ」
 と、主膳は立ちかけて、また苦痛のうめきをあげた。
「年はいくつくらいか」
「かれこれ七十に近うござろうか。あたまをまるめた大兵の老人でござった。……拙者、もういちど由比屋敷へゆき、あの老人と立ち合わねば気がはれませぬ」
「それが、そちを、主膳宗冬と見ぬき、柳生の小せがれ、と呼んだというのじゃな」
 但馬守の声は乾いていた。
「相手の武器は、棒か、|杖《じょう》か」
「杖――のように見えましたが、父上はなんで御承知で」
「そちの脇腹に打たれた跡がある。凄じい手練。……軽く打ったようで、主膳、そちはあと半年は刀もとれぬぞ」
 主膳は脇腹をおさえた。じぶんの刃は相手に触れもせず、ただ疾風のような一撃を胴に感じたことを思い出した。
「なお、そちの背――腰の上にも傷がある。それは|小《こ》|柄《づか》で刻んだあとじゃ。おそらく気絶したそちを、いちど裸にして、そのような細工をしたと見える」
「あ。――」
 こんどは主膳は腰に手をやった。
「小柄で刻んだ、と仰せられると?」
「尾という一字。しっぽの尾の字が」
 但馬守は、醜怪とみえるまで顔をしかめた。氷のような声で、
「同時にそれは、尾張の尾の字でもある」
「――尾張?」
 けげんそうな眼をむけたのは、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》であった。
「尾張柳生。――」
 但馬守はうめいた。
「主膳、そちの相手になった老人は何者と思うか。いまそちは、もういちど、と申したが、そちごとき未熟者では、千たび立ち合うとも歯がたつまい。あれは、尾張の柳生如雲斎。――」
「やっ」
 胤舜は大声をあげた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:18
「但馬どの、それが柳生如雲斎どのじゃと? 如雲斎どのが江戸におると? あの御仁は、京の妙心寺にいっておるはずではなかったか?」
「その如雲斎がなぜ江戸におるか、わしも知らぬ。御坊が名古屋でそうきいてきたのがいつわりであったか、如雲斎の家人もまたあざむかれていたのか、わしは知らぬ。ただ由比屋敷におるその老人が、柳生如雲斎であることにまちがいはない」
 但馬守は、息を刻んで、
「その入道頭、年ばえ、彼の申した言葉のはしばし、さらに主膳の腰に彫りつけたその文字。――何よりも、その手練から、それは如雲斎以外の人間ではない」
 胤舜も、主膳もしばらく沈黙していた。驚愕のため、口がきけないのだ。――ややあって、胤舜はじっと但馬守を凝視して、
「柳生如雲斎が……何のために張孔堂に?」
「それは知らぬと申しておる。ともあれ、それにて由比正雪なる男が、いよいよ容易ならぬ人物であることを知るばかりじゃ。……ただ、如雲斎が、主膳と知ってこれに挑み、これに恥辱を加えた理由はわかる」
 但馬守はきしり出るような声でいった。
「あれは江戸柳生に対する挑戦、いや、このわしに対する如雲斎積年の鬱憤ばらしじゃ」
「ううむ。……」
「もう二十年以上もの昔、あれがまだ兵庫と名乗っておったころ、いちど江戸に来て、わしに試合を挑んだことがある。その面魂には殺気があった。わしの心はうごいたが、しかし断わった。わが江戸柳生はお止流でもあるし、おなじ柳生一門が争って、どちらが勝ったにしろよい結果は残さぬと思うたからじゃ。彼は黙って、冷笑して去った。――」
「如雲斎どのが、江戸柳生に対してよい気持をもっておらぬことは、わしも承知しておる。しかし――さればといって、いま主膳どのに――将軍家指南役にかかる恥辱を加えて、あの御仁はぶじにすむものと思うておるのか?」
「将軍家指南役がかかる恥辱を加えられたことを、世にあからさまにできると思うか、胤舜坊」
 胤舜は、|面《おもて》をたたかれたような顔をした。
「ううむ、いかにも。――」
「江戸の柳生家のあとつぎが、尾張の柳生如雲斎に一合も合わせず地にはわされて、尻の上に尾の字を彫られたと世に知られたら。――」
 但馬守はキリキリと歯ぎしりした。
「知られてはならぬ。このことは、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》、世に知られてはならぬ、主膳の尻の上の尾の字は、永遠の秘密としておかねばならぬ。それどころか――主膳、いままでわしが探索してきた張孔堂一件のこと、それまでもすべて忘れてしまわねばならぬ。わしがおまえに用を頼んだのはまちがいであった。……」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:19
蒼白になって這いつくばっている三男坊を、怒りにみちた眼でにらみつけ、但馬守はまた心中にうめいた。
 ――ああ、十兵衛がおってくれたら。……
 ――しかし、あれはあれで、柳生家を滅ぼす。……
「如雲斎はそれを見通して、あのような所業をしてのけたものとわしは見る。きゃつの狙いは、わしじゃ。腹が立ったら、但馬よ、出てこいと申しておる。……」
「わしが」
 と、胤舜はさけんだ。
「如雲斎に恨みはないが、世におのれを知る者は但馬どのおひとりとまで思うておる胤舜じゃ。わしが江戸柳生に代って、如雲斎どのと立ち合い、この恨みをはらしてくれる」
「御坊では、何にもならぬ。それに……御坊では……如雲斎に及ぶまい」
「何を。――」
「……天下に、いま生ける者のうち」
 と、但馬守はしみ入るようにつぶやいた。
「柳生如雲斎の相手に立ち得る者は、この|宗《むね》|矩《のり》くらいであろうか。――」
 すでに死相といっていい暗灰色の顔、苦病に枯れ朽ちんとしている小柄な肉体――それからいまめらっと燃えあがるような絶大の自信と、そして凄じい闘志に、宝蔵院胤舜は、次になお言い返そうとした声をのまれた。
「しかし――この但馬守は死なんとしておる。おそらく、きょう一日のいのちであろう。……」
「た、但馬どの! 何をいわれる」
「いや、わしにはわかるのじゃ。わしの命脈はまずきょうかぎりと計っておった。その朝、わが伜がかかる醜態をさらして帰ってくるとは……運命じゃな」
 そして但馬は、きっとして主膳を見た。
「ゆけ、主膳」
「は?」
「|退《さが》りませい!」
 いま死なんとしているという人にしては、|鉄《てつ》|鞭《べん》のように強烈な声であった。主膳は傷の痛みも忘れ、這うように座敷を去った。
 見送った感情のない眼をもとにもどし、
「胤舜坊、あの唖娘を呼んでくれ」
 但馬守は黒くひからびた唇をひきつらせていった。
「わしは、あの娘を以て、魔界に|転生《てんしょう》いたしたい。――」
 宝蔵院胤舜は息をひき、眼をかっとむいて相手を見まもった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:19
「但馬どの」
 と、さけんだ。
「あなたは……あれを、魔界転生のことを、信ぜぬということではなかったか?」
「御坊は信じるか」
「わしは……いまだに信じておる。恐ろしいことだが、信ぜずにはおれぬ」
「では、いま、わしも信じる。御坊がいつわりをいうまい。……」
 但馬守は肩で息をしながらいった。あえぎながら、きみのわるい笑いを、口辺に皺としてにじみ出させている。……「変身」せざるに、はやくも但馬守が変身したような恐怖をおぼえ、胤舜は手足が金縛りになったような感じがした。
「ふいに寝返ったようだが、まず、胤舜坊、きけ」
 但馬守は笑いを消していい出した。
「そもそもわしは、わしの人生を悔いておった。ひとつは、御坊もさげすんでいたであろう一万二千五百石の荷物じゃ。他愛もない将軍家指南役、しかつめらしい公儀大目付。……これを大過なく、いや後生大事に相勤めて、いま宗矩は七十六年の生を終わる。――しかし、それが出世であったか、柳生石舟斎の伜として会心の事であったか、わしはかようなことをするためにこの世に生まれて来たか? と思うと、病む以前から、わしは骨をかむような疑い、|空《くう》の思いにさいなまれる夜々を持った。……」
「但馬どのが。……」
「わしは第一歩から過っておったのではないか、そもそも柳生を出て、徳川家に仕えたのがまちがいのもとではないか。……それにつけても思い出すのは、もう一つ、若いころ、柳生のとなり村、月ケ瀬の庄の娘、おりくのことじゃ。わしはその娘と契りを交わしながら、出世のためにそれを捨てて、柳生を出た。……」
「……但馬どのが……」
 胤舜はくりかえした。この謹直無比の官吏の典型のような宗矩が、そのような虚無に心を吹かれ、そのようなあえかな追憶を持っていようとは思いのほかであった。
「胤舜坊、荒木は生きておるぞ」
「え。――」
「荒木がまことに再誕したものならば、まずわしのまえに現われるはずじゃとわしはいった。荒木は、じぶんの代わりに、あの唖娘をよこしたのじゃ。おりくそっくりのあの娘を」
 但馬守の眼はぎらぎらとひかり出していた。
「わしは又右衛門におりくの話をしたおぼえはない。しかし、又右衛門は月ケ瀬にちかい生まれじゃ。村の古老からきけば、知らぬ話ではあるまい。いや、知ればこそ、あの娘をよこした。いま、それがわしにわかった。大井川にあの娘を捨てて御坊にまかせたのは、あれをこの宗矩に送りとどけんがためだ。わしの死期のちかいことを知り、わしを転生させるために!」
「――おお!」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:20
胤舜の瞳は散大せざるを得ない。いまそうきいて、あのときのことを想起しつつ、二重三重に妖しい糸を投げかけられ、しだいに「魔界」へひきずりこまれてゆく思いであった。
「御坊。……まことにこの世に再誕したいと願い、まことに恋着した女と交合すれば、たしかに転生すると申したな?」
「荒木は、そう申した。……」
「では、わしは、ふたたびこの世に生まれ変わりたいと願う。変わるのではない。生涯かぶりつづけた老実な官吏、精励なる武官の仮面をぬぎすてて本来の柳生宗矩にもどりたいのじゃ。その昔、兵庫が試合を挑んで来たとき、どれほどわしはその仮面をぬぎたいと思うたかしれぬ。いまそれをぬいで……いいや、転生して、兵庫、柳生如雲斎に、まことの但馬守の恐ろしさを見せてくれるわ」
 もはや、人間の声ではない。|喘《ぜん》|鳴《めい》だ。この木彫の置き物に似て端然たる威儀を崩さなかった老人がいまや満面、憎悪と|敵《てき》|愾《がい》に黒ずみわたり、泡さえ噛み出しているのを、胤舜は凍りつく思いでながめた。
 いまや但馬守は、それまでにのべた「理論」によって魔界転生のことを信じたのではない。この憎悪と敵愾によって理性を失い、曾てきいたあの荒唐無稽の奇跡によりすがって立ちあがろうとしているのだ、ということを胤舜も認めた。
「胤舜。……おりく――いや、あの唖娘を呼べ」
 柳生但馬守は絶叫した。
「わしはあの女に恋着した。いそぐ、いそぐぞ、胤舜坊、わしをあの娘と交合させよ!」
 宝蔵院胤舜はふるえ出した。それは恐怖からではなかった。この尊敬すべき老剣聖が、すべての誇り、自己抑制をかなぐりすてたその姿から、嫌悪どころか荘厳の鬼気を吹きつけられるのをおぼえたからだ。
 一息。二息。――
「……承ってござる」
 胤舜はうなずいて去った。このとき彼はすでに|従容《しょうよう》たる態度をとりもどしていた。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:20
【五】

 すぐに彼は女をつれて来た。あの唖娘のみならず、じぶんの同伴者、あのお佐奈までも。
「これ、おまえは又右衛門に何といわれ、何と思うてわしについて来たか、宝蔵院が|今生《こんじょう》の願いじゃ。あの但馬守どのの最後の寵を受けてくれ」
 彼は、唖娘を押しやった。
 唖娘はヨロヨロと泳いで、但馬守の|閨《ねや》にふしまろんだ。――が、ほんとうに彼女は又右衛門たちに何を命じられ、何をかんがえて、いままでこの柳生邸で過ごしてきたのか、逃げもせず――逃げるどころか、そのまま、やさしく瀕死の老但馬守のひざによりすがったのだ。しかも、例のほのぼのとした、春霞のようにけぶった顔で。
 ――荒木が、あの唖娘をよこしたのじゃ。わしを転生させるために!
 そういった但馬守の言葉が決して誤りでなかったことを、身ぶるいとともに肯定しつつ、胤舜は、片手にお佐奈の手をとらえ、片手で、同時に持って入った細長い包みを解き出した。
 白布からあらわれたのは、一本の槍の穂先であった。大井川で、あの少年六部から切りとばされたものの残片であろうか。
 それをつかみ、なかば布で巻いたまま、彼は――ぷつりとじぶんのみぞおちにつき立てた。
「……宝蔵院、何をいたす」
 このさいにも、但馬守は驚愕してさけんだ。
「殉死じゃ」
「ば、ばかなことを」
 胤舜は苦痛に顔をひきゆがめつつ、笑った。
「死に殉ず――というより、但馬どの再誕のお供をいたす、といった方がよかろうか。剣と槍、相照らす武道の旅の道づれになりたい、といおうか。わしは、|転生《てんしょう》した但馬どのと、もういちど立ち合いたいのじゃ。転生すれば、そのわざ、さらに鬼神の妙を加える、と荒木はいった。但馬どの、おたがいにふたたびこの世に生まれ変わって、もういちどやろう。そのときは、かならず勝つぞ!」
 槍の穂をひきぬくと、血潮がビューッと噴出した。
「佐奈、胤舜五十六年にわたる童貞の戒律をいまぞ破る。よろこべ!」
 胤舜は、片手でつかんだお佐奈をひざのまえにねじ伏せた。
 そのとき――唐紙の向こうから、小走りにちかづいてくる足音がきこえ、呼ぶ声がした。
「宝蔵院さま。……ただいま、宝蔵院さまの知り人じゃと申して、二人の六部どのが訪れてござりまするが」
 何も知らないらしい小姓の声であった。
「なに、二人の六部?」
 胤舜はふりあげた顔を凝固させたが、やがて、
「御坊が死なれるとき、われら必ず参上いたし、宝蔵院新生の産婆となって進ぜる、と申したが――そうか、やはり来おったか?」
「は?」
「いや、こっちのことだ」
 胤舜は平静な声にもどって、
「恐れ入るが、こちらにお通し申して下され」
 と、いった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:20
「ただし、その六部だけを通して下されよ」
 ――十分後、二人の六部だけが、その座敷に入って来た。もとより|笠《かさ》はぬいでいたが、ひとりだけは白い|頭《ず》|巾《きん》をかぶっている。
 しかし、但馬守と胤舜は、もうこときれていた。但馬守は閨の中にあおむけになって、うつろにひらいた眼を天井にむけ――唖娘は、そのそばに端然と座って、春霞のような顔でそれを見まもっていた。
 宝蔵院胤舜の碁盤みたいなからだの下には、全裸とされたお佐奈がおしひしがれて、|凄《すさま》じい鮮血と精液にまみれて|悶《もん》|絶《ぜつ》していた。
 唖娘はこちらを見あげ、十字を切って――
「……聖オーギュスタン行長さまのおん霊に祈りたてまつる。おん|呪《のろ》いを世にあらわさんがため、わが罪をゆるしたまえ。――」
 と、いまだ人語を発したことのない唇でつぶやいて、微笑した。
 ――ほかにきく者があったら、驚倒したろう。たんに唖娘がしゃべったという事実だけではない、いまつぶやいた言葉そのものだ。
 オーギュスタン行長――といえば、もとより切支丹大名といわれた小西摂津守行長のことに相違ない。
 豊家の武将、キリシタン、二重の意味で徳川家にとって不吉きわまる名だが、しかしその行長は、四十数年前、関ケ原の役に敗れて|斬《き》られた。――してみると、この娘は、小西の遺臣の血をうけた者でもあろうか。
 これに対して、若い方の――それは例の四郎と呼ばれている六部であったが、彼だけが胸に十字を切って、彼女に応えてみせただけである。
 白い|頭《ず》|巾《きん》で眼ばかりのぞかせた六部は、胤舜のからだを抱き起こし、お佐奈をひきずり出して活を入れた。
 唖でない唖娘と若い六部が、彼女にきものをまとわせているあいだに、頭巾をつけた六部の方は、胤舜を血の海の中に座ったままでつっ伏した姿勢に変え、落ちていた槍の穂を右のこぶしににぎらせた。
 そして彼は、この剣と槍との大達人の二つの屍体を見下ろして、
「……一ト月のちに、また拝顔つかまつる」
 と、つぶやいて、二人のつれをうながした。
 二人にささえられたお佐奈は――目ざめて見たこの恐ろしい光景に魂を奪われて、完全にあやつり人形と化したかのようであった。
 もとの座敷に待っていた小姓は、二人の女を伴って出て来た二人の六部を迎えたが、彼らが一言の口もきかず、粛々として玄関まで出てゆくのを、これまた茫然と見送っただけである。
 が、玄関で、白頭巾の六部が笠をかぶりながら、
「但馬守さま御逝去のことおくやみ申す。なお……宝蔵院さまも御殉死のていに見えまするが……このことは御公儀に秘された方が、御当家の御ためでござりましょう」
 と、ものしずかにいわれ、あっとさけんで駈けもどっていった。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:21
すぐに但馬守の病室に於ける大異変が発見され、柳生家は混乱におちいり、あわててまた六部たちの行方を探し求めたが、彼らの姿はもうどこにも見えなかった。
「……父上御他界のことだけを届け出い」
 苦痛にうめきつつ、|主《しゅ》|膳《ぜん》宗冬はそう命じた。彼にとって衝撃と混沌たる思いは、むろん他の誰よりもはなはだしかったが、父の死以外のすべてを秘密にしなければ、柳生家に傷がつくという自覚だけははっきりとしていた。
「――柳生谷の十兵衛さまには?」
 と、家来のひとりがきいた。長男の十兵衛へ、但馬守の死を告げるべきか、否か、ときいたのである。
 主膳は眼をとじて、蒼い唇でつぶやいた。
「お知らせせずばなるまい。誰かやれ。……ただし、父上の御遺言により、御帰邸のことはかたく御無用とな」

 正保三年三月二十六日、柳生但馬守宗矩死す。七十六歳。
 同年同月同日、宝蔵院胤舜死す。五十六歳。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:21
「敵」の編制


     【一】

 柳生如雲斎は、|闇《やみ》の中に座っていた。
 じっと座っていても、腹部上辺から|心《しん》|窩《か》|部《ぶ》に鈍痛がする。しかし、これはまだいい方で、ときに常人なら耐えがたいほどの発作的な激痛が間欠的に波打ってくることがある。闇の中だから見えないが、如雲斎はよごれた黄色い皮膚の色をしていた。一見肥満しているようだが、如雲斎のつき出した腹の中には、いわゆる腹水なるものがたまっているのであり、下肢はむくんでいるのであった。
 彼は不治の肝硬変をわずらっていた。
 むろん、彼はそんな病名を知らない。ただ、じぶんがわずらっていることだけは知っている。
 そのことを、彼は去年の秋ごろから気がついた。九州から名古屋に帰り、魔性の気を払おうとして京の妙心寺へゆき、そこで座禅をくんでいるうち、からだの異常を感づいたのだ。
 魔性の気を払おうとして西へいったのに、かえって彼は魔性の根元たる東へ――江戸の由比道場に来た。むろん、名古屋の自邸において、魔界転生の妖しきわざを見せた由比民部之介正雪にひかれて来たのだ。それは鉄片が磁石に吸引されるような、おのれもどうすることもできない行為であった。
 正雪は彼を歓迎した。そして、客分として遇した。
「当分、ここにお住まいなされ」
 と、彼はいった。
「そのうち、また面白いものをお目にかける」
 それだけである。
 正雪は、武蔵のことをいわなかった。森宗意軒のこともいわなかった。田宮坊太郎の姿もどこにも見えないようであった。
 如雲斎は何もきかなかった。きくのが恐ろしかったからだ。門弟三千、ききしにまさるはなやかな道場のたたずまいに、眼を見張りつつ、そこでむしろ上ッ調子に快笑している正雪をながめつつ――その裏に、別の正雪が鋭い顔で何やら容易ならぬことを計画しているのを感じつつ――如雲斎は黙々として由比道場の奥ふかく座っていた。
 何かが起こる。
 はじめに正雪にそう予言されたせいばかりでなく、本能的にそれを予感して、如雲斎は恐れながら、それを待っていた。
 一ト月まえ――彼は、この道場にひそかに出入りしている紀州大納言を探索するために何者かが道場の裏門で見張っているということを、ふときいた。ふと――ではない。
「それがどうやら、大目付柳生但馬守の息子どのらしゅうござる」
 うす笑いして、正雪が如雲斎にささやいたのである。
 それ以上、正雪は何もいわなかったのに、それまで半年ちかく、まるで|山椒魚《さんしょううお》みたいにうごかなかった如雲斎が起った。彼はみずから紀州大納言に代わって主膳をさそいよせ、これに恥辱を与えたのである。
 それから、約一ト月。――
 ――あの夜のあけた日に、但馬守がこの世を去ったことを、数日後、如雲斎は知った。
 但馬守が病床に臥していたことはきいていたから、それは偶然であったかもしれない。しかし子息主膳の受けた恥辱が重大な衝撃となったであろうことは疑えない。
 但馬守は、主膳を恥ずかしめたものがこの如雲斎であったことを悟ったか、どうか? あれはあのときの突然の思いつきであって、如雲斎はそのことをあとで正雪に直接報告していない。そして正雪はもう知っているはずだが、彼もまた何もいわない。
 すべては自主的な行動のつもりであったが、いまにして思えば、最初から見えない糸にあやつられた|傀《かい》|儡《らい》のふるまいであったような気がする。――
 そして。――
 何かが起こる。そういう期待で半年由比道場に暮らしてきたのにあの夜以来約一ト月、如雲斎はむしろそもそもの目的を失ったように、空漠たる胸を抱いていた。但馬守が死んだということ、それである。柳生の傍流でありながら、宗家のような顔をしている但馬守に、如雲斎は|満《まん》|腔《こう》の不快をむけていたが、しかし、あのような隠微なシッペ返しは、彼の本意ではなかった。彼は、いちど但馬守自身と立ち合い、これを破りたかったのだ。――
その如雲斎に、
「かねてのお約束通り、今夜先生に面白いものをお目にかけます」
 そう正雪が告げたのである。
 それで、いま如雲斎は、導かれるままにある一室に座って、|闇《やみ》の中に待っている。
 ――面白いもの? 但馬守この世になく、こちらも老い、かつ病んでいるわしに、どのような面白いことがあるというのか?
 と、如雲斎は、眼前の暗い唐紙に、ふっと青いひかりのすじが浮かびあがり、それが徐々にふとくなってゆくのに気がついた。
 唐紙がひらいてゆくのだ。
 そこに女が二人、立っていた。しかも、一糸まとわぬ|裸形《らぎょう》が――両側に置かれた燭台の灯を受けて、まるで夜光虫がとまっているように、青くふちどられている。……いずれも息をのむほど美しい。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:22
【二】

 柳生如雲斎は、思わず片ひざをたてていた。それはこの光景におどろいたというより、その二人がじぶんの知らない女であるにもかかわらず、どこか見おぼえのある――あの田宮坊太郎、宮本武蔵を生み出した娘たちとそっくりの凄壮な眼を、かっと見張っていたからだ。
「先生、新しい魔界転生を|御《ぎょ》|見《けん》に入れます」
 うしろで、声がした。
 ふりかえると、いつのまにかそこに由比正雪が端然と座っていた。
「正――正雪」
 と、如雲斎はさけんだ。
「だれが生まれるのか?」
「四郎、坊太郎」
 と、それに答えず正雪は声をかけた。
 如雲斎は、二人の女の足もとにひれ伏すようにしていた二つの影が、このときむくと身を起こすのを見た。
「――この世に出でよ、宝蔵院胤舜!」
 |裂《れっ》|帛《ぱく》の声がした。
 声と同時に、右側の女の顔から下腹にかけて垂直にひかりの糸が――同時に赤い線がながれた。その赤い線から皮膚の八方に亀裂が入って、そこからべつの人間が女体をおしわけ、みるみるふくれあがってあらわれた。
 ――曾て如雲斎が目撃した田宮坊太郎の出現と同様の光景である。そして、いま女体を斬った者は、実にその再生した坊太郎なのであった。
 あらわれたのは、背こそ五尺そこそこだが、横はばは異常にひろい、まるで碁盤のような男だ。しかも、頭はつるつるに|剃《そ》っている。……裸だが、あきらかに法師だ。
 ……なに、宝蔵院胤舜?
 いまきいた声――以前からきいてはいるが、幸か不幸かまだ相見たことのない槍の達人僧の名に、如雲斎が|爛《らん》たる眼をすえてその入道を見つめるまもなく、もう一方の影が、これまた、一閃の光芒をたばしらせて、左側のもう一人の女を斬った。
 その斬った若者らしい影が――去年五月、熊本岩戸山で逢った若い六部らしい、と如雲斎が気がついたとき、女体はまるでえたいのしれぬ白い皮袋のようなものに変じて、いま出現した人物の足もとにぬぎすてられている。
「……あっ……」
 柳生如雲斎は、彼自身の肉体にひびが入ったようなさけびをもらしていた。
 二番目に出現した人間――それは小柄のやせた老人であったが、如雲斎の眼に、どうしてそれを見まがうことがあろう、たとえその人物に最後に逢ったのが、二十年ちかい昔であろうとも。
「や、や、柳生――宗矩!」
 一語一語、刻むようにうめいて見まもる如雲斎の眼前で、坊太郎は胤舜に、四郎は但馬守に、それぞれ白い衣服をかいどりのごとくその肩に投げかけている。
 いうまでもなく、宝蔵院胤舜を再生させたのはお佐奈であり、柳生但馬守を再誕させたのは、あの切支丹の|唖《おし》娘であった。
 いや、正確にいえば、唖ではない。彼女は口をきいた。オーギュスタン行長の魔霊に祈りの言葉をささげた。――ある意味で変質的ともいえる宝蔵院胤舜の道具とされ、一種の性的|白《はく》|痴《ち》と化したお佐奈は、魔界転生の忍法のいけにえとなっても、ほとんどその自覚はなかったかも知れないが、この切支丹娘の方は、あきらかに自己の義務を承知してこの夜の運命を甘受した。
 おそらく彼女にとって満足すべき|殉《マル》|教《チリ》であったろう。そしてまたおそらくは、曾て荒木又右衛門、天草四郎らを転生させた女たちも、同様の恐るべき殉教者であったろう。
 それはともかく。――
 いま女体から|孵《ふ》|化《か》した但馬守は、まるで盲人のような足どりでこちらに歩み出して来た。事実、彼は眼をとじたままである。それなのに、なんのためか、天草四郎は但馬守に、そばの燭台を手わたした。――
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:22
 ――但馬守は、燃える燭台を片手にささげて、ソロリソロリとちかづいてくる。
「……た、但馬どの。……」
 さしもの柳生如雲斎が立ちあがり、二三歩あとずさり、かっと眼をむいてそれを迎えた。
 但馬守はまだ眼をつむっている。異様に青い、|陰《いん》|火《か》のような燭台の火が、その半顔を照らしている。
 それは如雲斎が曾て田宮坊太郎の転生の際に見たときと同様、天地|晦《かい》|冥《めい》の中にいるような相貌であったが、いま如雲斎は、あのとき正雪が田宮をとらえて「……やがて次第に心のかたちをととのえて参りますれど、いまのところ」云々といったたぐいの言葉を忘れている。
 いや、たとえいま但馬守が無意識の状態にあろうと、如雲斎の方は激烈な反応に襲われざるを得ない。積年、一種の宿敵と目していた宗矩だ。さらに先夜、その伜に恥をかかせて、そのために死を早めたのではないかと見ていた但馬守だ。
 ――但馬守はちかづいて来た。一間の距離にせまって、とじていた眼がほそくひかり、三日月のような青いひかりをはなった。
「但馬っ」
 絶叫すると、如雲斎はわれを忘れ、逆に一歩踏み出した。片手につかんだ一刀から|一《いっ》|閃《せん》の剣光が走った。
 天下に敵なし――敢て自負する如雲斎の抜き討ちであった。だれが想像していたろうか、その一刀が|空《くう》を打とうとは。
 如雲斎の眼に、ただ青い火が燃えつつ|弧《こ》をえがいた。その|刹《せつ》|那《な》、彼は胴に凄じい衝撃をおぼえて、どうと巨体をたたみにはわせていた。――ちょうど一ト月まえ、彼が柳生主膳を地にはわせた姿とそっくりに。
 それっきり、彼は闇に沈んだ。
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:23
【三】

 どれほどのときがたったか。――
 柳生如雲斎は、胴と背にはげしい痛みをおぼえて失神からさめた。
 彼が見たのは、一本の燭台をはさんで、端然と座っている由比正雪ともうひとりの若者――あの若い六部であった。
 如雲斎は身を起こし、まわりを見まわし、すべてを思い出した。じぶんは但馬守のふるった燭台で、大根のように胴をなぎはらわれて|悶《もん》|絶《ぜつ》させられたのだ!
「た、但馬。……」
 彼はかすれた声を発した。但馬守はもとより、あとの連中の姿はどこにも見えなかった。
「先生、お腰がお痛みでござりましょうが」
 うす笑いして、正雪がいった。
「背に――お腰の上に、江、と彫ってありまする」
 だれが彫ったとは、彼はいわなかった。それをきく余裕を、如雲斎は失っていた。江――いうまでもなく、江戸柳生の意味である。
「お怒りなされまするな。お悲しみなされまするな。……相手は、魔界に|転生《てんしょう》なされたおひとでござりまする」
 如雲斎は何かさけぼうとして、このとき胴でも背でもなく、内部の腹腔からつきあげて来た激痛にうっと息をつめた。
「先生。……どうやら、そのときが、とうとうちかづいたようでござりまするな」
「――そのときが?」
「魔界転生のとき」
「…………」
「魔界に転生なされませ。転生なされねば、あなたさまは、ついに但馬守どのに及ばれますまい」
 如雲斎は獣のようなあえぎをもらした。
「だ、だれを以て?」
「お加津さまはいかが」
「…………」
「御子息茂左衛門さまの嫁女。如雲斎先生はあの女人を、心からいとしいと思うてでござりましょうが」
「…………」
「先生、名古屋へお帰りなされませ。この四郎をお供仕らせまする。忍法魔界転生のかいぞえとして」
「…………」
「ただし、名古屋のお邸でこのわざをなすは、茂左衛門さまの手前、ちとはばかりがござりまするな。京へお加津さまをおさそい出しなされた方がよろしゅうござりましょう。御病気の御看護とでも、名目は何とでもたてられましょう。京の妙心寺の|草《そう》|廬《ろ》が適当と正雪は存ずる」
「…………」
 なんと勝手なことをいわれても、如雲斎は黙って、ただ瞳孔をひろげて正雪を見まもっているばかりだ。彼は、調教師たる正雪の意のままにうごく病める老虎のような表情になっていた。
 が、徐々に、彼のうつろな眼にぎらぎらとした炎が燃えて来た。
「お加津を以て、わしを生ませる。……」
「忍体、と申しまする」
「いかにすれば、お加津がわしを再誕させる忍体となるか」
「そのために、この四郎をつかわすのでござる。四郎、あれを御覧に入れい」
作者: demiyuan    时间: 2008-5-8 15:23
四郎はしずかにふところから、小さな紙包みをとり出した。紙をひらくと、べっこう色の細い竹筒があらわれた。紙をたたみにひろげて、竹筒をたてにする。――と、そこからポロリとこぼれたものがある。
「…………」
 如雲斎は眼を見張った。
 それは一本の切断された指であった。朽木を折りとったようなひからびた指だ。
「これを以て、お加津さまをもてあそび――いや、お手当申しますれば。……」
「それは、何者の指か? ……それで手当するとは、いかようにして。……」
「まず、いまのところは、これ以上おきき下さる要はござりますまい。四郎にまかせられませ」
 正雪は冷やかに如雲斎をじっと見返して、
「それより、こちらでおうかがいしたいのは、先生、先生にまことに魔界転生の御意志ありやいなや、ということでござりまする」
 如雲斎は息をつめ、ややあって、ふいごのようにそれを吐いて、
「――ある!」
 といった。




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