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标题:
文化史
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作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-6 19:55
标题:
文化史
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
┃旧石器時代の文化/縄文文化のノート
○旧石器時代の文化
?更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)?骨角器の使用
狩猟?採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動
?日本列島と大陸は陸続き
?相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人?港川人など)の発見
?代表遺跡…岩宿遺跡?野尻湖底遺跡、早水台遺跡
○縄文文化
?完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯?生息動物?生活の変化
?磨製石器(石斧?石鏃?石匙?石皿)、骨角器(釣針?銛?鏃)の登場
石錘?土錘、丸木舟の使用
?縄文土器…黒褐色?厚手、低温で焼く、もろい。6期区分
?竪穴住居、貝塚
?アニミズム、土偶?石棒、屈葬、抜歯
?交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)
ひすい(姫川?糸魚川)?サヌカイト(二上山)
?代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など
┃文章
旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達し
た時代である。そして、打製石器?骨角器{こっかくき}は使用したが、土器
の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}?漁労{ぎょろう}?採集
生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマ
ンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日
本列島に来た。
なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石
器?青銅器?鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新?旧の2段階に
分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製
{ませい}石器?土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では
縄文文化以降がそれに当たる。
<注1>更新世の後で現在に至る1万年
戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたとい
う考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物
は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見
した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺
跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわ
れ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文化の存在が明らか
になった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじ
ん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古
学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。
この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送
っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や
尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象
やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作っ
た石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く?割る?切
るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せき
じん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物
性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟
{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。
この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡
群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時
代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器?石器が見つかった。早
水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡
とされる握槌?石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけと
なった。
今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そし
て、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成され
た。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多
くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹
林が広がった。
人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用い
たり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達
を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類?量は豊富で、ドングリなどの
木の実の採集も行なわれた。
狩猟?漁労?採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作
られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧
{せきふ}?石鏃{せきぞく}?石匙{せきひ}?石皿などがある。また、動
物の骨?角?牙で作られた骨角器は、釣針?銛{もり}?鏃{やじり}などに
使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}?土錘{どすい}、
火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。
縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の
縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっ
かっしょく}?厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式
から草創?早?前?中?後?晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ
一致する。土器は煮沸?貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵
穴に保存された。
<注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。
縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大
幅に改善され、老人?幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保
存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が80
00年近くに及ぶことになった。
その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して
定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住
居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集
落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が
層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器?石
器の破片などが捨てられた。
人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や
階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。
この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを
畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で
災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶
{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人
形で女性像が多く、生殖?収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期
に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を
刻んだ土面{どめん}?土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。ま
た、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。
死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっ
そう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など
諸説ある。また、犬歯{けんし}?門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る
抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されて
いる。
この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石
{こくようせき}?ひすい(硬玉{こうぎょく})?サヌカイトなどである。
黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適
した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝
{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こ
うづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の
分布は、当時の交易状況を物語る。
<注3>黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を
切っても切れ味がにぶることはなかった。
ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として
使われた。新潟県姫川{ひめかわ}?糸魚川{いといがわ}流域が特産地であ
る。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さ
ぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く
産出する。
この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺
跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕
の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の
最古?最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落
が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日
本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日
本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の
津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸
展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。
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作者:
flamingo7625
时间:
2009-6-6 20:12
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
啊 这是哪个学校的呢。。。好像上外没有
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作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-6 21:30
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
是广外的?总之,非常谢谢楼主提供的资料,期待继续...
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作者:
小琳若叶
时间:
2009-6-6 21:41
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
广外的吗?????谢谢楼主啊!!
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作者:
yunzhier
时间:
2009-6-7 11:18
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
どうも ありがとうございます。
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作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-10 22:37
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
桃山文化のノート
○桃山文化…16世紀後半の信長?秀吉の時代の文化
?特徴…豪壮雄大な文化、現実的な文化、南蛮文化の影響
?建築…城郭建築-姫路城?彦根城?安土城?伏見城など
伏見城遺構→都久夫須麻神社本殿?唐門、西本願寺書院?唐門
聚楽第遺構→大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣
書院造-醍醐寺三宝院表書院
茶 室-妙喜庵待庵(千利休?)、如庵(織田有楽斎)
?絵画(狩野姓の人物は名字省略)
?水墨画-『松鷹図』(山楽)、『山水図屏風』(海北友松)など
?濃 絵-『唐獅子図屏風』(永徳)
『智積院襖絵』(長谷川等伯)など
?風俗画-『洛中洛外図屏風』(永徳)
『花下遊楽図屏風』(野長信)など
?南蛮屏風
?工芸…高台寺蒔絵、欄間彫刻など
?芸能?風俗
?茶道…千利休が大成。北野大茶会の開催
古田織部?今井宗久?津田宗牛久の茶人
?阿国歌舞伎(出雲阿国)→歌舞伎へ
?人形浄瑠璃 ?隆達節(高三隆達)
?名人…碁の本因坊算砂、将棋の大橋宗桂ら
?生活…小袖、1日3食の風
?南蛮文化
?活版印刷術の伝来(ヴァリニャーニ)
→天草版の刊行(『天草版平家物語』など)
?『日葡辞書』の刊行
┃文章
桃山文化は、16世紀後半の信長?秀吉の時代の文化である。特徴は、新興武
士と豪商の財力を土台にした豪壮雄大{ごうそうゆうだい}な文化で、仏教色
も薄れて現実的な文化である。また、南蛮文化の影響を受けた文化でもある。
秀吉の居城伏見{ふしみ}城の跡地に桃を植えたことから、その地を桃山とい
うようになった。
建築では、城郭{じょうかく}建築が有名である。城郭は、壮麗な天守{て
んしゅ}を持つ本丸を中心に、二の丸?三の丸などの郭{くるわ}や櫓{やぐ
ら}を配したもので、その中核をなす高層の楼閣を天守閣という。現在も残る
城郭は、姫路城<注1>、彦根城、松本城、二条城二の丸御殿など、残ってい
ないものは安土城、伏見城がある。なお、現存最古の天守閣は、犬山城のもの
である。
<注1>別名、白鷺{しらさぎ}城。池田輝政{てるまさ}の居城。
江戸時代に取り壊された伏見城の遺構は、都久夫須麻{つくぶすま、ちくぶ
すま}神社本殿?唐門<注2>、西本願寺書院(鴻の間{こうのま})?唐門
とされている。また、豊臣秀吉が京都に作った聚楽第{じゅらくだい}も、豊
臣秀次の死後に取り壊され、西本願寺飛雲閣{ひうんかく}、大徳寺唐門はそ
の遺構とされている。
<注2>都久夫須麻神社は、琵琶湖の竹生島{ちくぶしま}にある。
城郭以外に、書院造の醍醐寺三宝院表書院{だいごじさんぽういんおもてし
ょいん}やその庭園がある。茶室も、千利休{せんのりきゅう}のものと伝え
られる妙喜庵待庵{みょうぎあんたいあん}、織田有楽斎{うらくさい}の如
庵{じょあん}がある。
絵画では、障壁画と風俗画がある。障壁画は、襖や壁?屏風?障子に描かれ
た絵で、水墨画と金碧{きんぺき}濃彩画があり、後者を濃絵{だみえ}とい
う。濃絵は、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた絵画で、狩
野永徳{かのうえいとく}の発明とされる。
狩野永徳の『唐獅子{からじし}図屏風』や『檜{ひのき}図屏風』、狩野
山楽{さんらく}の『松鷹{しょうよう}図』や『牡丹{ぼたん}図』、長谷
川等伯{とうはく}の『智積院{ちしょういん}襖絵楓{かえで}図?桜図』
や『松林図屏風』<注3>、海北友松{かいほうゆうしょう}の『山水{さん
すい}図屏風』などがある。
<注3>『智積院襖絵』は子の久蔵{きゅうぞう}との合作。『松林図屏
風』は水墨画。
風俗画は、庶民生活?風習などを題材とする絵である。狩野永徳の『洛中洛
外図屏風』、狩野吉信{よしのぶ}の『職人尽{づくし}図屏風』、狩野長信
{ながのぶ}の『花下遊楽{かかゆうらく}図屏風』、狩野秀頼{ひでより}
の『高雄観楓{たかおかんぷう}図屏風』などがある。また、南蛮屏風も作ら
れ、『世界地図屏風』や『泰西{たいせい}王侯騎馬図屏風』などがある。
工芸は、高台寺蒔絵{こうだいじまきえ}がある。高台寺は、豊臣秀吉の正
室北政所{きたのまんどころ}が秀吉の冥福を祈るために建立した寺である。
その霊屋{おたまや}は、伏見城の遺構で金蒔絵が施されている。秀吉?北政
所の蒔絵調度品を含めて、高台寺蒔絵という。彫刻は、西本願寺浪の間{なみ
のま}の欄間{らんま}彫刻が有名である。欄間は、鴨居{かもい}と天井の
間にはめ込まれた格子や透し彫{すかしぼり}<注4>の板で、通風?採光を
目的としている。また、甲冑{かっちゅう}も多く作られた。
<注4>一枚の板を表から裏まで彫り通した彫刻技法。
芸能?風俗では、茶道は千利休{せんのりきゅう}によって大成され、古田
織部{おりべ}?今井宗久{そうきゅう}?津田宗及{そうぎゅう}らの茶人
が現われた。織部は武道的茶道を成立させ、宗久?宗及?利休は三宗匠と称さ
れた。1587年、秀吉主催の北野大茶会{きたのおおちゃのえ}が開かれ、身分
?貧富の差なく自由に参集を求めた。
出雲阿国{いずものおくに}は、阿国歌舞伎というかぶき踊りを始めた。か
ぶき踊りは、異様な風体{ふうてい}をした傾奇者{かぶきもの}の踊りであ
る。後に歌舞伎に発展していった。人形浄瑠璃{じょうるり}は、三味線{し
ゃみせん}を伴奏に取り入れ、人形操りと結合して発展した。三味線は琉球か
ら伝わり、猫皮を利用して日本特有のものとなった。高三隆達{たかさぶりゅ
うたつ}は、小歌を節付けして隆達節{ぶし}(隆達小歌)を始めた。
娯楽は、碁{ご}の本因坊算砂{ほんいんぼうさんさ}、将棋{しょうぎ}
の大橋宗桂{そうけい}らの名人が現われた。生活は、小袖{こそで}がはや
り、1日3食の風も生まれた。
南蛮文化の流入も、この文化の大きな特徴である。ヴァリニャーニは活字印
刷術を伝え、それを用いた天草版{あまくさばん:キリシタン版とも}は、宗
教書や辞書?文典を主にポルトガル系のローマ字で刊行された。『天草版平家
物語』や『天草版伊曽保{いそほ}物語』など34点が現存する。『日葡{にっ
ぽ}辞書』が長崎で刊行された。教会堂(南蛮寺{なんばんじ})?コレジオ
?セミナリオ?ノビシャド(修練院)などの施設も作られた。地球儀?時計?
眼鏡?外来語など生活文化への影響もあった。
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作者:
rireiume
时间:
2009-6-11 10:07
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
本人也在考日本文化,觉得有点难.太感谢了!不知道哪有卖日本文化的日文版的书?
哪位知道?谢谢了!
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作者:
小琳若叶
时间:
2009-6-11 18:19
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
请问楼主还有多少没传的呢?
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作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-12 22:01
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
室町文化のノート
室町文化…南北朝期の文化、北山文化、東山文化の総称
?特徴…公家文化+禅宗文化融合の武家文化+民衆的要素
文化の民衆化と地方普及(戦国時代)
南北朝期の文化…14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化
?特徴…世相の反映、武士?民衆の台頭
?学問…歴史書-『神皇正統記』(北畠親房)
有職故実-『建武年中行事』(後醍醐天皇)
『職原抄』(北畠親房)
?文学…軍記物-『太平記』『難太平記』『曽我物語』
歴史書-『梅松論』『増鏡』
和 歌-『新葉和歌集』(宗良親王)
?連歌…『菟玖波集』(二条良基と救済)、『応安新式』(二条良基)
○北山文化…3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化
?特徴…武家文化が公家文化を摂取、禅宗文化?明文化の普及
?仏教…五山十刹-臨済宗統制。京都五山?鎌倉五山。五山僧の活躍
?文学…五山文学の全盛-義堂周信?絶海中津が双璧、五山版
歴史書-『難太平記』(今川了俊) 軍記物-『義経記』
?建築…鹿苑寺金閣など
?庭園…西芳寺庭園(夢窓疎石)、天竜寺庭園、鹿苑寺庭園
?絵画…水墨画-『瓢鮎図』(明兆)、『寒山拾得図』(周文か?)など
?芸能…能-観阿弥?世阿弥が大成、『風姿花伝』(世阿弥)
狂言
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作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-12 22:05
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
どうして発送するとき、下記のエラが出てきったのか?
对不起,您填写的内容(如签名、帖子、短消息等)包含不良内容而无法提交,请修改。
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作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-12 22:07
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:34 编辑
楼主真是好人!
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作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-12 22:09
全部のリスト
旧石器時代の文化
縄文文化
弥生文化
古墳文化
飛鳥文化
白鳳文化
天平文化
弘仁・貞観文化
国風文化
院政期の文化
(平安末期の文化)
鎌倉文化
室町文化
桃山文化
寛永期の文化
(江戸初期の文化)
元禄文化
江戸時代の学問・思想
化政文化
文明開化期の文化
明治文化①
明治文化②
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-12 22:14
必要なら、メールを教えて、もう整理した分を発送します。
作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-12 22:27
麻烦发给我一份:
wutongh@163.com
多谢了!
作者:
aiko_zhou
时间:
2009-6-12 22:40
感谢楼主共享,是广外的吧!我也想要一份,麻烦你了。
qq 1016635718
mail:
aiko_zhou@hotmail.com
作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-12 22:45
等待着.....楼主记得发给我一份啊!感谢 感谢!
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-12 23:06
aiko_zhou@hotmail.com
、
wutongh@163.com
へ
もう送りました、ご査収ください
作者:
小琳若叶
时间:
2009-6-13 15:38
麻烦楼主也给我发一份好吗?
irene-linlin@163.com
先谢过了!!!
作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-13 17:06
已收到,多谢楼主!
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-13 20:37
桃山文化のノート
桃山文化…16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化
・特徴…豪壮雄大な文化、現実的な文化、南蛮文化の影響
・建築…城郭建築-姫路城・彦根城・安土城・伏見城など
伏見城遺構→都久夫須麻神社本殿・唐門、西本願寺書院・唐門
聚楽第遺構→大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣
書院造-醍醐寺三宝院表書院
茶 室-妙喜庵待庵(千利休?)、如庵(織田有楽斎)
・絵画(狩野姓の人物は名字省略)
・水墨画-『松鷹図』(山楽)、『山水図屏風』(海北友松)など
・濃 絵-『唐獅子図屏風』(永徳)
『智積院襖絵』(長谷川等伯)など
・風俗画-『洛中洛外図屏風』(永徳)
『花下遊楽図屏風』(野長信)など
・南蛮屏風
・工芸…高台寺蒔絵、欄間彫刻など
・芸能・風俗
・茶道…千利休が大成。北野大茶会の開催
古田織部・今井宗久・津田宗牛久の茶人
・阿国歌舞伎(出雲阿国)→歌舞伎へ
・人形浄瑠璃 ・隆達節(高三隆達)
・名人…碁の本因坊算砂、将棋の大橋宗桂ら
・生活…小袖、1日3食の風
・南蛮文化
・活版印刷術の伝来(ヴァリニャーニ)
→天草版の刊行(『天草版平家物語』など)
・『日葡辞書』の刊行
┃文章
桃山文化は、16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化である。特徴は、新興武
士と豪商の財力を土台にした豪壮雄大{ごうそうゆうだい}な文化で、仏教色
も薄れて現実的な文化である。また、南蛮文化の影響を受けた文化でもある。
秀吉の居城伏見{ふしみ}城の跡地に桃を植えたことから、その地を桃山とい
うようになった。
建築では、城郭{じょうかく}建築が有名である。城郭は、壮麗な天守{て
んしゅ}を持つ本丸を中心に、二の丸・三の丸などの郭{くるわ}や櫓{やぐ
ら}を配したもので、その中核をなす高層の楼閣を天守閣という。現在も残る
城郭は、姫路城<注1>、彦根城、松本城、二条城二の丸御殿など、残ってい
ないものは安土城、伏見城がある。なお、現存最古の天守閣は、犬山城のもの
である。
<注1>別名、白鷺{しらさぎ}城。池田輝政{てるまさ}の居城。
江戸時代に取り壊された伏見城の遺構は、都久夫須麻{つくぶすま、ちくぶ
すま}神社本殿・唐門<注2>、西本願寺書院(鴻の間{こうのま})・唐門
とされている。また、豊臣秀吉が京都に作った聚楽第{じゅらくだい}も、豊
臣秀次の死後に取り壊され、西本願寺飛雲閣{ひうんかく}、大徳寺唐門はそ
の遺構とされている。
<注2>都久夫須麻神社は、琵琶湖の竹生島{ちくぶしま}にある。
城郭以外に、書院造の醍醐寺三宝院表書院{だいごじさんぽういんおもてし
ょいん}やその庭園がある。茶室も、千利休{せんのりきゅう}のものと伝え
られる妙喜庵待庵{みょうぎあんたいあん}、織田有楽斎{うらくさい}の如
庵{じょあん}がある。
絵画では、障壁画と風俗画がある。障壁画は、襖や壁・屏風・障子に描かれ
た絵で、水墨画と金碧{きんぺき}濃彩画があり、後者を濃絵{だみえ}とい
う。濃絵は、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた絵画で、狩
野永徳{かのうえいとく}の発明とされる。
狩野永徳の『唐獅子{からじし}図屏風』や『檜{ひのき}図屏風』、狩野
山楽{さんらく}の『松鷹{しょうよう}図』や『牡丹{ぼたん}図』、長谷
川等伯{とうはく}の『智積院{ちしょういん}襖絵楓{かえで}図・桜図』
や『松林図屏風』<注3>、海北友松{かいほうゆうしょう}の『山水{さん
すい}図屏風』などがある。
<注3>『智積院襖絵』は子の久蔵{きゅうぞう}との合作。『松林図屏
風』は水墨画。
風俗画は、庶民生活・風習などを題材とする絵である。狩野永徳の『洛中洛
外図屏風』、狩野吉信{よしのぶ}の『職人尽{づくし}図屏風』、狩野長信
{ながのぶ}の『花下遊楽{かかゆうらく}図屏風』、狩野秀頼{ひでより}
の『高雄観楓{たかおかんぷう}図屏風』などがある。また、南蛮屏風も作ら
れ、『世界地図屏風』や『泰西{たいせい}王侯騎馬図屏風』などがある。
工芸は、高台寺蒔絵{こうだいじまきえ}がある。高台寺は、豊臣秀吉の正
室北政所{きたのまんどころ}が秀吉の冥福を祈るために建立した寺である。
その霊屋{おたまや}は、伏見城の遺構で金蒔絵が施されている。秀吉・北政
所の蒔絵調度品を含めて、高台寺蒔絵という。彫刻は、西本願寺浪の間{なみ
のま}の欄間{らんま}彫刻が有名である。欄間は、鴨居{かもい}と天井の
間にはめ込まれた格子や透し彫{すかしぼり}<注4>の板で、通風・採光を
目的としている。また、甲冑{かっちゅう}も多く作られた。
<注4>一枚の板を表から裏まで彫り通した彫刻技法。
芸能・風俗では、茶道は千利休{せんのりきゅう}によって大成され、古田
織部{おりべ}・今井宗久{そうきゅう}・津田宗及{そうぎゅう}らの茶人
が現われた。織部は武道的茶道を成立させ、宗久・宗及・利休は三宗匠と称さ
れた。1587年、秀吉主催の北野大茶会{きたのおおちゃのえ}が開かれ、身分
・貧富の差なく自由に参集を求めた。
出雲阿国{いずものおくに}は、阿国歌舞伎というかぶき踊りを始めた。か
ぶき踊りは、異様な風体{ふうてい}をした傾奇者{かぶきもの}の踊りであ
る。後に歌舞伎に発展していった。人形浄瑠璃{じょうるり}は、三味線{し
ゃみせん}を伴奏に取り入れ、人形操りと結合して発展した。三味線は琉球か
ら伝わり、猫皮を利用して日本特有のものとなった。高三隆達{たかさぶりゅ
うたつ}は、小歌を節付けして隆達節{ぶし}(隆達小歌)を始めた。
娯楽は、碁{ご}の本因坊算砂{ほんいんぼうさんさ}、将棋{しょうぎ}
の大橋宗桂{そうけい}らの名人が現われた。生活は、小袖{こそで}がはや
り、1日3食の風も生まれた。
南蛮文化の流入も、この文化の大きな特徴である。ヴァリニャーニは活字印
刷術を伝え、それを用いた天草版{あまくさばん:キリシタン版とも}は、宗
教書や辞書・文典を主にポルトガル系のローマ字で刊行された。『天草版平家
物語』や『天草版伊曽保{いそほ}物語』など34点が現存する。『日葡{にっ
ぽ}辞書』が長崎で刊行された。教会堂(南蛮寺{なんばんじ})・コレジオ
・セミナリオ・ノビシャド(修練院)などの施設も作られた。地球儀・時計・
眼鏡・外来語など生活文化への影響もあった。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-13 20:39
国風文化のノート
国風文化…10~11世紀の摂関政治期の文化
・特徴…中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化
かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行
・文学
・かな文字…ひらがな、カタカナ
・漢和辞典…源順の『和名類聚抄』、昌住の『新撰字鏡』
・和歌…『古今和歌集』、六歌仙、歌合の盛行
・漢詩集…藤原公任の『和漢朗詠集』、藤原明衡の『本朝文粋』
・かな物語…『竹取物語』『伊勢物語』、紫式部の『源氏物語』など
・随筆…清少納言の『枕草子』
・日記…紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』
菅原孝標女の『更級日記』など
・宗教
・神道…神祇制度の整備、式内社、一の宮
・神仏習合(神前読経、神宮寺、神体の仏像)→本地垂迹説、権現
・御霊会の盛行
・仏教…浄土教の流行→空也・源信らの布教、往生集の作成
・美術
・建築…寝殿造(貴族の住宅)
阿弥陀堂(平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂)、醍醐寺五重塔
・彫刻…寄木造、定朝の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
・絵画…大和絵(巨勢金岡が祖)
来迎図(高野山聖衆来迎図や平等院鳳凰堂扉絵)
・工芸…蒔絵、螺鈿
・書道…和様、三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)
・貴族生活
・服装 男-正装…束帯・衣冠 常服…直衣・狩衣
女-正装…女房装束 常服…小袿・袴
・住宅 左京に寝殿造の邸宅。畳・円座を置く。
・食事 1日2回。獣肉・油は用いない。
・生活 成人式(男は元服、女は裳着)、妻問婚から招婿婚へ
寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行はまれ
迷信に囲まれる…陰陽道の影響、物忌、方違
娯楽…双六、碁、貝、管弦など
・年中行事の発達
┃文章
国風文化は、10~11世紀の摂関時代を中心とする文化で、中国文化を摂取・
消化し、日本の風土にあった文化となった。かな文学の発達と優雅な貴族文
化、浄土教の流行が文化の特徴である。また、藤原氏が栄えたことから、藤原
文化ともいう。
文学は、かな文字の発達により、国文学が隆盛となった。かなにはひらがな
とカタカナがあり、前者は草{そう}がな<注1>を簡略にしたもの、後者は
漢字の偏・旁・冠{へん・つくり・かんむり}の一部を表音記号として使った
ものである。そして、五十音図、いろは歌、あめつちの歌などが作られた。
<注1>草体がなのこと。万葉仮名の草書体。
漢和辞典が編纂され、源順{みなもとのしたごう}の『和名類聚抄{わみょ
うるいじゅうしょう:倭名類聚抄とも}』は百科辞典的な分類をしたもの、昌
住{しょうじゅう}の『新撰字鏡{しんせんじきょう}』は偏と旁で分類した
ものである。
和歌は、905年に醍醐天皇の命で、紀貫之{きのつらゆき}・紀友則{とも
のり}・凡河内躬恒{おおしこうちのみつね}・壬生忠岑{みぶのただみね}
らが『古今和歌集』を編纂した。『古今{こきん}和歌集』は最初の勅撰和歌
集で、三代集・八代集・二十一代集<注2>の最初である。勅撰和歌集は、天
皇・上皇・法皇の命で歌人が編集した和歌集である。
<注2>三代集は古今集・後撰{ごせん}集・拾遺{しゅうい}集、八代
集はさらに後拾遺集・金葉{きんよう}集・詞花{しか}集・千
載{せんざい}集・新古今集、二十一代集は室町時代の新続古今
集まで続く21勅撰和歌集である。なお、古今集は『古今和歌集』
の略称で、それ以外も同様に略称する。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-13 20:40
また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひ
ら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこま
ち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6
人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{お
おえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じ
た一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛
んに行なわれた。
漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』
で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗
吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集
『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。
物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつほ}物語』、『落窪
{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物
語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写され
ている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編
集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学
である。
随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』が
あり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左)
{とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅
原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部
日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記であ
る。
宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神
の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に
神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格
式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、
定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみ
ず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か
所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認さ
れた神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮
守神が祀られた。
神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前
での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内
などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気
比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名
である。
やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじ
ゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮
の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天
照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考
えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現
も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となっ
て仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。
平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神
を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎ
おんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。
<注3>1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。
仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う
信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}
・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末
法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ば
に念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしん
そうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也
を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない
民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声
明{しょうみょう}中興の祖でもある。
<注4>死後に極楽浄土に生まれること。
<注5>極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。
浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で
浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よしし
げのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾
遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往
生伝』などがある。
建築は、寝殿造{しんでんづくり}と阿弥陀堂がある。寝殿造は貴族の住宅
様式で、白木造{しらきづくり}・檜皮葺{ひわだぶき}・板床{いたゆか}
など日本風である。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、浄土教の流行で貴族
が壮麗なものを建てた。平等院鳳凰堂、法界寺{ほっかいじ、ほうかいじ}阿
弥陀堂が知られる。両者以外に、醍醐寺{だいごじ}五重塔がある。
彫刻は、仏像の製作が一木造から寄木造{よせぎづくり}に移行し、隆盛と
なった。寄木造は2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、
全体をまとめる技法である。この手法を使ったのが定朝{じょうちょう}で、
代表作には平等院鳳凰堂阿弥陀如来像がある。
絵画は、主に大和絵と来迎図{らいごうず}が描かれた。大和絵は日本的風
物を主題にした絵画で、多くは季節の推移を主題とした四季絵が占める。特に
絵巻物で発揮され、日本画の源流となった。巨勢金岡{こせのかなおか}が唐
絵とともに日本の画材を日本の形式で描き、後に大和絵の祖といわれるように
なった。来迎図は往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗
って迎えに来る有様を描いた絵である。高野山聖衆{しょうじゅ}来迎図や平
等院鳳凰堂扉絵が有名である。
工芸は蒔絵{まきえ}と螺鈿{らでん}があり、前者は漆で文様を描き、金
銀粉を蒔き付けたもの、後者は夜光貝やアワビ貝などを薄くすり減らし、種々
の模様にして器物にはめ込む手法である。
書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理
{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののと
うふう、みちかぜ}<注6>の3人で、三蹟{さんせき}という。佐理の『離
洛帖{りらくじょう}』、行成の『白氏詩巻{はくししかん}』、道風の『秋
萩帖{あきはぎじょう}』・『屏風土代{びょうぶどだい}』が有名である。
なお、行成は世尊寺流{せそんじりゅう}の祖である。
<注6>道風は空海が書いた「朱雀門」の額を見て、朱の字が米といって
「米雀門」と非難したため、後に空海の祟りで中風{ちゅうぶう
:脳卒中}になったという(『古今著聞集{ここんちょもんじゅ
う}』)。なお、『秋萩帖』は道風のものと伝えられている。
貴族の生活は、とても華やかだった。男性の正装は束帯{そくたい}で、衣
冠{いかん}はその略式である。普段は直衣{のうし}や狩衣{かりぎぬ}を
着ていた。女性の正装は女房装束(十二単{じゅうにひとえ})で、小袿{こ
うちぎ}などが略装である。なお、庶民男子の実用服は水干{すいかん}、下
級武士の服装は直垂{ひたたれ}である。
貴族は、寝殿造の住宅に住んだ。屋内は広い空間のため、間仕切りに几帳・
屏風・衝立・襖{きちょう・びょうぶ・ついたて・ふすま}などを用いた。床
は板敷きなので、畳{たたみ}や円座{えんざ、わろうざ}を敷いて座った。
移動は、牛車{ぎっしゃ}に乗った。食事は1日2回を基準とし、獣肉や油を
用いることが避けられた。荘園からの徴収品などで多種多様となったが、乾燥
保存食品が多く、消化吸収も悪く病気も多かった。なお、庶民は折敷{おしき
:細い板を縁に折り回した盆の一種}の上に飯・汁・菜が3皿置かれている絵
が、『病草紙{やまいのそうし}』に書かれている。
貴族の成年式は15~17歳で、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}
を行なった。元服は有力者が烏帽子をかぶせて、新たに名をつけた。裳着は初
めて裳を着ける儀式である。結婚は、妻問婚{つまどいこん}から招婿婚{し
ょうせいこん}に代わった。妻問婚は夫婦別居で男が女の家に通う結婚形態、
招婿婚は男が女の両親の家かその近くに住むものである。
貴族は、陰陽寮{おんみょうりょう}で作った具注暦{ぐちゅうれき}に縛
られ、迷信深い生活を送った。物忌{ものいみ}や方違{かたたがえ}はその
例である。物忌は、物怪{もののけ}に取りつかれた時など、陰陽師{じ}の
判断で一定期間特定の建物の中で謹慎することである。方違は、旅行・外出の
際、行くべき方角が悪神がいる方角に当たる場合、前夜吉方{えほう}の家に
一泊して方角を変えて行くことである。
貴族の娯楽は、貝合・歌合{かいあわせ・うたあわせ}の物合{ものあわ
せ}の他、雅楽などが行なわれた。貝合は同種の貝を出し合って優劣を競う遊
び、歌合は題に応じて一種ずつ詠んだ歌を判者が優劣を決める遊びである。
また、宮中では毎年特定の時期に繰り返して行なう年中行事が発達した。民
間に伝わる日本古来のものや中国伝来のものもあり、神事・仏事・政務に関わ
る行事が200種類以上あった。宮廷では、節日{せつじつ:祝の日}などに天
皇のもとに群臣を集めて節会{せちえ}が開かれた。平安時代は、元日{がん
じつ:正月1日}・白馬{あおうま:正月7日}・踏歌{とうか:正月16日}
・端午{たんご:5月5日}・豊明{とよあかり:11月の新嘗祭翌日の辰の
日}が特に重んじられた。
作者:
milan-tang
时间:
2009-6-15 19:55
麻烦楼主给我发一份,非常感谢!
邮箱:TANGJUAN@SSHQ.COM
作者:
rireiume
时间:
2009-6-16 11:30
そうですか?これから、もう発送できないのですか?残念ですね。
作者:
aiko_zhou
时间:
2009-6-16 13:00
谢谢楼主,我会查收的
作者:
小琳若叶
时间:
2009-6-17 20:37
可否发到空间共享呢?
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 13:15
白鳳文化のノート
白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
初唐・西アジア・高句麗の影響
・宗教
・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制
・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら
┃文章
白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家
建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西ア
ジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な
元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{き
じ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。
<注1>瑞は、めでたいこと。
仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:
官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大
寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふ
くじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創
建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{た
けちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武
天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。
<注2>大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の
意味。国家寺院として初めて建立された寺。
<注3>奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
<注4>711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東
大寺建立以前は官寺筆頭。
葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制
が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政
府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるように
なった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょ
う}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古
墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。
神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎
王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられて
いる。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮
が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降
は21年ごと)に行なわれている。
建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{と
うとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>
も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃した
が、1982年に廻廊の一部が発見された。
<注5>火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を
調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。
彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観
音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観
音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})な
どが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、
1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定さ
れる<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えら
れる。
<注6>1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。
絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀
廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画
は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁
阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井
が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<
注10>や精緻な天文図が描かれている。
<注7>1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している
部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌
年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り
外されていた。
<注8>鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
<注9>2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われて
いることが判明した。
<注10>青龍・白虎・朱雀・玄武の4神
文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。ま
た、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂
{かきのもとのひとまろ}らが有名である。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 13:15
白鳳文化のノート
白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
初唐・西アジア・高句麗の影響
・宗教
・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制
・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら
┃文章
白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家
建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西ア
ジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な
元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{き
じ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。
<注1>瑞は、めでたいこと。
仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:
官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大
寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふ
くじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創
建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{た
けちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武
天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。
<注2>大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の
意味。国家寺院として初めて建立された寺。
<注3>奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
<注4>711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東
大寺建立以前は官寺筆頭。
葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制
が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政
府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるように
なった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょ
う}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古
墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。
神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎
王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられて
いる。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮
が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降
は21年ごと)に行なわれている。
建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{と
うとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>
も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃した
が、1982年に廻廊の一部が発見された。
<注5>火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を
調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。
彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観
音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観
音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})な
どが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、
1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定さ
れる<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えら
れる。
<注6>1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。
絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀
廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画
は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁
阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井
が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<
注10>や精緻な天文図が描かれている。
<注7>1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している
部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌
年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り
外されていた。
<注8>鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
<注9>2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われて
いることが判明した。
<注10>青龍・白虎・朱雀・玄武の4神
文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。ま
た、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂
{かきのもとのひとまろ}らが有名である。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 13:16
飛鳥文化のノート
飛鳥文化…7世紀前半、推古天皇朝を中心とする時代
・特徴…日本初の仏教文化、中国南北朝・朝鮮の影響
ギリシア・インドとの共通性も
・仏教…氏寺-飛鳥寺、太秦寺、仏教興隆の詔、厩戸王の三経義疏
・建築…礎石建ち・瓦葺・朱塗柱で寺院建立
四天王寺・法隆寺・中宮寺など
伽藍配置-飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式など
・彫刻…飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像など(北魏様式)
法隆寺百済観音像、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像など
(百済・中国南朝様式)
仏師-鞍作鳥が有名
・工芸…法隆寺玉虫厨子、中宮寺天寿国繍帳など
・絵画…玉虫厨子の扉絵や須弥座絵(捨身飼虎図や施身聞偈図など)
曇徴が絵の具・紙墨の製法を伝える
・暦法・天文…観勒が伝える
┃文章
飛鳥文化は、7世紀前半の推古天皇朝を中心とする時代の文化である。特徴
は、日本初の仏教文化であること、中国南北朝・新羅・百済・高句麗の影響を
受け、ギリシア・インドとの共通性も見られる。
飛鳥時代の仏教は、先祖の崇拝や戦争の勝利、病気平癒を祈るなど呪術性が
強かった。そこで、豪族はこぞって氏寺を建立し、氏族の発展と先祖の追善を
行なった。蘇我馬子の飛鳥寺{あすかでら:法興寺{ほうこうじ}とも}、秦
河勝{はたのかわかつ}の太秦寺{うずまさでら:広隆寺{こうりゅうじ}と
も}がその例である。
厩戸王{うまやとおう}(聖徳太子)は、594年に仏教興隆の詔を出し、仏
法僧{ぶっぽうそう}<注1>の三宝{さんぽう}を興させた。そして、三経
義疏{さんぎょうぎしょ}を著わした。これは法華{ほっけ}・勝鬘{しょう
まん}・維摩{ゆいま}の3経の注釈書で、『法華経{ほけきょう}義疏』は
彼の自筆とされ、現存する日本最古の著作である。また、彼には恵慈{えじ}
という仏教の師がいた。恵慈は高句麗の僧で、595~615年に在日し、飛鳥寺に
住んだ。帰国後、彼の死を聞き、彼と同日の死を願って、翌年同日に入寂{に
ゅうじゃく:亡くなる}したといわれる。
<注1>仏は釈迦{しゃか}、法は仏の説いた教え、僧は仏に従う教団。
建築の分野では、渡来人が伝えた礎石{そせき}建ち・瓦葺{かわらぶき}
・朱塗柱{しゅぬりばしら}(丹{に}塗柱)で、寺院が建てられるようにな
った。これまでは掘立柱{ほったてばしら}・檜皮葺{ひわだぶき}の建築法
だった。礎石建ちは、柱の基礎に石を据える建築法で、瓦葺建築の重量に耐え
る工法である。掘立柱は、柱の基底部を地中に埋め込んだ工法である。朱塗柱
は、朱(硫化水銀)や丹(四酸化三鉛)などで赤く塗った柱である。
この頃の寺院には飛鳥寺・太秦寺以外に、四天王寺・法隆寺・中宮寺{ちゅ
うぐうじ}などがある。3つとも聖徳太子が建立した寺で、四天王寺は、物部
守屋との戦いで、四天王に祈って勝利を得たために建立した寺院である。中宮
寺は、母の穴穂部間人{あなほべのはしひと}皇后の宮跡{きゅうせき}を寺
にしたものである。
法隆寺の金堂・中門・五重塔・歩廊{ほろう:回廊{かいろう}とも}は、
旧山田寺廻廊{やまだでらかいろう}遺材に続く世界最古の木造建築である。
金堂は、柱のエンタシス<注2>など南北朝様式を特色とする。南北朝様式
は、エンタシスや大斗{だいと}・雲形肘木{くもがたひじき}・卍崩{まん
じくず}しの勾欄{こうらん}・人字形割束{ひとじがたわりづか}を建築物
の特徴とする。五重塔は、法起寺{ほっきじ}<注3>三重塔とともに飛鳥様
式を伝える最古の塔である。
<注2>柱の中央部が膨らんでいるもの。
<注3>山背大兄王{やましろのおおえのおう}が太子の岡本宮{おかも
とのみや}を寺にしたものである。
『日本書紀』によると、670年に法隆寺炎上の記事があり、歴史学者は現存
の金堂・五重塔の670年以降の再建を主張した。建築史家は、様式・尺度から
創建当時のものと非再建を主張した。1939年に若草伽藍跡の発掘で、再建論が
有力となった。法隆寺再建・非再建論争である。
寺院の建物の配置を伽藍{がらん}配置といい、それぞれに特徴がある。最
古の飛鳥寺式は、塔を囲んで3つの金堂が配置されている。四天王寺式は、金
堂の前に塔を建て南北一直線に配置されている。法隆寺式は、西の五重塔と東
の金堂が中門から見て左右対称に建てられている。当初、釈迦の骨(仏舎利
{ぶっしゃり})を収める塔が中心だったが、本尊を祀る金堂が中心となり、
学問のための講堂や経蔵{きょうぞう}が重視されていった。白鳳文化の薬師
寺式以降、塔は装飾的存在となった。
仏像彫刻も多く作られた。飛鳥彫刻の源流は、中国の雲崗{うんこう}や竜
門{りゅうもん}の石仏とされている。また、北魏{ほくぎ}様式と百済・中
国南朝様式に分けられる。北魏様式は杏仁形{きょうにんけい}の目、仰月形
{ぎょうげつけい}の唇<注4>、左右対称の幾何学的衣文{えもん}が特徴
で、力強く端正で男性的である。一方、百済・中国南朝様式は、顔や姿など全
体に柔和で丸味があり、衣文にも変化があり、自然の姿に近い。両者に共通す
る特徴はアルカイック・スマイル(古拙の微笑{えみ})があることである。
<注4>杏仁形の目はまぶたの上下が同じような弧を描いているもの、仰
月形の唇は三日月を上向きにしたように、口の両端を引き上げて
いるもの。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 13:17
この時代の仏師には、北魏様式の像を造った鞍作鳥{くらつくりのとり:止
利{とり}仏師とも}が知られる。彼は司馬達等の孫とされ、主な作品に飛鳥
寺釈迦如来像(飛鳥大仏)<注5>、法隆寺金堂釈迦三尊像がある。この2作
品は、銅像の表面に鍍金{ときん:めっき}を施した金銅像である。北魏様式
の仏像は鞍作鳥の作品以外に、明治時代になってフェノロサが調査した法隆寺
夢殿救世{くぜ}観音像などがある。また、百済・中国南朝様式の仏像は、法
隆寺百済観音像<注6>、広隆寺と中宮寺の半跏思惟{はんかしい}像(弥勒
菩薩{みろくぼさつ}像)<注7>などがある。
<注5>日本最古の仏像(完成は606・609年説がある)。鎌倉時代初めの
落雷で伽藍が焼失した時、「仏頭ト手トノミ残ル」の大損害を受
けた。目と額と右手指3本ほどだけ火を浴びず、その他は焼けた
だれ、後世に補修したものと推定されている。
<注6>百済から渡来したとの伝承は否定的である。
<注7>片足を他の足の股の上に組み、手を頬に当てて思惟する。
工芸は、法隆寺玉虫厨子{たまむしのずし}が有名である。玉虫厨子は、小
型の仏像を安置する箱で、2563枚の玉虫の羽が伏せられていたことが名の由来
である。中宮寺天寿国繍帳{てんじゅこくしゅうちょう}(断片)は、聖徳太
子の死後に妃の橘大郎女{たちばなのおおいらつめ}が聖徳太子が往生した天
寿国のあり方を写した刺繍である。
法隆寺四騎獅子狩文様錦{しきししかりもんようきん}は、円形を連ねた連
珠文{れんじゅもん}の円の中に4頭の獅子に弓を引き絞る4騎の狩猟者を配
した錦で、西アジアに多い狩猟文様の1つである。法隆寺竜首水瓶{りゅうし
ゅすいびょう}は、形はペルシアの水瓶で、胴部に天馬{てんば:ペガサス}
が彫られている。伎楽面{ぎがくめん}は、高い鼻などギリシアの仮面やイラ
ン人の顔に似ており、西方の影響を受けている。
絵画は、玉虫厨子の扉絵や須弥座絵{しゅみざえ}が有名である。須弥座絵
は、捨身飼虎{しゃしんしこ}図や施身聞偈{せしんもんげ}図が特に有名で
ある。また、絵の具を油で溶かし、これに密陀僧{みつだそう:一酸化鉛のこ
と}を加えた塗料で油絵が描かれた。密陀絵{みつだえ}と呼ばれ、漆のよう
な光沢がある。610年に高句麗の僧曇徴{どんちょう}が来日し、絵の具・紙
墨の製法を伝えた。
602年、百済の僧観勒{かんろく}が来日し、暦法・天文を伝えた。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 22:49
古墳文化のノート
古墳文化…3期区分
・古墳…形状-前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳など
葺石、埴輪、濠をめぐらす
・前期古墳…大規模、竪穴式石室、円筒埴輪、呪術的副葬品
箸墓古墳が代表
・中期古墳…巨大化、竪穴式石室→横穴式石室、形象埴輪、軍事的副葬品
誉田御廟山古墳と大仙陵古墳が代表
・後期古墳…群集墳・横穴墓・装飾古墳、横穴式石室、円筒・形象埴輪
武具・土器など、石舞台古墳・高松塚古墳
・渡来人の伝来
新文化・技術の伝来…鉄器や須恵器の生産、
機織り・金属工芸・土木工事など→品部に組織
王仁・阿知使主・弓月君らの渡来
漢字・儒教・仏教の伝来
仏教…百済の聖明王が欽明天皇に仏像などを伝えた。
538年(元興寺縁起など)と552年(日本書紀)説
・生活…竪穴住居・平地住居に住む、土師器・須恵器の使用
衣服-筒袖の衣、男は袴・女は裳
頭髪-男は美豆良、女は髷を結う
・祭祀…祈年祭・新嘗祭、禊・祓 占法-太占・盟神探湯
自然神を祀る…大神神社、宗像神社の沖津宮など
氏神を祀る…天照大神を祀る伊勢神宮内宮
大国主命を祀る出雲大社など
┃文章
弥生時代後期、有力者の墓は大きな墳丘墓だった。3世紀後半~4世紀初頭
に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて古墳{こふん}が現われ、4世紀後半に各地
へ広がった。古墳は、特定の個人を埋葬した墳丘を持つ墓である。古墳が作ら
れた時代を古墳時代といい、特徴によって前・中・後期と区分される。古墳の
形は、前方後円墳{ぜんぽうこうえんぷん}・前方後方墳{ぜんぽうこうほう
ふん}・円墳・方墳など様々である。そして、墳丘の斜面は葺石{ふきいし}
で覆われ、墳丘の周りに濠をめぐらすことも多い。また、埴輪{はにわ}<注
2>を表土に列をなして並べられた。
<注1>数は円墳・方墳が多く、大規模なものは前方後円墳である。
<注2>素焼きの焼き物。土留め・器台形土器の発展など諸説がある。
前期古墳は、畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式
石室や粘土槨{ねんどかく}に木棺・石棺を収納し、銅鏡や玉{ぎょく}など
呪術的なものが副葬された。被葬者は、司祭者的性格を持つ者と推定される。
埴輪は、円筒埴輪が多い。中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。
竪穴式石室に木棺・石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室
が現われ、5世紀末に近畿地方に広まった。副葬品は武器・武具など軍事的な
者が多く、武人的性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は、各種形態
の形象埴輪を製作した。
竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせた
ものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安
置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。
後期古墳は全国に拡大し、近畿中央部では大規模なものが作られたが、各地
には小型古墳(群集墳{ぐんしゅうふん})が増加した。横穴式石室が全国的
に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。円筒・
形象埴輪を盛んに使ったが、畿内では次第に減少する。また、山腹や台地の縁
辺に穴を掘った横穴墓{よこあなぼ}や石室の壁画に絵画を描いた装飾古墳も
見られる。
有名な古墳も多い。前期は奈良県の箸墓{はしはか}古墳、中期はともに大
阪府の誉田御廟山{こんだごびょうやま}古墳と大仙陵{だいせんりょう}古
墳、後期はともに奈良県の石舞台{いしぶたい}古墳と藤ノ木{ふじのき}古
墳、高松塚{たかまつづか}古墳などが知られる。大仙陵古墳は日本第1位、
誉田御廟山古墳は日本第2位の大きさの前方後円墳である。石舞台古墳は蘇我
馬子の墓といわれ、盛り土が失われて巨石を積んで築かれた横穴式石室が露出
している。高松塚古墳は、装飾古墳の代表である。
5世紀頃、新しい文化や技術が朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝え
られた。彼らは、鉄器や須恵器{すえき}の生産、機織{はたお}り・金属工
芸・土木工事などの諸技術や文字が伝えられた。ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶
部{からかぬちべ}・陶作部{すえつくりべ}・錦織部{にしごりべ}・史部
{ふひとべ}などの品部{しなべ}に組織し、技術や知識を活用した。
応神天皇朝に、王仁{わに}・阿知使主{あちのおみ}・弓月君{ゆづきの
きみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん
:識字・習字のテキスト}』をもたらし、文筆・出納{すいとう}に従ったと
いう。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史
部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。養蚕・機織
りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。
大陸から漢字・儒教・仏教が伝わった。漢字・儒教は、王仁が儒教の経典を
伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わ
すことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるよう
になった。欽明天皇朝頃には、大王家の系譜『帝紀{ていき}』と神話・王権
物語『旧辞{ぎゅうじ}』が編纂された。漢字の銘文を持つ刀剣・鏡も相次い
で見つかった。埼玉県の稲荷山{いなりやま}古墳から出土した鉄剣、熊本県
の江田船山{えたふなやま}古墳から出土した鉄刀、和歌山県の隅田{すだ}
八幡神社が所蔵する人物画像鏡などがある。
儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝
に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注2>を講じて儒教を伝え
たとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}・暦{れき}・
医博士が来日し、学術も伝えた。
<注3>易経{えききょう}・詩経{しきょう}・書経{しょきょう}・
春秋{しゅんじゅう}・礼記{らいき}の5つ
仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろ
ん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や
『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょういくほうおうていせつ}』は538年、
『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる。また、『扶桑略記{ふ
そうりゃっき}』には、司馬達等{しばたっと}が私宅で仏像を礼拝したとあ
り、その時期が「継体天皇即位十六年(522年)」とあることから、私的には
それ以前に伝わっていた可能性が高い。
この頃の民衆は、竪穴住居・平地{へいち}住居に住んでいた。土器は、土
師器{はじき}と須恵器が使われた。土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、
800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた。須恵器は、ろく
ろ・登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高
温で焼かれた灰色・硬質の土器で、主に祭祀用に用いた。2つとも平安時代に
まで製作・使用された。
衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男
は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そ
して、男は頭髪を中央から左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}
で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から
分かってきた。
水稲耕作の普及・発達により、農耕祭祀が大切なものとなった。春に五穀豊
穣{ごこくほうじょう}を祈る祈年祭{としごいのまつり/きねんさい}と秋
に収穫を感謝する新嘗祭{にいなめのまつり/しんじょうさい}は、特に重要
だった。また、禊{みそぎ}や祓{はらえ}で身を清め、けがれをはらった。
禊は、心身の罪やけがれを海・川・滝などの清浄な水で身を洗い流すことであ
る。祓は、水以外での方法での罪・けがれを除去することである。
一方、神々の意向を知るために占法が行なわれ、呪術的な風習も盛んに行な
われた。太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひ
び割れの形で今後の策を占うことである。盟神探湯{くかたち}は、熱湯に手
を入れて、やけどの有無で真偽を確かめるもので、氏姓の不正を正すために行
なったという。
自然神を祀る神社の中には、この頃を起源とするものもある。三輪山{みわ
やま}を神体とする奈良県の大神{おおみわ}神社、玄界灘の孤島沖ノ島{お
きのしま}を神体とする福岡県の宗像{むなかた}神社の沖津宮{おきつのみ
や}などである。沖ノ島には5~9世紀の祭祀遺跡も多く、出土品の貴重さ・
豊富さから「海の正倉院」ともいわれる。
氏神も祀るようになった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を祀る三重県
の伊勢神宮内宮{ないくう}、大国主命{おおくにぬしのみこと}を祀る島根
県の出雲大社{いずもたいしゃ}、海神を祀る大阪府の住吉{すみよし}大社
などがその例である<注4>。また、土地の神を祀る産土神{うぶすながみ}
も祀られた。
<注4>伊勢神宮は神明造{しんめいづくり}、出雲大社は大社造、住吉
大社は住吉造で作られる。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 22:50
弘仁貞観文化のノート
弘仁貞観文化…平安前期の文化
特徴…唐の文化の消化、漢文学の隆盛、密教の発展
文学 漢詩文 勅撰…『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』
私撰…『性霊集』(空海)、『菅家文草』(菅原道真)
評 論…空海の『文鏡秘府論』 説話集…景戒の『日本霊異記』
その他…『新撰姓氏録』、菅原道真の『類聚国史』
円仁の『入唐求法巡礼行記』
書道 三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)
教育 紀伝道の重視
大学別曹 学館院-橘嘉智子 弘文院-和気広世
勧学院-藤原冬嗣 奨学院-在原行平
空海の綜芸種智院
宗教
最澄の天台宗…延暦寺?園城寺、台密、後に円仁派と円珍派に分裂
空海の真言宗…金剛峰寺?東寺、東密
修験道…役小角を祖。大峰山、白山などが舞台
密教美術
建築…室生寺金堂?五重塔
彫刻…一木造、翻波式
密教彫刻…神護寺薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像など
神像彫刻…薬師寺僧形八幡神像など
絵画…神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、不動明王像
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-18 22:51
┃文章
弘仁?貞観{こうにん?じょうがん}文化は、嵯峨?清和{さが?せいわ}
天皇朝の弘仁?貞観年間を中心とする平安時代前期の文化である。唐の文化の
影響を受けながらも、次第にそれを消化していった。密教と密教芸術の発展、
漢文学の隆盛などを特色とする文化である。
文学では、文章経国{もんじょうけいこく}思想から漢詩文が全盛となり、
天皇の命で勅撰漢詩文集が撰定?編纂された。特に嵯峨?淳和{じゅんな}両
天皇の在位中に撰集されたのが、『凌雲集{りょううんしゅう}』、『文華秀
麗集{ぶんかしゅうれいしゅう}』、『経国集{けいこくしゅう}』を三大勅
撰集(3勅撰漢詩文集)という。嵯峨天皇を初め、宮廷の漢詩文への強い意欲
を繁栄している。文章経国思想は、文芸は国家の支柱で国家の隆盛の鍵である
とする思想である。
『凌雲集』は初の勅撰漢詩文集で、嵯峨天皇の命で小野岑守{おののみねも
り}らが撰集した。『文華秀麗集』は、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らが編集し、
天皇自ら作品を撰定した。『経国集』は、淳和天皇の命で良岑安世{よしみね
のやすよ}らが編集した。
また、空海の漢詩文などを弟子の真済{しんぜい}が、『性霊集{しょうり
ょうしゅう}』(『遍照発揮性霊集{へんじょうほっきせいれいしゅう}』)
にまとめた。菅原道真は、『菅家文草{かんけぶんそう}』を編集して醍醐天
皇に奏進し、大宰府へ流された後に『菅家後集{こうしゅう}』を撰した。著
名な漢詩文作者には、小野篁{おののたかむら}?都良香{みやこのよしか}
らの文人官僚が知られる。
漢詩集以外に、空海の『文鏡秘府論{ぶんきょうひふろん}』は、六朝?唐
代の文学?評論を選び、詩文の格式や声韻などを評論したものである。景戒
{きょうかい}の『日本霊異記{にほんりょういき}』は現存する最古の説話
集で、仏教思想の影響を受けた因果応報譚{たん}が多い。『新撰姓氏{しょ
うじ}録』は古代の畿内諸氏1182氏の系譜を書いたもので、氏姓秩序の混乱を
収拾するのが編集の目的である。菅原道真が編集した『類聚{るいじゅう}国
史』は、六国史の内容を部門別に分類し、編年順に並べた史書である。円仁
{えんにん}の『入唐求法{にっとうぐほう}巡礼行記{こうき}』は、五台
山{ごだいさん}などを巡礼した旅の日記である。
書は唐風の力強い筆蹟が尊ばれ、嵯峨天皇?空海?橘逸勢{たちばなのはや
なり}の3人を三筆{さんぴつ}という。空海が最澄に送った『風信帖{ふう
じんじょう}』、最澄が泰範{たいはん}に送った『久隔帖{きゅうかくじょ
う}』が有名である。
教育は、大学教育が最盛期を迎えた。中国の歴史?漢詩文を学ぶ紀伝道が独
立教科となって、重視された。また、有力氏族は一族の子弟を寄宿させる大学
別曹{べっそう}を設け、大学で試験や講義を受けるのに便利なようにした。
大学の付属機関として公認されたが、運営は各氏族が行なった。和気{わけ}
氏の弘文院{こうぶんいん}、藤原氏の勧学院{かんがくいん}、皇族?在原
{ありわら}氏の奨学院{しょうがくいん}、橘{たちばな}氏の学館院{が
っかんいん}が知られる。また、空海は、庶民教育を目的に綜芸種智院{しゅ
げいしゅちいん}を設置し、儒?仏?道教を教えた。
仏教は、奈良末期の山林修行の系譜を引く天台?真言両宗が開かれた。最澄
が開いた天台宗は、法華宗を中心経典とし、人間の仏性{ぶっしょう}の平等
<注1>を説いた。延暦寺{えんりゃくじ}?園城寺{おんじょうじ:三井寺
{みいでら}とも}が中心寺院である。最澄の主著には、『顕戒{けんかい}
論』と『山家学生式{さんげがくしょうしき}』がある。前者は大乗{たいじ
ょう}戒壇<注2>設立に反対する南都諸宗に論駁{ろんばく}した書、後者
は学生を大乗戒で教育して、さらに大乗戒壇設立を目指した書である。
<注1>仏性の平等は、仏の前における絶対平等の意。
<注2>大乗仏教独自の戒壇
後に、弟子の円仁?円珍{えんちん}によって天台教団の基礎が大成され、
天台宗の密教化を進めた。天台宗の密教の意味で、台密{だいみつ}という。
しかし、両者の仏教解釈の相違から、その末流が対立し、993年に円珍派が山
を下って園城寺に入って独立し、寺門派{じもんは}となった。延暦寺の円仁
派を山門派{さんもんは}といい、両派は対立した。
空海が開いた真言宗は、大日経{だいにちきょう}?金剛頂経{こんごうち
ょうきょう}を中心経典とし、加持祈祷{かじきとう}で現世利益{げんぜり
やく}が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。金剛峰寺{こ
んごうぶじ}?教王護国寺{きょうおうごこくじ:東寺{とうじ}とも}が中
心寺院である。また、本来が密教で、台密に対し、東寺の密教の意味で東密
{とうみつ:真言密教とも}という。空海の主著の『三教指帰{さんごうしい
き}』は、自己の思想遍歴を語る中で、儒?道?仏の三教のうち、仏教が優れ
ていると説いた。
真言密教の加持祈祷や即身成仏{そくしんじょうぶつ}の教えにみる現世利
益的傾向が、皇族?貴族の支持を受けて発展し、密教の流行をもたらし、天台
密教とともに仏教の祈祷儀式に影響を与えた。
修験道{しゅげんどう}は、密教?神道?陰陽道{おんみょうどう}<注3
>などの影響を受けて、日本で成立した呪術的な山岳信仰で、呪術者の役小角
{えんのおづの、えんのおずぬ}を祖師と仰いだ。山岳修行により験力{げん
りき}を得た者を、験を修めた者という意味で修験者{しゅげんじゃ}と呼ん
だ。山に伏して山の霊力{れいりょく}を受けることから、山伏{やまぶし}
ともいう。
<注3>古代中国の陰陽五行説{いんようごぎょうせつ}に基づいて、天
文?暦学?易{えき}を説明する学問
建築は、室生寺{むろうじ}金堂?五重塔が知られる。当時の寺院は、深山
幽谷{しんざんゆうこく:奥深い山や谷}に建てられることが多かった。室生
寺に代表されるように、堂塔{どうとう}は地勢に応じて形式にとらわれない
自由な配置で建てられた。金堂?五重塔は、この時期唯一の遺構である。な
お、室生寺は高野山{こうやさん}の女人{にょにん}禁制に対し、女性の入
山を許されたので、後世「女人高野」といわれた。
彫刻は、一木造{いちぼくづくり}が主流で、衣文は鋭いひだとなだらかな
ひだを交互に刻む翻波式{ほんぽしき}で表現された。また、密教の影響を受
け、量感に満ち、神秘性がただよっている。一木造は木像で頭部と胴体が一木
の木材で作られているもので、肉が厚いので深く彫れる。
薬師寺僧形{そうぎょう}八幡神像、神護寺{じんごじ}や元興寺{がんご
うじ}の薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像?弥勒堂釈迦如来像、観心寺如意
輪{かんしんじにょいりん}観音像、法華寺{ほっけじ}十一面観音像、教王
護国寺講堂不動明王像などが知られる。
絵画は、密教画が隆盛となった。特に、仏の世界を壇{だん}の形式で図示
した曼荼羅{まんだら}や不動明王像が知られる。神護寺と教王護国寺の両界
曼荼羅、園城寺?高野山明王院の不動明王像が有名である。両界は、金剛界と
胎蔵{たいぞう}界のことである。園城寺の不動明王像を黄不動、高野山明王
院のそれを赤不動といい、京都青蓮院{しょうれんいん}の青不動と合わせて
三不動として有名である。密教画以外に、西大寺十二天像もある。
作者:
lorchid
时间:
2009-6-19 00:14
哦哦哦
让我突然想起了初中历史老师,他的领带特别可爱。。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-19 21:54
鎌倉文化のノート
鎌倉文化…12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化
・特徴…伝統的な公家文化の継承と武士の気風も反映
宋・元文化の影響、宗教的色彩の強い文化
・仏教…鎌倉仏教-法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗
日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗
旧仏教の革新-戒律の復興、社会事業
・神道…神本仏迹説、度会家行の伊勢神道、山王神道・両部神道
・建築…大仏様-東大寺南大門 禅宗様-円覚寺舎利殿
和 様-蓮華王院本堂、秋篠寺本堂、石山寺多宝塔など
折衷様-観心寺金堂
・彫刻…奈良仏師作-東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶ら)
興福寺無著・世親像(運慶)
六波羅蜜寺空也上人像(康勝)など
そ の 他-明月院上杉重房像、東大寺重源上人像など
・絵画…肖像画-似絵(藤原隆信・信実が名手)、頂相
絵巻物-『一遍上人絵伝』『蒙古襲来絵巻』など
・工芸…甲冑-明珍 刀剣-吉光、正宗、長光ら
陶器-瀬戸焼、常滑焼など
・書道…青蓮院流(尊円入道親王の『鷹巣帖』)
・文学
・和 歌…『新古今和歌集』(藤原定家ら)、『山家集』(西行)
『金槐和歌集』(源実朝)
・説話集…『古今著聞集』(橘成季)、『沙石集』(無住)
『宇治拾遺物語』『十訓抄』
・随 筆…『方丈記』(鴨長明)、『徒然草』(卜部兼好)
・軍記物…『平家物語』-琵琶法師の平曲
『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など
・歴史書…『愚管抄』(慈円)-道理と末法思想から歴史を見た
『水鏡』『吾妻鏡』、『元亨釈書』(虎関師錬)
・学 問…古典注釈-『万葉集註釈』(仙覚)
『釈日本紀』(卜部兼方)
有職故実-『禁秘抄』(順徳天皇)
金沢文庫(北条実時)
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-19 21:55
文章
鎌倉文化は、12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化である。特徴は、伝統
的な公家文化を継承し、武士の気風も反映したものである。また、宋・元の文
化の影響を受けるとともに、宗教的色彩も強い文化である。
仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西
の臨済宗、道元の曹洞宗が生まれた。鎌倉仏教と呼ばれ、それに押される形で
旧仏教の改革も起こった。旧仏教では戒律の復興に努めたり、社会事業などに
当たる僧も現われた。仏教史で説明したため、省略する。
神道は、鎌倉末期に神本仏迹説{しんぽんぶつじゃくせつ}(反本地垂迹説
{はんほんじすいじゃくせつ})が興った。この説は、蒙古襲来以後の神道思
想の発展の中から神を本地、仏を垂迹とする主張である。度会家行{わたらい
いえゆき}は、伊勢神宮の外宮{げくう}を内宮{ないくう}と同等以上の立
場に上げることを目的に、伊勢神道を唱えた。彼の著『類聚神祇本源{るいじ
ゅうじんぎほんげん}』が、後世の神道に与えた影響は大きい。また、天台宗
系の山王{さんのう}神道、真言宗系の両部{りょうぶ}神道も唱えられた。
建築は、大仏様・禅宗様{ぜんしゅうよう}・和様・折衷様の建築様式で多
くの建築物が建てられた。大仏様は、東大寺再建に重源{ちょうげん}<注1
>が採用した宋の建築様式で、簡単で雄大豪壮な構成美を持つ。東大寺南大門
がその代表建築である。禅宗様は、宋から伝来した技法で、細かい材木を用い
て整然とした美しさを出している。円覚寺舎利殿{えんがくじしゃりでん}や
正福寺{しょうふくじ}地蔵堂<注2>がその代表建築である。
<注1>東大寺再建の際に大勧進職{だいかんじんしき}に任命され、募
金から建築まで一切指揮し、宋人の陳和卿{ちんわけい・ちんな
けい}も請われて参加した。
<注2>正福寺は東京都東村山市にある。
和様は、大仏様・禅宗様に対し、平安時代以来の伝統的・日本的な建築様式
である。蓮華王院{れんげおういん}本堂<注3>、秋篠寺{あきしのでら}
本堂、石山寺多宝塔{いしやまでらたほうとう}がその代表建築である。折衷
様は、和様の手法を中心に禅宗様・大仏様の手法を巧みに取り入れた技法であ
る。観心寺{かんしんじ}金堂<注4>がその代表建築である。また、武家の
住居は武家造で造られたが、武家らしい住宅様式のことで、特有の様式がある
わけではない。
<注3>内陣{ないじん}の柱間が33間{ま}あるため、俗に三十三間堂
{さんじゅうさんげんどう}といわれる。
<注4>観心寺は大阪府河内長野市にある。
彫刻では、奈良仏師の活躍が大きい。彼らは興福寺を拠点に、奈良を中心に
活躍した仏像彫刻師たちである。運慶{うんけい}がその代表で、運慶の父の
弟子が快慶{かいけい}とされ、運慶には湛慶・定慶・康弁・康勝{たんけい
・じょうけい・こうべん・こうしょう}と4人の子がおり、それぞれ仏師とし
て活躍した。
奈良仏師の作品は、運慶・快慶らの合作『東大寺南大門金剛力士像』、快慶
の『東大寺僧形八幡神{そうぎょうはちまんしん}像』、運慶の『興福寺無著
・世親{むちゃく・せしん}像』、康弁の『興福寺天灯鬼・竜灯鬼{てんとう
き・りゅうとうき}像』、康勝の『六波羅蜜寺空也上人{ろくはらみつじくう
やしょうにん}像』、湛慶の『三十三間堂千手観音坐像』などがある。それ以
外に、『明月院{めいげついん}上杉重房{しげふさ}像』、『東大寺重源上
人像』、『高徳院{こうとくいん}阿弥陀如来像』<注5>などもある。
<注5>通称は鎌倉大仏。1495年の津波で仏殿が流出し、それ以後は再建
されず、「露坐{ろざ}の大仏」となっている。
絵画では、似絵{にせえ}・頂相{ちんぞう、ちんそう}・絵巻物がある。
似絵は、実際の人物を写実的に描き、その個性まで表現した大和絵の肖像画で
ある。藤原隆信・信実{たかのぶ・のぶざね}父子が名手といわれた。『源頼
朝像(伝)』<注6>『平重盛像』は隆信、『後鳥羽上皇像』は信実の作であ
る。また、成忍{じょうにん}の『明恵{みょうえ}上人樹上坐禅図』、専阿
弥{せんあみ}の『親鸞聖人像』(鏡御影{かがみのごえい})も知られる。
頂相は、禅宗で修行僧が一人前になった時に与えられる師や、徳の高い先輩僧
の肖像画である。
<注6>近年、頼朝と異なる人物との説が出されている。
絵巻物もその種類が多くなった。縁起{えんぎ}物は、高階隆兼{たかしな
たかかね}の『春日権現験記{けんき}』や『石山寺縁起絵巻(前半)』、作
者不詳の『粉河寺{こかわでら}縁起絵巻』がある。伝記物は、土佐吉光{と
さよしみつ}らの『法然上人絵伝』、円伊{えんい}の『一遍上人絵伝』、作
者不詳の『男衾三郎{おぶすまさぶろう}絵巻』などがある。合戦物は、『平
治物語絵巻』、『後三年合戦絵巻』、竹崎季長{たけざきすえなが}が描かせ
た『蒙古襲来絵巻』などがある。説話物は、『地獄草紙{ぞうし}』、『病草
紙{やまいのそうし}』、『餓鬼草紙{がきぞうし}』などがある。
工芸では、甲冑{かっちゅう}・刀剣・製陶が知られる。甲冑は、明珍{み
んちん}が名高い。刀剣は、京都の粟田口吉光{あわたぐちよしみつ}、鎌倉
の岡崎正宗{おかざきまさむね}、備前の長船長光{おさふねながみつ}が有
名である。また、加藤景正{かげまさ}は尾張瀬戸に窯を開き、瀬戸焼の祖と
される。製陶は、常滑焼{とこなめやき}・備前焼も知られる。書道は、青蓮
院流{しょうれんいんりゅう}が隆盛となり、この流派の祖である尊円{そん
えん}入道親王は『鷹巣帖{たかのすじょう}』を書いた。
文学も幅広く発達した。和歌集は、藤原定家{さだいえ、ていか}らの『新
古今和歌集』、西行{さいぎょう}の『山家集{さんかしゅう}』、源実朝の
『金槐{きんかい}和歌集』がある。『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の命で
編纂された勅撰和歌集である。説話集は、無住{むじゅう}の『沙石集{させ
きしゅう}』、橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今著聞集{ここんちょも
んじゅう}』、作者未詳の『十訓抄{じっきんしょう}』や『宇治拾遺{うじ
しゅうい}物語』がある。『古今著聞集』は、説話の末尾に教訓を加えてい
る。『十訓抄』は、年少者への教訓としてもので儒教的色彩が濃い。
随筆集は、鴨長明{かものちょうめい}の『方丈記{ほうじょうき}』、卜
部兼好{うらべかねよし:兼好法師}の『徒然草{つれづれぐさ}』がある。
『方丈記』はすべては流転し、人生の無常・天変の世相を説いた。『徒然草』
は、人間や社会を鋭い観察力で批評したものである。紀行文は、源親行{ちか
ゆき}の作とされる『東関{とうかん}紀行』、作者未詳の『海道紀{かいど
うき}』がある。日記は、阿仏尼{あぶつに}の『十六夜{いざよい}日記』
がある。この日記は、所領の争論解決のために鎌倉に赴いた時の紀行文で、12
月16日に京を出発したのが書名の由来である。
軍記物は、『平家物語』、『源平盛衰{せいすい、じょうすい}記』、『保
元物語』、『平治物語』などがある。『平家物語』は、信濃前司行長{しなの
のぜんじゆきなが}が東国生まれの生仏{しょうぶつ}と協力して作ったとい
う説が有力である。平家の興亡を記した流麗重厚な文を盲目の琵琶{びわ}法
師が平曲{へいきょく:『平家物語』を琵琶の伴奏で語る芸能}として語り継
ぎ、民間に普及した。
歴史書は、編者不詳の鎌倉幕府の記録書『吾妻鏡{あづまかがみ}』、慈円
{じえん}の『愚管抄{ぐかんしょう}』、虎関師錬{こかんしれん}の『元
亨釈書{げんこうしゃくしょ}』、藤原為経{ためつね}作とされる『今鏡
{いまかがみ}』、中山忠親{ただちか}作とされる『水鏡{みずかがみ}』
などがある。『愚管抄』は歴史の展開としての道理と末法思想によって歴史を
見たもので、後鳥羽上皇に献上して討幕計画をいさめたといわれる。『元亨釈
書』は、日本の高僧の事績を知らないことを指摘されて書いたと言われる。日
本初の仏教史である。
古典注釈は、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃく}』、卜部兼
方{うらべかねかた}の『釈日本紀{しゃくにほんぎ}』などがある。有職故
実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事・官職などを研究する学問で、
順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きんぴしょう}』がある。
北条実時{さねとき}は、武蔵国に金沢{かねさわ}文庫を作った。仏書が
多く、幕府が滅びた後に散逸したが、再興された
作者:
gao_yan617
时间:
2009-6-20 10:34
楼主,10月份正好打算考这科呢,麻烦你也给我发一份。谢谢!
gao_yan617@163.com
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-20 12:03
已发送,请查收!
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-20 12:06
弥生文化のノート
弥生文化…BC4世紀頃~AD3世紀頃
・薩南諸島~東北地方→北海道は続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化
南西諸島は貝塚文化(南島文化)
・弥生土器…薄手・硬い、赤褐色、甕・壺・鉢・高杯など
・金属器…鉄 器(工具・農具・武器に使用)
青銅器(祭器・宝器に使用、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸)
・水稲耕作…初 期:湿田に田植え、石包丁で穂首刈り、木臼・竪杵で脱穀
木製農具の使用(鍬・鋤、えぶり、田下駄、田舟)
中期末:乾田の登場、鉄製刃先を付けた鍬・鋤、鉄鎌で根刈り
磨製石器から鉄製工具へ
・集落…竪穴住居・高床倉庫、集落の増加
環濠集落(吉野ヶ里遺跡)・高地性集落(紫雲出山遺跡)
→身分・貧富の差、戦いの発生
・埋葬方法…伸展葬
甕棺墓・箱式石棺墓・支石墓(九州北部)、再葬墓(東日本)
土壙墓・木棺墓・壺棺墓・方形周溝墓(各地)
大きな墳丘墓(平安後期、東日本)
・代表遺跡…登呂遺跡、神庭荒神谷遺跡、垂柳遺跡など
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-20 12:06
文章
弥生文化は、通説では紀元前4世紀頃に九州北部で始まり、薩南諸島から東
北地方まで紀元3世紀頃まで栄えた文化である。農耕・金属器・弥生土器を特
徴とし、階級社会を生み、小国家の段階に進んだ。なお、北海道は農耕を行な
わず、漁労と狩猟を中心とする続縄文文化・擦文{さつもん}文化・オホーツ
ク文化となった。沖縄を含む南西諸島は農耕が及ばず、貝類などの食料採集を
行なう貝塚文化(南島文化)となった。
弥生土器<注1>は、縄文土器に比べて薄手で硬く、赤褐色{せきかっしょ
く}を帯びている。形態は煮沸用の甕{かめ}、貯蔵用の壺{つぼ}、盛り付
け用の鉢{はち}・高杯{たかつき}など、実用を旨として分化した。金属器
は、鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来した。青銅器は祭器・宝器に用いられ、銅
剣・銅矛{どうほこ}・銅戈{どうか}・銅鐸{どうたく}などがある。銅鐸
は日本独特の釣鐘型青銅器で、生物・人・高床倉庫などの絵が描かれており、
農耕祭祀に用いられたと考えられている。鉄器は、工具・農具・武器に用いら
れた。
<注1>1880年、東京府本郷区向ヶ丘{むこうがおか}弥生町(現、東京
都文京区弥生2丁目)の向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡とも)で発見さ
れた。そこで発見されたため、弥生土器という。この遺跡は東京
大学農学部構内にあったとされるが、正確な位置は確定しておら
ず、複数の候補地がある。
水稲耕作は、縄文晩期に伝わったと考えられている。稲作は、低湿地に水田
(湿田{しつでん})を作って田植えを行ない<注2>、実ると石包丁{いし
ぼうちょう}を使って穂首刈{ほくびが}りした。木製農具がたくさん使われ
た。耕作具に鍬{くわ}・鋤{すき}、水田をならすえぶりを使い、足が水田
にもぐらないように田下駄{たげた}を履いた。収穫した穂首束{たば}を田
舟{たぶね}で運び、高床倉庫や貯蔵穴に収めた。木臼{きうす}・竪杵{た
てぎね}を使って脱穀した。
<注2>もみを水田に直接播{ま}く方法もある。
中期末に灌漑{かんがい}水路を備えた乾田{かんでん}が現われ、鉄製の
刃先を付けた鍬・鋤で耕し、収穫も鉄鎌を使って根刈りした。また、肥料から
踏み込む大足{おおあし}も使われた。木製工具の制作も、次第に磨製石器か
ら鉄製工具へと代わっていった。
これまでの狩猟・漁労・植物採集も行なわれた。水稲耕作が始まり、集落も
丘陵地から平地に移ったが、竪穴住居に住み、穀物を保管する高床倉庫も造ら
れた。集落も20~50戸程度に増えた。一方、貧富・身分の差が発生し、耕地や
生産物をめぐる戦いも発生した。環濠{かんごう}集落や高地性集落はこうし
た状況下で出現したと考えられ、勝った集落は負けた集落を統合し、小国に発
展した。
環濠集落は周囲を濠{ほり}や土塁{どるい}で囲んだ集落で、防御的機能
を持っている。佐賀県の吉野ヶ里{よしのがり}遺跡、奈良県の唐古・鍵{か
らこ・かぎ}遺跡、大阪府の池上曽根{いけがみそね}遺跡などが知られる。
高地性集落は生活に不便な山頂に位置する集落で、香川県の紫雲出山{しうで
やま}遺跡、兵庫県の会下山{えげのやま}遺跡など瀬戸内沿岸を中心とした
西日本に分布している。
死者は手足を伸ばして葬る伸展葬{しんてんそう}が主流で、集落近くの共
同墓地に埋葬された。九州北部に甕棺墓{かめかんぼ}・箱式石棺墓{ほこい
りせっかんぼ}・支石墓{しせきぼ}、東日本で再葬墓{さいそうぼ}、各地
に土壙墓{どこうぼ}・木棺墓{もっかんぼ}・壺棺墓{つぼかんぼ}・方形
周溝墓{ほうけいしゅうこうぼ}が見られ、弥生後期に東日本で大きな墳丘墓
{ふんきゅうぼ}が見られた。
甕棺墓は、土製の甕形の棺{ひつぎ}に死者を入れて埋葬した墓である。箱
式石棺墓は、扁平{へんぺい}な板石を長い箱形に組み合わせ、同様な板石で
ふたをした棺に遺体を収めた墓である。支石墓は、自然石の支柱の上に大きな
平石をのせたもので、その下や周囲に甕棺が群がる。再葬墓は、死者の骨を洗
骨した後に、壺に入れて改めて葬った墓である。土壙墓は地中に穴を掘り、棺
を使わず遺体を埋めた墓である。方形周溝墓は、方形の低い墳丘の周りに溝を
めぐらせたものである。墳丘墓は、盛り土をして墓域を画した墳丘を持つ墓で
ある。
この時代の遺跡も数多い。静岡県の登呂{とろ}遺跡は太平洋戦争中に発見
され、戦後の調査で住居跡・高床倉庫群・畦・水田跡を発掘した。島根県の神
庭荒神谷{かんばこうじんだに}遺跡は、銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個が
まとまって出土した。また、加茂岩倉{かもいわくら}遺跡は、山の中腹から
銅鐸39個が出土した。福岡県の板付{いたづけ}遺跡は、水田跡を発掘した。
青森県の垂柳{たれやなぎ}遺跡や砂沢{すなざわ}遺跡も有名である。
作者:
风樯遥度天际
时间:
2009-6-20 21:18
楼主真是神啊!这些资料弥足珍贵,《日本文化》日文版的书买都买不到。
作者:
小琳若叶
时间:
2009-6-21 15:47
收到了楼主的资料了!!太感谢了!楼主的无私奉献,真的给了我们很大的帮助啊!问一下,为什么收到的压缩包只有十一个文档,可是楼主之前列出来的清单有二十多个单元的?
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-21 20:58
其他部分有待收集整理。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-21 21:02
天平文化のノート
天平文化…8世紀の奈良時代の文化
・特徴…国際色豊かな文化、豪壮雄大、貴族的、仏教的色彩が濃い
・仏教
国家仏教…僧尼令の規制、官寺の建立、鎮護国家の法会
南都七大寺・唐招提寺、南都六宗、戒壇の設置
社会事業…光明皇后の施薬院・悲田院、行基の民間布教など
・教育…大学(式部省管轄)・国学(国司管轄)、石上宅嗣の芸亭
・文学…歴史書-『古事記』『日本書紀』 地 誌-『風土記』
漢詩集-『懐風藻』 和歌集-『万葉集』
・建築…法隆寺伝法堂・夢殿、東大寺法華堂・転害門、正倉院宝庫、
唐招提寺金堂・講堂など
・彫刻…東大寺法華堂日光・月光菩薩像と執金剛神像、戒壇院四天王像
(塑像)
興福寺八部衆像・十大弟子像、東大寺法華堂不空羂索観音像
唐招提寺鑑真像(脱乾漆像)
・絵画…薬師寺吉祥天像(仏画)、正倉院鳥毛立女屏風(美人画)
過去現在絵因果経(絵巻物の最初)
・工芸…正倉院宝物、東大寺大仏殿八角灯籠など
百万塔陀羅尼(世界最古の印刷物)
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-21 21:02
文章
天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の
総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁
栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。
奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教<注1>であ
る。僧侶は、僧尼令{そうにりょう}の規制を受ける国家公認の官僧のみが認
められ、許可なく得度{とくど:出家}する私度僧{しどそう}は禁止され
た。また、僧尼を統轄する僧綱{そうごう}という官職が設けられた。官寺が
多く建てられ、鎮護国家の法会{ほうえ}を行なった。
<注1>寺田{じでん:寺所有の田}が不輸租{ふゆそ:税金がかからな
い}で、僧の課役{かえき:調庸と雑徭}も免除された。
官大寺制は、8世紀末に大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・法隆寺・東大寺
・西大寺が南都七大寺とされた。寺院は、鑑真{がんじん}が建立した唐招提
寺{とうしょうだいじ}も有名である。官寺には仏教教学を研究する学派があ
り、三論{さんろん}宗・倶舎{くしゃ}宗・律{りつ}宗・成実{じょうじ
つ}宗・法相{ほっそう}宗・華厳{けごん}宗の6学派を南都六宗と総称さ
れた。東大寺などには数派が同時に存在した。
正式な官僧になるには得度して修行し、戒壇で授戒{じゅかい}する必要が
あった。授戒は、一定の戒律{かいりつ}<注2>を所定の手続きで授けるこ
とをいい、それを行なう場所を戒壇{かいだん}といった。754年に初めて鑑
真が東大寺大仏殿前に築き、翌年から常設の戒壇院を建立した。東大寺戒壇院
と下野薬師寺・筑紫観世音寺{ちくしかんぜおんじ}の戒壇を天下三戒壇とい
う。
<注2>僧尼が守るべき一定の規範。戒は心の規律、律は行動の規範。
国王(ここでは天皇)が仏教を尊崇すれば、諸仏が国を護ってくれると説い
た教典を「護国の経典」といい、法華経{ほけきょう}・仁王経{にんのうき
ょう}・金光明経{こんこうみょうきょう}を護国三部経といった。また、一
切経{いっさいきょう:大蔵経{だいぞうきょう}とも}の写経が盛行した。
仏典を書写する写経事業も行なわれた。
政治と仏教が深く結びついたため、玄〔日方〕{げんぼう}や道鏡{どうき
ょう}のように政治に介入する僧侶もいた。民間への布教は禁止されていた
が、行基は民間に布教して弾圧を受けた。戒律を伝えるため、盲目になりなが
らも来日した鑑真も有名である。
仏教思想に基づく社会事業も行なわれた。光明{こうみょう}皇后は、皇后
宮職{ぐうしき}<注3>に施薬院{せやくいん}・悲田院{ひでんいん}を
設置した。施薬院は、病人に薬を施して治療を行なう施設である。悲田院は、
貧しい人々や孤児を収容して飢餓から救う施設である。和気広虫{わけのひろ
むし}は、仲麻呂{なかまろ}の乱に連坐した人々の助命を乞い、乱後の捨て
子を養育した。称徳天皇は、仲麻呂の乱による戦没者の霊を弔うために木製の
三重塔百万基(百万塔)を作った。行基は民間に布教し、灌漑施設や橋、布施
屋{ふせや:休憩宿泊所}を設けるなどの社会福祉事業を行なった。大仏造営
に協力し、大僧正{だいそうじょう}に任じられた。
<注3>皇后に付された家政機関
教育では、中央に式部{しきぶ}省管轄の大学(大学寮)が置かれ、貴族や
東西史部{やまとかわちのふひとべ}の子弟を学生{がくしょう}とした。明
経{みょうぎょう}・明法{みょうぼう}・文章{もんじょう}・算などが教
授され、大学の試験を通ると太政官に推薦され、式部省で秀才・明経・進士・
明法の4科に分けて試験を受けて登用された。また、中務{なかつかさ}省管
轄の陰陽{おんみょう}寮では陰陽・暦・天文を教え、宮内{くない}省管轄
の典薬{てんやく}寮では医学・薬学(本草{ほんぞう}学)を教えた。地方
には国司管轄の国学が置かれ、郡司の子弟を教育した。修了者は上京して、大
学修了者同様に試験を受けて、官吏に登用された。
さらに、石上宅嗣{いそのかみのやかつぐ}は旧宅に公開図書館を開いた。
芸亭{うんてい}と呼ばれ、仏教以外の書を好学の士に閲覧させた。
文学では、歴史書の『古事記{こじき}』『日本書紀{にほんしょき}』、
地誌の『風土記{ふどき}』、漢詩集の『懐風藻{かいふうそう}』、和歌集
の『万葉集{まんようしゅう}』が編纂された。
681年、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を検討し、記憶力に優れた稗田阿礼
{ひえだのあれ}に誦{よ}み習わせた。また、勅語で川島皇子{かわしまの
みこ}・刑部{おさかべ}親王ら12名に「帝紀及び上古の諸事(旧辞)を記し
定める」よう命じた。
『古事記』は、稗田阿礼が誦み習わせた推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝
承を太安万侶{おおのやすまろ}が筆録して、712年に元明天皇に献上したも
のである。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。『日本書紀』
は、神代~持統天皇に至る天皇中心の国家成立史を漢文・編年体<注4>で記
した、最古の官撰正史である。編者は舎人{とねり}親王らで、720年に元正
{げんしょう}天皇に献上された。この後に編纂される六国史{りっこくし}
の最初である。
<注4>時代を追って出来事を記述する歴史叙述法。
『風土記』は、713年に諸国に地名の由来・産物・伝承などを記して提出さ
せた各国別の地誌である。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国のみ
で、出雲だけが完全に残っている。
『懐風藻』<注5>は、64人の詩120編を集めた日本最古の漢詩集である。
撰者は淡海三船{おうみのみふね}、石上宅嗣といわれるが不明である。天武
天皇の皇子大津皇子{おおつのみこ}はその代表詩人である。
<注5>先人の遺風を懐{おも}う美しい藻(詩文)の意
『万葉集』は、奈良時代後期までの約4500首を収録した日本最古の歌集であ
る。撰者は、大伴家持{おおとものやかもち}が有力である。漢字の音訓を用
いて日本語を表わす万葉仮名を使い、詩形・作者とも幅広い。歌風は素朴で力
強く、万葉調と呼ばれる。恋愛を詠む相聞歌{そうもんか}、死者を哀悼する
挽歌{ばんか}、両者に属さない雑歌{ぞうか}などに分かれる。短歌・長歌
以外に、東歌{あずまうた}や防人{さきもり}の歌も多く収められている。
代表的歌人に、『貧窮問答歌{ひんきゅうもんどうか}』で知られる山上憶良
{やまのうえのおくら}、大伴旅人{おおとものたびと}、山部赤人{やまべ
のあかひと}、大伴家持らがいる。
建築では、法隆寺伝法堂{でんぽうどう}・夢殿、東大寺法華堂・転害{て
がい}門、正倉院宝庫、唐招提寺金堂・講堂などが知られる。法隆寺伝法堂は
橘古那可智{こなかち}(聖武夫人)宅<注6>の移築とされ、当時の貴族住
宅を知る貴重な遺構である。夢殿は、八角形の仏殿である。東大寺法華堂は、
毎年3月に法華会{え}が行なわれるので、三月堂ともいう。正堂{しょうど
う}は創建時、礼堂{らいどう}は鎌倉時代のものである。転害門は、東大寺
に現存する創建当時の建造物7棟のうち、唯一の門である。
<注6>橘三千代{みちよ}(光明子の母)宅とも
正倉院宝庫は東大寺宝庫群で現存する唯一のもので、南・中・北倉の3倉に
分かれ、南と北は校倉造{あぜくらづくり}で作られている。校倉造は、柱を
用いず断面が三角形の木材を井桁{いげた}に積み上げて、壁面を構成したも
のである。唐招提寺金堂は、奈良時代の金堂で唯一現存する遺構で、和様建築
の起点とされている。講堂は平城宮朝集殿{ちょうしゅうでん}<注7>を移
築し、鎌倉時代に修築されたが、平城宮唯一の遺構である。
<注7>儀式の時に臣下が参集する場所で東西2棟あった。
彫刻は、粘土で作る塑像{そぞう}と漆で固めて作った乾漆像{かんしつぞ
う}がある。乾漆像には脱{だつ}乾漆と木心{もくしん}乾漆があり、前者
は土の原形の上に麻布を漆で塗り固め、土を抜いて木枠を入れるもの、後者は
原形を木で造り、麻布と漆で整形するものである。ともに、経費と時間がかか
る。
塑像は、東大寺法華堂日光・月光{がっこう}菩薩像と執金剛神{しつこん
ごうしん}像、東大寺戒壇院四天王像(持国天{じこくてん}・増長天{ぞう
じょうてん}・広目天{こうもくてん}・多聞天{たもんてん})、新薬師寺
十二神将像{しんしょうぞう}(迷企羅{めきら}大将像など)などがある。
脱乾漆像は、興福寺八部衆像(阿修羅{あしゅら}像など)・十大弟子像(須
菩提{すぼだい}像など)、東大寺法華堂不空羂索{ふくうけんじゃく}観音
像、唐招提寺鑑真像<注8>・金堂盧舎那仏像などがある。木心乾漆像は、聖
林寺{しょうりんじ}十一面観音像などがある。
<注8>松尾芭蕉は唐招提寺でこの像を拝み、「若葉して 御{おん}め
の雫{しずく} ぬぐはばや」(若葉で鑑真の見えなくなった目
の涙をぬぐって差し上げたい)と詠んだ(『笈{おい}の小文
{こぶみ}』)。
絵画は、仏画の薬師寺吉祥天{きちじょうてん}像、美人画の正倉院鳥毛立
女{とりげだちおんなの}屏風(樹下美人図)、絵巻物の最初とされる過去現
在絵因果経がある。鳥毛立女屏風の髪や衣服には日本のキジの羽毛が貼ってあ
ったが、現在は剥落している。
工芸は、正倉院宝物<注9>が有名である。この宝物は、光明皇太后が聖武
上皇の没後に冥福を祈って東大寺に寄進したのが始まりで、それ以外の献納物
をあわせると1万点余になるという。奈良時代の貴族文化の実際を見ることが
出来る。また、由緒・来歴が明白で、宝物の数量が多く、世界性・国際性があ
ることなどに価値がある。現在は鉄筋コンクリート造りの新宝庫に保存されて
いる。螺鈿紫檀五絃琵琶{らでんしたんごげんのびわ}、銀薫炉{ぎんのくん
ろ}、白瑠璃碗{はくるりわん}<注10>、瑠璃杯{るりのつき}、漆胡瓶
{しっこへい}などの他に、光明皇太后44歳の書『楽毅{がっき}論』も納め
られている。
<注9>毎年、秋の虫干しの期間だけ正倉院展として一般公開される。19
46年に始まり、毎年異なる宝物が奈良国立博物館で公開されてい
る。
<注10>瑠璃は中国でガラスのこと
正倉院宝物の他に、東大寺大仏殿八角灯籠{はっかくどうろう}・大仏蓮弁
毛彫{れんべんけぼり}がある。また、世界最古の印刷物とされる百万塔陀羅
尼{だらに}(経)は、称徳天皇の発願で作られたものである。
作者:
miduo955
时间:
2009-6-23 13:29
感谢楼主共享,我也想要一份,麻烦你了。
miduo955@126.com
作者:
阙苑情音
时间:
2009-6-23 14:47
楼主,你真是神人,我一口气把所有的都复制下来了。一共27页。但是为了以防万一漏掉,还是麻烦给传一份。在此叩谢。
lxm_2408@sohu.com
作者:
hewen
时间:
2009-6-23 14:51
感谢楼主分享!
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:45
室町文化のノート
室町文化…南北朝期の文化、北山文化、東山文化の総称
・特徴…公家文化+禅宗文化融合の武家文化+民衆的要素
文化の民衆化と地方普及(戦国時代)
南北朝期の文化…14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化
・特徴…世相の反映、武士・民衆の台頭
・学問…歴史書-『神皇正統記』(北畠親房)
有職故実-『建武年中行事』(後醍醐天皇)
『職原抄』(北畠親房)
・文学…軍記物-『太平記』『難太平記』『曽我物語』
歴史書-『梅松論』『増鏡』
和 歌-『新葉和歌集』(宗良親王)
・連歌…『菟玖波集』(二条良基と救済)、『応安新式』(二条良基)
北山文化…3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化
・特徴…武家文化が公家文化を摂取、禅宗文化・明文化の普及
・仏教…五山十刹-臨済宗統制。京都五山・鎌倉五山。五山僧の活躍
・文学…五山文学の全盛-義堂周信・絶海中津が双璧、五山版
歴史書-『難太平記』(今川了俊) 軍記物-『義経記』
・建築…鹿苑寺金閣など
・庭園…西芳寺庭園(夢窓疎石)、天竜寺庭園、鹿苑寺庭園
・絵画…水墨画-『瓢鮎図』(明兆)、『寒山拾得図』(周文か?)など
・芸能…能-観阿弥・世阿弥が大成、『風姿花伝』(世阿弥)
狂言
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:46
東山文化…8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化
・特徴…簡素さ・有限を基調、公家文化の芸術性が生活文化に浸透
・仏教…禅 宗-五山派の衰退、林下が民間布教
浄土真宗の蓮如、日蓮宗の日親の活躍
・神道…吉田兼倶の唯一神道
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:47
・建築…慈照寺銀閣、慈照寺東求堂同仁斎→書院造
・庭園…枯山水の様式→竜安寺石庭、大徳寺大仙院庭園など
・絵画 水墨画…『四季山水図巻』『天橋立図』(2つとも雪舟)
大和絵…狩野派-狩野正信・元信、『大仙院花鳥図』(元信)
土佐派-土佐光信・光起が祖
・彫金…金工(後藤祐乗)
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:49
・芸能・庶民文化
能…金春禅竹の金春座
茶道…闘茶、茶寄合→侘茶(村田珠光→武野紹鴎)→茶道(千利休)
花道…供花→立花(立阿弥)→生花(池坊専慶)
香道…香寄合→香道
御伽草子…『酒呑童子』『一寸法師』など
小歌(『閑吟集』)、古浄瑠璃、幸若舞、盆踊り、祇園会の復活
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:51
文章
室町時代の文化は、南北朝文化・北山文化・東山文化に分けられる。全体的
な性格は、公家文化と禅宗文化を融合した新しい武家文化に、都市・農村の民
衆的要素が加わったものである。戦国時代には、さらに文化の民衆化と地方普
及が進んだ。
南北朝文化は、14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化で、その世相を反映して
歴史書や軍記物が書かれた。武士や民衆の台頭から、連歌や茶寄合なども流行
し始めた。
学問では、史書は北畠親房{きたばたけちかふさ}の『神皇正統記{じんの
うしょうとうき}』、有職故実は後醍醐天皇の『建武{けんむ}年中行事』や
北畠親房の『職原抄{しょくげんしょう}』がある。他に、道祐{どうゆう}
の『正平版{しょうへいばん}論語』がある。『神皇正統記』は、親房が常陸
小田城で北朝方と対戦しながら執筆したもので、大義名分論に基づいて、南朝
の正統性を主張した。
文学では、歴史・軍記物は『太平記{たいへいき}』、『梅松論{ばいしょ
うろん}』、『増鏡{ますかがみ}』、『曾我{そが}物語』がある。『太平
記』は南北朝動乱を、『梅松論』は足利幕府の正当性を、『増鏡』は鎌倉時代
を編年体で記したものである。『曾我物語』は、曾我兄弟が父の仇{かたき}
を富士の裾野{すその}で討ち取る物語である。和歌は、宗良{むねよし}親
王が撰定した『新葉{しんよう}和歌集』がある。
連歌は、和歌の上の句(5・7・5の長句)と下の句(7・7の短句)とを
別の人が交互に詠み、唱和する文芸である。二条良基{にじょうよしもと}は
この方式と地位を確立し、彼と救済{ぐさい、きゅうぜい}が選んだ『菟玖波
{つくば}集』は連歌集の最初で準勅撰とされ、『応安新式{おうあんしんし
き}』で連歌の規則を集大成した。
北山文化は、3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化である。
義満による南北朝合体・幕政確立という政治の動きを背景に、武家文化が公家
文化を摂取して発展する基礎ができた。禅宗文化や明の文化も普及した。
仏教では、義満の時に室町幕府が南宋の制度にならい、臨済宗五山派寺院を
官寺とし、五山・十刹{ござん・じっさつ}の序列を付して幕府が住持{じゅ
うじ:住職}を任命した。京都五山は天竜・相国・建仁・東福・万寿{てんり
ゅう・そうこく・けんにん・とうふく・まんじゅ}の5寺で、南禅寺{なんぜ
んじ}は五山の別格上位とした。鎌倉五山は、建長・円覚・寿福・浄智・浄妙
{じゅふく・じょうち・じょうみょう}の5寺である。五山の寺院の管理を行
なうために僧録司{そうろくし}を置き、春屋妙葩{しゅんおくみょうは}を
初代僧録に任命した。また、夢窓疎石{むそうそせき}などの五山僧は、政治
・外交・文学などに活躍した。
文学は、五山文学が全盛を迎え、義堂周信{ぎどうしゅうしん}と絶海中津
{ぜっかいちゅうしん}がその双璧と称された。五山文学は、五山・十刹に拠
った禅僧らの漢詩文学である。義堂周信の『空華日用{くうげにちよう}工夫
略集』、絶海中津の『蕉堅藁(稿){しょうけんこう}』などがある。また、
禅の経典や漢詩文集を五山版として出版した。
歴史書は今川了俊{りょうしゅん}の『難{なん}太平記』<注1>、軍記
物は『義経{ぎけい}記』がある。『義経記』は、源義経の幼少期と末期の不
遇時代を同情的に描き、民衆的義経伝説のもととなった。
<注1>『太平記』非難の記述が一部にあるため、後世の人が命名した。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:51
建築では、足利義満が建立した鹿苑寺{ろくおんじ}金閣は、禅宗様・寝殿
造を融合したものである。他に、興福寺五重塔と東金堂{とうこんどう}は和
様建築、永保寺開山堂{えいほうじかいざんどう}(南北朝期)は禅宗様建築
である。庭園も作られ、西芳寺{さいほうじ:苔寺{こけでら}とも}・天竜
寺・鹿苑寺のものが有名である。西芳寺庭園は、夢窓疎石の作である。
絵画は、水墨画が発達した。水墨画は、墨の濃淡と描線の強弱による墨一色
の東洋独特の絵である。可翁{かおう}の『寒山{かんざん}図』(南北朝
期)、明兆{みんちょう}の『五百羅漢{ごひゃくらかん}図』、如拙{じょ
せつ}の『瓢鮎{ひょうねん、ひょうでん}図』、周文{しゅうぶん}作とさ
れる『寒山拾得{かんざんじっとく}図』などがある。また、絵巻物の『慕帰
絵詞{ぼきえことば}』は、本願寺3世覚如{かくにょ}の一代を描いたもの
で、生活資料として重要である。
芸能は、能(能楽)が大成した。能は、社寺の祭礼に奉仕する猿楽能{さる
がくのう}に、民間で発展した田楽{でんがく}を取り入れ、宗教的芸能から
庶民的な舞台芸術に発展したものである。当初、大和猿楽四座{しざ}と近江
猿楽があり、前者は興福寺・春日社に奉仕する観世・金春・金剛・宝生{かん
ぜ・こんぱる・こんごう・ほうしょう}の4座、後者は日吉{ひえ}神社に奉
仕する北近江の上{かみ}三座(山階・下坂・比叡{やましな・しもさか・ひ
えい})と、多賀神社に奉仕する南近江の下{しも}三座(大森・敏満寺・酒
人{みまじ・さかうど})の総称である。
観世座から出た観阿弥{かんあみ}と世阿弥{ぜあみ}が、能楽を大成させ
た。世阿弥の『風姿花伝{ふうしかでん:花伝書{かでんしょ}とも}』は能
楽の芸術論、子の観世元能{もとよし}が筆録した『申楽談儀{さるがくだん
ぎ}』は芸道論である。能の脚本を謡曲{ようきょく}という。能の合間に、
狂言{きょうげん}も上演された。狂言は、滑稽なしぐさやふりを交えた庶民
劇で、庶民側から大名・山伏・僧侶などを風刺したものが多い。
東山文化は、8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に
基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文
化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。
仏教は、幕府の保護を受けた五山派が衰退し、より自由な活動を求めた林下
{りんか}が民間布教に努めた。曹洞系の永平寺・総持寺{えいへいじ・そう
じじ}、臨済系の大徳寺・妙心寺{だいとくじ・みょうじじ}などが有力であ
る。大徳寺派の一休宗純{いっきゅうそうじゅん}も知られる。また、浄土真
宗(本願寺派)の蓮如{れんにょ}や日蓮宗の日親{にっしん}も、この頃に
活躍した。
神道は、吉田兼倶{かねとも}が唯一神道(吉田神道)を大成させた。この
教説は、本地垂迹に基づく両部{りょうぶ}神道に対し、反本地垂迹説の立場
から本地で唯一なるものを神として、一切の現象を体系づけたものである。儒
教・仏教も取り入れた総合的な神道説である。
建築は、足利義政が建立した慈照寺{じしょうじ}銀閣・東求堂同仁斎{と
うぐどうどうじんさい}が有名である。銀閣は、禅宗様と書院造{しょいんづ
くり}を取り入れたものである。書院造は、禅院の書斎の影響などから、床・
棚・付{つけ}書院などを持ち、明{あかり}障子・襖を多く用いた造りで、
一丈四方の広さの方丈や、その入口としての玄関<注2>を設けるなど、現代
の日本住宅の基本となる様式である。東求堂同仁斎も書院造で有名である。
<注2>玄妙{げんみょう}な門の意。
庭園は、枯山水{かれさんすい、かれせんずい}の様式で作られたものが多
い。枯山水は、水を用いずに砂と石で山水自然の生命を表現する禅院の作庭様
式である。特に、竜安寺石庭{りょうあんじせきてい}や大徳寺大仙院{だい
せんいん}庭園が有名である。他に、善阿弥{ぜんあみ}が作った慈照寺庭園
がある。
絵画では、雪舟{せっしゅう}が水墨画を大成させた。彼の作品は、『四季
山水{さんすい}図巻(山水長巻{ちょうかん})』、『天橋立{あまのはし
だて}図』、『秋冬{しゅうとう}山水図』などがある。大和絵は、狩野{か
のう}派と土佐{とさ}派が生まれた。狩野派は狩野正信・元信{まさのぶ・
もとのぶ}父子が成立させた漢画系の流派で、正信の『周茂叔愛蓮{しゅうも
しゅくあいれん}図』、元信の『大仙院花鳥{かちょう}図』がある。土佐派
は土佐光信・光起{みつのぶ・みつおき}らを輩出した流派で、その画風が知
られるものに『風俗図屏風』がある。
工芸・彫金は、後藤祐乗{ゆうじょう}が足利義政に仕えた。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:52
民間教育の教材として、『庭訓往来{ていきんおうらい}』などの往来物、
『実語教{じつごきょう}』、『童子教{どうしきょう}』、いろは歌などが
使われた。また、饅頭屋宗二{まんじゅうやそうじ}が刊行した『節用集{せ
つようしゅう}』は、日常語句を最初の音で「イロハ順」に分けた上、さらに
言葉の意味別に分類した国語辞典である。
上杉憲実{のりざね}は足利学校を再興し、戦国時代に来日した宣教師フラ
ンシスコ=ザビエルは「坂東の大学」と称した。朱子学が各地に広がり、桂庵
玄樹{けいあんげんじゅ}は応仁の乱を避けて西国で儒書を講じ、薩摩の島津
忠昌{ただまさ}に招かれて薩南{さつなん}学派の基を作った。また、南村
梅軒は土佐の吉良氏に仕え、海南{かいなん}学派(南学{なんがく})の祖
となった。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:53
古今伝授は、東常縁{とう(の)つねのり}が始めた。古今伝授は『古今和
歌集』の故実・解釈などを弟子に授けることで、秘事口伝{ひじくでん}<注
3>とされた。1471年に東常縁が宗祇{そうぎ}に伝授して、近世に及んだ。
印刷・出版は、大内氏が貿易による富を背景に、仏典・漢籍を中心に大内版を
出版した。
<注3>たやすく人に教えられない学問・芸術の奥義を、限られた後継者
だけに秘かに口伝えで教え授けること。
連歌は、この頃に大成した。宗祇は、和歌の伝統を生かした深みのある芸術
的な正風{しょうふう}連歌を確立した。準勅撰となった『新撰菟玖波集』
や、宗長・肖柏{そうちょう・しょうはく}と詠んだ『水無瀬三吟百韻{みな
せさんぎんひゃくいん}』がある。また、(山崎)宗鑑は、滑稽な、あるいは
機知的な俳諧連歌を確立し、『犬筑波{いぬつくば}集』を編集した。
芸能・庶民文化では、能は金春禅竹{ぜんちく}が金春座を確立した。
茶道の基礎となる喫茶の風習は、禅宗寺院で始まった。南北朝期頃、武家・
庶民の間に闘茶{とうちゃ}・茶寄合が広まった。闘茶は、幾種類かの茶を飲
み、その産地を当てるものだが、侘茶{わびちゃ}の発達ですたれた。茶寄合
は、多人数で茶の会合を持ち、自由な酒食{しゅしょく}を伴う娯楽的な茶会
である。抹茶による喫茶には、禅の思想や作法を織り込んだ流儀が出来上がっ
て、茶の湯と呼ばれた。村田珠光{じゅこう}が一休宗純に参じて禅の精神を
身につけ、茶会を茶の湯にまで高めた。そして、武野紹鴎{たけのじょうお
う}が侘茶を更に簡素化し、千利休{せんのりきゅう}が茶の湯として大成さ
せた。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:53
花道(華道)は、仏前に花を供える供花{くげ}から、花を立ててその美を
競う豪華な立花{りっか、たてはな}に発展した。立花の名手に立阿弥{りつ
あみ}がいる。侘茶の流行とともに、立花は投げ入れの方法を用いる生花に移
り、やがて池坊専慶{いけのぼうせんけい}が花道を大成させた。その後、池
坊専応・専好{せんおう・せんこう}によって、池坊流が発展した。また、一
定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞する香道{こうどう}も足利義政の時代
に成立し、香をかぎ分ける聞香{もんこう}のための香寄合も盛行した。
御伽草子{おとぎぞうし}は庶民的な短編物語で、内容は多種多彩で、全般
に仏教思想の影響が強い。『物{もの}くさ太郎』、『一寸法師{いっすんぼ
うし}』、『浦島太郎』、『酒呑童子{しゅてんどうじ}』などが有名であ
る。
小歌{こうた}、古浄瑠璃{こじょうるり}、幸若舞{こうわかまい}、念
仏踊り、風流{ふりゅう}踊り、盆踊りも流行した。小歌は、その時代の民間
で歌われた流行歌などをいい、『閑吟集{かんぎんしゅう}』は小歌などをま
とめたものである。幸若舞は、越前国の幸若大夫{だゆう}一派の舞である。
風流踊りは、民衆が仮装したり、異様な風体{ふうてい}で踊る踊りである。
盆踊りは、盂蘭盆{うらぼん}の頃に精霊{しょうりょう}を慰めるために音
頭や歌謡に合わせて行なう踊りで、風流と念仏踊りが結びついて生まれた。
応仁の乱で中断した祇園会{ぎおんえ}は、1500年に復活した。祇園会は、
京都祇園社(八坂神社)の疫病除け祭礼で、復活後は町衆{ちょうしゅう}の
手で行なわれた。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:54
院政期の文化(平安末期の文化)のノート
○院政期の文化…平安末期の11世紀後半頃から12世紀頃の文化
・特徴…貴族社会の回顧、武士・庶民文化の萌芽、浄土教の全国普及
・建築…阿弥陀堂建築-中尊寺金色堂、富貴寺大堂、白水阿弥陀堂など
毛越寺、三仏寺投入堂、厳島神社など
・彫刻…蓮華王院千手観音立像、臼杵磨崖仏など
・絵画…絵巻物-『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『鳥獣戯画』など
装飾経-『平家納経』『扇面古写経』など
・文学…歴史物語-『大鏡』『栄華物語』
軍記物語-『将門記』『陸奥話記』、説話集-『今昔物語集』
・芸能…猿楽・田楽、今様-『梁塵秘抄』(後白河法皇)
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:54
文章
院政期の文化は、平安時代末期の11世紀末~12世紀にかけての文化である。
特徴は、貴族社会を回顧する風潮が見られ、地方を背景に武士や庶民の文化が
芽生えた。また、聖{ひじり}の布教活動で、浄土教が全国的に広まった。
建築は、阿弥陀堂建築が前文化から続いて作られ、中尊寺金色堂{ちゅうそ
んじこんじきどう}、富貴寺大堂{ふきじおおどう}、白水{しらみず}(願
成寺{がんじょうじ})阿弥陀堂が知られる。中尊寺金色堂は藤原清衡{きよ
ひら}が陸奥平泉に創建し、須弥座{しゅみざ}の下に清衡・基衡・秀衡{も
とひら・ひでひら}3代のミイラを納めている。富貴寺・願成寺<注1>のそ
れは、浄土教の地方普及の一例である。
<注1>富貴寺は大分県豊後高田市、願成寺は福島県いわき市白水町にあ
る。
阿弥陀堂建築以外に、毛越寺{もう(お)つじ}、三仏寺投入堂{さんぶつ
じなげいれどう}<注2>、厳島{いつくしま}神社がある。毛越寺は藤原基
衡が建立した寺である。三仏寺投入堂は奥の院のことで、断崖の窪みの中に足
場を組んだ懸造{かけづくり}の建物である。厳島神社は、安芸国の一宮で航
海守護神とされた。後に平清盛の崇敬を受け、平氏の氏神のようになった。
<注2>毛越寺は岩手県平泉町、三仏寺は鳥取県東伯郡三朝町{とうはく
ぐんみささちょう}にある。
彫刻は、蓮華王院千手観音立像{りゅうぞう}、臼杵磨崖仏{うすきまがい
ぶつ}、浄瑠璃寺{じょうるりじ}本堂九体{くたい}阿弥陀如来像、中尊寺
一字金輪{いちじきんりん}像が有名である。臼杵磨崖仏は、凝灰岩{ぎょう
かいがん}に刻まれた62体の石仏群が谷をめぐって4か所に存在する。中尊寺
一字金輪像は大日如来の説いた真言の一字を人格化した仏で、「人肌の大日
{だいにち}」と呼ばれる。
絵画は、絵巻物と装飾経{そうしょくきょう}がある。絵巻物は、詞書{こ
とばがき}と絵を交互に描いて、人物の動きや場面の展開を示す巻物である。
『伴大納言{ばんだいなごん}絵巻』は、応天門の変を描いた。『源氏物語絵
巻』は『源氏物語』を絵巻物にしたもので、藤原隆信の作とされている。『信
貴山縁起{しぎさんえんぎ}絵巻』は、庶民の生活・風俗を描写したものであ
る。『鳥獣戯画{ちょうじゅうぎが}』は、当時の貴族社会や仏教界を鳥獣に
擬して風刺したもので、鳥羽僧正覚猷{とばそうじょうかくゆう}の作とされ
る。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-6-24 07:55
装飾経は、装飾を目指して作った経巻で、写経の1つである。『扇面古写経
{せんめんこしゃきょう}』は扇形の料紙{りょうし:用紙}に法華経を写経
したもの、『平家納経』は平清盛ら一門が繁栄祈願のため、厳島神社に奉納し
たものである。
文学は、歴史物語・説話集・軍記物がある。歴史物語は、貴族の華やかな過
去を追憶して国文体で書かれたものである。『栄華物語』は藤原道長を中心に
宮廷貴族の栄華を描いたもの、『大鏡』は道長を中心とする摂関政治を批判的
に叙述したもので、かなで書かれた史書の初めである。説話集は『今昔物語
集』が有名で、日本・インド・中国の仏教・民間説話をまとめたもので、源隆
国{たかくに}の編とされる。軍記物は、平将門の乱を記す『将門記{しょう
もんき}』、前九年合戦を記す『陸奥話記{むつわき}』がある。
芸能は、猿楽・田楽{さるがく・でんがく}、今様・催馬楽{いまよう・さ
いばら}が流行した。猿楽は滑稽を主とした雑芸・歌曲、田楽は祭礼神事芸能
である。今様は現代風の歌謡の意味で、後白河法皇は今様など雑芸の歌を『梁
塵秘抄{りょうじんひしょう}』にまとめた。催馬楽は、日本古来の民謡や和
歌を唐学風に編曲したものである。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:42
文明開化期の文化(明治初期の文化)
・新しい思想の流入…自由主義・天賦人権思想など
→明六社が紹介…森有礼・福沢諭吉ら。『明六雑誌』
・教育
・文部省の設置(1871)
・被仰出書(1872)…国民皆学・教育の機会均等・実学の理念など
・学制(1872)…フランスの制度の模倣→地方の実情に合わず
・教育令(1879)…アメリカの制度を参考
自由主義的との批判→翌年改正
・高等教育機関…東京大学設立(1877)
・私立学校…福沢諭吉の慶應義塾、新島襄の同志社など。法律学校。
・宗教
・神道国教化→失敗
・神仏分離令(1868)…神仏混淆禁止→廃仏毀釈の嵐
・大教宣布の詔(1870)…神道国教化に取り組む
・神社制度の制定…伊勢神宮を頂点
・祝祭日の設定(1873)…新年節、紀元節、天長節など
・キリスト教…当初、五榜の掲示で禁止
・浦上信徒弾圧事件(1869)→信仰黙認(1873)
・風潮…「日本橋での文明開化」
・衣食住の洋風化…レンガ造の家、ガス灯、人力車、ざんぎり頭に洋服
肉食・牛乳
・太陽暦の導入…1872年12月3日を1873年1月1日に
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:42
文章
明治時代初期、旧習を打破し、西洋文物を移植する風潮を文明開化<注1>
という。
<注1>文明と開化の2語をあわせて、福沢諭吉がcivilizationを訳した
といわれる。明治初年の流行語となり、西洋かぶれの世相を示す
語句となった。
日本にはなかった思想が入ってきた。自由主義・個人主義・功利主義・天賦
{てんぷ}人権思想<注2>などで、明六社{めいろくしゃ}<注3>がこの
ような思想を『明六雑誌』で紹介した。明六社は森有礼{ありのり}が発議し
た啓蒙思想団体・研究発表機関で、福沢諭吉・中村正直{まさなお}・加藤弘
之{ひろゆき}・西周{あまね}・津田真道{まみち}・西村茂樹{しげき}
らが加わった。
<注2>自由主義は、個人の自由を尊重し、これに対する国家の干渉を排
除しようとする政治思想。個人主義は、個人の尊厳とその自己決
定を最優位とする立場。功利主義は、快楽を幸福とみて、功利を
善とする思想。天賦人権思想は、人間は生まれながらにして自由
平等で、幸福を求める権利があるという主張。
<注3>明治6年に設立されたため、この名称となった。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:43
明六社への参加者の著書は、福沢の『学問のすすめ』・『文明論之{の}概
略』・『西洋事情』、中村の『西国立志編』・『自由之理{じゆうのことわ
り}』(ともに翻訳)、加藤の『国体新論』・『人権新説』などがある。加藤
は、前者の著書で天賦人権論を紹介し、後者でそれを否定した。また、中江兆
民{なかえちょうみん}は、『民約訳解{みんやくやくかい}』で天賦人権論
を紹介した。
教育は、1871年に文部省<注4>が設置され、翌年8月に「被仰出書{おお
せいだされしょ}」が出された。これは「学事奨励に関する太政官布告」が正
式名称で、国民皆学・教育の機会均等の原則と実学の理念など、国民の開明化
を明示したものである。「被仰出書」が出された翌日、学制<注5>が出され
た。学制はフランスの制度に倣い、全国を8大学区<注6>に分け、1大学区
に32中学区、1中学区に210小学区を設置し、1小学区に必ず小学校を1つ設
置することになった。しかし、性急で画一的な制度は、地方の実情にあわなか
ったのである。
<注4>教育・学術・文化行政の中央官庁。2001年の中央省庁再編で、文
部科学省となった。
<注5>文部卿は大木喬任{おおきたかとう}だが、田中不二麿{ふじま
ろ}文部大丞{だいじょう}の尽力が大きい。
<注6>翌年4月に7大学区となった。
そこで、1879年に教育令を出した。教育令はアメリカの教育制度を参考に、
学区制を廃止し、小学校の設立・経営を町村の自由裁量とし、義務教育を16ヶ
月とした。今度は自由主義的だと批判され、翌年に中央集権化が強められた新
しい教育令が出された<注7>。
<注7>文部卿は、自由教育令が寺島宗則{てらしまむねのり}、改正教
育令が河野敏鎌{こうのとがま}である。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:43
高等教育機関も整備された。1877年、東京開成{かいせい}学校と東京医学
校を統合して、文部省所管の東京大学<注8>が創設された。当時は法・理・
工・文・医の分科大学と大学院からなり、教授は39人中27人は外国人だった。
<注8>1886年に帝国大学、1897年に東京帝国大学、戦後に東京大学とな
った。
教員養成のための師範学校が設立された。1874年、女子師範学校設立が文部
省顧問マレーの進言で決まり、翌年に発足した。ここでは、教師の養成だけで
なく、高い近代的教養を授けることを目指した。女子教育は、1872年に女子中
等教育の模範とするために、(官立)東京女学校が設立された。教育方針は、
良妻賢母を脱して社会活動を重視するものだった。
民間では、独自の教育方針に基づく私立学校が作られた。福沢諭吉の慶應義
塾{けいおうぎじゅく}、新島襄{にいじまじょう}の同志社{どうししゃ}
に続き、大隈重信{おおくましげのぶ}の東京専門学校(現、早稲田大学)や
後の日本大学・中央大学となる法律学校の設立も相次いだ。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:44
宗教界も大きく変動した。1868年3月、政府は王政復古・祭政一致から神道
国教化の方針を採り、神仏分離令を出して神仏混淆{こんこう}を禁止し、神
社を寺院から独立させた。しかし、仏教を排斥する廃仏毀釈{はいぶつきしゃ
く}の嵐が吹き荒れ、仏教界は大打撃を受けたが、廃藩置県後に沈静化した。
政府は、1870年に大教宣布{だいきょうせんぷ}の詔を出し、神道国教化に
取り組んだ。翌年、伊勢神宮を頂点とする神社制度を制定し、全国の神社を神
祇官に所属させて組織化し、神道を国家の精神的支柱とした。政府は神社神道
(国家神道)として特別に保護し、天皇崇拝・国家思想統一に利用したが、仏
教界の反撃で神道国教化の狙いは失敗した。1873年10月、祝祭日を定めた。新
年節・紀元節{きげんせつ}・天長節{てんちょうせつ}を国の祝日、皇室の
祭典日として元始祭{げんしさい}・神嘗祭{かんなめさい}・新嘗祭{にい
なめさい}などを祭日とした。
キリスト教は神道国教化の方針に基づき、五榜{ごぼう}の掲示<注9>で
禁止した。1868年、長崎浦上{うらかみ}のキリシタンが公然と信仰を表明し
たため<注10>、政府は村民3400余人を捕らえて、各地に流罪にした<注11
>。浦上教徒弾圧事件(浦上崩れ)である。列国の抗議を受け、1873年に浦上
信徒を釈放し、キリシタン禁制の高札を廃止、キリスト教の信仰・布教を黙認
した。しかし、キリスト教を監視する役目を、神道と仏教が果たすことになっ
た。
<注9>当初は切支丹邪宗門{きりしたんじゃしゅうもん}は禁制だった
が、外国の抗議を受けて2条に分けられた。
<注10>1865年、大浦天主堂落成の時にフランス人宣教師に信仰を告白し
ていた。
<注11>名古屋以西20藩へ3384人が配流、613人が亡くなり、1011人が転
宗した。
文明開化の風潮は、東京・横浜など大都市中心に広まり、「日本橋での文明
開化」といわれた。東京の銀座通りはレンガ造りの家が建ち並び、ガス灯の立
つ道路に人力車<注12>や乗合馬車が走り、ざんぎり頭に洋服の人々が見られ
た。ざんぎり頭はその象徴とされ、「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化
の音がする」といわれた。食生活も肉食・牛乳を飲ませる風習が広まった。
<注12>和泉要助{いずみようすけ}らが発明し、1870年に官許{かんき
ょ}された。
1872年、これまでの太陰暦を廃して太陽暦を採用し、明治5年12月3日を明
治6年1月1日とした。七曜制{しちようせい:週7日制}を採用し、これま
での1・6の日の休日を改めて、日曜を休日とした。また、1日24時間制とし
た。
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-1 16:44
コラム…祝祭日
新年節-1月1日、現在の元日
紀元節-2月11日、現在の建国記念の日
天長節-明治:11月3日→大正:10月31日→戦前:4月29日
現在の天皇誕生日
元始祭-1月3日
先帝祭-明治:1月30日→大正:7月30日→戦前:12月25日
神武天皇祭-4月3日
神嘗祭-9月17日、後に10月17日
新嘗祭-11月23日、現在の勤労感謝の日
春季皇霊祭-3月20日頃、現在の春分の日
秋季皇霊祭-9月23日頃、現在の秋分の日
明治節-11月3日
作者:
startofly
时间:
2009-7-5 18:10
请发一份到我邮箱可以吗?谢谢
startofly@foxmail.com
作者:
tingbao74
时间:
2009-7-6 06:42
楼主,真是无私的好人,能否发份到我邮箱:
ywt02jp@gmail.com
作者:
ema83
时间:
2009-7-6 14:39
请发一份给我吧,谢谢!!!
linda-0000@163.com
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-6 19:09
linda-0000@163.com
、
ywt02jp@gmail.com
、
startofly@foxmail.com
へ
もう発送しました、ご査収ください。
作者:
tingbao74
时间:
2009-7-6 22:55
收到了,谢谢楼主
作者:
sarah_chi
时间:
2009-7-7 02:16
楼主能不能发一份给我呀 非常感谢!!
61383670@qq.com
作者:
yangyan52
时间:
2009-7-8 17:16
楼主,您好!
感谢您无么的奉献精神,日语本科考试中,我觉得最难的莫过于“日本语言学”和“日本社会文化”,所以拼命在网上搜集资料,都没什么结果。无意见看到这个贴子,如获至宝!
拜托您给我发一份资料,万分感谢,万分感谢!
windy523@hotmail.com
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-8 19:32
windy523@hotmail.com
,
61383670@qq.com
へ
もう発送しました、ご査収ください。
作者:
connykao
时间:
2009-7-9 10:10
楼主好
私も一度受験しましたけど、合格できなかったので、今度10月また受験しようと思いますので、
私にも送っていただけませんか。(
conny06@21cn.com
)
ありがとうございます。
作者:
lonkika
时间:
2009-7-9 14:14
麻烦也发一份给我,谢谢啦!!
longkika@hotmail.com
作者:
tyou868
时间:
2009-7-9 20:52
烦请发到此邮箱:
deezq@163.com
谢谢!
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-10 18:15
conny06@21cn.com
、
longkika@hotmail.com
、
deezq@163.com
へ
もう発送しました、ご査収ください。
作者:
tyou868
时间:
2009-7-10 19:10
谢谢楼主。邮件已收到,希望大家在10月份能考出好成绩。
作者:
tyou868
时间:
2009-7-10 19:11
78#
tyou868
谢谢楼主。邮件已收到,希望大家在10月份能考出好成绩。
作者:
hhxin
时间:
2009-7-11 20:18
非常感谢
作者:
rireiume
时间:
2009-7-14 14:45
お忙しいところを申し訳ございませんが、私にも一部の送付をお願いいたします。わたくしのメールアドレスは以下です
lilimeikaoshi@163.com
作者:
rireiume
时间:
2009-7-15 14:18
メールをいただきました。心からお礼を申し上げます。
作者:
tingbao74
时间:
2009-7-15 16:06
楼主辛苦了,是不是还没完啊,江户文化。。。没有呀
作者:
lv_kyowasz
时间:
2009-7-15 19:56
楼主真是太好了!我也10月份考,可以发一份给我吗?非常感谢!
lv_kyowasz@126.com
作者:
一天一天
时间:
2009-7-17 21:25
楼主!你这日本文化史资料太强了.这对我考过这一科极其重要,我也想得到这一份资料,如有时间,也请你发一份到我的邮箱:123534113@163.com! 谢谢你啊!
作者:
纸巾
时间:
2009-7-18 22:36
可不可以發一份給我?
謝謝~
zixinxie@yahoo.com.cn
作者:
xwncg
时间:
2009-7-20 11:54
非常非常感谢楼主!我已经把资料都复制下来了.麻烦全部发一份给我.以下的好像没有.非常感谢!
寛永期の文化
(江戸初期の文化)
元禄文化
江戸時代の学問・思想
明治文化①
明治文化②
作者:
xwncg
时间:
2009-7-20 11:58
不好意思,忘了写邮箱:wcrkf@126.com
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-20 21:32
残りの分は今纏める中です。
寛永期の文化
(江戸初期の文化)
元禄文化
江戸時代の学問・思想
明治文化①
明治文化②
今年中に出来上がると思います。
作者:
aiko_zhou
时间:
2009-7-21 08:31
楼主 是不是还有 化政文化 文化开明期文化
作者:
sophie1978
时间:
2009-7-21 10:02
楼主方便的话也给我一份。
sophie20050101@126.com
作者:
ujyakunann
时间:
2009-7-21 11:40
麻烦楼主也给我传一份吧~~谢谢啦~
邮箱:
yuruonan2006@163.com
作者:
junshan_yin
时间:
2009-7-28 15:51
sophie20050101@126.com
;
yuruonan2006@163.com
へ
もう発送しましたので、ご査収ください
作者:
阙苑情音
时间:
2009-7-29 15:49
お忙しいところを申し訳ございませんが、私にも一部の送付をお願いいたします。有難うございます。わたくしのメールアドレスは以下です
lxm_2408@sohu.com
作者:
ishlar
时间:
2009-8-5 19:36
很详细的笔记。应该能在考试上帮上忙。。LZ给一份我吧
ishlar@126.com
很感谢!
作者:
灵动的守望者
时间:
2009-8-6 09:05
50#
junshan_yin
作者:
灵动的守望者
时间:
2009-8-6 09:07
楼主,我也很急需《日本文化》笔记,请您发到
linqingqiong118@yahoo.cn
上,好么?非常感谢您的无私奉献!
作者:
momokoying
时间:
2009-8-6 10:42
樓主太厲害了,佩服啊!麻煩發一份給我,非常感謝!momoko@dgever-plastic.com
作者:
cyoukouw
时间:
2009-8-8 14:33
楼主你好!
我今年10月分也要考日本社会文化这一门,去年没有过。麻烦你给我也发一份好吗?谢谢!
tszhaohong0522@163.com
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