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日本历史

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发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
日本历史 选自日本新教育研究会编写的<<日本历史>>一书 (注:译文只是本人为帮助阅读而译,如有错漏,十分抱歉!只代表本人水平有限,希望不要见怪。) 一、大昔の日本         私たちの祖先―― 私たちの祖先がいつ頃から,この日本という島国に住み始めたのか、はっきりとわかってはいません。しかし、今から一万年ぐらい前には,東アジアのどこからか渡ってきた祖先たちがこの島国にすんでいたことがわかっています。それからも、北方の大陸から、南方の島々から海を渡って,何回も何回も人々がやってきたでしょう。そうして,これらの人々の血がまじりあって、新しい民族つまり日本民族ができたといわれています。         大昔の生活―― そのころの人々は今のように田をたがやして米をつくったり畑で野さいをつくることは知りませんでした。あたりの森や林にはいって、食べられそうな木の実をとったり草の根をほったり、いのししや鹿を追いかけてとらえたり、鳥をとってそのにくを食べていました。また、海や川に近いところでは魚をとったり貝をひろっていました。     それには動物骨や石でつくった、ほうちょうやおのや、矢のさきにつける矢じり、魚をとる釣り針などを使っていました。また、水をはこんだり、食べ物をにたりするには、土器を使っていました。まだ金属の道具をつかうことを知らなかったからです。     こうしたことは、大昔の人々の大切な食べ物であった貝のからをすてた場所や、そのころの住まいのあとをしらべてみてわかったことなのです     このような石の道具を使っていた時代を石器時代と言いどんな民族も大昔は石器を使っていたのです。しかし;今でもまだ石器を使っている;文化の開けていない人々もいます。    また、このころ使っていた土器は表面に縄目のもようがついているものが多いので、縄文式土器とよばれており,そまつな枭颏筏皮辘蓼埂¥饯筏皮长韦长恧挝幕蚩I文文化と言います。     土器には土でつくった人形も残っています土偶とよんでいますが、上着は筒そでで,短いズボンのようなものをはいており,おそらく,木や草の葉で編んだり,動物の皮で作ったものでしょうまた,石や貝や動物の骨や牙でのつくった、首飾りや耳飾もつけています。     このころの住まいは小高い台地や海岸に沿った南向きの場所にありました地面を四角やまるい形に浅くほって土間をつくり、四すみには丸太の柱を立て,草や木の葉で屋根をふきました。てのような住まいを竪穴式住居といっていますが,血のつながっている人たちの住まいが集まっていた様子です。
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
译文:一、远古的日本       我们的祖先-- 我们的祖先从什么时候,在这叫日本的岛国上开始居住,不能十分清楚地考证.但是,距今大概一万年之前,先祖们从东亚某个地方渡海来到这个岛国上定居的事,是清楚的。而且那之后,人们陆陆续续从北方的大陆,南方的岛屿渡过大海,来到这里的吧.就这样,来到这里的人们血统混合后,一个新的民族,最后被称为日本的民族诞生了。     远古的生活--  那时的人们,像现在耕地收获稻米,在野外开垦水田的事还不知道.在周围的大小森林出入,食物是从树上採摘果实,挖掘草根,捕杀野猪和野鹿,吃捕捉到的小鸟的肉.还有,在海和河流附近的地方捉鱼和拾贝壳.还用动物的骨和石头制造菜刀,斧头,弓箭的头和钓鱼的鱼钩等.另外,为了装水和放食物,使用了土造的器具.那是因为还不会用金属制造工具.       这些事,从远古的人们居住的地方和留下的食具调查研究后,都可清楚了解到的.       像这样用石头制工具使用的年代叫石器时代,任何民族,在远古时都是使用石头制工具的.但是直到现在,还在使用石制工具,文化没发展的人仍然存在.还有,这时使用的土制工具,有许多在表面烧制带有绳结图案.被称为绳文式的土器,有着粗糙的黑茶色.那时的文化就被称为绳文文化.       陶器之中遗留下了用土制造的人形公仔,叫土偶.上衣是筒袖,短裤,恐怕是用木和草的叶织成,动物的皮做成的吧!还有,用石头,贝壳和动物的骨头和牙制造的项链和耳环.       这时,住的地方从高地和海岸边沿南边转移.建起了四面是园形浅显的屋子,四角用大园柱支撑,再用草和木的叶遮盖的屋顶.这种居住的地方叫坚穴式住居,人们就这样血统混合和居住在一起了.  
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
二 新しい文化のおとずれ         弥生式土器―― 石器の時代が数千年もつづいたあとで;紀元前三世紀から二世紀ごろにかけて、新しい文化がこの島国に伝わってきました;それは漢という大陸の国からでした。       漢は紀元前三世紀の終り頃に中国を統一した国ですが;その前から中国では;稲を作る農業がすすみ;青銅や鉄で作った道具も使われて、文明がたいへんすすんでいました;漢の国ができて、だんだんと力をのばしてくるにつれて、漢の文化が東に伝わってきました;そして朝鮮半島の北にまで漢の国がひろがると、半島を通って海を渡り;日本にもいろいろ新しい文化がはいってきました。       水田に稲をうえて米をとることがはじまりました;この米は東南アジアでつくられていたものが;中国に伝わって漢から日本に入ってきたものです;金物には青銅で作ったものや鉄のものもあります;農業をはじめ、いろいろな仕事の道具に伝われてましたが;この便利な金物は、少しずつしかつたわりませんでした。そのために石器もまだあわせて使われておりました。       農業がはじまり;木の実をさがしたり;けものを追ってとらえたりする必要がなくなると;私たちの祖先の生活や社会は大きく変わってきました;土器も;縄文式土器よりもすぐれた;形やもようのすっきりとした;薄手でかたい弥生式土器がつくられるようになりました。       村――  米をつくるようになると同じ場所にながく住むようになります。また;田をひらいたり;水を引いてくる作業に、おおぜいの人々が力を合わせることが必要になりました。そこで、人々は一つの所に集まって、住むようになりましたこれを“むら”といいます。静岡県の登呂は、そのころの人々の住んでいたあととして有名です。          豪族---  村には百こ以上もの家があつまりますと,一緒にする仕事をさしずする,ちえのすぐれたかしらがでてきました.米がよくできるように神にいのったり,まじないをする人もいました.このような人が村でだんだん力をもってきて,物をたくさん持ったり,米をたくさん作ったりして力をのばしてきました.そして,他 の人々をおさめるような高い身分になってきました.このような人を豪族といいます.          大陸からはいってきた金物もはじめは数がすくなかったのでこの豪族の人々がおもに使っていたようです.とくに銅剣,銅ほこ,銅たくは,身分の高いしるしとして使われていました.          物のつくりかた  このころになると,物をつくる専門の家ができてきました,   豪族のしたで,米をつくる人々,農具をつくる人々,木材で家をつくる人々,船をつくる人々といったように,仕事がわかれてきました.そして,おたがいにそれぞれの品物と品物をとりかえあって生活をしていました.         この物と物の交換は,村のなかや,村と村のあいだで行われていましたが,   やがて物を売り買いする市にはってんしました.  
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
二,新文化的来临     弥生式陶器-- 持续了数千年的石器时代之后,公元前三世纪到二世纪中,新的文化传到了这个岛国,那就是从叫做汉的大陆国家传入的.   汉是公元前三世纪结束时,统一中国的一个国家,在那之前的中国,已经是一个有开垦农田的农业,用青铜和铁铸造工具的,有非常先进文明的国家.汉朝立国后,慢慢随着势力的增强,汉文化向东发展传送,而且一直传到朝鲜半岛的北方,再经过半岛渡过大海,将各种各样的文化也传到了日本.       在田里种稻谷生产粮食开始.这种本来由东南亚出产的东西,传入中国后,从汉朝开始传到日本的.金属工具,有青铜制的和铁制的.因为农业的发展,要制造各种工作使用的工具,这种先进的金属工具,一点一点逐渐传入,因为那时的日本还在使用石制工具.     农业的开始发展,令生产的方式从树上采摘果实,捕杀野兽的必要性没有了.使我们祖先的生活和社会大大改变了.陶器和绳文式陶器的进步,从外形和样子可以清楚知道那时已经可以制造出像弥生陶器那样轻薄而坚硬的陶器了.       村---  在相同的地方一起生产粮食的居住方式在扩大,另外,农田的开垦,水利的开发,社会的生产有必要集合大众的力量,那时人们就在集中的一个地区一齐居住.这个就叫"村".现在静冈县的登吕地区,在那时曾经做为人们的聚居地是很出名的     豪族----  一条村集合百户以上的住家,用最高的才能去指挥人们和集合一齐从事生产.有部分人为了稻谷丰收会念咒求神灵保佑.像这样的人在村里慢慢掌握了权力而取得统治其他人的地位,像这样的人称为"豪族".  从大陆传入的金属铁器,开始时为数不多,被这些称为豪族的人使用.特别是铜剑,铜戈,铜铃.做为身份高人一等的象征来使用.     生产方式--- 到了这个时候,专门从事生产的家庭出现了.在豪族下面,生产粮食的人们,制造农具的人们,用木材建造房屋和造船的人们的出现,开始了生产工作的大分工.而且,也出现了互相交换各种商品物料的社会生活.  这样的商品交换,在村里,在村与村之间进行.进行商品的买卖使市场也发展建立起来了.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
三 日本の國のたんじょう       國のおこり---  各地に村ができているうちに,強い村は弱い村をしたがえて, だんだん大きくなり,小さな國をつくりました.  紀元一世紀のころの中國の書物には日本は約百あまりの國にわかれいたとしるされています.北九州にあったこうした国々は朝鮮や漢に使を送ってすぐれた文化を取り入れようとしました.漢の皇帝から{国王にする}という金印をもらったという奴の國もその一つでしょう. また,三世紀ころには日本は三十ほどの國にわかれていて,卑弥呼という女王の邪馬台國がいちばん強かったということです.       日本の統一 ---  このころの日本では,大陸の文化をとりいれるのに便利な九州と奈良盆地の大和地方に強い國がありました.しかし,日本の中心にあった大和の方がしだいに日本のなかで力をのばしていきました.そして四世紀のなかころには,東は中部地方から西は九州までもしたがえ,一つの大きな國にまとめました.          このようにして大和からおこって日本を統一したのが,今の天皇家の祖先 です.大和にいた,たくさんの豪族たちは,この天皇家をかしらにいただいて一つの政府をつくり,そのしたで日本を統一したのです.この政府を大和朝廷といっています.   三  日本国的诞生     国家的兴起--- 在各地区出现了村之后,强大的村庄征服了弱小的村庄,慢慢壮大后,就成为了小国。公元一世纪时的中国古代书籍里,记载了当时的日本由百几个小国分别割据着.当时北九州一带的小国向朝鲜和汉朝派遣了使者,想学习吸收先进的文化. 从被汉朝封为国王而得到金印的,奴国国王就是其中之一吧. 另外,三世纪左右,日本分为三十几个小国,其中有个叫卑弥呼女王的邪马台国最为强大.     日本的统一---  这时的日本,最容易吸收大陆文化的九州和柰良盆地的大和地区的国力增强了.日本的中心也随着大和地区在日本的势力增强在慢慢转移,那就是四世纪中左右,东边从中部地区起,西边至九州为止的这个大国建立起来了.这个从大和开始到建立统一的日本的政权,是今日天皇的先祖.大和政权 是由许多的豪族组成,而推选天皇家族为君主的一个联合政府,目的是为了统一日本.这个政府称为大和朝庭.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
四  大和朝廷の勢力   古墳---  大和朝廷に従っていた豪族は,土地ばかりでなく,その土地に住んでいる人々も,自分のものにしているほど,大きな力おもっていました.だから豪族が死ぬと,土を高くもりあげた,大きな墓をつくらせました.その墓を古墳とよんでいますが,このようなならわしは,三.四世紀ごろからはじまったようです.今でも各地にたくさんの古墳が残ったおります.       その中には,死体をおさめた,りっぱな棺が石室に入れてあります.そのほかに,中國から伝わってきた鏡,日本でまねをして作った   鏡,剣や首かざりや玉など,その人の使っていた道具が一緒に入れてあります.それによって,このころ豪族がどんな生活をしていたか, また,このころにはどんなものがつくられていたがわかります.   天皇の勢力---  大阪市の近くの堺市に仁徳天皇の墓といわれる古墳がありますが,その広さではエジプトのピラミッドもおよばないものです.応神天皇の墓と伝えられる古墳も,その近くにありますが,やはり大きなものです.仁徳天皇も応神天皇も五世紀のはじめころの天皇といわれていますが,これほど大きな古墳をつくるのには,どんなに多くの人々の力と,日数がかかったことでしょう.これによっても,このころの天皇の力が,たいへん大きかったことがわかります. 古墳文化---  古墳からは,鉄の剣や鎧などのほかに,やじりや農具も出てきますが,鉄のものが多いのは,青銅の文化から鉄の文化に進んでいることを示しています.古墳から発見されるはにわも,この時代を知るのに大切なものです.       はにわには,このころの人や家や動物などがあります.これを見ると,このころの服装をはじめ,家や船などが,前の時代よりずっと進んできていることがわかります.   朝鮮とのあいだがら---  大和朝廷が日本を統一したころ,朝鮮では北に高句麗,南の方には東に新羅,西に百済と三つの國がありました.そうして新羅と百済の間に任那がはさまって,新羅と百済の國から攻められていました.そこで任那は日本に助けをもとめてきました.四世紀の末に,大和朝廷は任那に日本府をおいて軍体をおくり,新羅や百済を破り,一時は北の高句麗にまで攻め入りました.しかし,六世紀の中ごろなると,任那は新羅にほろぼされ,日本も朝鮮から兵を引きあげました. こうして日本が朝鮮に出ていったために,朝鮮半島につたわってきていた中國の文化がどんどんと日本に流れてきました.また,このころには中國や朝鮮の人々で日本に移ってくるものもおおぜいいました.農業や養蚕,織物,工芸,陶器の高い技術をもった人々も多く,朝廷ではこれらの人々を大切したので,日本の文化はたいへん発達しました.また,このころ漢字や仏教もつたわり.日本の精神文化の発展するもとになりました.  
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
.大和朝庭的势力 古坟---  建立大和朝庭的豪族,不但占有土地,占有在那土地上居住的人们,还要建立自己最大的影响力.所以,豪族们一死,就建起了巨大的坟墓,称为古坟.这种风俗习惯,是从公元三.四世纪开始的,在今天各地还有许多古坟保存了下来.     在那其中,收藏死体的,是用非常豪华的棺木保存,摆放在石室里. 还有,从中国传入,在日本仿制的镜子,剑和颈链,玉器等,和那人平时使用的物品作为陪葬一起放入去.根据对那种风俗的了解,这个时候的 豪族过的是什么生活,用的是什么物品就可以清楚知道了. 天皇的势力---  大阪市附近的堺市里有个仁德天皇的坟墓,在面积的宽度来比就连埃及的金字塔也望尘莫及.附近的应神天皇的坟墓也一样,都是非常宏伟.仁德天皇,应神天皇是五世纪初时的天皇,建造如此巨大的坟墓,要用多少人力,用多少时间去完成呢.从这可以看到,这个时候天皇的势力,可以清楚知道是多么强大啊! 古坟文化---  在古坟里,发掘出铁剑和铠甲等之外,也有弓箭和农具, 这么多的铁制用具,可以显示已经从青铜文化进化到铁的文化了.另外古坟发现的一种祭祀用具-明器,也是了解这个时代的重要东西. 明器中,有这时代的人,屋子,动物等.可以看到,这时的服装以及屋子和船等,已经比以前的年代有很大的进步了. 和朝鲜的关系---  大和朝庭统一日本时,在朝鲜,北边有高句丽,南到东有新罗,西有百济三个国家.那时,在新罗和百济间夹住一个小国任那,因为被新罗和百济的夹攻,而向日本请求援助,四世纪未时,大和朝庭向任那派遣了在日本府的军队,将新罗和百济打败,直攻到北边的高句丽.到了六世纪中,任那将新罗灭掉,日本也就从朝鲜撤军了.日本就这样因为出兵朝鲜,而从中国传到朝鲜的文化也慢慢传来到日本.另外, 这时从中国和朝鲜来到日本的人们也多了起来,有农业,养蚕,织物,工艺,陶器的技术人员也很多,对朝庭的贡献和日本文化的发展是很重要的.还有,汉字和佛教的传入,对日本的精神文化发展也起了促进作用.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
五  日本の改新   聖徳太子--  六世紀のおわりころ,朝廷につかえる豪族の間に争いがおこり,蘇我氏が勝って,その勢力は天皇をしのぐほどになり,わがままが多くなりました.このときに推古天皇を助けて政治をとられたのが,聖徳太子です.太子は日本を中國のようにりっぱな國にしたいと考えて,古い豪族をおさえて天皇を中心にしたよい政治をしょうとされました.そのために新しい身分のきまりをつくったり,十七条の憲法をつくって政治の理想や役人のまもるこころがまえをさとされました.       このほか,人々の気持をなごやかにするために,仏教を国民にすすめました.そしてお経の本をかいたり,奈良の法隆寺などりっぱな寺もたてました.   中國とのつきあい--  そのころ中國ではずいが天下を統一してたいへんさかんで,文化もさかえていました.太子は中國のすぐれた文化や政治のしくみを取り入れようとして,中國とまじわりをさかんにしようとしました.そこで小野妹子を使としてずいにつかわしましたが,東洋一といわれたずいにた対して少しもひくつなたいどをとらず,堂々とした国書を送りずいをおどろかせました.       また,ずいへは小野妹子といっしょに多くの学生や僧を勉強に送りました.この人々は後に中國からかえって,大切な役につき, いろいろ日本のためにつくしました.しかし,この人々はただ中国のすぐれた政治や文化をそのまま,まねをしたのではありません. このころさかんにつくられた仏像や寺のように,日本の土地によくあった工夫がこらさえ,日本らしい,すぐれた文化を,生みだしました.世界で一番古い木造建築である法隆寺の建て方は,日本独特のもので,しかもあたりの土地によくあったすぐれた美しさをもっています.この聖徳太子のころの文化を飛鳥文化といいます.       中國でずいがほろんで唐の世になると,唐に使をおくりました.このずいや唐につかわした使を,けんずいし,遣唐使といいます.大化の改新-- 聖徳太子がなくなると,蘇我氏は勢いをもりかえして,またもやわがままをはじめたので中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らは蘇我氏をほろぼしました.そして中國で勉強をしてきた人々を用いて,紀元645年新しく政治のしくみをかえました.このときはじめて大化という年号をつくったので,これを大化の改新といいます.       この政治のたてなおしによって,今まで豪族のもっていた土地や人民は天皇のものなり,土地はきまりによって全部人民にわけられました.そして國できめた役人が中央や地方の政治をすることになりました.   大宝律令--  この大きくかわった政治のしくみは,天智天皇から天武天皇の時代にわたって,いろいろな法律は8世紀のはじめ大宝律令という法律集となってととのいました.こうした改革によってますます天皇の勢力は大きなものとなりました.  
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
五 日本的革新 圣德太子--  六世纪结束后,侍奉朝庭的豪族之间起了争斗,苏我氏一族取得了胜利,其势力超过了天皇,而变得飞扬跋扈,独揽大权.  这时帮助推古天皇打理朝政的是圣德太子,太子想把日本变成中国那样强大,为了控制豪族建立以天皇为中心的中央集权政权,而制定了新的官职和17条宪法,实现政治的理想和公务员要遵守的训诫.     另外为了控制人们的精神思想,提倡信仰佛教,并且编写经书和建造像法隆寺那样宏伟的寺庙. 和中国的交往--  那时隋朝统一了中国,国力强大,文化先进.太子为了学习灿烂先进的中国文化和政治制度,和中国的交往频繁起来.还派遣小野妹子做为使者出使隋朝,自称东洋第一,用不卑躬屈节的态度,向隋节递交了堂堂国书,令隋朝吃了一惊.另外和小野妹子一起出使隋朝的有许多留学生和留学僧.这些人从中国回来后,担任了重要的职务,为日本作出了很大贡献.不但如此,这些人不仅是要仿效中国先进的文化和政治制度,还要像这时兴建的佛像和寺院,凝聚了日本地方特色一样,要像创造日本一样创造日本的灿烂文化出来.世界上最古老的木结构建筑法隆寺,它的建筑方法就是有日本独特特色的建筑,使周围的地方显得非常壮丽.圣德太子时期的文化就称为"飞鸟文化".     在中国唐朝取代灭亡的隋朝后,也向唐朝派遣了使者,这些出使隋朝和唐朝的使者,称为"遣隋使""遣唐使". 大化的革新-- 圣德太子死后,中大兄皇子和中臣镰足他们联合一举消灭了掌握朝庭实权的苏我氏,并且重用在中国学习回日本的人,公元645年进行了新的政治改革.这时因为开始用大化这个年号,而将这场改革称为"大化革新".     除着政治的改革,对当时豪族们的私有地全部收回,根据新的土地规章全部分给了老百姓.还完成了公务员在中央和地方政府的政治改革. 大宝律令-- 这个变化巨大的政治制度改革,从天智天皇到天武天皇时代,完成了各种各样的法律规章,在8世纪初,整理出称为"大宝律令"的法律集.随着改革,天皇的势力也慢慢增大起来了.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
六、奈良の都 平城京--  大化の改新で國がととのい,勢いがさかんになってきたので,八世紀のはじめ元明天皇の世に唐の都,長安にならって,奈良に平城京をつくりました.東西が約三千五百メ-トル,南北が約三千九百メ-トルの長方形で,道路がごばんの目のように美し走り,その道路にそって朱の柱や屋根の宮殿や貴族のやしきがたちならび,さく花のにおうがようにと歌われるほど見事な都がつくられました.この時代の文化を天平文化といいます.   産業の発達--  このようにりっぱな都がつくられるようになったのは,しだいに産業が発達して,國がゆたかになったからでした.麦や茶がつくられるようになり,水利がよくなって,稲をつくる技術がすすんだほが,金や銅などの鉱物もとれるようになりました.唐に貨幣にまねて,[和同開弥]という貨幣がはじめてつくられたのも,このころでした.しかし,この貨幣は,都の東,西の二つの市で使われたほかには,国内であまり使われませんでした.       この都の市では,米,しお,さかな,織物などを売る店が八十あまりもあったといわれます.地方でも交通の便利なところや,神社,寺の前に市がたつようになりました.   奈良の文化  正倉院--  天皇は,代々仏教をたっとんできましたが,聖武天皇はとくに熱心に仏教を信じ仏教をひろめることに力をつくしました.地方に國ごとに国分寺をたて,その中心として奈良に東大寺をつくりました.ここには有名な大仏がおいてあります. 東大寺には正倉院という倉があって,聖武天皇の使って日用品や飾りなどがおさめてあります.なかには,美しい刺繍のついた織物や,楽器など,千年以上も前のままの姿で残っています.唐のものを手本にしてつくったものが多いのですが,遠く中央亜細亜から渡ってきたものもあります.これをみると,日本の当時の美術工芸がどんなにすぐれていたかがわかりますが,そのころの世界の文化のはなやかさも知ることができます.   歴史の書物--  國がととのい,文化が高まってきたので,日本の発展をふりかえって見るようになりました.古事記や日本書紀などの歴史の書物が,このころにつくられました. これは日本が大和朝廷を中心として,どのように発展してきたかを,日本の人や外国に人に知らせようとして書かれたものです.その中には,神話や伝説もまじっていますが,,大昔からの日本のうつりかわりやそのころの人々の考え方やくらし方などを研究するのに大切な本です.また,日本の各地の伝説や産物,土地のようすをかいた風土記という本もできました.       有名な万葉集もこの時代につくられました.この歌集には天皇をはじめ,農民まで,いろいろな身分の人の歌が四千五百ばかりも集めてあり,このころの人のおおらかな気持や歴史にも書かれていない時代のようすなどがよくわかります.   民肖紊瞍日韦韦妞毪
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
六、京城奈良 平城京--  在大化政治改革调整下,国势慢慢壮大.8世纪初,元明天皇时代,仿照唐朝京城长安,在奈良建造了平城京做为京城.城市东西长3500米,南北长3900米,布局呈方形,道路设计宛如棋盘,一路并排是朱红色柱子,青色屋顶的宫殿和贵族的住宅,路边是盛开的鲜花,在下面的人们边赏花边唱歌,如此漂亮的情景就是当时的京城平城京.这时期的文化称为"天平文化". 产业的进步--  建造这样宏伟的京城,是因为渐渐发达进步的产业,使国家富裕起来的.小麦和茶的制造,水利的建设,水稻生产技术的提高外,也在开采金和铜等矿物.这个时期,还仿照唐朝的货币,发行一种叫"和同开弥"的货币,不过这种货币,只在京城东西两个市场使用,在国内其他地区还未流通..     京城里,有八十多间出售米,盐,鱼,纺织品等物品的商店,在交通方便的地方神社和寺院前出现了买卖的市场.   奈良文化--正仓院--  天皇为了让人人信仰佛教,特别是圣武天皇想用佛教教义去统治国家,在全国各府县修建国分寺,围绕以奈良东大寺为中心行使政权.东大寺里有个闻名全国的大佛.     东大寺里有个正仓院,收藏了圣武天皇使用过的日用品和装饰品,其中,漂亮的刺绣,纺织品,乐器和食用工具,还保存千年以上的风采,另外还有许多唐朝字画贴,从中亚传过来的物品等.从这些看出,当时的日本美术工艺的发达和世界文化的繁盛. 历史书籍--  国家的革新,文化的高速进步,令日本得到了发展而改变了旧貌.古事记和日本书记等历史书籍就是记载了这时期的历史. 这时以大和朝庭为中心的日本,发展到什么程度,日本人和外国人的状况,其中的神话和传说,到远古日本的变迁和那时期人们的观念等.这些书籍都是研究这些问题的重要材料.另外还有根据日本各地的传说和地方风俗而编写成的风土记. 出名的万叶集也是这时期的作品,这本诗歌集收集到从天皇以及到农民百姓, 各种各样身份的人创作的诗歌4500首.从诗歌中可以清楚看到这时期人们的广阔胸襟和这个难以描写的历史时代. 民众的生活和政治的放宽--  就是这样,这时期的日本,文化发展很快,信仰佛教. 因信仰而建造的寺院,佛像和建造京城,花费了巨大的费用,那是从农民那里征收重税得来的,因此,农民的生活越来越差.     另外,僧人在政治上的势力在增大,到发生了道镜企图夺取皇位的事后,这时代渐渐也开始动乱起来了.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
七、日本風の文化が生まれる 平安京--  奈良の政治がみだれはじめたので,恒武天皇は仏教との悪いつながりをたって人の心を新しくするために,七九四年,都を今の京都にうつしました.これは平安京とよばれ,東京に都がかわるまで約千百年の間,日本の都としてつづきました.       この都も平城京とおなじように唐の都を手本にしましたが,平城京よりはずっと大きく,よくととのっています.そして奈良時代のように僧が政治に関係しないように,都のなかに寺をつくることをかたく禁じました.そして唐で仏教を学んでくるように最澄と空海をつかわしました.二人は新しい仏教を学んでくると,最澄は京都の北の比叡山に延暦寺をたてて天台宗を,空海は和歌山県の高野山に金剛峰寺をたてて真言宗をひろめました.また,このころ朝廷によくそむいていた東北地方をしずめに坂上田村麻呂をつかわしました. こうして政治はひきしめられ,おだやかな時代がつづきました.   藤原氏のさかえ--  このころ貴族のなかでいちばん勢力のあったのは藤原氏です.藤原氏は大化の改新に大きな手がらのあった鎌足の子孫です.うまくほかの貴族をおさえ,皇室と親戚になって,ますます勢いをのばし,摂政や関白になって天皇にかわって政治をとりました.   とくに十一世紀のはじめの道長のころが,いちばんさかんで,政治の大切な役は一族でひとりじめにして思うままの政治をしました.   かなの発明--  平安京になってからも唐とのまじわりはつづいていましたが, 唐の國がみだれておとろえましたので,唐とのまじわりも,九世紀のおわりにやめることになりました.そこで,しぜん,今まで学んだ外国の文化をもとにして日本の國にあった文化がおこってきました.その一つはかなができたことです.       漢字が伝わってきてから,ことばを文字であらわすことができるようになりましたが,たいへん不便であったので,九世紀のおわりころに,漢字をくずした形でひらがなが,漢字のへんやつくりから,かたかなができました.このかなを使うとことばが自由に書きあらわせるので,すぐに人々の間で使われるようになり,物語などがたくさん書かれるようになりました. がぐや姫で名高い[竹取物語]はかな文学の最初の作品といわれていますが,世界的な作品といわれる[源氏物語]が紫式部によって,随筆の[枕草子]が清少納言によってかかれたのもこのころです.このように女性によって多くの作品が書かれたのも,この時代の特色です.   寝殿造りと大和絵--  このころの貴族の家を寝殿造りといい,たたみやふすまが使われ,庭には美しい花のさく築山や池がつくられました.今,宇治にある平等院の鳳凰堂は,この寝殿造りの美しさを生かした代表的な建物です.また,ふすまには美しい景色がかかれました.これを大和絵といいます.また,物語などを説明する絵を何枚もあわせた絵巻物もその一つです.   民肖紊
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
七、 日本文化的诞生 平安京--  奈良的政治动乱,是因为恒武天皇和佛教交恶而引起的.794年,京城搬到了今天的京都,这就是平安京.直到东京成为首都的约千百年间,平安京都是持续做为日本的首都的.     这个京城和平城京一样都是模仿唐朝京城而造,比平城京大和齐全.为了表示与奈良时代僧人把持朝政不同,在京城里是禁止建造寺院的.然而在向唐朝学习佛学回来的最澄和空海,二人接受了新的佛教思想,最澄在京都以北的比叡山的延历寺建立了天台宗,空海在和歌山县的高野山的金刚峰寺建立了真言宗,来传扬佛学.另外,这个时候派遣了坂上田村麻吕平定了经常反对朝庭的东北地区,这样在政治上得到了加强,国家进入了持续稳定的一个时期. 藤原氏的兴盛--  这时期在豪族中最大势力的是藤原氏一族,藤原氏是大化改革后取得实权的镰足的后人.不但是显赫的贵族,还是皇室的亲戚,势力的越来越强大,到取得了摄政和关白大权后取代天皇而事实掌握了朝政.  特别是十一世纪初道长时期,更是权倾朝野,在朝庭上一切大小重要官职都是由藤原氏一族出任担当的. 假名的发明--  从平安京开始一直持续的和唐朝的交往,由于当时唐朝发生了动乱,和唐的来往也结束了.因此,自然就开始了像现在一样引进西方文化,直到建立日式文化的时期,其中之一就是创造了假名.     传入了汉字,可以用语言和文字表达.但因为非常不便,在九世纪末期,从汉字的形态创造了平假名,从汉字的偏旁冠盖创造了片假名.这种假名因为使用.书写方便,很快就在民间流传,许多故事都是这时用假名记载的.     最出名的就是一部叫[竹取物语],是最早用假名写成的著作.由紫式部编写被称为世界文学著作的[源氏物语]和清少纳言的[枕草子]都是这时期的作品.这样多的女性作家编写著作,是这时期的一个特色. 寝殿的建造和大和画--  这时期贵族们建造的住宅-寝殿,使用了榻榻米和拉门,在庭院栽种鲜花和建造假山和水池,现在在宇治的平等院有个凤凰堂,就是反映当时金碧辉煌的建筑物的代表.另外,在拉门上书画的美景,叫大和画,还有在传说.故事中提过的几张几卷画就是大和画的其中之一. 民众的生活--  平安时期的文化繁荣兴盛.在京都出现了纺织和手工艺的工人, 他们将产品拿到市场售卖,在市集的店铺里,在柜台上,在货架上并排出售着这些物品,并且产生了买卖的语言和店铺的名称.但是在农村的农民们还是过着贫困的生活,贵族们过的豪华生活和国家的财政都是从农民手中征收到的税而来的.不久,在某些地方开始出现了山贼和海盗.
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
八、武士の中央進出   武士のおこり--  大化の改新できめた土地のわけかたは,その後しだいにくずれてきました.政府は土地が不足なので開墾をしょうれいしたので,   力のある貴族や寺社は,新しい土地を開いて税を納めないですむ私有地にしました.これを庄園といいます.税が重くて生活に苦しむ農民は,自分の土地をすてて庄園で働きました.庄園のなかには名主とよばれる地主がいましたが,世のなかが乱れてくると名主は武器をとって庄園を守りました. これが武士のおこりです.武士は力の強いとうりょう(かしら)について集団をつくりましたが,東国の源氏,西国の平氏はそのとうりょうの代表的なもので,武士はこのとうりょうに従って戦いにでかけましたので,主人と家来のかたい関係がむすばれていきました.   院政--  そのころ都では白河天皇が天皇の位をゆずって上皇となったのちも,政治をおこなって,わがままな藤原氏をおさえようとしました.上皇のすまいを院といったので,その政治を院政とよびました.やがて院政が政治の中心となりましたが,代々の上皇はあつく仏教を信仰したので,坊さんたちの力が強くなり,大きな寺ではたくさんの僧兵をやしなって,気に入れないことがあると乱暴をはたらくようになってきました.この僧兵をおさえるには,僧兵よりも強い武士の力をかりる必用ができました.そのために武士が都をまもり,やがて政治にもかんけいするようになりました.   源氏と平氏--  十二世紀のなかごろ,朝廷や藤原氏の間で争いがおこりました.どちらも源氏や平氏の武士をみかたにして戦いました.これを保元の乱といいます.この戦いに源氏の大将源義朝や平氏の大将平清盛が味方した方がかったので,この二人の力が強くなりました.間もなくこの二人の間に争いがおこり,平清盛がかちました.これを平治の乱といいます.この結果,清盛は藤原氏にかわるほどの力をもつようになり,太政大臣となって政治をとるようになりました.そして一族はそれぞれ高い位につき,勢いにまかせておごりたかぶり政治をわすれるようになりましたから,わずか二十年で源氏にほろぼされてしまいました.  
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 楼主| 发表于 2003-12-5 23:00:00 | 显示全部楼层
八、出入朝庭的武士 武士的产生--  大化改革的土地分配制度,后来慢慢崩溃了.朝庭因为觉得土地不足而奖励开垦者,那些势力强大的豪族和寺院就开垦新的农田,并且拒绝交纳税钱,而划为自用,称为"庄园".背负重税而生活困苦的农民们只有放弃自己的农田到庄园打工,庄园里的地主称为"名主".在这乱世中,名主们都拥有武器保护自己的庄园,这就产生了武士.武士们由势力强大的头领集合一起,东边的源氏,西边的平氏就是其中代表之一.武士们追随他们的头领进行各种战斗,主人和家臣的关系就建立进来了. 院政--  那时期的白河天皇,将皇位让出而退到后面称上皇执政,为的是要压制骄横跋户的藤原氏.因上皇处理朝政的地方在院子里,所以称那时的政治为"院政".几乎所有的政治都围绕院政为中心,而代代天皇都信奉佛教,僧人们的势力因此而强大起来.大的寺院里都眷养了僧兵,僧兵们如果不合意就引发骚乱.为了压制这些僧兵,必须要有比他们强大的武士集团势力,由武士们保卫京城,不久武士和政治也扯上了关系. 源氏和平氏--  十二世纪中期,朝庭和藤原氏之间起了争斗.在各处也有源氏和平氏的武士在争斗,这个时期称"保元之乱".这场争斗由源氏的大将源义朝和平氏的大将平清盛引发,二人的势力也逐渐的强大.不久二人间触发了一场战斗,最后由平清盛取得了胜利而结束,历史称为"平治之乱".胜利的结果,平清盛壮大了自己的势力而取代了藤原氏,一直到取得太政大臣的实权.然后平氏一族取得各种朝庭要职,放纵骄横的气势而忘记了之前同样腐败的朝政,不久的二十年间,就被源氏一族消灭掉了.
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