中国暦
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中国暦(ちゅうごくれき)は、中国の伝統的な暦法を総合して説明する。中国で伝統的な暦法のことを夏暦・農暦・陰暦・旧暦などと呼んでいる。
夏暦とはもともと古六暦の一つであるが、辛亥革命以後に太陽暦が採用されるようになると、それまでの伝統的な太陰太陽暦を総称する言葉となった。これは中国の太陰太陽暦が建寅の月を年始とする夏正であったためである。また一般的に農暦と呼ばれるようになったのは中国の農作業のサイクルに合っていたためである。
目次 [非表示]
1 特徴
2 歴史
3 歴代の暦法
3.1 太陰太陽暦
3.2 太陽暦
4 外部リンク
[編集] 特徴
中国の暦法は、いわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月の月齢約29.3日を基準に、1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。新月を朔、満月を望といい、朔日を月の初めの日として配当していった。朔日の計算方法には、平朔法と定朔法がある。季節は1太陽年を24分した二十四節気を基準によって決めらる。二十四節気の計算方法には平気法と定気法がある。12朔望月と1太陽年のずれは閏月を設けることで調整され、閏月は年の途中に置かれ、二十四節気の中気を含まない月とされた。年始は前漢の太初暦以来、冬至の翌々月、つまり立春前後に設けられ、1月には必ず雨水が含まれた。これにより1年の始めと四季の始めが一致するようにされた。
そして、中国暦の大きな特徴は、上記のような日付の配当するカレンダーとしての機能のほかに、日食や月食、惑星の運行位置を計算して予報する天体暦(エフェメリス)としての機能をあわせもっていたことである。このため日食・月食の誤報がしばしば改暦の理由になった。
[編集] 歴史
甲骨文・金文や詩経などによると、ふるく殷・周代は、日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は、新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。
このような素朴な暦法は、春秋戦国時代になって、大きく発展した。二十四節気が導入され、また閏月の設定にメトン周期が用いられ、月初めも朔日の計算によって決定された。戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ、夏暦では年始が冬至の二月後、殷暦では冬至の一月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし、正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。これを受けて、戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の顓頊暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により顓頊暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している。
前漢では秦の顓頊暦を踏襲して使っていたが、武帝の時、改暦を行い、太初暦が作られた。その後、太初暦は、成帝の時、劉歆(りゅうきん)によって天体暦としての性格の強い三統暦として補修された。三統暦は、その後の中国暦の枠組みをつくった。
魏晋南北朝時代、とくに月の不規則な運行についての研究がすすみ、暦法に反映された。最初にこれを導入したのは劉洪の乾象暦であり、祖沖之の大明暦に至っては歳差まで考慮してより精密な暦が作られた。このようにして、朔日の計算において定朔法が生まれ、隋の劉焯はこれに基づく皇極暦という優れた暦法を作成したが、官暦に採用されず、定朔が正式に官暦に採用されるのは唐代の戊寅元暦からである。
唐代は、暦の計算方法が飛躍的に発展した。一行の大衍暦に至って、大規模な実測を行い、太陽運行の不均等性を考慮し、計算に不等間隔二次差補間法を用いた革新的な暦が作られた。その後は唐・宋を通じて細かい改暦が何度もなされたが、とりわけ見るべき発展はなかった。
元代、郭守敬らによって革新的な授時暦が作れられた。1太陽年には南宋の統天暦が出したグレゴリオ暦と同じ値を採用し、また計算方法には三次差補間法や球面三角法が使用された。授時暦は明代にも大統暦と名を改めて使われ、合わせて364年に及ぶ中国史上、最も長く使われた暦となった。大統暦は月日の配当においては問題がなかったが、食の予報など天体暦としては不完全であった。このため、清代には西洋の天文学に基づく時憲暦が採用された。 |