竜馬がゆく
三 江戸へ(2)
船が、天満八軒家から五里さかのぼって河州枚方(かしゅうひらかた)についたときは、岸辺の村々から一番鶏の声が聞こえてきたが、水面をこめている闇は、なお深い。
名物のくらわんか船が群がってきた。はじめ竜馬は、喧嘩を売りに来たのか、と思った。
餅、煮物、酒、小間物(こまもの)、絵草紙(えぞうし)など、さまざまのもの売り舟が、
「餅食わんか」
「酒くらわんか」
「絵草紙買いさらせ」
などと口ぎたなく叫びつつ漕ぎ寄せ、客が買わないと散々悪態をついて漕ぎ散ってゆく。乗り合船だけでなく、相手が大名、堂上(どうじょう)の座乗船でもこの悪態は変わらない。
(たいそうもない土地だな)
伝説では、大坂ノ陣のときこの河内の川沿いの村人が徳川方に便宜を図ったため家康が喜び、「褒美を取らせよう。望みを申せ」というと、里長(さとおさ)がつつしんで、
「されば当地の言葉は汚うござりまする。淀を上下する旅船に物を売りまするときに、汚きままにて物売りをしてよし、とお許し下されば仕合せに存じまする」
このため天下御免の悪態になったというのだが、むろん俗説に相違ない。他国の者には悪口雑言に聞こえるが、この土地の人にとっては普通の言葉なのである。
竜馬は小銭を出して餅を買い、再び布団をかぶってまるで子供が盗み食いするようにもぐもぐと食い始めたが、いつの間にか、また寝入ってしまった。
目が覚めたときは、天がほのかに白みはじめている。
(どこだろう)
と、とまの下から、闇をのぞいてみると、かすかに対岸の山の姿が浮かびあがっていた。
このとき横で、不意に煙管で舷側をたたく大きな音がした。竜馬は音に誘われるようにして振り返って、
「どこかね、ここは」
男は、黙っている。
旅の行商人ふうの男で、ひどく背が低いが顔は不釣合いに大きい。
たしか天満の八軒家で乗船したときからこの男は竜馬の横に座っていた。竜馬が今改めて気づいてみると、この男は最初から席に座ったきり、横にもならず、黙然と一晩中たばこを吸い続けてきたような気がする。
「あんた、耳が、ないのかね」
男はじろりと竜馬をみて、
「あるさ」
ぞんざいな口のきき方であった。さすがに竜馬もむっとして、
「ここはどこか、聞いている」
「淀にちかい」
どうやら旅になれた江戸の薬商人といったところらしい。
話はそれきり途切れたが、しばらくして男は不意に微笑をして見せた。
「坂本の旦那、でしたね」
「……」
今度は竜馬が黙る番だった。
なぜ、名前を知っているのか。
「なぜ、おれの名前をしっている」
旅に出てから、竜馬が始めて油断のならない人物に出遭ったような気がした。
「知るも知らねえも、旦那御自身がおっしゃったはずじゃございませんか」
「どこで、おれは申したかな」
「大坂の高麗橋のたもとで」
竜馬は、遠い目をした。とすれば、辻斬りの岡田以蔵の一件を、この男は見ていたのか。
「いったい、お前は何者じゃ」
眼つきから察しても、ただの薬の行商人とは思えない。
「あっしですかね。覚えといておくんなさい。寝待(ねまち)ノ藤兵衛(とうべえ)と申しやす」
「妙な名だな。稼業はなにをしている」
「泥棒」
闇の中で、藤兵衛はひくく笑い、
「でござんすがね。けちな賊じゃねえつもりだ。若いころから諸国の仲間ではすこしは知られた男のつもりでいる」
「おどろいたな、泥棒か」
「だ、旦那、お声が高え」
「あ、そうだった」
竜馬は声を低め、
「しかし驚いたぞ。俺は田舎者だからついぞ知らなんだが、世間の泥棒というのはお前のように稼業と名前を触れ歩いていくものか」
「冗談じゃねえ、物売りじゃあるまいし、どこの世界に、泥棒のくせして自分の稼業と名を触れ歩く馬鹿がいるものですかい。あっしは旦那が気に入ったんだよ。ちょっと打ちとけてみるきになったんだ」
藤兵衛の話では、高麗橋の一件のあと、天満八軒家の船宿まで竜馬と以蔵のあとをつけていったというのである。
「それくらい物好きでなきゃ、この稼業人にはなれやしません。もっとも、あっしは遠州のほうへ出かける用があって、無駄をしたわけじゃありませんがね」
「京屋のどこにいた」
「お隣室でしたよ」
だから、竜馬と以蔵の話は、いっさい耳に入ってしまったらしい。
「しかし旦那、あんたは騙されたね。あの岡田以蔵さんという人は悪い方じゃなさそうだし、お父(とつ)つぁんが死んだために江戸から国へ帰るというのも嘘じゃなさそうだが、路用がなくなってやむをえなく辻斬りをしたというのは、あれは下手な嘘だ」
「ほう」
「大坂島之内の遊里に丁字風呂(ちょうじぶろ)清兵衛という名高い家がある。そこの娼妓(こども)でひなづる。女の名などどうでもいいが、その女のもとで流連して路用を使い果たしたはずなんだ。あっしが見ただけでも、五日は丁字風呂にいた。だから、旦那にもらった金で、いまごろは豪勢に風呂酒をあそんでるだろう」
「ほんとうか」
「嘘じゃねえ」
「以蔵め、そいつは面白かったろうな」
以蔵の身になって笑い出した。竜馬は生まれつき明るい話が好きな男だから、足軽以蔵の陰気な話がやりきれなかったのだが、いまの藤兵衛の話で救われたような気がした。妙な性分である。腹が立つよりも自分までが風呂酒を飲んで陽気に騒いでいるような気分になってくる。
日が傾いたころ、船は伏見に着いた。
竜馬が荷物をまとめいると、寝待ノ藤兵衛が横からしきりと世話を焼いて、
「旦那、伏見のとまりはどこになさいます」
もう人前だから、お店者(たなもの)の言葉になっている。
「そうだな、別にあては、ないな」
「ではこうなさいまし。手前の懇意な船宿で寺田屋というのがございます」
「ふむ」
「亭主は伊助と申し、人のいい男でしたが、先年亡くなりました。いまは、お登勢(とせ)という後家が女手でやっておりますが、これがまた、京女を江戸の水で洗ったような気っぷの女でございましてな」
「ははあ」
「なんでございます」
「やはり、お前の泥棒仲間か」
「冗談じゃねえ」
と藤兵衛は急に声を引くし、
「これでも表向きは、江戸の薬屋藤兵衛ということになっているんで。金創(きんそう)、打身(うちみ)の薬なら藤兵衛どんということで、諸国の顧客(とくい)さまからありがたがられている。本業を明かしたのは旦那が始めてですぜ、恩に着せるわけじゃねえが」
「泥棒に恩に着せられてたまるか」
「いやだねえ」
寺田屋にはいると、すぐ女将(おかみ)のお登勢が挨拶に来た。
「こちらが、土佐藩の御家中で、坂本竜馬という旦那だ。いまに日本一の剣術使いになるお人だから、大事にしておくがいい」
「江戸へ剣術修業どすか?」
と、登勢が黒い大きな眼で竜馬を覗き込んだ。
竜馬がうなずくと、
「それはご苦労はんどすな」
京言葉で大げさに感心されるとからかわれているように聞こえるが、土地では普通の挨拶らしい。
「二、三日、京見物をしてお行きやすか」
「いや、あす早暁に立つ」
「ゆっくりしてお行きやすな。お登勢がご案内して差し上げますえ。江戸や大阪は活気があってよろしおすやろけど、京伏見の静けさも、格別のものどすえ」
その静かな京が、わずか数年のちに剣戟腥風(けんげきせいふう)のちまたになろうとは、天下のたれもが予想も出来なかった。まして寺田屋お登勢にとって、眼の前でにこにこ笑っている青年が、幕府を震え上がらせるほどの大立者(おおだてもの)になろうとは夢にも予想できない。
ただ、お登勢は思った。
(なんと可愛らしい若者だろう)
眉がふとく、瞼が厚く、また顔一面に雀斑(そばかす)があるが武骨すぎるが、唇(くち)もとが、異様なほどあどけない。無愛想なくせに、肌からにおってくる愛嬌があった。
(このお人は、おなごにも騒がれるかもしれないが、それ以上に男のほうが騒ぐかもしれない。この人のためには命もいらぬというのが、多勢出てくるのではないか)
お登勢は、旅籠のおかみらしく、品物を値踏みするような丹念な眼で、竜馬を見た。後年、竜馬のために、時には死を賭(と)して面倒を見たお登勢との付き合いは、この時にはじまっている。
その時、カラリと障子があいた。武士が立っていた。 |