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四十大关

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发表于 2007-10-21 17:21:48 | 显示全部楼层 |阅读模式
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]四十大关

                                       (日本)司马辽太郎

   要抬出《源氏物语》来似乎有点小题大作,但看到其中主人公的妻子紫上夫人在厄运年发病的一节,便可知在那个时代里就有厄运年
的说法了。

  石上坚先生的《日本民俗大辞典》(樱枫社)虽是一本辞典,却可以当书来读。在其“厄”的词条中说,本来,男人的厄运在二十五岁时就结束了。到了四十二岁就不是什么厄运,而是应该加以庆祝了。大概是因为福星高照,竟然活到了四十二岁的缘故吧。

  要说福气,在江户时代也是如此,旗本以及各藩的家老到了四十来岁就隐退了。

  后面的事情就交给儿子去办了。在那封建时代,并不要求人们有多大的能力,重要的是要让世袭的家禄、职位什么的顺利地继承下去。大坂的商贾之家,做法也与之大同小异。

  我从没受过叫得上名的疾病之累。

  可是,到了四十来岁却好象是病人似的。因疲劳而发低烧;偶发豪情痛饮到深夜,之后的三天,人就像漏了氢气的气球一般,脚软绵绵地直打晃。当时,报纸上的医药广告中常常出现一个冷僻的成语“不定愁诉”(注:身子不爽,却不明原因。现在谓之亚健康),总觉得是在说我。
我觉得四十来岁是男人的一大关口。

  我也想象过原始时代的那些先辈们。人们估计那时男人的平均寿命在二十几岁。每个男人都像现在的职业棒球选手一样,身上肌肉隆起,满山遍野地奔跑着,去猎获野猪或狗熊。(我们现在观赏体育比赛的爱好,肯定是继承了远古时代的那种满足感官的机制)
然而,当时的妇女们,生过了小孩,大多像排完了卵的马哈鱼似地死去了。

  如今,我们多亏了文明,不会因风霜雨露而折损寿命,也不会因受寒而得肺炎。不仅仅是对病原菌有抵抗力的人才能活下来了。强者和弱者,掺和在一起统统都进入了四十来岁。

  我曾想过,四十来岁的我,论体质,本该死去了(或者该隐居了),仅仅是靠文明的溶液稀释了生命才活着。
  
有趣的是,如今是到了这个年龄就开始忙起来了。我在四十来岁时自己给自己的任务是写《坡道上空的云》,又是查资料,又是写作,着实消耗了不少。

  其他同年龄的朋友们,有的走上了管理岗位,正处在年轻时从未遇到过的困苦之中。

  三十岁以前,风风火火,可以跑出去给人买烟,下雨天打不到的,可以在雨跑上一公里,然而跳入选定某一时刻的电车。真个儿是轻快、惬意的年代。

  四十岁的男人,可就不复如此了。

  被摆到了管理的职位上,多少有点分量了。

  管理人或事的本领,本来不是人人都具备的,首先要有德。德,是靠年轻时忘我地帮助别人或努力工作而自我培养出来的,公司里的论资排辈是产生不了德的。

  根据我的经验,在有些莫名其妙的公司里,所谓在体系中工作,实际就是为了维持体系的秩序。人们一直是在白白的放电,若遇不上德行很深的上司,创造的意愿就会因得不到充电而消耗殆尽。

  由此可见,所谓管理职位,哪怕就是个股长,也需要非凡的才能和高尚的品德。然而,体系就像童话里的怪物一样,将四十来岁的男人胡乱抓了来,往重要的管理岗位上一放。

  我从内心觉得,刚到四十的人真是够戗。
  
  首先,体力上就令人担心。像我这样过了这个大关十几年的人,已经学会了与自己的身体狡猾周旋的法子。可是,正在通关过程中的人们,要抗住大雪般压下的工作已经是筋疲力尽了,几乎每个人都是一脸的疲惫。

  原文虽已忘了,记得道元说过“人身难得,佛法难闻”。

  既然是作为一个人而不是鱼虫来到世上,并且已是年满四十之身,想到自身乃一自虚空降临人世的过客,不也无所挂碍了吗?若能拿定在归于风火之前而将自己奉献给社会的主意,或许就能轻松地渡四十大关了。
  
   人似乎是到了四十来岁才形成人格的。一个人格高尚的四十来岁的人,当他活到六十、七十时,仅仅因他的存在,无疑就能给人们带来宽慰,或许老龄化社会部分问题就能得以解决。

  也有的人到了四十来岁,就开始露出鬼相来了。或一味地崇尚权力,或斤斤计较于一己的利益而看不到别的什么了。或者是,像一条乱叫的狗一样,将自己些细的身体不适逢人便说,除了自己眼里再也没有别人了。
  
  如上看来,四十来岁的这个大关似乎还是非同小可的。
   
                         (1986年9月1日)
                               译自《风尘抄》

相关链接:

日本佛教曹洞宗创始人-道元



  日本佛教曹洞宗创始人。俗姓源,号希玄,京都人。内大臣久我通亲之子。14岁就比睿山天台座主公圆出家,于延历寺戒坛院受菩萨戒,遍学天台教义。1214年到建仁寺谒荣西,初闻临济宗风。荣西寂后,师事法兄明全,改信禅宗。1223年与明全到中国,历游天童、阿育王、径山等著名寺院。后回天童寺谒新任住持如净(曹洞宗第十三代祖)。随侍3年,师资相契,受曹洞宗禅法、法衣以及《宝镜三昧》、《五位显法》等回国。1233年在深草建兴圣寺,为日本最初的禅堂。1243年,应波多野义重之请,率弟子至越前(今福井县)开创永平寺,后成日本曹洞宗大本山。1247年,应北条时赖将军之请,赴镰仓说法并为其授菩萨戒。他的会禅要诀是“只管打坐”。后人称其禅风为“默照禅”。卒后孝明天皇赐谥佛性传东国师。1880年明治天皇又加溢承阳大师。日本禅宗中受“大师”称号即由此开始。著有《普劝坐禅仪》、《学道用心集》等,其弟子怀奘、义云编为《正法眼藏》95卷。另有《永平清规》、《永平广录》等。1969年,大久保道舟编有《道元禅师全集》2卷。1980年,日本曹洞宗管长秦慧玉率92人的代表团,访问宁波天童寺,并和中国僧侣共同举行法会,建立“日本道元禅师得法灵迹碑”,以资纪念。


原文:


四十の関所(せきしょ)
                         司馬遼太郎

『源氏物語』を持ち出すのもことごとしいが、主人公の妻の紫上(むらさきのうえ)が厄年で発病するくだりがあるところを見ると、あの時代から厄年があったらしい。

   石上堅氏の『日本民俗語大辞典』(桜楓社)は、辞典ながら、本のようにして読める。その「厄」の項によると、男の厄は本来二十五歳の厄で終わりだったというのである。四十二歳は厄でなくお祝いをしたものだという。めでたくも四十二まで生きた、ということだろう。

 めでたくもといえば、江戸時代の旗本や諸藩の家中では、四十代で隠居をした。

 あとは息子と交替した。封建の世では人間の能力は、さほどに期待されず、それよりも世襲の家禄や役職が無事相続されることに価値が置かれていたのである。大阪の商家などでも、似たようなものだったらしい。

 私は病名の付くような煩(わずら)いをしたことがない。

 ところが、四十代は病人のようだった。疲労による微熱があったり、たまに威勢よく夜更かしの酒を飲むと、あと三日ほど、水素ガスの減った風船玉のようにふらふらしていた。当時、よく新聞の薬の広告に“不定愁訴(ふていしゅうそ)”という見慣れぬ熟語が出ていて、自分のことを言われているような気がした。

 四十代というのはやはり男の関所だと思った。

 また原始時代の先輩たちのことを想像したりもした。そのころの男の平均寿命は二十代だったろうと推量されている。たれもがプロ野球の選手のように筋肉を弾(はず)ませて山野(さんや)を走りまわり、猪や熊を獲(と)っていた。(私どもがスポーツを観賞するのは、遠い原始時代から引き継いでいる感覚を楽しみ体制に違いない。)
 ところが、女たちに子供を産(う)ませると、たいていは産卵を終えた鮭のように死ぬ。

 今は、文明のお陰で雨露に打たれて消耗することもなく、寒さの為に肺炎になることもない。また病原菌に対しては抵抗力のある人間だけが生き延びるということない。強者(きょうしゃ)も弱者(じゃくしゃ)もこき混ぜていっせいに四十代に入ってしまうのである。

 しかしながら、四十代のころの私は、本来死んでいるべき(或は隠居しているべき)体質でありながら、文明の溶液で生命を薄めて生きた居るだけだと思ったりした。

 滑稽なことに、当節はその年齢から忙しくなる。私の四十代の場合は自分で勝手に課した義務としては『坂の上の雲』という題の作品について、調べたり書いたりして、実に消耗していた。

 他の同年の友人たちは、管理職になったりして、若いことには遭遇しなかった苦しみの中にいた。
  
 三十代までは使い走りでもできる。人のためにタバコを買いに行くことができるし、タクシーが見つかねば雨の中を一キロも走って目当ての時刻の電車に飛び乗ることもできる。まことに軽快で、小気味いい年代である。

 四十男は、そうはいかない。
 管理職にさせられたりして、ちょっと重々(おもおも)しくなる。
 人や仕事を管理する能力など、本来稀有(けう)なもので、まず徳がなければならない。徳など、若い頃から自分を無にして他者や仕事に奉仕できるように自分を訓練してきた人にして初めてできるもので、年功序列がその徳を作るものではない。

 私の経験では、組織の中の仕事というのは、変な会社の場合、組織の秩序維持のためにある。人々は常に無用な放電をして、よほど徳のある上司を得ない限り創造への意欲など充電されずに減ってゆくものである。

  
 そういう意味で管理職というのはたとえ係長でも優れた才能と大きな徳を必要とするものなのだが、組織というのは童話のバケモノのようなもので、平然と四十男をさらってきて、管理という重職につかせる。

 私は、初対面の四十代の人には、心から、大変ですな、と思ってしまう。
   
 まず体力の面で気になる。私などこの関所を通過して十数年になるから、ずるく自分の体と付き合う方法を会得(えとく)してしまっている。しかし関所を通過中の人は、そういうことよりも、降り積もる大仕事という雪に耐えることに精一杯で、たいていは疲れの溜まった顔をしている。

 正確な言葉としては忘れたが、道元(どうげん)が「人身(じんしん)受け難く、仏法あひがたし」といっている。
  
 虫や魚に生まれたことなく、すでに人に生まれてしかも四十年の人身を得た以上、あとは虚空(こくう)からこの世に客に来たと思うと、気楽ではあるまいか。ともかくも風と火に化する日までは、この世へ奉仕に自分を使おうと思い定めてしまえば爽快な四十代が送れるかもしれない。

 人は四十代で人格が出来上がるようである。よき四十代の人が、六十、七十になった場合、ただ存在しているだけで人々の心を明るくするに違いないし、老齢化社会についての問題の一部も解決するかもしれない。

 四十代で鬼相を呈し始める人もある。むやみに権力好きになったり、また自己の利益にとらわれて他が見えなくなっている人がいる。あるいは犬が咆えるように自分のささいな健康上の不調を会う人ごとに訴えて、そのため自己以外の他者が見えなくなっている人もいる。
  
 以上のように見てくると、四十代の関所というのは、容易ならざるものらしい。


(一九八六<昭和六十一>年九月一日)
                                『風塵抄』より
               

[ 本帖最后由 华南虎 于 2007-10-21 17:24 编辑 ]
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