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太平洋戦争--日本近代史

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发表于 2008-1-2 22:54:31 | 显示全部楼层 |阅读模式
 日本の真珠湾攻撃で始まったこの戦争を「太平洋戦争」と呼ぶ。戦争が東アジアと太平洋地域で行われたからである。しかし、見逃しては成らないのは、この時に日本は、中国での戦争を続けており、満州においても抗日ゲリラとの戦いをしていたということである。そして、日本にとっての戦争とは、本質的に「日中戦争」であったことである。満州、中国の支配とその経営が日本の中心課題であり、そのために発生したのが、この戦争であったのである。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まったこの戦争1945年8月15日の日本の無条件降伏によって終了するが、日本の緒戦の大勝利という計画は成功する事は成功したが、それも長続きなしなかった。日本は、真珠湾攻撃の1時間前に、イギリスのインドシナ支配の本拠地であったシンガポール攻略を目指して、イギリス領マレーのコラバルとタイのシンゴラからの上陸作戦を敢行した。そして、この日本の上陸作戦を阻止しようとしたイギリス東洋艦隊の主力プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを海軍航空隊によって撃沈した。そして、1942年2月にシンガポールを占領した。同じくアメリカ領フィリピンに対しても上陸作戦を行い1942年1月にはマニラを占領し、同年5月にはフィリピン全土の占領を完了した。

 フィリピン、アメリカ軍司令官マッカーサー将軍はフィリピンからの米軍撤退に当たり、有名な「I SHALL RETURN」(私は、戻ってくる)と述べ、自ら航空機により脱出した。石油資源の獲得を目指したオランダ領インドネシアへの侵攻は1942年1月に始まり、3月にはオランダ軍を降伏させ占領した。イギリス領ビルマは1942年5月に、太平洋地域のグアム、ウエーク、ビスマーク諸島は1941年の12月にそれぞれ占領を完了した。このように日本は、開戦からわずかに半年で、インドシナ、フィリピン、インドネシア、太平洋の島々とその支配範囲を拡大したのである。しかし、この緒戦の成功は、日本側も計算したとおりに、イギリス、フランス、オランダなどの連合国がヨーロッパ戦線でドイツの攻勢のまえに劣勢を強いられ、ヨーロッパに釘付けにされていたため、アジアでの日本軍に対応できなかったからである。アメリカも開戦初期にはまだ、十分な用意ができてはいなかった。

 緒戦の勝利もわずか半年で、逆転を迎えることとなった。それが、1942年6月のミッドウエー海戦である。真珠湾攻撃に続いて日本海軍が計画したのが、アメリカ太平洋艦隊の基地のあったハワイの北西にあったミッドウエー島攻撃であった。日本側にとっては、真珠湾に続いて、アメリカ太平洋艦隊を叩くことによって、太平洋におけるアメリカ海軍の力を完全に叩きつぶそうとしたのである。しかし、この作戦は事前にアメリカ側の暗号解読によって察知され、逆にアメリカ海軍航空隊の待ち伏せ攻撃に合い、日本海軍の主力空母4隻を失うこととなった。

 空母と多くの艦載機を失ったことによって、太平洋における日本海軍とアメリカ海軍の勢力は逆転し、以後、太平洋地域での日本占領地域は次々とアメリカ軍によって奪い返されることとなった。1942年8月の太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島へのアメリカ軍の攻撃に始まり、1943年の2月の日本軍のガダルカナル撤退、1943年5月のアリューシャン列島アッツ島の日本軍全滅、1944年1月のマーシャル諸島陥落、どう3月のビルマ、インパール作戦の失敗、そして、1944年7月のサイパン島陥落、8月のグアム、テニアン島陥落以後は、この島から飛び立つアメリカのB29爆撃機の日本本土空爆によって、日本の都市という都市は焼け野原になり、日本は敗戦へと転げ落ちていったのである。これも、日本にとっては分かり切ったことではあったが、緒戦の勝利によって広がった日本の支配地域は、あまりにも広く、これを保持することは補給線が伸びきることによって不可能であることは目に見えていた。

 無謀と思われる戦争開始とともに、不可能と分かっている広大な地域に派遣され、強大なアメリカ軍と補給もなく戦わされ、飢えと伝染病に悩まされながら、銃弾もなく、最後は自決して果てた何十万という日本軍の将兵は、このあまりにも無謀な戦争の被害者であった。

 日本の指導者達は、勝利の見込みのないこの戦争を国民に納得させるために、「大東亜戦争」と名付けた。それは、大東亜…広大なる東アジアから、そこを植民地支配しているヨーロッパ人を追い出し、アジア人のための東アジアを建設し、アジア人が共に繁栄する共栄圏を建設するための戦争である。アジア人のための東アジア…「大東亜共栄圏」の建設こそ、この戦争の目的であり、それができるのはアジアでは日本だけであるから、日本をリーダーにして、この戦争にアジア人すべてが取り組むことが必要であるとされた。故にこの戦争は「聖戦」であった。

 そして、聖戦を戦う日本に立ち向かうアメリカ、イギリスは鬼、獣であった。「鬼畜米英」のかけ声の元に、この戦争のために、日本人だけでなく、朝鮮人も中国人も、そして全アジアの人々がかり出され、そして命を失ったのである。

コラム  この戦争で日本軍の行った犯罪行為は決して忘れてはいけないことである。そのためにどれだけの多くの人命が失われたことであろうか。日本軍の行った残虐行為だけでない、日本軍の将兵や軍属もその犠牲となって無駄に死んでいったのである。
 フィリピン占領時に起きた、アメリカ軍捕虜12000名とフィリピン兵64000名を炎天下バターン半島のマリベスからサンヘルナンドまで112キロを歩かせ、2300名を死亡させた「バターン死の行進」。シンガポール占領時に敵性華僑として、当地の華僑10万人を虐殺したシンガポール華僑虐殺。同じくマレーシアでの華僑虐殺。ビルマ戦線での、泰緬鉄道建設に強制動員され、劣悪な労働の中で死んでいった連合国捕虜とアジア人労働者10万人。そして、補給もなく、明確な作戦計画もなく行われたビルマ、インパール作戦では、熱帯のジャングルに置き去りにされ、飢えとマラリアで死んでいった日本兵72000名、。アメリカ軍の反撃の前に、次々と陥落していった太平洋の島々の日本兵の玉砕とその家族達の自殺、これは、「生きて虜囚の辱めを受けず」とした、日本軍と日本人に対する日本政府の教育の結果であった。

コラム  日本人がアジア・太平洋戦争においてアジアの人々を差別し、殺したように、連合国であるアメリカ、イギリスも日本人を蔑視し、まるで獣のように扱い、殺した。日本に対する、都市への無差別爆撃は、日本人皆殺しの作戦であった。その総仕上げが「広島・長崎への原爆投下」である。そのことは後にふれるが、日本人に対する差別行為の典型は、アメリカ政府のとった日系アメリカ人に対する強制収容である。

 日米開戦とともに、アメリカ在住の日系アメリカ人は「スパイの恐れがある」として、強制的に、アリゾナやワイオミングの収容所に収容された。その数12万人といわれ、対象になったのは、日系の血が入ったものすべてであり、曾祖父の代に日系人の血が入ったものも、収容されたのである。明治、大正の時代からアメリカに移民し、汗水流して働き、やっと幾ばくかの財産を築いた人々が、その財産を奪われ、砂漠や荒れ地の鉄条網に囲まれたみすぼらしいバラックの収容所に送り込まれたのである。

 そこからでるには、アメリカ合衆国への忠誠を誓い、アメリカ兵として戦争に参加するしかなかった。それは、日本人と戦うことも意味した。それでも多くの日系アメリカ人がアメリカ兵としてヨーロッパ戦線に参戦していったのである。彼らは、よりよきアメリカ人であることを示すために、白人兵よりも勇敢に戦わなければならなかった。しかし、同じように、アメリカと戦ったドイツ、イタリア系のアメリカ人に対しては全くなんの抑圧もなかったのである。これは明らかに人種的偏見に基づいた行為であった。
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