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040909《天声人語》水上勉
「終戦の日のことを書くのに、私の『リヤカーをひいて』からの文章を活用してくださり、光栄でございました――」。昨日85歳で亡くなった水上勉さんから、思いがけない手紙を受け取ったのは、3年前だった。
“在写停战日的文章时,引用了拙作《拉车》中的一段文字,感到非常荣幸——”。3年前,我出乎以料地收到了来自昨天以85岁高龄去世的水上勉先生的书信。
「昭和20年8月15日」のことを書いたコラムに、水上さんの、この日の回想文の一節を引用した。簡単な礼状と、掲載した新聞を送った何日かあとに、手紙が届いた。
在写有关“昭和20年8月15日”的专栏文章时,我曾引用过水上先生的相关回忆文章中一节。寄出粗略的感谢信和所刊载的报纸的几天以后,收到了他的这封信。
水上さんから直接取材したことはないが、かなり以前に、何かの集まりであいさつするのを見た。作品やテレビを通して思い描いていた通りの印象を受けた。たたずまいの端正さや静かさと、その奥底にうずくまっている熱情のようなものを感じた覚えがある。
我没有直接采访过水上先生,很久以前曾在一个什么集会上见到过他在发言。其印象与根据其作品和电视在心中描绘的形象完全一致。我记得,他端庄、静穆地站立着,却又能感受到其内心深处翻腾着的热情。
『昭和文学全集』(小学館)の解説に、小松伸六さんが書いていた。「私は以前水上文学を、『生活する歌ごころ』と書いたことがある。それは在所の悲しい子守唄であり、放浪生活歌である。また人生遍路の諷詠であり、失われた日本へのエレジーでもある」。簡素で、しかも空疎ではなく深い内実のある、地べたからの発言だという。
在《昭和文学全集》(小学馆)的说明中,小松伸六这么写到,“我以前曾将水上先生的文学写成《生活着的歌唱之心》一书。他的作品是故乡贫苦孩子的摇篮曲,是流浪者之歌。既是人生朝拜的吟咏,也是对消逝的日本的挽歌”。是来自底层的简约而不空泛、有着深刻内涵的表达。
終戦の日、あの放送を、水上さんが聞くことはなかった。そのころ、炎天下、リヤカーに病人を仱护啤⑧_里・若狭の坂道に居た。「人は『歴史的な日』などを生きるものではない。人は、いつも怨憎(おんぞう)愛楽の人事の日々の、具体を生きる」(『八月十五日と私』角川文庫)
停战之日,水上先生没有听到那个广播。那时,他正在赤日炎炎之下的故乡若狭的坡道上,拖着载有病人的两轮车。“人不是生活在‘历史性的日子’里。人总是生活在喜怒哀乐的人间俗事里,生活日日夜夜的细节之中”(《八月十五月和我》角川文库)。
地をはうように生きる人々の、息づかいや胸の内奥にまで、するどくも優しいまなざしを向けながら、日々の具体を描き通した。
他将敏锐而又温柔的目光投至挣扎在底曾的人们的呼吸痛痒和内心深处,写尽了日日夜夜的细微末节。 |
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