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[其他] 广外<日本文学选读>资料

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发表于 2008-4-23 22:09:29 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:59 编辑

广外这门课真的是考得很变态的,全部是考作者呀,流派之类的,根本不考作品.
去年考了一次,两眼一摸黑,啥都不会,全是选择题,于是乱蒙,呵,还让我蒙了49分.
后来看到有人介绍<日本文学史>这本书,就买来看了.上班时候无聊,就一字一字的敲进了电脑,不过后来工作比较忙,没全输完(共有五章,最后一章最长,是近代部分).以后有时间再输,如果是哪位有书的同学能帮忙也补完那就最好了.
再后来又听说今年要变题型,也就没贴上来.
不过这次考完了,还是那些鬼题目,所以就想着贴上来给大家分享.
另外,我还把<日本文学作品选读>这本书中的作者介绍大概翻译了一遍,一起贴上来,供大家参考,希望对各位有帮助.
第一章        古代前期の文学(奈良時代)
第一節        古代前期の文学概観
一.文学背景
1.古代前期
 おおかた五世紀ごろから八世紀まで、すなわち文学の発生から794年の平安遷都までの間を指す。日本史で古代前期とは大和、飛鳥、奈良時代とも呼ぶ。その中でも、奈良時代を中心にしている。この時期を上代とも言う。
2.国家の成立
 紀元前3世紀に、集団による農耕生活が始まり、各地でだんだん小国家が出てきた。4世紀に、大和朝廷が統一国家成立を成し遂げた。
3.律令制の確立
 7世紀に、聖徳太子の改革によって、「憲法17条」が決められた。和を尊び、仏教を信じ、天皇に服従すべきことなどを強調して、すべてが国家の統治に有利である。しかも、これまでの大王の称にかわって、天皇の称号が用いられるようになった。
4.遣隋使と遣唐使
 7世紀から遣隋使と遣唐使が大陸に頻繁に派遣されて、中日両国の交流がとても盛んである。聖徳太子の時、小野妹子が何度も隋に派遣された。奈良朝に入ってから、朝廷がさらに頻繁に遣唐使や留学生を中国に派遣して、日本はどんどん中国大陸から中国文化を吸収した。また、日本の留学生も帰国するに際して、唐から大量の書籍を持って帰る。だから、奈良文化の特徴と言えば、貴族的文化、「唐風」であると言えよう。
二、口承文学の時代から記載文学時代へ
 ずっと昔、日本の祖先は祭りを通して、共同体を結んでいった.その当時、文字がなくて、祭りの場で、神々や祖先に対して語られ歌われる神聖な言葉は、口々相伝得るより仕方がなく、長い間、子々孫々に言い継ぎ、歌い継いで、伝承されていった。このように誕生した神話、伝説、歌謡、祝詞などを口承文学と言う。
 大和朝廷は国家を統一すると、朝鮮、中国との交流が盛んになった。4世紀ごろに、大陸から漢字が伝わってきた。そして、だんだん実用化され、6世紀ごろに、漢字で表記できるようになり、文学作品も漢字によって、記載されるようになった。これは記載文学の始まりである。
祝詞:古代人は言霊信仰によって、神への祈りの言葉を祝詞と言う。その中には、神事の時群臣に読み聞かせるものとか、祭りの儀式のときに神に祈願するものとか、天皇に上奏して御代の長久を祈るものなどがある。現存するのは「延喜式」の27編、「台記」の別記に収められた「中臣寿詞」の一編を合わせて、計28編である。
宣命:宣命と言うのは、天皇の詔を臣下に伝える和文体の詞章である。漢文体を詔勅と言うが、純粋の和文体で書かれたのを「宣命書き」と言う。「続日本記」の62編は現存する宣命である。
第二節        主な文学作品
1.記紀文学――「古事記」と「日本書紀」
(1)「古事記」
 712年に、太安万侶によって編集されたと言うことである。上、中、下の3巻からなっている。日本語で書かれ、前代の伝説、民衆の生活も含み、そこから古代日本人の考え方や個人感情などを理解することができる。文学性がかなり高い。今まで保存している日本最古の書籍である。
 しかし、「古事記」は最高権利者である天皇や皇室などが人民を支配することを目的としているのである。
 天地初めてひらけしとき、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次御神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして身をかくしたまひき。
                                ――「古事記」
(2)「日本書紀」
 720年に舎人親王などが編集したものである。これは漢文体で書いた30巻よりなる歴史書の形をしたものである。中国の史書にならって、漢文の編年体で書かれたものである。天皇の君主としての地位を正当化する目的で、全体の構想が創作されている。
 「古事記」と「日本書紀」は日本文学史の中で、最初の整った本の形であろう。記紀文学は人民大衆の文学ではなく、国家最高権利者である天皇、貴族の文学である。しかし、その中から、当時の地方民衆の生活状況や宗教などがわかり、民俗研究の貴重な資料として、かなり大きな価値がある。
 また、「古事記」「日本書紀」には、“まこと”と言う文学意識が芽生えていた。しかし、それは個人或いは人民大衆の思想感情の表れではなく、大和民俗固有の信仰、即ち神への崇拝と言う原始的な信仰をもとに生まれたのである。言い換えれば、この文学意識は写実の文学意識の芽えともいえよう。
2.「風土記」
 713年、朝廷が諸国に命じて、その国の地理、産物、伝説などを記させた。日本の最初の地誌である。現在5つがまとまった形で残っている。当時の地方の暮らしを知る手がかりとしても重要である。
3.「懐風藻」
 中国大陸文化の強い影響で、日本でもずっと昔から日本人の手によって、数多くの漢詩文がどんどん作られていた。殊に天智天皇が漢詩文を奨励するゆえに、漢詩文の知識や創作が盛んになりつつある。その当時、漢詩の習得こそが官人としての欠かない教養であった。奈良時代には、たくさんの漢詩集が出てきたが、現存しているのは「懐風藻」だけである。
「懐風藻」は751年に、編纂された。編者は淡海三船と言われていたが、定説はない。作者はほとんど当時の貴族階級であった。日本の最古の漢詩集として後世によく知られている。その中には、64人の詩120編が収められ、中国六朝の古体史をまねした作品が多い。作品の中には、中国の儒教の思想が明らかに含まれている。殊に「論語」の中の言葉が大量に引用されていた。そうして、中国の伝統的な文化は日本文学に深い影響を与えたと言っても過言ではない。また、この詩集は「万葉集」の編纂にも深い影響をもたらした。
4.「万葉集」
 日本最古の歌集であり、その中に収めている歌は約4500首、紀元340年から奈良末期の759年までの間に作られているものである。450年の長時間にわたっている。大伴家持によって編纂されたものだと言われている。内容から見ると、雑歌、相聞歌、挽歌、比喩歌、東歌、防人歌などがある。その中には、相聞歌は人間同士の贈答の歌、特に恋愛の歌が多い。挽歌は死者を悼む歌である。雑歌はそれ以外の歌や宴席の歌などいろいろなものがある。東歌は東国の一般庶民の生活から生まれた民謡的な歌であり、防人歌は東国から九州防備のために、派遣された兵士や家族の歌である。また、形式から見ると、長歌、短歌、旋頭歌などがある。本文は全て漢字で持って日本語を書いたものである。これを万葉仮名という。その以来、日本語の表記があった。「万葉集」は一般的に、四期に分けられている。
 万葉一期(発生期)舒明天皇(629年)の時代から壬申の乱(672年)前後までの間を指す。歌は集団的な生活背景から、個性的な叙情歌へ変わっていった。特徴としては、感動を直接に表現した素朴な風格である。皇室歌人が圧倒的多いが、その中には、額田王がその中の代表的な歌人である。
 大和には 群山あれど とりよろぶ 天の香具山 登りたち 国見をすれば 国原は 煙たちたつ 海原は 鴎たちたつ うまし国ぞ あきつしま 大和の国は
                               ――舒明天皇?巻一
万葉二期(発展期)天武、持統、文武の三代にわたる藤原時代から平城京遷都までの約40年。律令国家が発展して、王室も繁栄になってきた。歌の思想内容や表現手法がこの前より複雑になった。その中には、長歌が大いに発展した。特に、柿本人麻呂は万葉中最高の歌人と見られ、長歌、短歌など、後世にたくさんの優れた作品を残してくれた。彼の手によって長歌が完成された。そして、彼は典型的な宮廷詩人で、山部赤人とともに後世に「歌聖」と称されている。
 彼の歌は、構想が雄大で、技巧の運用に長じるが、ほとんどその当時の大和朝廷や王室貴族を賛美するものである。
 淡路の 野島が先の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす
                              ――柿本人麻呂
万葉三期(最盛期)平城京遷都(710年)から天平5年(733年)までの約20年間。この時期は万葉集の最盛期であるから、多くの知識人が出てきた。そして、個性豊かな作品がたくさん作られた。その中に体表的な歌人として、山上憶良、大伴旅人、山部赤人などがいる。特に山上憶良は地位があまり高くないが、彼の歌は内容上に優れたところがあり、子を思う歌や貧窮問答の歌などが、人間味があって、われわれには心から親しい感じが沸いてくるわけである。だから、彼は後世に「思想歌人」と評されている。
 この時期の歌は繊細で洗練されているが、一期の素朴さは失われてしまった。
富人の 家の子供 着る身なみ くたし棄つらむ 絹綿らはも
                                 ――山上憶良
あしひきの 山の雫に 妹待つと 吾立ちぬれぬ 山の
                                 ――大津皇子
万葉四期(衰退期)天平6年から759年までの20年間。万葉集時代が終わりを告げ、衰退に歩みつつある。歌は次第に固有の力強さを失って、理知的、感傷的となり、繊細優美な情趣を尊ぶようになった。体表的な歌人は大伴家持である。彼は759年に「万葉集」の編纂を完成したので、「万葉集」の集大成者とも言えよう。
 要するに、「万葉集」は日本古代における一つの偉大な作品として、芸術的にも、思想的にも、優れたところがある。また、われわれはこの作品を通して、日本古代の文化思想、社会風俗、人間関係、両性関係、それに、古代の農民生活、兵役関係などの面影を見ることもできる。さらに、外来文化摂取の旺盛な意欲と伝統的文化の強い生命力との作用が均衡になっており、古代国家上昇期の社会現実が生き生きと描かれている。
 「万葉集」にも、“まこと”と言う文学意識が表れていたが、「古事記」と「日本書紀」の“まこと”とは違い、個人が現実生活への体験をもとに生まれた個人的な真な情感である。“あわれ”と言う文学精神が“まこと”のもとで生まれたのである。“あわれ”とは恋愛への詠嘆或いは死者への追慕であり、個人の心より発する感情や情緒というものである。その後、“あわれ”は物を対象とする“もののあわれ”と言う文学理念に変わりつつある。
5.「歌経標式」
 772年に、藤原の浜成によって編集された日本最初の歌学書である。漢詩は和歌の性質と違うので、中国の詩学をそのままあてはめるというやりかたは無理であった。和歌に対する批評意識を理論化しようとした。後世の歌学にも深い影響を与えた。
 

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第二章        古代後期の文学(平安時代)
第一節        古代後期の文学概観
一、文学背景
1.古代後期
 この時期を中古とも言う。即ち桓武天皇の平安京遷都(794年)から鎌倉幕府の成立(1192年)までの約400年間を指す。また、平安時代とも呼ばれる。
2.政治
 律令政治は9世紀に入ってから、急速に崩壊し、藤原一門を始めとする貴族が歴史の舞台に上がった。9世紀中ごろに藤原良房が摂政となり、実権を握るようになった。藤原氏による摂関政治が始まった。そして、11世紀初め、摂関政治は藤原道長が権勢を独占する当時に、全盛期を迎えたが、11世紀後半になって、白河天皇が院政を始めて、衰退期していった。その後、たびたびの戦乱を経て、貴族社会の基盤が大きく揺らぎ、王朝文化も終結を告げた。
二、唐風文化から国風文化へ
 平安初期、唐の文化の影響が依然として存在している。その当時、漢詩文が隆盛を極め、「凌雲集」、「文化秀麗集」、「経国集」などの勅撰漢詩集が次々に編集された。日本人は唐風文化一色のこの時代を「国風暗黒時代」と呼ぶ。
 しかし、9世紀末、唐の国が衰退するに伴って、日本人のいわゆる国風文化が芽生えるようになった。特に、仮名文字が発明され、和歌が盛んになった。10世紀始め頃に、日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂され、和歌は公的文学として、漢詩文と肩並べ、隆盛期に入った。
 また、物語や日記も仮名で書き表れるようになった。たとえば、「物語の祖」と言われる「竹取物語」が伝奇物語の道を切り開く一方、「伊勢物語」、「大和物語」、「平中物語」のような歌物語も次々に書き出された。日記でも、紀貫之が女性に仮託して、仮名で「土佐日記」を書いたが、その後の女流日記文学の誕生を促す。
三、女流文学の開花
 10世紀から11世紀にかけて、後宮と宮廷などで、女流文学が開花した。その先駆として、藤原道綱の母が「蜻蛉日記」を書き、以降の「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」に大きな影響を与えた。また、清少納言の随筆「枕草子」と、紫式部の物語「源氏物語」は、古典文学双璧と称されている。だから、この時代に、女流文学が古代文学史の最高峰となった。
四、平安末期の文学
 この時期に、貴族階級が次第に没落していくゆえ、「原始物語」のような優れた作品は生み出されていなかったが、「栄華物語」や「大鏡」のような歴史物語がいくつか作られた。しかし、これらも王朝時代の晩鐘とも言うべきものであった。
第二節        主な文学作品
1.「古今和歌集」
 「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって、905年に編まれた日本の最初の勅撰和歌集であり、平安時代の代表的な歌集である。これ「万葉集」に次ぐ大歌集で、全集20巻、およそ千百種の作が収められている。略称「古今集」。普通三期に分けられている。
第一期        読み人知らずの時代。収集された歌は全体の4割に及び、この時代の初期の作と思われる。「万葉集」と同じぐらいで、歌風は素朴で、明快であり、恋歌が圧倒的多い。前代よりもっと洗練になった。
第二期        六歌仙の活躍した時代。即ち、在原業平、僧正遍昭、小野小町、文屋康秀、大伴黒主、貴選法師。いわゆる古今歌風の確立時代である。
              恋歌
 思ひつつぬればや人の見えつらん 夢としるせばさめざらましを
                                ――小野小町
第三期        撰者の時代。古今歌風の完成期にあたる。縁語、掛詞比喩などの手法が発達し、表現がより洗練される。優美典雅の日本的な美を対表する。理知的、観念的に詠んでいる。
「古今集」には、漢文で書かれた真名所と仮名で書かれた仮名序が備わっている。真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。特に、紀貫之によって書かれた仮名序が仮名で書かれた文章として注目され、さらに、最初の歌論として、後世のさまざまな評論への影響が多きい。そして、平安中期の国風文化の確立にも大きく寄与し「枕草子」では、「古今集」を暗唱することが平安中期の貴族にとって、教養の一つとになされたことが記されている。
 「万葉集」と比べ、感情が繊細に、調べが流暢になり、理知的である。縁語?掛詞?擬人法などの技巧が巧みに運用され、優麗典雅な日本的な美を対表する。「古今集」は長い間、日本人の美意識の原点として文学の規範となった。
2.「竹取物語」
 9世紀末~10世紀初め頃に成立したと言われているが、定説がない。作者も未詳で、学者か僧などの知識人がそれまで口承文芸として伝えられたものをまとめたものと思われる。現存する日本最古の物語であり、「物語の祖」と言われている。空想的、ロマン的なつくり物語の最初で、その後の物語への影響もよほど大きい。内容のあらましを紹介しよう。
 昔、竹取の翁がいた。毎日毎日野山に行って、竹を取って暮らしていた。ある日、突然竹の中から小さな女の子が出てきて、その翁はその子を抱いて、家に帰り、妻と大切に育てたところ、すくすくと成長して、見る見る間に美しい女となり、その容貌は見る人の目をして、まばゆいほど輝くから、かぐや姫と呼ばれるっようになった。姫のうわさを聞いて、各地から大勢の求婚者が集まってきた。特に、石作皇子、車持皇子、右大臣阿部御連、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足の五人の貴公子は最も熱心に迫ってくるので、翁は姫にその五人からひとりを選んで、婿にするように勧めたが、姫様がいろいろ考えた結果、五人にそれぞれ天竺の仏の石の鉢、蓬莱山の玉の枝、唐土の火鼠の裘、竜の首の五色の玉、燕の子安貝を取ってくるように注文し、それに応じえるものを婿とするのを約束した。しかし、五人ともしくじってしまう。最後に天皇からも所望があったが、やはり応じなかった。かぐや姫はもともと月界の仙女であるから、ある十五夜の夜、翁の悲しみや天皇の使わした兵2000名の護衛をよそに、姫は天の羽衣を着て、天に昇っていた。
3.「伊勢物語」
 日本最初の歌物語で、作者は未詳、10世紀初め頃に成立したと言われているが、定説がない。在り原業平になぞ得られた主人公「昔男」の生涯が、独立した125段の短篇によってほぼ一代風にまとめられている。物語に描写した主人公の姿は、そのまま業平の実像に重なるばかりでなく、いろいろな虚構の世界こそその当時の人々が求めたものであり、時の権勢から退き、「色好み」の世界に生きる主人公のひたむきな愛情の数々と優雅で洗練された「雅」の心、優れた和歌と、簡潔で叙情豊かな美しい文章によって綴られている。古来多くの人々に愛読され、後世の文学への影響はかなり大きい。
昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率いて行きければ、草の上に置きたりける露を、「彼は何ぞ。」となむ男に問ひける。
                             ――「伊勢物語」芥川
4.「堤中納言物語」
 12世紀の平安後期の作品。「虫めづる姫君」、「貝合わせ」などの10編の短篇よりなる物語で、日本文学史における最初の短篇小説集である。作者は未詳。作品には恋愛を主題とするものが半数ぐらいあるが、その他、いろいろな題材を取る。その中でわれわれの興味を引くのは「虫めづる姫君」である。
 ある按察使大納言の娘が虫が大好きで、日夜虫の愛玩に夢中になっていた。虫と言っても、胡蝶や鈴虫のようなかわいい、外観綺麗なものではなく、カタツムリや毛虫のような気味悪いものである。中でも特に毛虫が好きで、いつも掌に載せて、観賞している。
 それで、親たちもこれに弱って、何度も諌めても「苦しからず。万の事元を尋ねて、末を見ればこそ事はゆえあれ。いとおさなき事なり。烏毛虫の蝶とはなるなり。」と言うし、また「絹とて人の着るも、蚕のまた羽つかぬにしてだし、蝶になりぬれば、いともはてにて、あだになりぬるをや。」とちゃんと理屈をつけて突き返す。召使も若い女房などは弱々しくて、あまりよくないから、男の童を使い、おまけに名前までケラ男や蚱麿磨などという綽名をつけて呼ぶのである。
 これだけでなく、この娘さんの身なりから言語、動作に至るまで、全てがその当時の人の意表に出ないものはない。その当時の女性は髪毛を長く伸ばしており、眉毛はすっかり抜き取り、歯を黒く染めるのは美人だと認められていたが、彼女は逆に几自分の髪を耳に挟んだ上に、「梳り繕はねばにや、しぶげに見ゆるを、眉いと黒く花々と鮮やかに、涼しげに見えたり。口つきも愛敬月手清げなれど、歯黒めつかねばいと世づかず。」で、着物までも、頭へ衣著あげているくらいで、化粧といったら更にない。
この作品の時代は平安末期で主人公は徹底的な反逆児で、頭から現実を否定していた。作者は主人公に託し、現実社会を否定して、何か新しいものを求めとしている。

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 楼主| 发表于 2008-4-23 22:15:48 | 显示全部楼层
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5.「源氏物語」
 1008年に、紫式部と言う女流作家によって書かれたのである。作品は主人公の光源氏の誕生、愛の遍歴、出家を願う姿、死、主人公の死後、残された人々の世界が雄大な構想の中に語られている。
 「源氏物語」は日本古典文学の最高峰であるだけでなく、今でも世界文学史で第一流の作品に見なされている。更に、また世界最古の長編小説としても名が高く、陰影に富んだ美しい文体、巧みに配された和歌、繊細な人物性格や生き生きとした心理描写など、中世から近代の作家に大きな影響を与えた。全書は54巻からなっており、4代約80年間にわたり、登場人物は400二余り。その内容は三つの部分に分けられている。
第一部        「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖
 ある帝(桐壺)が后の中では身分の低い桐壺更衣を特に愛し、その間に、美貌な皇子が生まれた。権勢と縁のない更衣は迫害の中に、悲惨にこの世を去った。帝は後見のない皇子を非常に愛する。その将来を思い、臣籍に下された。この皇子は主人公光源氏である。帝は更衣の死後、藤壺女御を愛したが、光源氏は彼女に亡き母の面影を求めてみたい、思いを寄せるようになった。ついに不義な関係を結んでしまった。女御は身ごもり皇子を生む。しかし、二人は生涯を通じて、その罪にさいなまれることになる。その後、光源氏は他の多くの女性とも関係する。その中に、右大臣の娘朧月夜がある。右大臣は娘を后に奉る心づもりがあったので、この機会をつかまえて、政敵の光源氏を政界から追放する。
 須磨に流された光源氏は明石に移り、明石上とめぐり合い、彼女を娶り、二人の間に、後に中宮となる明石姫君が生まれた。右大臣の孫にあたる朱雀院が在位の時代に不遇であった光源氏も冷泉院(光源氏と藤壺の間に生まれた皇子)が帝位につくし少し前に、都に召還された。帰京後の光源氏はこの世の栄華の限りをつくした六条院を完成し、臣下として、これまでに例を見ない準太上天皇という位を極めた。
第二部        「若菜上」から「幻」までの8帖
 朱雀院の内親王女三宮は父の思慮により、光源氏に降嫁する。そのため、愛妻紫上との間に、感情的な波乱が生ずる。紫上は悩んだ挙句、病床に伏し、光源氏はその看病に心を向ける間に、女三宮に前から思いを寄せていた柏木(光源氏の最初の妻である葵上の甥)は彼女と不義を犯してしまう。これを知った光源氏は激怒し、柏木を責めるが、一方では、自分が藤壺に通じた過去の因果を思い、宿世の業に驚かされてしまった。
女三宮は柏木の子薫を生み、間もなく、出家する。柏木も自責の念にかられ、病にかかった。やがて、この世を去ってしまった。また、病床に伏した紫上もしばらくして、他界してしまった。光源氏はこの世の無常に出家を思い立つ。
第三部        「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖
 既に光源氏はこの世になく、子薫が登場する。薫は宇治に隠居していた八の宮を訪れる。その娘の大君に心を引かれた薫は八宮の死後、彼女に求婚するが、彼女はそれを拒み、妹の中君を薫と結婚させようとしたが、それもかなわずに、中君は匂宮(明石中宮の子)と結婚した。薫が大君を思い切れずにいるうちに、彼女は病死してしまった。中君から大君に似た異腹の妹浮舟の要ることを知らされた薫は、浮舟とあい、宇治に住ませる。ところが、既に中君と結婚した匂宮は浮舟をも訪れ、彼女と関係してしなった。薫と匂宮との間に立たされた浮舟は悲しく迷い、悩んだ挙句、身を宇治の流れに投げたが、横川の僧都に救われ、佛門に帰依した。
 最後の10帖は舞台が宇治に置かれたため、「宇治十帖」と言われる。
*        作者――紫式部
清少納言を初めとする多くのこの時代の女流作家と同じように、紫式部も漢学の素養の高い官吏の家で生まれたのである。祖父藤原謙輔は名他界歌人であり、父藤原為時は和歌、漢詩文に通じており、祖父一門に文人が多い。作者はこのような文学的な環境に育ち生まれたゆえ、幼少から聡明で、和漢の典籍に通じ、音楽にも通じていた。
 作者が生活した時代は、平安朝の末期にあたり、藤原氏の貴族専制が退廃してしまう。天下が大いに乱れた。紫式部は豪華な宮廷生活をしているが、その表面的な華やかに陥ることなく、理知的な、明晰な頭脳で、その時代の真の様相を眺めることができた。彼女は清少納言が時代を大いに賛美し、宮廷貴族の豪華な遊宴生活を礼賛する創作態度に対して、不満を満たしたのである。ただ、彼女は時代の本質的なものの存在を信じ、それをとらえようとしていた。
*「源氏物語」から表れた文学思潮 写実的な「まこと」とロマン的な「もののあわれ」。これは成熟した王朝貴族文化の頂点を極める最高の美意識といえる。
 須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の「関ふき越ゆる」と言ひけむ浦波、夜夜は、げにいと近う聞こえて、またなくあわれなるものは、かかる所の秋なりけり。
                           ――「源氏物語」須磨巻
いづれの御時にか、女御?更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなききはにはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり。初めよりわれはと思ひあがりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下葛の更衣たちは、ましてやすからず。
                          ――「源氏物語」桐壺冒頭
6.「栄花物語」
 日本最初の歴史物語で、正編と続編に分けられている。六国史の後を継ぎ、宇多天皇から堀川天皇までの約200年間の歴史が編年体で綴られている。藤原道長の栄華を中心に描き、ひたすら道長を賛美している。全体的に感傷的な筆致で、歴史への批判性は欠けている。国文体の歴史の初めとも言われる。
7.「大鏡」
 11世紀末頃成立した「大鏡」は、「栄花物語」と同じように、藤原道長の栄華を中心とした歴史物語で、最初の鏡物である。「今鏡」、「水鏡」、「増鏡」を合わせて、「四鏡」と言うのである。紀伝体で書かれたものである。道長への賛美だけに終わらず、非情な政界についても描いたので、歴史への批判性を一つと特徴としている。その中から歴史の真実が見られる。
8.「今昔物語集」
 日本最大の説話集として、12世紀ごろに書かれたのである。主に庶民、武士の生活を生き生きと写した。昔の社会、風俗の研究にとって、貴重な材料として、重視されている。
 文章はだいたい漢文と日本文の中間に位置する一種の新文体で書かれており、各章ごとに「今は昔」という言葉で始まっているのである。この文体は、中世の和漢混交文の先駆ともなっている。
 「今昔物語集」は近代にも影響をもたらした。芥川竜之介の「鼻」、「羅生門」、谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」などは、これを取材したのである。
 今は昔、信濃守藤原陳忠といふ人ありけり。任国に下りて国を治めて、任果てにければ上がりけるに、御坂を越えゆる間に、多くの馬どもに荷を掛け、人の乗りたる馬、数知らず続きて行きけるほどに、多くの人の乗りたる中に、守の乗りたりける馬しも、かけはしの端の木後足をもて踏み折りて、守さかさまに馬に乗りながら落ち入りぬ。
9.紀貫之と「土佐日記」
 「土佐日記」は930年ごろに、作者が土佐の守として、赴任する時から、935年都へ帰る時まで書いた紀行文である。主な内容は、任地に永眠した娘への追慕や帰途の険難や海賊襲来への憂慮、帰京への喜びなどである。作者は女性の名に仮託して、仮名文字で書いた日本の最初の日記である。
 「土佐日記」は新しい日記文学の形態を創り出し、後の女流日記文学隆盛に深い影響を及ぼした。
男もすなす日記といふものを、女もしてみんとてするなり。
                               ――「土佐日記」冒頭
10.「蜻蛉日記」
 974年に、藤原道綱の母の手によって書かれた作品であり、女性が書いた最初の仮名日記である。上、中、下の3巻から成っている。作者は結婚後、幸福ではなく、苦悶に満ちていた。それで、日記の内容には、こうした苦悶、悩みなどの気持ちが書かれていた。自照性の女流日記の先駆として、後世の文学にも大きい影響を与えた。
 また、心理をつぶさに描写し、精緻な芸術的香気の高い筆致は「原始物語」にも深い影響を与えた。
 かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけり。
                               ――「蜻蛉日記」冒頭
11.「和泉式部日記」
 1007年に、和泉式部が書いたものである。作品は主に作者が帥宮敦道親王との恋をめぐって、書き綴った物語風の日記である。
 夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。
                               ――「和泉式部日記」冒頭
12.「紫式部日記」
 1010年に、紫式部が書いたものである。日記の中に、清少納言への批判はよほど猛烈である。
 清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたべむこと大かり。
                               ――「紫式部日記」

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13.「更級日記」
 1060年、菅原孝標の娘の手によって書かれた自伝的日記である。物語の世界にあこがれた少女時代から、親しい人々との死別、結婚生活、晩年生活などが生き生きと描かれていた。13歳から52歳までの長い間にわたっている。作品には、作者のロマン的で、繊細な感情が表れている。
14.清少納言と「枕草子」
 「枕草子」は日本最初の随筆の代表作であり、作者は清原元輔の娘である。彼女は紫式部と同時代の人として、一条天皇の中宮定子に仕えていた近侍である。女性ながらも男性と同じように、同時の男性の必須の教養である漢詩文によく通じていた。
 「枕草子」は1001年に、書き上げられたと言われている。主な内容としては、作者が中宮定子に仕えていた時、宮廷生活を通じて、自ら体験した自然や人事に関する出来事を自由な筆致で記録しており、作者の自然に対する鋭い感性、人物批判、自然風景に対する描写、美に対する追求などが至る所に見ることができる。しかし、特に目を向けたところは、やはり宮廷貴族の遊園生活への賛美や中宮定子に対する褒賞であり、また、自らに対する誇示でもあった。したがって、清少納言の文学思想は、徹底的な貴族主義であり、貴族社会に対する無条件的擁護である。日本文学者はいつも清少納言を自然美の愛好者で、美の世界の礼賛者であると称えているが、彼女の美観は貴族階級の美であり、決して人民大衆の美ではなかった。
 内容から次の三種類に分けられている。
(1)        類聚的章段 「ものづくし」と呼ばれる段で、作者の鋭い感性のままに、同種のものを列挙し、感性を述べたものである。「山は」などのような「-は」型のものと「うつくしきもの」などのような「-もの」型の二種類がある。
(2)        日記の章段 豪華な宮廷生活への回想であり、日記回想章段とも言う。
(3)        随想の章段 これは随筆らしい章段で、「春はあけぼの」のように、自然や人事についての感想を自由に書いたのである「枕草子」は古来から文学界に重視されており、「源氏物語」とともに、古典文学双璧だと称されている。作者の客観性や知性がよりはっきり発揮され、「源氏物語」の「もののあわれ」に対して、「をかし」の世界を形成した。簡潔で独創的な鋭い文体は批判的であり、時には哲学的でさえある。
 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ。蛍の多くとびちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は夕暮れ。「略」冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも。
                                ――「枕草子」第一段
15.「日本霊異記」
 平安時代初期、882年に、景戒の手によって編集されたということである。三巻よりなっている日本最初の仏教説話集であり、因果応報の仏教思想が主調とされている。この説話集からその当時の世の中の人々の考え方や生活ぶりなどを知ることができる。
16.「千載集」
 作者藤原俊成(1114年~1204年)は、藤原定家の父である。彼は清新な歌風を持っている源俊頼古典主義を唱えた藤原基俊の考えを十分に取り入れ、「千載集」を編纂した。この歌集は20巻に分けられ、「幽玄」と言う世界を作り上げようとしていた。「幽玄」とは、奥深く繊細で表現の外ににじみ出る余情である。これは後世の「新古今和歌集」の歌風に対する影響がよほど大きいのである。
17.「梁塵秘抄」
 12世紀後半に後白河法皇の手によって編纂されたと言われた。当時流行していた今様や催馬楽などの歌謡を集めたのである。一般庶民の日常生活に触れたもなが多く、伝統和歌の貴族趣味と異様な世界を伝えた。
第三章        中世の文学(鎌倉、室町時代)
第一節 中世の文学概観
1.時代背景
中世というのは、鎌倉幕府成立から(1192年)、江戸幕府成立まで(1603年)の約400年間の歴史を指す。政治史には、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土?桃山時代に分けられている。
中世は、承久の乱、南北朝の争乱、戦国時代など、何度もの政権交替と戦乱頻繁の時代である、当時の人々はこの世の無常を自ら体験し、仏教に救いを求めるほかはない。まだ、文化的には、都と地方との交流が盛んになり、地方の文化が発展するとともに、一般庶民の文化も歴史の舞台に登場し始めた。
2.王朝美に対する思慕と憧憬
 中世初期、武士が政治の実権を次第に握るようになり、貴族らは没落しつつある。彼らはひたすら王朝時代を思い、先代の優美繊細な文化に憧れを抱いていた。この時期に、後鳥羽上皇の院宣によって編集された「新古今和歌集」は王朝和歌の夕映えの美しさを示し、撰者の一人である藤原定家は父俊成の「幽玄」をもう一歩進めて、「有心」と言う高度な象徴美の詩境を目指したが、その以後、「新古今和歌集」を超える歌集は生まれず、和歌の世界に輝きは二度と戻らなかった。貴族はもう真に新しい文学を創造する力がなく、退廃しつつある。
3.仏教の普及と隠者文学の誕生
 中世は新仏教誕生の時代で、法連の浄土宗、一編の時宗、栄西の臨済宗、日蓮の日蓮宗など、いろいろな新仏教の宗派が誕生した。そして、庶民や武士の間に広まったが、人々に生きる力を与えた。
 中世文学は、こうした仏教の影響を受け、仏教の無常観が深く作家の頭に浸透して、代表的な文学理念になった。隠者文学はこの理念の影響によって生まれたのである。隠者文学双璧だと称されるのは鴨長明の「方丈記」と吉田兼好の「徒然草」という両随筆である。
4.説話文学の流行
 中世初期は説話の黄金時代である。「宇治拾遺物語」などの世俗説話集、「発心集」などの仏教説話集が編まれた。特に、庶民的点民話的な話を多く収めた「宇治拾遺物語」は「今昔物語集」とともに、説話文学の傑作であり、近代の芥川龍之介などにも創作のヒントを提供していた。
5.軍記物語と新興文学
 源平合戦から戦国時代に至る戦乱の中で、多くの軍記物語が書かれた。深い仏教の無常観に基づいて、平家一門の栄枯を描いた「平家物語」や南北朝の戦乱を描いた「太平記」はその代表作である。
第三節        主な文学流派
一、貴族の文学
1、「新古今和歌集」
 中世になって、和歌もあたかも退廃した貴族のごとし、もはや万葉集時代の新鮮味がなくなり、無力で、懐古的な物になってしまった。だから、この時代の和歌は貴族的であり、時代遅れの没落貴族の象徴であり、民衆とあまりにもかけ離れたものである。その代表作は「新古今和歌集」である。
 「新古今和歌集」は1201年に、後鳥羽院が藤原定家、寂連などの六人を選び、八番目の勅撰和歌集の撰進を命じた。1205年に完成披露宴が行われたが、その後、院自らの手によって改定作業が続けられ、「八代集」の最後を飾る「新古今集」が成立した。全20巻で、上代から当代にいたる歌、約2000首が収められている。しかし、ほとんど藤原俊成及び藤原一族の作品である。
 「新古今和歌集」の歌風は、「新古今調」と呼ばれ、縁語、掛詞が多く使われ、初区切れ、体言止によって映像を鮮明にして、言外に豊かで複雑な余韻余剰を漂わせている。その中に、俊成は和歌の真髄が「幽玄」にあると主張した。幽玄とは、現実社会を遠く離れ、人々が容易に探り知ることが出来ない理想郷である。

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第四章 近世の文学(江戸時代)
第一節 近世の文学概観
一、近世の文学背景
1.江戸時代の政治と経済
 中世後期の長い戦乱を経て、17世紀の初期、徳川家康が天下を統一し、新たに江戸で幕府を開設して、世は江戸時代に入った。これは日本封建社会の最後の段階でもあり、また封建社会の完成期でもある。歴史上この時期を近世とも言う。この時代は、1868年の明治維新まで260年もの歴史が続いていた。
 江戸幕府は、日本全国の各地に藩を配置して、領内を統治させると言う幕藩体制を敷くとともに、集団の秩序を重んずる朱子学による文治政策を取り、士、農、工、商という身分制度によって、人々を厳しく支配した。また、中国、オランダ、朝鮮以外の国と貿易を断絶する鎖国政策を取った。
 このように、近世は、幕府の強固な支配体制のもと、戦乱のない太平の時代が維持され、経済が飛躍的に発展したため、町人を中心とした庶民階級が強い経済力を背景に、文化、芸術の鑑賞、文学創作に参加するようになった。
 さらにまた、印刷術の進歩によって、書物の大量生産が可能になったこと、営利を目的とした出版業が誕生し、文学が印刷された書物として多くの読者に行き渡るようになったことも、一部の特権階級が占有していた文学を一般庶民に開放する力となった。
2.上方文学と江戸文学
 近世文学は、前半は上方(京都、大阪)を中心に展開し、享保年間(1716-1735)を今日として、後半は江戸を中心に展開する。したがって、前半を上方文学期、後半を江戸文学期と言う。また、上方文学は元禄時代に頂点に達するため、元禄文学と呼び、江戸文学期は、前半を天明文学、後期を家政文学と言う。
3.芭蕉、西鶴、近松の時代
 近世文学は、新興町人相のエネルギーが頂点に達した元禄年間(1688-1703)に初めての黄金時代を迎える。この時代を代表する文学者は俳諧の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、演劇の近松門左衛門である。まず、俳諧では、松尾芭蕉が言語遊戯による滑稽文学であった俳諧を芸術性の高い人生詩、自然詩に高め、蕉風俳諧を確立した。小説では、井原西鶴は浮世草子という当代の庶民の現実生活と人間模様の諸相を活写する小説を創始した。彼の優れた町人物、好色物などは多くの読者を獲得し、西鶴をベストセラー作家におしあげた。演劇では、人形浄瑠璃、歌舞伎の脚本作家である近松門左衛門が、独自の劇的世界を作り出した。
4.天明期の文学
 江戸文学期は、安永 天明年間(1772-1789)が前期の中心である。享保期までは子供を対象とした低級な絵本である赤本や黒本の種類や僅かな浮世草子ばかりしか成立せず、注目すべき文学を持ち得なかった江戸は、18世紀の半ばになって、経済的な成熟を遂げ、江戸独自の文学を生産する活力を持つに至った。
 この時期の江戸文学――黄表紙?洒落本?狂歌など、知識階級である武士の余技として作られた戯作であり、「笑い」「おかしみ」を誘う技巧と趣向の限りを尽くした表現に満ちていた。山東京伝は黄表紙や洒落本の頂点に立つ代表的作家である。なお、俳諧では、与謝蕪村が俳諧中興運動を進め、芭蕉の俳諧の卑俗化に歯止めをかけようとした。
5.文化?文政期の文学
 松平定信の寛政改革は、法による文学の厳しい規制も進められ、山東京伝らの筆禍事件が相次いだ。そのため、多くの作家は、筆を折ることになり、洒落本など天明文学を特色付けたジャンルは急速に衰えた。江戸の文学生産の力がもとの勢いを回復するのは文化?文政年間(1804-1830)であるが、主流は勧善懲悪の読み本、滑稽本、人情本、合巻などであった。
 一方、低俗な月並み俳諧が流行する中で、小林一茶は日常の体験や生活心情を自由自在に詠んだ。そして、人間味のある句をたくさん残してくれた。また、劇文学では、浄瑠璃は衰退し、歌舞伎では、江戸歌舞伎の爛熟期を迎えた。
6.新しい文学理念の確立
 この時期の文学理念としては、蕉風俳諧の「さび」「軽み」町人文学に通じる通?粋など、さまざまある。
 また、浄瑠璃に見られる「義理」、読み本に見られる「勧善懲悪」なども重視され、儒教の強い影響力を窺い知ることが出来る。
第二節        近世の小説
 江戸時代、町人の経済力が増大して、寺小屋を初めとする教育が普及されるにつれて、中世以来の御伽草子から、もっと生活に密接した読み物を求める庶民の動きに応じて、浮世草子を初めとする江戸時代特有の小説形態が誕生した。一般的に、この時期の小説を町人文学と言う。また、草子文学とも言う。ぉの内容から細分すると、仮名草子、浮世草子、草双紙、読み本、洒落本、滑稽本、人情本などがある。代表的な作家は浮世草子の井原西鶴、読み本の滝沢馬琴、上田秋成、滑稽本の式亭三馬、洒落本の山東京伝、草双紙の柳亭種彦、黄表紙の恋川春町、人情本の為永春水などである。
一、井原西鶴と浮世草子
 「浮世草子」という言葉は、もともと「好色本」のような意味を持っていたが、西鶴の書いた小説は後世の人々に「浮世草子」と称されているようになったあと、現代的な小説、即ち町人を対象とした通俗的な小説を指すようになった。
 井原西鶴は1642年大阪の裕福な町人の家に生まれ、1693年52歳で死んだ。彼は若いうちに商売を通じて、莫大な財産を創り出していた。しかし、晩年商売も止めて、専ら文学活動に専念し始めた。小説を書き始めたのは約40歳頃であった。彼は談林派俳諧作者として、鋭い写実的精神を持って、人生の種種相を俳諧的手法で生き生きと表現した。日本的リアリズムの最高峰の一つである。
 西鶴の作品には、主に町人生活を中心として描いたものが多い。彼は伝統的な神権、封建道徳に比べて、現実生活において、人間の創意と工夫によって富を作るのを主張する。彼は人間の物欲や愛欲を汚れたものと見るのではなく、それは人間の本来の姿であり、生の動力であると大胆率直に肯定した。
 西鶴の作品をその性質上から分類すると、「好色物」「町人物」「武家物」「雑話集」の4種類に分けられる。中には「好色物」と「町人物」は彼の得意な作品である。
 西鶴は浮世草子を書き出した最初は、いわゆる好色物から書き始めたのである。まず、「好色一代男」を発表し、好評を博して、その後、「好色二代男」を発表した。
 彼は「好色一代男」において、好色児世之介という人物を設定した。7歳で腰元に恋するのを皮切りに色恋の様々なものを遍歴する。乱行、勘当、放浪のあげく、親の莫大の遺産によって、三都の遊里で色道の極地を表現し、結局、好色丸に乗って、友人とともに女護島へ渡った。
 当時の封建論理によって、「男女7歳にして、席を同じうせず」と厳しく規定していたが、世の介は7歳から女に通ずる。これは封建社会の男女観に対抗するものであると言えよう。同時に、封建儒教思想への対抗である。次はこの作品の一節である。
 (略)
 44歳の時、「好色五人女」を書いた。「好色一代男」と違って、この作品は普通の家庭における男女恋愛を取り扱ったのである。内容はいずれも事実であったことを西鶴の手によって、加工潤色されたのである。第一巻はお夏と清十郎の物語である。姫路但馬屋の娘お夏は手代の清十郎と恋に陥り、二人がこっそり出奔したが、引き戻され、清十郎は盗嫌疑を受けて、死刑に処され、お夏は狂乱し、自殺を覚悟したが、止められて尼になる話である。

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下面是我随便译的作者介绍,可能有很多不太通的地方,就凑合着看吧.呵呵........
(一)        開高健
日本战后一代派代表作家。生于大阪市天王寺区东乎野。父亲是小学校校长。于1949年进入大坂市**学科,在学期间参加了同人杂志《铅笔》《文学室》的工作。大学毕业后,于1954年在三得利制酒股份公司宣传课就职。在此期间, 《近代文学》杂志发表《二人》、《声音》。
1957年以后真正步入文坛,同年8月在《新日本文学》杂志发表《恐慌》,10月和12月分别在《文学界》杂志发表《巨人和玩具》、《裸体国王》。《裸体国王》获芥川文学奖。成为日本战后一代派代表作家之一。与大江健三郎一起,蜚声文坛,开辟了一个战后一代派的文学时代。此后,著有《流亡记》,描写了中国古代万里长城的修建。
1968年发表《光辉的黑夜》这部小说取材于越南战争。
1971年发表《夏天的黑暗》。在这一期间的一系列作品,一方面赞美生命原始性的能量和集体的无政府主义的魔力,但同时又认为这种奔放的沸腾的力量又是浪费和徒劳的,作家对处于这种状态的人生怀着深深的怜惜之情。
60年代以后开高健参加了不少的社会和国际活动,1965年以朝日新闻社特派员的身份到南越,归国后号召成立了“越南和平联合会”。1968年以文艺春秋社特派员的身份去巴黎取材,1969年去当地观察中近东战争。他的不少小说以国际问题为题材,因此在日本国内有“国际作家”之称。1960年,开高健作为日本作家代表团成员曾来我国访问,对我国人民充满友好情谊。
作品风格:大多采取离奇的寓意手法,表现对资本主义社会黑暗现实的反抗情绪,以及个人在强大势力面前的无能为力。
(二)山本周五郎
日本时代小说大师,(1903-1967) 、出生於日本山梨县。横滨市西前小学毕业後,前往东京木挽町山本周五郎当铺当学徒。
1926年4月,於〈文艺春秋〉发表《须磨寺附近》,成为文坛成名作。第一回文艺春秋悬赏小说。
1943年曾以《日本妇道记》获得直木奖,但山本周五郎公开婉拒,在文坛引发不小震撼。
1958年完成大作《留下的枞树》,以後陆续写成《红胡子诊疗谭》(1958年)、《青舢板物语》等代表作。
1961年 《青舢板物语》 文艺春秋读者奖(辞领)。
山本周五郎的创作颇丰,并曾多次被改编为电影及电视。
过世那年,新潮社为了纪念他,推出了「山本周五郎小说全集」38卷。
1990年,新潮文艺振兴会设立山本周五郎赏。
(三)太宰治
日本战后新戏作派代表作家,生于清森县北津轻郡金木村的一个大地主家庭。本名津岛修治。父亲曾为贵族者员,并在本乡兼营银行。为防农民暴动,家筑高墙,太宰治住在这样的深宅大院里有种内疚和不安感,甚至出现了一种罪恶感,对他后来的小说创作有很大影响。太宰治在家中排行第六,日本战前的家长制和长子继承制给他造成了一种多余者的感觉,幼年时期的一举手一投足都要察看父兄的颜色。他在青森中学、弘前高校毕业后,于1930年考入东京大学法文科,在大学时代参加了左翼运动,后来转向,开始从事文学创作。
太宰治的创作生涯大致可以分为三个阶段
前期是1932至1937年,这是左翼运动被镇压的时代。著有短篇小说集《晚年》(1933~1936),共收入了40篇,这些短篇都充满了青春时期的热情,多角度地反映了作家自己的主张和内心世界。此后又发表《虚构的傍徨》(1936)、《二十世纪的旗手》(1937)等作品。
中期是1938至1945年。著有《女学生》(1939),获第四届北村透谷文学奖。此外尚有《童话集》(1945),发挥了作家奔放的想象力。
后期是1946至1948年,一般认为,太宰治的后期创作最有成就,战争刚结束,他就发表了《潘朵拉的匣子》和《苦恼的年鉴》等小说,提出了追求“丧失了一切,抛弃了一切的人的安宁”的观点,以农本主义的幻想批判战后虚伪的文人骚客。
在他战后的作品中,短篇《维荣的妻子》(1947),中篇《斜阳》(1947)、《丧失作人的资格》(1948),被认为是最优秀的代表作品。这些小说发表后,无不引起巨大的反响。《维荣的妻子》写一个出身贵族、生活堕落的诗人及其妻子自甘堕落以示对社会道德的反抗。《斜阳》反映了战后贵族后裔的社会地位日益衰落,荣华显耀的时代已付诸东流的主题。《丧失去作人的资格》是太宰文学最杰出的作品,取材于作者自己的生活经历,写一个性情乖僻的青年知识分子,饱尝世态的炎凉,绝望之余沉缅于酒色,最后自己毁灭了自己。从一定角度揭示了现代日本社会人的异化问题。
1948年6月13日太宰治因对人生感到绝望而投水自杀。他的一生经历了日本革命运动被镇压到日本战败这一大动荡的时代,日本评论家平野谦说:“太宰的死,可说是这种历史的伤痕所造成的”。
(四)大江健三郎
1935年1月31日生于爱媛县。1959年毕业于东京大学法文系。以学生时代所写的小说《奇妙的工作》登上文坛,翌年发表的《饲育》又获得了芥川奖。初期作品以描写“被监禁状态”的人物为主题,其特色是用富于感觉的文体表现战后青年一代虚无的生活态度。其后有代表性的作品是《我们的时代》、《孤独青年的休假》、《日常生活冒险》、《个人的体验》、《万延元年的足球队》、《洪水波及我的灵魂》、《人生的亲戚》和《安静的生活》等。他所探讨的主题是性与政治,从个人方面和社会方面研究现代人的生存问题,同时也涉及许多现实政治问题。因而他被认为是现代知识分子的代表人物之一。他一向以文学“接力赛第一棒”自居,精力充沛,创作欲旺盛,从1993年起,着手创作围绕森林和再生等一系列故事的三部曲——《燃烧起来的绿树》。
1994年瑞典文学院以其作品《个人的体验》、《万延元年的足球队》授予大江健三郎诺贝尔文学奖 。《个人的体验》这部长篇小说以作者的亲身生活经验为基础写成。大江健三郎生有一残疾儿子,后去广岛搞社会调查,对原子弹造成的迫害深有感触。小说表现了现代人的孤独,以主人公下决心承担起抚育畸形儿的重任为终局。小说获日本第十一届新潮文学奖。《万延元年的足球队》写两兄弟回四国山村故园寻根,却发现这个山村仍陷于百年前(即万延元年)农民起义的影响中。作品在暴动、自杀、通奸、畸形儿诞生等互相交织的社会场面中,插入维新精神和战后精神,无论在思想上和文体上都堪称大江健三郎的创作高峰。小说获日本第三届谷崎润一郎奖。
作品风格: 1994年大江健三郎获得诺贝尔文学奖,这是日本即川端康成之后第二位诺贝尔文学奖获得者。大江健三郎受萨特存在主义影响,他创作的一贯主题是描写人在闭塞现实社会中寻找失落的自我状态和寻求生存的状态。他的作品有着浓重的政治影子,通过文对政治事件和社会问题发表见解,他对天皇制的批判、对核武器的反对赢得了中国读者的尊敬。

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(五)安部公房
日本小说家。生于东京一个医生家庭,曾随父移居中国东北,在沈阳度过小学和中学时代。1940年回日本升学。1944年为逃避服兵役,休学来到沈阳。第二次世界大战结束后被遣送回国。1947年自费出版油印本《无名诗集》。1948年参加由现代派作家组成的“夜之会”。同年毕业于东京大学医学部,后弃医从文,走上职业作家的道路。
由于长期接受存在主义和超现实主义等西方现代派影响,所以他的作品往往具有特殊的场面、奇怪的情节、象征的手法和深刻的寓意,力图揭露社会的不合理性,并且探求解决问题的出路。
短篇小说《墙壁》是他获得芥川奖和确立文坛地位的作品,主旨在于表现人的孤独感。
重要作品有短篇小说集《闯入者》、中篇小说《野兽们向往故乡》、长篇小说《沙女》、长篇小说《旁人的脸》,剧本《幽灵在这里》和《朋友》,评论集《沙漠的思想》等。70年代以后的新作则有《梦的逃亡》和《笑月》等。他还写作剧本和评论,他所领导的“安部公房演奏室”专演他的剧本。 
安部公房在创作上袭用西欧现代派表现形式,深受卡夫卡的影响。他使用离奇的寓意手法,把现实生活和虚幻的情境交织在一起,描写个人的孤独和人在不可思议的力量面前的无能为力,表现资本主义制度下人的“异化”现象。
(六)川端康成
日本小说家。生于大阪市一个医生的家庭,幼失怙恃,由祖父母扶养;8岁又失祖母,16岁祖父亦亡,成为孤儿。他描写祖父之死的日记,后来稍事修改,以《十六岁日记》为题,于1925年发表。可以看出这种不幸的经历使他感到生命的脆弱。少年时代他受到外公家的扶养。入东京帝国大学英文系,后转国文系。1921年起与同好出版同人刊物。发表作品,以《招魂祭典一景》受到菊池宽赏识,结识横光利一,开始作家生涯,并以《伊豆舞女》(1926)等作品赢得新进作家的声誉。这一时期川端的作品,多以伊豆地方为题材,表现了纤细而敏锐的感觉和新颖的技巧,因而同横光利一等被称为新感觉派作家。
后来,这一派文学走向衰落,川端转以东京市浅草一带大众娱乐场所的女性为题材,创作了《浅草红团》、《浅草姊妹》等作品。此外,描写舞女生涯的《鲜花圆舞曲》和感叹人生悲哀等的《水晶幻想》、《童谣》和《女儿心》等,也是这一时期的主要作品。1935年开始发表、战后才修改完成的《雪国》以及战后问世的《千只鹤》(1949一1951)和《古都》(1961~1962)部作品,获得了1968年度的诺贝尔文学奖。川端康成喜欢清静,对佛教情有独钟,晚年的业余爱好是书法,汉字写得活灵活现,而内心却异常地矛盾。对于获奖后所带来的荣誉和涌来的慕名者,心里十分厌恶,这与幼年的心理封闭有关。
他战前和战时的创作,可以大致归为两类:
一类是描写他的孤儿生活,抒发他的孤独感情,描写他的失恋过程,抒发他痛苦感受的作品。《精通葬礼的人》、《十六岁的日记》和《致父母的信》等是这类作品的代表。由于所写的是他本人的经历和体验,所以往往具有描写细腻、感情真挚、激动人心的艺术效果;但也由于仅仅写他本人的经历和体验,并且自始至终充满低沉、哀伤的气息,所以思想高度和社会意义受到一定局限。
另一类是描写处于社会下层的人物,尤其是下层妇女(如舞女、艺妓、女艺人、女侍者等)的悲惨遭遇,表现她们对生活、爱情和艺术的追求的作品,《 招魂节一景 》、《 伊豆的舞女 》、《温泉旅馆》、《花的圆舞曲》和《雪国》等是这类作品的代表。这类作品比较真实地再现出这些被侮辱者与被损害者的不幸,比较充分地表达出她们的痛苦,作者对她们报以同情和怜悯。一般说来这类作品在思想价值上要超过第一类作品,其中如《伊豆的舞女》和《雪国》等名篇更是如此。
他战后的创作尤其复杂。
一方面,他仍然沿着《伊豆舞女》和《雪国》的道路前进,继续写作表现人们正常生活和感情的作品,其中或反映出社会存在的某些问题,或表达出对普通人民的同情态度,或流露出 作者积极 健康的审美情趣 ,如《 舞姬 》、《名人》和《古都》等堪称代表。
但另一方面,他又写出一批以表现官能刺激、色情享受和****为主题的作品,从《千鹤》、《山音》到《睡美人》、《一只胳膊》,他的作品、故事情节越来越离奇,在颓废的道路越走越远。
川端康成在极度忧郁、矛盾中选择了“最高的艺术”──自杀。
(七)芥川龍之介
日本小说家。生于东京,本姓新原,父经营牛奶业。生后9个月,母精神失常,乃送舅父芥川家为养子。芥川家为旧式封建家族。龙之介在中小学时代喜读江户文学、《西游记》、《水浒传》等,也喜欢日本近代作家泉镜花、幸田露伴、夏目漱石、森鸥外的作品。
1913年进入东京帝国大学英文科。学习期间,成为第3次和第4次复刊的《新思潮》杂志同人。1915年发表《罗生门》,并未引起文坛重视。1916年,大学毕业之前,在第 4次复刊的《新思潮》上发表《鼻子》(1916),受到夏目漱石的赞赏。
《芋粥》(1916)和《手绢》(1916)接连问世,从而奠定了作为新进作家的地位。
大学毕业后,在镰仓海军机关学校任教3年。1919年入大阪每日新闻社。1921年以新闻社海外特派员身份到中国游览,回国后写了《上海游记》(1921)、《江南游记》(1922)等。
芥川龙之介是新思潮派的代表作家,创作上既有浪漫主义特点,又具有现实主义倾向。
龙之介的小说始于历史题材,如《罗生门》、《鼻子》、(《罗生门》和《鼻子》根据古代故事改编,揭露风行于世的利己主义)、;《地狱图》(1918)(写一个服务于封建公侯的画师为了追求艺术上的成就而献出女儿和自己的生命,抨击暴君把人间变成了地狱)、《偷盗》等;继而转向明治文明开化题材,如《舞会》、《阿富的贞操》、《偶人》等;后写作现实题材,如《桔子》、《一块地》以及《秋》等。在创作中注重技巧,风格纤细华丽,形式、结构完美,关心社会问题与人生问题。
芥川晚期的作品,反映了他对贫富悬殊的社会现实的幻灭感。1927年初,发表《玄鹤山房》,通过老画家之死,揭露家庭内部的纠葛,反映了人生的惨淡和绝望心情,暗示旧事物的衰亡和新时代的来临。写这篇作品时,芥川已萌自杀的念头,使以后的作品如《海市蜃楼》等充满了阴郁气氛。《河童》(1927)通过虚构的河童国,抨击人吃人的资本主义制度。
遗作《齿轮》和《某傻子的一生》(1927)描述作者生前的思想状态。1927年发表短篇《河童》,对资本主义社会及其制度作了尖锐的嘲讽。
同年7月由于健康和思想情绪上的原因,服毒自杀,享年35岁。在短短12年的创作生涯中,芥川写了148篇小说,55篇小品文,66篇随笔,以及大量的评论、游记、札记、诗歌等。 
他的每一篇小说,题材内容和艺术构思都各有特点,这是他在创作过程中苦心孤诣地不断进行艺术探索的结果。他的文笔典雅俏丽,技巧纯熟,精深洗练,意趣盎然,别具一格。在日本大正时期的作家中占有重要地位。
为了纪念芥川在文学上的成就,从1935年起设立以他命名的“芥川文学奖”,它一直是日本奖励优秀青年作家的最高文学奖。
(八)夏目漱石
幼年时曾送给他人做养子,度过一些不幸岁月。后辗转归家复姓。少时喜读汉诗文、涉猎大量汉文学著作。1888年考入第一高等中学。与同学——后来的俳句运动倡导者正冈子规结为挚友,并受其影响创作了许多汉诗文,收在《木屑集》里,从此明确了“以文立身”的人生宗旨。1890年,升入东京大学英文科,1893年毕业后在东京高等师范学校主教英文。同时积极参与正冈子规的俳句革新运动。两年后他辞职到爱媛县松山中学任教,次年转入熊本第五高等学校。
  1900年,由文部省选送英国伦敦留学。他阅读了大量英国和欧洲其他国家优秀的文学作品、理论著述,体验了西方近代文学创作的新视角、新技巧,为其后文学评论和创作奠定了基础。1903年返回日本,任第一高等学校英语教授和东京大学英国文学讲师,并常给《杜鹃》杂志撰写俳句、杂文类稿子。1905年发表了《我是猫》第一章。反响强烈。接着中篇小说《哥儿》、《旅宿》和短篇小说集《漾虚集》等接踵而出,夏目漱石一跃而为日本文坛的知名作家。1907年,他辞掉教职,从事专业创作,探讨爱情与遗产问题的长篇小说《虞美人草》开始连载,接着又陆续发表了《三四郎》、《其后》、《门》三部曲。《门》付梓不久,赶上大逆事件冲击文化界,他的创作由批判客观现实转向披露主观世界。代表性作品有《过了春分时节》、《行人》、《心》三部曲。他一生中最后的作品是自传体小说《道草》和未完成的《明暗》。
本名は夏目金之助。庆応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込马场下横町に
生まれる。帝国大学文科(东京大学文学部)を卒业後、东京高等师范学校、松山中学
、第五高等学校などの教师生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高
等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作『吾辈は猫である』を発表。1906年『坊っ
ちゃん』『草枕』を発表。1907年教职を辞し、朝日新闻社に入社。そして『虞美人草
』『三四郎』などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、『明暗』
の连载途中に胃溃疡で永眠。享年50歳であった。
主要作品
我是猫(吾辈は猫である)——1905年
哥儿(坊っちゃん)——1906年
虞美人草——1907年
三四郎——1908年
从此以后(それから)——1909年
门——1910年
过了春分时节——1912年
行人——1912年
心(こころ)——1914年
道草——1915年
明暗——1916年,遗作
(九)島崎藤村
诗人、小说家,日本近代诗的奠基者。本名春树。1872 年3月25日生于长野县,卒于1943年8月22日。1887 年进明治学院,并与北村透谷等人共同创办《文学界》,投身于浪漫主义文学运动。1896年前往仙台任教,创作诗集《嫩菜集》,获得了新体诗人的名声。其后相继发表 《一叶舟》、《夏草》和《落梅集》等诗集,以洗练的雅语和流畅的诗体歌咏青春的悲欢,为日本近代诗开拓了道路。
随后,他的兴趣转向散文,并于1906年出版了第一部长篇小说《破戒》。这部作品以贱民出身的青年教师濑川丑松为主人公,尖锐地揭露了封建身分制度的罪恶,获得社会好评。藤村的自然主义代表作家地位由此确立。回忆《文学界》时代的《春》和描写世家没落史的《家》,开辟了自传体长篇小说的新领域。1913~1916年间,为摆脱恋爱苦恼而流亡法国,归来后决心以小说形式进行忏悔并求得新生,其结果是《新生》的发表。
藤村最后一部杰作是1929~1935年间发表的宏大历史小说《黎明之前》。该书以主人公青山半藏为中心,表现明治维新前后人们的苦恼,饱含着作者的理想、憧憬、痛恨和怀疑。岛崎藤村是一位既勇于剖析自己,又敢于揭露社会的作家。
他是日本笔会第一任会长,1943年逝世,终年七十二岁。

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 楼主| 发表于 2008-4-23 22:22:14 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:59 编辑

(十)森鴎外
日本小说家、评论家、翻译家。本名林太郎,号鸥外。1862年7月9日生于日本石见(今岛根县)鹿足郡一藩主侍医家庭。从小受到良好的国学、汉学和兰学(江户时代中期以后由荷兰传入日本的西方学术)教育。1882年毕业于东京第一大学医科学校,曾任陆军军医。1884年赴德国留学,广泛涉猎欧洲古今名著,深受叔本华、哈特曼的唯心主义影响,哈特曼的美学思想成为他后来从事文学创作的理论依据。1888年回国,历任军医学校教官、校长、陆军军医总监、陆军省医务局长等职。晚年担任过帝室博物馆馆长、帝国美术院院长职务。1922年 1月19日逝世。
森鸥外留学归来,以启蒙家的姿态开始文学活动。他翻译西方著名作家歌德、莱辛、易卜生等人的作品,同时创办《栅草纸》等文学刊物,介绍西方美学理论,开展文艺批评,并致力于戏剧改良、诗歌革新活动,在日本近代文学中产生过较大的影响。
1890年发表的处女作《舞女》,连同他的《泡沫记》和《信使》被认为是日本浪漫主义文学的先驱之作。《舞女》的主人公是一个留学德国的日本青年官吏,为了追求个性解放和纯洁的爱情,他曾爱上一个德国穷舞女,但在日本专制官僚制度和封建道德的压力下,终于遗弃了她,酿成爱情悲剧。作品反映了个性解放的要求与社会现实的矛盾,最终却与现实妥协。一般认为它是日本近代文学初期的代表作品。
1910年前后,森鸥外写了《青年》、《雁》等取材于现代生活的小说。
1910年日本政府制造了所谓“大逆事件”,加强了对思想文化界的专制统治,森鸥外开始转向历史小说的创作。他把自己的历史小说分为“遵照历史”和“脱离历史”两类。前者完全依据史料写作,后者则借助历史事件的描述来表达作者的理想和信念。
第一篇历史小说《兴津弥五右卫门的遗书》,赞美武士殉死行为。但紧接着创作的同一题材的短篇小说《阿部一家》,却客观地抨击了这一封建道德行为。阿部一家由于未被允许为藩主殉死而受到歧视,终致满门被杀戮,揭示了封建殉死制度的虚伪、腐朽和惨无人道的实质。这两篇倾向不同的作品反映了作者世界观上的矛盾。
作者晚年埋头于史料的考证,也写过几部人物传记,如《涩江抽斋》等。所传人物多为专心学术、不问世事的学者,表现作者晚年企图摆脱世俗的心境。
作品风格:侧重于体现他的伦理道德观,反映了明治时期上层知识分子思想上的矛盾。早期作品文笔优美,抒情气氛浓郁。后期大多数作品,特别是历史小说,往往采取冷峻客观的笔调。
好奇怪,后面的弄丢了,不知道哪去了...
找找看,把其它的补充进来.

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发表于 2008-4-24 12:18:57 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:59 编辑

LZ你太可爱了
前面的内容好像是大连出的那本书上的
不过,还是含盖不了本次的真题啊
出得太细了

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发表于 2008-4-24 20:09:29 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:59 编辑

楼主真是好人啊!!这次4月份考了这门,拿到试卷脑袋就一片空白了,眼前发黑,根本没有考作品,整一个考的文学史,那些题目让人发疯!胡乱选择完,30分就交卷(考场好像大家都很快交卷了)。
变态的出题啊!

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发表于 2008-4-24 22:34:07 | 显示全部楼层

日本文学选读很难

本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:59 编辑

日本文学选读很难,与课本的基本两回事。以上的资料还不够。
请问楼上大哥看哪本书好一点?

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发表于 2008-4-24 22:41:30 | 显示全部楼层
各个书店找过了,目前市面上好象没一本复盖全部的书,真是头大了!广外的老师也不出一些相应的辅导书籍,哪怕范围广一点,起码可以知道看那本书啊!
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发表于 2008-4-26 11:48:29 | 显示全部楼层
严重感谢楼主
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发表于 2008-4-28 13:40:11 | 显示全部楼层

我也是!!考了30分排队出来的

我在青岛考试的时候还都是考作品啊 思想啊 归纳什么的
这次考的完全是ABC
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发表于 2008-5-1 18:56:30 | 显示全部楼层
我之前就听咖啡网友介绍过大连出的这本《日本文学史》,本次应考就在这本书上花了一些时间,确实考了里面部分内容,但有些题就很细,能不能过也没底,可能只看这一本书还是不够范围。
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