五 黒船来 (3)
ペリーの艦隊が浦賀に来た真相は、ずっと後になって竜馬がイギリス人グラバーから聞いたものだが、本はといえば鯨が目当てだったらしい。
そのころまでの英米の捕鯨船団は大西洋を漁場にしていたが、濫獲しすぎたためしだいに漁獲高が減ってきた。
ために、かれらは新漁場をもとめて冒険的な航海をしたが、やがて太平洋、特にその北部に鯨がおびただしく群棲していることを知った。
ところが、港がない。母港を遠くはなれ太平洋で活躍するには貯炭所が要る。当時の船は蒸気船とはいえ、積み込んでいる石炭だけでは一週間も走れば空になってしまう。
結局、寄港地を日本列島に求めた。
かれらはこの国がかたく鎖国して港を開かないことを知っていたから、艦隊の威容を見せることによって強引に開国を迫ったのである。
(これはこれは)
そのときの竜馬は、そんなことは何も知らない。ガケってぷちまで這い進んで、
(まるで鯨の化け物のようじゃなあ)
海上に浮かぶ四隻の黒船を見下ろして舌を捲いた。
(あの船、一隻でもよい。俺のものにならぬものか)
無邪気なものだ。子供が、玩具をほしがる心境だった。
(はて、生け捕りの法はないか)
たった四隻、艦砲八十門で、幕府が震え上がっている出ある。竜馬が黒船の一隻を持ち、内海を遊弋してまわれば、優に百万石の大名以上の武力はあり、船長たる竜馬は、三百諸候の上に君臨できるではないか。
(一隻で大名じゃ)
竜馬は、空想した。
(大名になれば、なにをするか)
考え抜いてから、奇想天外な案を思いついた。
(いっそ、みんな大名にしてやればどうじゃ。侍はおろか天下の百姓、商人、職人、すべてを大名にする。みな一人一人でふんぞり返らせのじゃ。あっははは、これはおもしろい。源おんちゃなどは、びっくり仰天しよるぞ。乙女姉上は、さしずめ女大名じゃ。いばるだろうな)
そのとき、不意に草をする音がきこえて十人ばかりの武士が竜馬を取り巻いた。
「もし。ここでなにをなされておる」
竜馬は寝返りを打ち、夢からさめたような眼で、にやっ、と笑った。
「黒船を見ている」
といった。
「ここからよう見えるぞ。あなたがたも、見に来られたか」
「だまらっしゃい。われわれは彦根井伊家の者で、この台場を警備している。貴殿の藩名、お名前をうかがいたい」
竜馬はだまっている。
「この男、不審である。番所へひっ立てい」
「待って」
何か一工夫思いついたらしく、立ち上がって一同の顔を見回した。
「君たち、考えてみろ」
竜馬は、井伊侍の一人一人の眼に柔らかい視線をあてがいながら言った。一同、つい、このえたいの知れぬ青年の微笑に誘われて沈黙してしまった。
「井伊家といえば、御譜代の旗頭で、三河以来武勇で知られた家だ。戦国このかた戦えば必ず勝ってきた。こうして一人一人の顔を見ても、君たちはなかなかの武辺者ぞろいだということがわかる」
「ふむ?」
みな、妙な顔をしている。
「そうだろう、君」
と、竜馬は、この中で一番身分の高そうな色の白い若侍に問いかけた。
「どうだ」
「まあ、そうだ」
「遠慮することはない。人は、誇るべきこてはうんと誇るほうがいいのだ。物の本で読むと、井伊家は、藩祖直孝以来、全軍朱具足で朱の旗をかかげるという。井伊の赤備えといえば、戦国乱世のころは、赤武者の姿を見ただけで敵は震え上がったと聞いている」
「ちょっと待ってくれ。君は、何者だ」
「まあ、いい」
手でおさえ、
「俺の名などはどうでもいいのだ。おれはいま井伊家のことを言っている。浦賀の警備にわざわざ井伊家が選ばれたのを見ても、おれは井伊の赤備えの武勇が今日尚生きていると思って、肌の毛がそくそくと粟立つほどに感動したのだ。ところがどうだ、君たちには、実に困る」
「な、なぜだ」
「おンしらは、敵を間違うちょる」
つい、土佐言葉が出た。
「敵はどこにいる。あの黒船ではないか。黒船を見物していた俺ではない。おれをひっとらえて番所にひったてたところで、黒船は沈まん。幸い、君たちは武勇の家の子である。どうだ、ここで俺と会うたのを幸い、みんなであの四隻に黒船に内一隻でも奪い取りに行かんか。勝算はある」
(こいつ、狂人か)
みんな、あきれた。
竜馬は、真剣である。十一人が夜を待ち、岬の陰から小船を繰り出して黒船に漕ぎ寄せるのだ。
「船べりに近づくと、このうちから剣術達者五人を選んで素裸になり、刀一本を担いで海に入り、反対側の船べりにまわる。黒船の連中が小船に気を取られている間に、裸組は縄をなげて舷側をよじ登るのだ。あとは西洋のサーベルなどは、日本刀の前に敵ではない。ましてわれわれは井伊家の赤備えだ」
(われわれ、ときたな)
一同、顔を見合わせたが、そのうちの一人で先ほどから首をひねっていた男が、
「あっ、先夜、藤堂の陣屋を騒がした男というのは、こいつではないか」
「なるほど、通牒通り土佐なまりだな」
「不審な」
鯉口を切った。
「ひっとらえろ」
竜馬の努力は無駄だった。やむなくガケを飛び降りて逃げ出そうとしたとき、海を見て棒立ちになった。
黒船が動いてる。江戸湾の内浦に向かって突進しはじめているのである。
「おい、見ろ、戦だ」
四隻の黒船はにわかに浦賀沖で抜錨し江戸に向かって突進しはじめたのは、あとでわかったことが、測量のためだった。
幕閣をはじめ、沿岸の諸藩の警備陣、さらに江戸市民は肝のつぶれるほどに驚き、非難騒ぎが起こった。
しかし黒船どもの真意は、たんに測量だけでもなかった。品川の見えるあたりまで近づき、日本人を脅すために轟然と艦載砲をうち放ったのである。もはや、外交ではない。恫喝であった。ペリーはよほど日本人をなめていたのだろう。
この品川沖の数発の砲声ほど、日本歴史を変えたものではない。
幕閣が震え上がって開国へ徐々に踏み切る決意をしたのはこの時だし、全国に、猛然と志士が立ち上がって、開国反対、外国人打ち払うべし、の攘夷論が、黒煙りのごとく天下を覆い始めたのは、この時からであった。同時に、近代日本の出発も、この艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといっていい。
泰平のねむりをさますじやうきせん
たった四はいで夜もねられず。
当時こういう落書きが、何人の手によるものか、江戸の市中に張り出された。上喜選というのは上質の銘茶で、これを蒸気船にかけ、たった四はい飲んだだけで上も下も夜も眠れずに昂奮していることを皮肉った。
おそらくこの黒船の様子に一番驚いたのは、つい眼と鼻の浦賀村小原台にガケの上にいた竜馬と十人の井伊侍だろう。
「いかん、戦じゃ」
井伊侍は、竜馬の存在などはすっかり忘れて、自分たちの持ち場へ帰るためにちりぢりになって山を駆け下りた。
竜馬も走った。
(あの船の様子でな、品川を襲うぞ)
品川には、土佐藩の陣地がある。そこを抜け出して、こんな半島の先端にまで黒船見物にやってきた自分が、いまさら後悔される。戦に出遅れるのは、武士としてこれほどの恥はない。
(いかん、おれはどうかしちょる)
道のないところを駆け下りるものだから、何度も転んだ。起き上がっては走るのだが、また転ぶ。しまいには、わざとコロコロ転がってやった。このほうが早い。
街道へ飛び降りると、うまいぐあいに鞍まで置いた馬がつないである。さきほどの井伊侍のうちの組頭の持ち物らしい。
(えい。馬泥棒じゃ)
脇差で熊笹を刈り取ってムチ代わりにし、馬上に飛び乗るや、一散に駆け出した。
背後で騒ぐ声が聞こえたが、振り向きもしない。
竜馬は、品川陣屋へ飛ぶように駈けた。坂本竜馬は、この時から、自分の人生に向かって飛ぶように駈け始めたといったほうが当たっているだろう。
竜馬は、品川付近まで来ると馬から飛び降り、折りよく通りかかった宿場の馬子を呼び寄せて金をにぎらせ、
「すまぬが、この馬を浦賀の井伊陣屋の近くまで引いて行って、街道脇の松にでもつなぎ捨ててくれ。もし見つかっても、これこれの人相の男に頼まれた、などといったあ、いかん」
無事、品川に戻った。
藩邸に帰ると、武市半平太が出てきて、
「黒船は捕まえたか」
「つかまらん」
「お前の不在のことは、組頭どんに上手に言い繕うちょいたゆえ、黙って隊務にはげんじょればええ」
「ありがたい。組頭どんは、えたい怒っちょったろう」
「怒っちょらん」
「それはまたなぜじゃ」
「意外なことじゃったが、藩邸では、もともと坂本竜馬ちゅう名前が名簿から抜けちょったわい。組頭どんは、そンな名の奴、いるのか、とあらためて驚いちょった次第じゃ」
「馬鹿(べこのかあ)にしちょる」
これですんだ。
ところで竜馬が数日藩邸を留守にしている間に、軽格の連中の空気がひどく変わっているのに驚いた。
殺気だったいる。
黒船の人もなげな恫喝ぶりを見聞きして、すっかり激昂してしまったらしい。
「夷狄攘(いてきう)つべし」
「公儀は、なんと弱腰か」
「一戦して日本刀の切れ味をみせておかねば世界中の夷狄が日本を馬鹿にし折るぞ」
竜馬も、すっかり攘夷論になった。後年かれはある時期から一変して開国論者になった男だが、かといってこの当時、武士にして攘夷論を持たない者があるとすれば、それは、男ではない、とさいえる。
当時の日本人は、極めてまれな例外を除いて、たれも海外知識をもっていない。むろん、三百年の鎖国という社会の環境がさせたことで、日本人の無知によるものではなかった。
攘夷論が起こるのは、当然であった。個人の場合に置き換えて考えてみればわかる。
突然玄関のカギをこじ開けられて見知らぬ者がやってきて、交際を強い、しかも凶器を見せながら恫喝をもってしたのである。ぺこぺこしてその要求にたやすく屈するほうが、人間としてどうかしている。
まあ、いい。
われわれは、そろそろ竜馬をこの黒船騒ぎから解放させよう。
事実、この黒船騒ぎは、ほどなく、静まった。竜馬が品川藩邸に戻った二日のちに、黒船そのものが錨を抜いて日本を去ってしまったからである。
諸藩の警備態勢も解かれた。
竜間は久しぶりに江戸に戻って、再び二剣術に熱中しはじめた。
とことが八月も暮れようとするある日、鍛冶橋の藩邸に、思いもかけぬ人物が尋ねてきた。
盗賊寝待ノ藤兵衛である。竜馬が、
「これァ、なつかしい」
と長屋の一室に招じ入れると、藤兵衛は他に人がいないのを確かめてから、急に声を潜め、
「旦那、頼みがあるんだ。藪から棒にこういうのは何だが、旦那は人が斬れますかね」
と言った。 |