▼旧制一高の入試に挑んだ国語学者の大野晋さんは、落ちたらパン屋になろうと思っていたそうだ。合格発表には父親が行ってくれた。首尾よく合格していた。何番で合格だったかと聞くと、父親は一息おいて「お前の後には誰もいないよ」(『日本語と私』)
据说曾经向旧制第一高等学校(注:旧制第一高等学校是东京大学前身)的入学考试发起挑战的国语学者大野晋先生,考不上的的话就打算去做面包师。成绩发表是由父亲去的。顺利考上了。当问到是以第几名合格时,父亲歇了一口气说:“无人在你之后”(《日本语和我》)
▼28人中28番。日本は腕の良いパン職人を失ったかもしれないが、優れた国語学者を得た。日本語の源流を追って時を超え、海を渡り、旅を続けてきた。その大野さんがきのう、88歳で亡くなった
28个人中的第28名。日本也许失去了一位手艺高超的面包师,却得到了一位优秀的国语学者。追寻着日本语的源流,超越时空,远渡重洋,持续旅行。这样的大野先生昨天去世了,享年88岁。
▼東京の下町の砂糖問屋に生まれた。中学時代、山の手の級友宅へ遊びに行き、シチューやピアノに驚いた。同じ東京なのに言葉づかいも食べ物も違う。ショックを受けて下町へ帰ると、慣れ親しんだ「日本」があった
(大野先生)出生在东京庶民区的一个砂糖批发店。中学时代,去高岗住宅区的同班同学家玩,对热浴室和钢琴感到吃惊。虽说同样是东京可是言辞和食物去大不相同。受到打击之后回到庶民区时,那才是亲切而熟悉的“日本”。
▼そうした体験をへて、「日本とは何か」が終生をかけた問いになる。還暦を過ぎて、南インドのタミル語に日本語の起源があるなどと発表して論争を呼んだ。大胆さゆえに批判もわいたが、信念はゆるがなかったようだ
有过那样的体验之后,“何谓日本”成为他终生的疑问。过了花甲,大野先生发表的南印度的泰米尔语是日本语的起源的论点引起了很大的争论。因其大胆而批判如潮。但是,信念却没有因此而有过动摇。
▼硬軟織りまぜて日本語の知恵袋であり、ご意見番でもあった。小紙の記事も、疑問には大野さん頼みが目立つ。たとえば、開店祝いなどで「〇〇さん江」となぜ書くか。大野さんいわく、「へ」だと「屁(へ)」を連想するからでは?
(他是)软硬交织的日本语的集大成者,也是意见达人。本报的有过这样的报道,对于解答疑问大野先生是足以信赖的。比如说,问到他祝贺开店之类时为什么写“〇〇先生江”时,(注:“江”这个字的日语读音也可发成「HE」)。大野先生的解释是,如果写成“へ”(注:“へ”也读HE,在这里是指给的意思)的话,不是很容易联想到“屁”(注:屁的读音也可发成这个「HE」音)这个字吗?
▼最近の文芸春秋誌の鼎談(ていだん)では、日本人が日本語を放棄しているようなカタカナ語の氾濫(はんらん)を嘆いていた(6月号)。交友のあった作家の丸谷才一さんは「本居宣長よりも偉い最高の日本語学者だった」と悼む。宣長と雲の上で、日本語談議を始めるころだろうか。
在最近的文艺春秋杂志“鼎谈”中,于感叹日本人好像已经渐渐放弃使用日本语,而片假名的使用开始泛滥的趋势(6月号)。大野的朋友作家丸谷才一悼念说:“他是比本居宣长还要伟大的成就最高的日本语学者”。(大野先生)大概已经在天堂里和宣长开始谈论日本语了吧。 |