■1007《天声人語》伊莎贝拉·芭德
昨日の早朝、久々の強い日差しに誘われて散歩に出た。秋霖(しゅうりん)というには荒々しい前夜までの風雨で、空も町も洗われている。木々の葉先に、しずくが光る。木漏れ日が、きらめく。季節は違うが〈あらたふと青葉若葉の日の光〉を連想した。
昨天清晨,被久违了的艳丽朝阳所吸引出去散了步。连绵的秋雨直下到昨夜方见停息,天空和大街都被洗刷一净。树木的枝叶上尚挂着闪光的水珠,透过枝叶的阳光辉映闪耀。虽然已过了季节,但还是让我联想起了芭翁的俳句“又见青翠嫩叶之日光。”
芭蕉がそう詠んだ日光を経て、英人旅行家イザベラ・バードが北へ向かったのは、1878年、明治11年だった。彼女は、行く先々で好奇の目にさらされる。
英国旅行家伊莎贝拉·芭德在途经了芭蕉所吟颂过的日光(注:日光是日本的观光胜地)之后,继续向北行进,那是1878年(明治11年)的事了。她所到之处人们都对她投下了好奇的目光。
宿の外に千人もが集まったこともあったという。町はずれまで警官が付き添う。「一千の人びとが下駄をはいて歩いてくるときの騒音は、雹(ひょう)がばらばら降ってくる音に似ている」(『日本奥地紀行』東洋文庫)
在她宿驿处的外面据说竟聚集了上千人围观,此间一直由警察相随直至她离开为止。她写道“上千人穿着木履走来时的噪音简直就象哗啦啦下冰雹的声音一样。” (『日本腹地紀行』東洋文庫)
みそ汁が「ぞっとするほどいやなもののスープ」に見えたなど、食べ物の違いや、ノミや蚊にも悩まされた。それでも、東北を経て北海道まで約3カ月の旅を全うした。
她还被饮食的差异和跳蚤、蚊子等所困扰,她把酱汤看成是“令人恶心的汤”。即使是在这样的情况下,她还是完成了途经东北直到北海道的大约历时3个月的旅程。
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない……抱いたり、背負ったり……手をとり……子どもがいないといつもつまらなそうである」。学校教育が進む以前の日本の家庭や親子関係を活写しており、今日でも考えさせられる所があると、民俗学者の宮本常一さんは述べている(『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』平凡社)。
“我从没看到人们这么疼爱自己的孩子……有抱着的,有背着的……有搀着手的……孩子一不在身边的话就会是一副无聊的样子”。民俗学者宫本常一先生说:“这生动地描写了进入学校教育以前的日本的家庭和亲子的关系,就是现在也颇具令人思索之处”。(读伊莎贝拉·芭德的《日本腹地纪行》平凡社)
彼女は朝鮮や中国へも旅した。そして、100年前の10月7日、英エディンバラで他界した。72歳で、病床でも日露の戦争の行方を気にしていたという。もう一度アジアに行くつもりで、旅行カバンは常に用意されていた(『英国と日本』博文館新社)。
她还去了朝鲜和中国等地旅行。之后于100年前的10月7日,在英国的爱丁堡(Edinburgh)市去逝,享年72岁。据说在病床上还在关心日俄战争战况。我打算再一次去亚洲,因此旅行包是一直准备着的(『英国と日本』博文館新社)。
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イザベラ・バードについて
Isabella Bird1831年、英国ヨークシャーのバラブリッジに生まれる。父エドワードはケンブリッジ大学を卒業後、弁護士を経て牧師になったが、病弱。イザベラも生まれつき病弱で19歳で手術を受ける。その後、健康のため航海を勧められ、世界各地を転地、療養のために旅行した。1878年、47歳で日本に6ヶ月間滞在し、1880年に「日本奥地紀行』を出版。1904年、72歳で病死するまで4回来日した。また、9冊の世界各地の旅行記を出版した。 |