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[其他] 基础(二)课文

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发表于 2008-12-5 15:51:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 07:37 编辑

第一課 めくらになった名僧
八世紀も半ばごろのことでした。
奈良の都は、毎日、たいへんな騒ぎでした。東大寺という大きな寺の大仏が、やっとできあがったからです。「大仏開眼」といって、大仏が完成したことを祝う儀式が行われるのも、もう間近いことでしょう。
ところで、このお祝いを前にして、聖武天皇は、心の中で、一人の人を待っていました。
「こんどの式に間に合えばよいが……。」
もう何年も前から、待ちわびている人があったのです。しかし、どういうわけか、その人をむかえに行った使者からのたよりは絶えて、すでに何年にもなります。
「いったい、来てくれるのだろうか、だめなのだろうか。来てくれるならば、この晴れの日にぜひ、間に合ってもらいたい。」
聖武天皇は、そのことばかりを考えていました。いったいだれを、そんなに待ちわびていたのでしょうか。
話は十年ばかり前にさかのぼります。
そのころ、日本には、中国から、おおぜいの僧が渡ってきていました。また、これとひきかえに、日本からも、毎年何人かの留学僧が、海を渡って中国へ出かけて行きました。
「中国から、すぐれたお坊さんを、ひとりつれてきてもらいたい。」
ある年、ふたりの留学僧が、聖武天皇からこうたのまれました。というのは、そのころの日本には、戒を授けることのできる僧がいませんでした。天皇はそれのできるえらい人がほしがったのでした。
戒と言うのは、仏教で、僧たちが守らなければならない規律のことです。僧たちの間では、やってはいけないことがいくつかきめられてあって、それを守ることができなければ、一人前の僧にはなれません。そして、その規律を守ることができるようになったとき戒を受けるのです。
日本でも、仏教が盛んになって、戒を受けることができる僧はたくさんいました。しかし、戒を授ける資格をもった僧は、ひとりもいなかったのでした。
中国へ渡った二人の僧は、唐の揚州という所に鑑真という、すぐれた僧のいることを聞きました。この人に来てもらえたら、というので、はるばるたずねていきました。そして、ことばをつくして、どうか日本へ来てくださるようにと、頼んだのでした。
鑑真は、子供の時から、熱心な仏教の信仰を持ち、十八歳のころには、もう一人前のすぐれた僧になっていました。かれは海の向こうの日本から、ふたりの僧がわざわざ自分を招きに来た、その熱心さに心を打たれました。そして、遠い見知らぬ日本の国へ渡る決心をしました。
鑑真は、そのころすでに五十歳を越えていました。かれが行くことになったので、何人かの弟子たちも、いっしょに行くことになりました。一同は、さっそく、その準備に取り掛かりました。あくる年には船を出すことになりました。
しかし、この旅行は、そう簡単には、運びませんでした。せっかく海に出た船は、大しけにあって、難破してしまいました。やっと助けられて、命からがら陸にあがると、次の出発まで、また船を用意したり、いろいろの準備に手間取りました。
やがて準備ができて海に出ると、こんどは海賊に襲われました。だいじな物を取られたりして、また、むなしく、戻らなければなりませんでした。そればかりでなく、鑑真の渡航をねたんで、いろいろのじゃまをする人たちもありました。
一行のうちには、たび重なる失敗に、すっかりいくじがなくなって、こんなばかげた旅をするのはやめようじゃないか、などという者も出てくる始末でした。苦しいことが続くので、つい仲間割れをして、けんかが始まったり、自分だけ、得をしようとする人が出てきたりしました。
そんなときにも、鑑真は、いつもだまって、ひとりでがまんをしているのでした。どんなときでも、その顔からは微笑が消えません。人々は、その微笑を見ると心を励まされ、また、旅を続けようという、勇気がわいてくるのでした。
こうして、何度か失敗が重なりました。
悪いときには悪いもので、そのうち、日本から迎えに来た僧のひとりが病気にかかり、とうとう、旅の空で死んでゆきました。だいじな人に死なれて、鑑真がすっかり力を落としてさびしくしているとき、こんどは、この人のあとを追うように、一番弟子がなくなりました。
つえとも柱ともたのむふたりの死は、鑑真にとっては、おおきな痛手でした。年をとっていることではあるし、重なる苦労に、鑑真のからだも、だんだん弱くなっていくのでした。大きな不幸が鑑真にも訪れたのは、このころでした。
ある日、弟子のひとりは、鑑真が手探りで、何かごそごそやっているのを見て、びっくりしました。目が見えないのでした。長い間の疲れが、とうとう、この年とった僧を失明させてしまったのです。
鑑真は、それでも微笑を忘れませんでした。そして、どこまでも、日本へ行く志を捨てませんでした。これから日本へ行って、自分のする仕事を考えるとき、鑑真の心は、ほのおのように燃え、光を失った目は、明るく輝くように思われるのでした。
五回の旅の失敗ののち、六回目に、鑑真は、とうとう日本に着くことができました。ちょうど、日本へ帰ることになっていた遣唐使の船に乗って、九州について、無事に奈良の都へ来ることができたのです。この旅を思い立ってから、実に十一年目でした。
唐の国でも名の聞こえていた鑑真が来たというので、奈良では、聖武天皇はじめ、たくさんの僧たちは、ひじょうに喜びました、あの大仏開眼からは、すでに二年の月日がたっていました。めくらになってその苦しさをがまんして、はるばる海を渡って来たこの名僧を、人々はていちょうにもてなしました。
あくる年、東大寺の前で、天皇をはじめ、五百人にあまる僧たちが、めくらの鑑真から初めて戒を受けました。鑑真が戒を授けた所は、戒壇院といって、今も東大寺の中に残っています。
鑑真は、その後、広い土地を朝廷からもらって、りっぱな寺を建てました。そして、多くの人々を教え導きました。ふたたび、故郷の唐へ帰ることもなく、十年ほどたってから、その寺で一生を終わりました。七十七歳だったと言われています。この寺が、いまも奈良の南にある唐招提寺です。
若葉して御目の雫脱ぐはばや   芭蕉
唐招提寺に残されている鑑真の像を見て、江戸時代の俳人芭蕉が作った句です。「かがやかしい新緑のやわらかい若葉で、めくらになった鑑真の目にたたえられたなみだを、ぬぐってあげたいものだ。ああ、どんなにつらい目にあわれたことだろうか。」
という気持ちをよんだものです。鑑真の像は、天平期の傑作と伝えられています。気品の高い名僧の面影が、今でも、仰ぎ見る人の心を打ちます。

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