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1.自分の思っていることを言い表すのに、言葉というものがいかに不備で不適切であるかということの自己告白であり、そこに日本人の言葉観を見ることができる。
表达的思想,他的自我忏悔,这是不正确或不完整的方式,也就是说,我们可以看到的观点。
2.この頃はマス•コミョニケーションをマスコミというふうに、フルネームを略語化することが多い。しかし「どうも」の場合は表現の簡略化であって、マスコミという時のように言葉の単なる簡略化とは違う。
这种情况下,大众传播媒介被简写成大众传媒 。整个名字的缩略,这种情况很多。但是, “どうも”如果表达是一种简化,简化的语言一样,大众传媒却是不同的。
3.大体、東方の君子国である日本には、挨拶言葉一つにも、面倒な仕来りや決まりのようなものがある。それに、こうした慣用句は言わば紋切り型になって、白白しい感じを相手に与えることにもなる。「どうも」―この一語のほうにどれほど情感が籠もることか。
通常情况下,对于东方的礼仪之国日本来说,作为问候表达的一种方式,,是一种繁琐的规则。此外,这个惯用语已经定型,。。。。。。。 “どうも” 这一词包含了所有的情感。
4.つまり「どうも」は多言的状況を抽象的に処理することができるわけだ。人間関係が複雑になればなるほど、ますます効用が発揮されるのである。
总之,“どうも”的多义性是能够进行抽象处理的原因。人际关系越复杂,就越能发挥其效用。
5.こう考えてみると、「どうも」という言葉は物事の判断を中止し、判定することを回避するという機能を持っているようだ。
从这个角度考虑,“どうも”这种表达式对事物判断的终结,也有避免做出判断的功能。
6.「どうも」が持つ多義性はこうした原則脫落・判断中止・断定回避性から出てくる。そして日常の社交用語としての礼儀性もここから生まれたものと言ってよい。なぜなら、礼儀や社交では思想の発表とは違って、言語表現が明確であることを必要としないのだから。
“どうも”所具有的多义性是造成原则脱落,判断终止,回避判定的原因。并且作为日常的社交用语,可以说是从礼仪角度出发所产生的。原因在于,与礼仪和社交的场合不同,在使用“どうも”时,并不需要进行明确的表达。 |
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