100410幸运的樱花树
東京の調布市に仙川(せんがわ)という私鉄駅があって、2本の古い桜が枝を伸ばしている。10年前に駅前整備で切られかかったが、住民の熱意で生き残った。先週久しぶりに訪ねると、春冷えの中に花を咲かせていた。
东京的调布市有一个名叫仙川的私铁车站,那里有两棵老樱花树,生长得枝繁叶茂的。十年前,站前整修时差点被人砍了,是居民的热情使它得以存活了下来。我已经好久没去瞻仰了,上周过去一看,只见鲜艳的花朵傲然绽放在料峭的春寒之中。
伐採には約1万4千人の反対署名が寄せられた。住民と市の討論会の様子を、当時の小欄が書いている。最後に市長が決断した。マイクを握り、「老木だから10年ともたないかも知れないが、枯れていくのを見届けるのも、また人生です」。そう言う市長も目を潤ませていた。
当时,有关方面收到了有一万四千人署名的反对砍伐的声明。本栏目也曾叙述过居民和市府讨论时的情形。最后,市长作出了决断。他手拿话筒说道:“那两棵树太老了,或许活不了十年了。能够看着它们逐渐枯萎也是一种人生况味吧”。话到此间,市长热泪盈眶。
幸せな桜もあれば、幸薄い桜もある。国体の会場整備のために切られて、あわれな切り株をさらす桜の話が、先日の小紙岐阜県版にあった。不運な桜は、ほかにも全国に数多(あまた)あることだろう。
有幸运的樱花树,也有薄命的樱花树。日前,本报的歧阜县版报道了,在整修国民体育大会会场时,一些樱花树惨遭砍斩,留下一个个树桩令人嗟叹。在全国范围内,像这样的薄命樱花树恐怕也是为数不少的吧。
花の盛りは愛(め)でてやまないのに邪魔になれば切ってしまう。京都の桜守で知られる佐野藤右衛門(とうえもん)さんが前に言っていた。「どうしても切るというなら満開のとき切ったらええ。満開のときに切る度胸があるか、と聞いてみたい」。きびしい口調が記憶に残っている。
盛开之时宠爱有加,一旦碍事就施之于斧斤。在京都因保护樱花而闻名的佐野藤右卫门先生曾经说过:“一定要砍的话,就在它盛开之时砍么。我倒想问问,你们有在花满枝头时砍伐的魄力吗?”。严厉的口吻令我至今记忆犹新。
大正の末、岡本かの子は「桜」と題する139首を一挙に発表して評判になった。冒頭にこの一首を置いた。〈桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり〉。藤右衛門さんの言葉と遠いところで響きあう。
大正末年,冈本佳乃子曾以“樱花”为题一下子发表了139首和歌而声名鹊起。开卷之作是这样的:“樱花怒放,燃尽生命,我辈赏花,岂可等闲”。虽然年代相隔遥远,但这首和歌与藤右卫门先生的话语却能交相呼应。
冒頭の仙川は、かつてわが最寄りの駅だった。生き残ったのを機に夜桜コンサートが始まり、この春で10回を迎えた。満開の下で毎年写真を撮る一家もいる。幸せな木は人も幸せにするようだ。何も桜に限ったことではない。
开头提到的仙川,曾是离我家很近的车站。从那两棵樱花树得到保护的那年起,每年都要举办夜樱观赏音乐会,到今年春天已经办到第10届了。有些家庭每年都要在盛开的樱花下拍全家福。幸运的樱花树似乎也给人带来了幸福。当然,这种现象也绝不局限于樱花树。 |