|
デビュー、人気作家となる [編集]
1979年、店の近くにあった明治神宮野球場で野球を観戦中に小説を書くことを思い立ち、店の経営のかたわら毎晩キッチンテーブルで作品を書き続けて『群像』に応募。同年6月「風の歌を聴け」で第22回群像新人文学賞を受賞し作家デビュー。カート・ヴォネガット、ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた文体で現代の都市生活を描いて衆目を集める。同年、「風の歌を聴け」が第81回芥川賞候補、翌年「1973年のピンボール」で第83回同賞候補となる。1982年、専業作家となることを決意し店を人に譲る。同年、初の翻訳集『マイロストシティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。また初の本格長編小説『羊をめぐる冒険』を発表し、第4回野間文芸新人賞を受賞。以後小説、翻訳、エッセイと精力的に執筆活動を行なう。1985年、2つの物語が交互に進行していく長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』発表、第21回谷崎潤一郎賞受賞。1986年、ギリシャ・ローマ旅行開始、1991年まで日本との間を行き来する生活を送る。1987年、「100パーセントの恋愛小説」と銘うった『ノルウェイの森』刊行、上下430万部を売る大ベストセラーとなる。これをきっかけに村上春樹ブームが起き、国民的作家と目されるようになった。1989年には『羊をめぐる冒険』の英訳版がアメリカで出版された。1991年、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米する。前後して湾岸戦争が起こっており、のちに「正直言って、その当時のアメリカの愛国的かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった」と述懐している[9]。翌年、在籍期間延長のため客員教授に就任、現代日本文学のセミナーで第三の新人を講義、サブテキストとして江藤淳の『成熟と喪失』を用いる。
「デタッチメント」から「コミットメント」へ [編集]
1994年、『ねじまき鳥クロニクル 第1部』『同 第2部』刊行。1992年から『新潮』に連載されたもので、これまでの最長作品であり、ノモンハン事件などの歴史を織り込みながら人間の中に潜む暴力や悪を描いて話題を集めた。1995年、1月に起こった阪神・淡路大震災と、3月に起こった地下鉄サリン事件に衝撃を受ける。同年6月、帰国。8月に『ねじまき鳥クロニクル 第3部』刊行、翌年第47回読売文学賞受賞。1997年、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『アンダーグラウンド』刊行。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が、社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた。1999年、『アンダーグラウンド』の続編で、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『約束された場所で』により第2回桑原武夫学芸賞受賞。2000年、神戸の震災をテーマにした連作集『神の子どもたちはみな踊る』刊行。この時期、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて、村上自身は以下のように「コミットメント」という言葉で言い表している。「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」[10]「『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが」[11]「コミットメント」はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され多数の評論家に取り上げられた。また村上は作品の題材とした震災と地下鉄サリン事件の二つの事件について、この2つは彼にとって別々のものではなく、「ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ」(『辺境・近境』)と考えたと語っている。このため、『神の子たちはみな踊る』に収められている作品はすべて震災が起こった1995年の1月と、地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いている[12]。
国際的評価の高まりと近年の活動 [編集]
2009年、エルサレム賞授賞式にてエルサレム市長ニール・バルカット(左)と
2002年、初めて少年を主人公にした長編『海辺のカフカ』発表。2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダーク』を発表。2005年、『海辺のカフカ』の英訳版Kafka on the Shoreが『ニューヨーク・タイムズ』の"The Ten Best Books of 2005"に選ばれ国際的評価の高まりを示した。2006年、フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞(en:Frank O'Connor International Short Story Award)と、国際的な文学賞を続けて受賞。特にカフカ賞は、前年度の受賞者ハロルド・ピンター、前々年度の受賞者エルフリーデ・イェリネクがいずれもその年のノーベル文学賞を受賞していたことから、2006年度ノーベル賞の有力候補として話題となった。同年の世界最大規模のブックメーカーである英ラドブロークス(en:Ladbrokes)のストックホルム事務所による予想では、34倍のオッズが出され18番人気に位置(受賞は同予想で1位のオルハン・パムク)。2007年の同予想では11倍のオッズ、6番人気とさらに評価を上げている[13]。また近年の年収は海外分が既に国内分を上回っており、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという[14]。
|
|