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正冈子规4

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发表于 2011-4-23 10:22:08 | 显示全部楼层 |阅读模式
我本人十分喜欢正冈子规,不只是为他的俳句,更是为了他对待生活的达观和积极的态度,知道他的人都应该了解子规身患绝症但是仍笔耕不缀,仍以纯粹的心态对待文学对待人生,比起当今社会一些很现实很功利的人要好太多了,一直都在想为什么如今文坛学术界都没有超越孔子的人呢,也许是因为大家都忙着赚钱了吧 所以无法达到应有的高度,正如东山魁夷的《风景之开眼》中所说的一样,他作为一个画家一直都画不到他说想要的高度,而偶然在战争中险些丧命的经历却让他恍然大悟,因为他一直都以出人头地为目的而画画所以他利益功利心蒙蔽了他对自然对世事的洞察力所以他永远无法达到自己想要的高度,文人是清贫的要做一个学者就必须忍受孤独和清贫,也许每个人追求不一样,希望自己能坚持初衷,努力在学术上有所建树,虽然自己现在只是刚刚开始。。。

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評価 [編集]
ウィキクォートに正岡子規に関する引用句集があります。俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。その一方で、その俳論・実作においては以下のような問題も指摘されている。
•        俳諧におけるゆたかな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
•        あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉のいわゆる「挨拶」の心を失ったこと。
•        連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと。
などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。いまでも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶるおおきいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞「日本」の同僚でもある)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、虎雄の弟子の吉川幸次郎が回想している。
明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。連載は5月5日に始まった。子規はその連載に「病床六尺」と命名し、冒頭に次のような記事を書いた。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へ足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其さへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて病苦を忘るる様な事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして」子規はこんな風に書いて、おそらくあまり残されていないだろう自分の命を、何とか燃焼させたいと思ったのだろう。だが連載二日後の七日から様態がおかしくなり、15日には体温が低下してなかなか上がらなかった。子規もついに観念して、死ぬる準備をしたほどであったが、幸いに危篤に陥ることはなかった。小島はそんな子規の病状を見て、子規を休ませるために連載を一時中断させたが、それを知った子規は次のような手紙を児島に送って、連載を認めてくれるように懇願したのである。「僕の今日の生命は「病床六尺」にあるのです 毎朝寝起には死ぬる程苦しいのです 其中で新聞をあけて病床六尺を見ると僅に甦るのです 今朝新聞を見た時の苦しさ 病床六尺が無いので泣き出しました どーもたまりません」驚いた小島は子規のもとに飛んでいき、「実は君がそれ程とは知らなかった。よろしい、死ぬまで書け、毎日載せるから」(小島一雄の子規談)といって慰めた。こうして病床六尺は子規の死の二日前まで、ほとんど休むことなく書きつがれたのである。8月20日には連載が100回目に達した。子規はこのことを喜んだ。そして次のようなことを書いた。連載記事を新聞社に送る状袋の上書きを自分で書くのが面倒なので、新聞社に頼んで活字で印刷してもらった。それでも病人の身で余り多く頼むのは笑われかねないので、100枚注文した。すると新聞社は300枚送ってくれた。300枚といえば300日分、それを全部使うまでには10月の先までかかる。そこまで生きられるかどうかおぼつかなかったが、とうとう100回分まで使うことが出来た。このようにいって子規は次のように述懐を述べる。
「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。しかしあとにはまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。」
病床六尺の題材は、墨汁一滴同様かなり広い範囲にわたっている。あえて相違をあげるとすれば、墨汁一滴では和歌の連作が目を引くのに対し、病床六尺では絵画に関する記事が多いことだ。
その絵画を巡って、ほほえましいエピソードが記されている。8月20日の午後子規の弟子孫生と快生が渡辺のお嬢さんを連れて訪ねてきた。このお嬢さんのことは前から知らぬでもなかったが、あってみると「想像して居ったよりは遥に品の善い、其で何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣」を備えたお嬢さんだった。
「暫くして三人は暇乞して帰りかけたので余は病床に寝てゐながら何となく気がいらって来て、どうとも仕方の無い様になったので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私に余の意中を明かしてしまった」
意中とはお嬢さんに一晩泊まっていって欲しいというものであった。文面からは何とも艶めかしい光景が浮かんでくるが、渡辺のお嬢さんとは人間の女性ではなく、渡辺何岳が描いた絵のことなのだ。
子規の様態は墨汁一滴を書いたときよりもいっそう進んでいた。身動きもできなくなった体を、過酷な苦痛が襲う。子規はどうやって毎日を過ごすべきか、煩悶する。6月20日の記事には次のような子規の叫びが記されている。
「絶叫。号泣。益々絶叫する。益々号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。寧ろ真の狂人になってしまへば楽であらうと思ふけれどもそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってやうやう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終わるとともにはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。」
子規はこのような苦痛にさいなまれながら病床六尺を書く手を休めることなく、死の直前まで書き続けるのである。
子現が病愈々重くして、腰椎やら腸骨やら方々の骨が腐れ、腰部より臀部にかけて終に七箇の瘻口をつくり、日夜膿汁を漏らして劇痛少時も休まず、苦喚悲叫殆んど人をして之を見るの残酷に忍びざらしめた末期には、流石の彼れも漸次神気消耗して、神経は過敏に癇癪は高ぶり無理とは知りつゝ家人などにもダヽを捏ねた。併しこれは肉体を以て生き五官を備へたる人間として所詮免れざる所である、若し我々をしてあんな恐ろしい病苦に逢はしめたら、固よりあれ迄辛抱して生きてもよう居まいが又あれ位な癇癪ではすまなかつたろうと思ふ、とにかく人間の精力は肉体の関係を離れ得ざる限り、非常なる病魔の為め既に瀕死の苦境に煩悶しつゝある身は、自から精神上に影響を及ぼすは当然の理である、然るに此の現象を以て、彼れが家人に我儘に癇癪を起したとて、それを狭量といふ瀾水の如きは亦珍らしい男じや。

▲我輩にはまだ臥る迄に至らなかつた時の子規と、べつたり床についてからの子規と、日夜劇痛に悶え苦しむで僅にモルヒネの功力ある間のみ安息し得た時の子規と、漸次其の脳力に差等のあつたことが明にわかつて居る、彼れの如き残酷な丸でナブリ殺的な病気の末期に於て、健康な時のやうな精神を持つて居れなどといふ奴は全く無智な小供の考へで、人間としてそれは出来得べきことではない、それでも彼れ子規は家人以外に向つてはやはり忍び忍んで其癇癪を押へて居たのである、此力はやがて理性的な意思強い彼れに於て初めて得られたのである。
五百木飄亭「正岡子規君」
明治35年10月
彼は中学時代から、あまり頑強な体質ではなかつた。色の青白い、極めて大人しい男で、活撥な所は少く、彼自身健康保持に注意してゐるやうであつた。予備門から高等学校時代には、盛にベースボールをやつたが、それが彼の唯一の運動であつた。今日から顧みて、彼はベースボール元祖組の一人たるを失はぬであらう。私も強健な方ではなかつたが、明治二十一年の二月頃、子規に引込まれて学校のベースボール会員になつたことがある。
 当時のベースボールは極めて幼稚なもので、キヤツチヤーは球の一度バウンドしたものを取つてゐた。勿論今日のやうにマスクなどの必要は無かつた。ピツチヤーその他の投げる球も、今日のやうに技巧を加へた、且強烈なものではない。子規の球を取る流儀は一種特別で、掌を真直に伸べて球を挟むやうにした。強烈な球ではそんなことは出来ないが、当時はそれで間に合つてゐたのである。私は下手の横好で、べースボールの真似を四五年続けたのみならず、ボートやテニスもやる。二十四年頃には撃剣の夜稽古も始める、といつたやうな風であつた。が、子規はべースボールだけで、他に亘らなかつた。
勝田主計「子規を憶ふ」
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