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正冈子规5

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发表于 2011-4-23 10:23:13 | 显示全部楼层 |阅读模式
こゝに注意すべき事は子規子が糸瓜の辞世を作つたといふ事である。子規子は兼々「自分が五六月頃に死んだらば方々から追悼句などゝ言ふて、時鳥の句を沢山よこすであらうが、それはいやでたまらない。それがいやだから成るべく夏の間に死にたくはない」などゝ話して居つたが、何故子規の名にちなんだ時鳥の句を嫌ふかといふと、時鳥の句といふのは、古来より発句中でも沢山句のある題で、己に仕方のない程陳腐な題である。その陳腐な題では到底よい句は今日得られないといふてもよい位であるに、まして追悼といふやうな更に作句のむつかしい条件をつけては、更によい句の出来やうがない。その悪句が沢山出来るといふ事が子規子のいやで堪らないと言ふた所以であつたのである。ところが幸にして子規子はその厭ふて居つた夏も過ぎ、丁度名月の前後になつて今度は愈々といふ覚悟をきめ、自らもまたその死期を知つたやうでもあつた(後に思へば)が、さらばと言ふて、こゝで月の辞世でも作らうものなら、これまた矢張時鳥に劣らぬ陳腐な題であるから、その追悼句もまた悪句が出来るものと見てもよい。そこで人の思ひもよらぬ、また形の雅な「糸瓜」を捕へてその辞世を作つたのである。糸瓜の辞世といふ事が単に突飛なといふやうな事ばかりでなく、又た其前庭に糸瓜の棚があつたといふ為めでもなく(それらも一原因であらうが)、実は種々錯綜した意味から糸瓜を選んだのである。将に息を引取らんとする数時前においても、尚この用意の存して居つたのは、真に驚くべき事と言はねばならぬ。(といふのはその平生に徴して予の推想する所である)。
河東碧梧桐「糸瓜の辞世」
明治35年10月
子規は才子だつたが、いはゆる軽薄才子ではなかつた。「正岡の皮肉は氷のやうで堪らん」と恐れをなした神経質の同窓生もあつたが、冷やかな皮肉と比例したほど冷い人では勿論なかつた。随分温味を有つた涙脆い人であつた。同郷で同窓の清水といふ男が脚気で死んだ時に、死骸の始末がすむと彼は悄然として気が抜けたやうに床の中にもぐり込んだ。それを気の強い秋山(真之、後の海軍中将で同郷人)が見て「意気地がないな、しつかりおしや」と大喝したので、気の毒に思はれたことがあつた。
 子規は才子だつたが、世才よりも学才の方を多分に有つてゐたやうだ。やれば何でも出来た男である。学課は常に抛つて置いて試験前になるとやりだす。それで相当の成績を得たのであつた。学課の中で最も嫌ひなのは語学であつて、語学ほど無趣味なものは無いと言つてゐた、それに数学も好きな方ではなかつた。学課の方は不勉強の方であつたが絶えず本は読んでゐた、文章も筆まめに書いてゐた、大学に入つては哲学を専攻するのだと言つてゐたが、哲学や宗教の書などはあまり手にしなかつた。それでゐて基督信者などを捉へては能く宗教論をやつたものだ。そして才に任せて堅白異同の弁を弄したこともあつた。信者と議論する時は、勿論無神論で押し通したが、無神論を唱ふる者に対しては殊更に有神論を振り廻すやうなこともあつた。マア一寸人が悪るいといつたやうな所もあつた。元来覇気に富んだ男であつたから、気に喰はないと人を遣りつけるといふ風であつた。
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