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发表于 2004-12-28 10:10:31
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食べれる和食べられる意思一样.正确地说食べれる是个病句.这读音的问题.这叫「ら抜き言葉」
ご参考までに(コピー)
さて、皆さんは「ら抜き言葉」というのをご存知ですよね。「見られる」「食べられる」とは言わずに、「ら」を抜いて言うあれです。見れる、起きれる、着れる、食べれる . . .
え? いつも使ってるって? ああ、あなたもそうなのですか。実は、私も学生の頃はよく使っていました。この仕事(日本語教師)についてからは、意識して使わないようにしていたため、いつのまにか使わなくなってしまいましたが . . . そうなるとおかしなもので、今度は、昔は平気で使っていたはずの「ら抜き言葉」が、妙に気になるのです。この間のことですが、母(60才過ぎ)が「食べれる」と言っているのを聞いた時にゃあ、正直言って驚きました。たしか、母は、「可能」の意味の時でも「食べれる」じゃなくて「食べられる」と言っていたはずなんですが . . . これは、きっとテレビか何かの影響に違いない!
「食べられる」は、受け身・尊敬・可能の意味・用法で使われますが、「食べれる」と「ら抜き」になるのは可能表現の場合だけですね。
ここで、動詞を用いた「可能表現」について見てみますと、
1)「(動詞の辞書形)ことができる」を使う。
例:読むことができる。
見ることができる。
食べることができる。
来ることができる。
(することができる?)
→ 「する」(不規則動詞)は「(~が)できる」となる。
2)「読める」「話せる」など、五段動詞の場合は可能動詞を用いる。
終止形/辞書形(辞書の見出しに使われる形)からだと、
- u → - eru となる。この言い方は、江戸時代から使われてきた
とのこと。
読む → 読める
yom・u → yom・eru
話す → 話せる
hanas・u → hanas・eru
3)五段動詞の未然形/「ない」形の「ない」語幹に助動詞「れる」
を付けて可能の意味を表わす。この可能形は、受身形・尊敬形と
同形となる。ただし、このやり方は最近では(特に話し言葉では)
あまり用いられないように思われます。
読む → 読ま + れる(読まれる)
例:この本、むずかしくて、僕には読まれないよ。
帰る → 帰ら + れる(帰られる)
例:あ、終電なくなっちゃった。家に帰られないや。
*ちょっと気持ちの悪い言い方になってしまいますね。
舌ももつれそうで . . .
ただし、「行く」の場合は、「行かれる」が可能動詞と同様、
よく使われるようです。
例:ごめん。来週のコンパに行かれなくなっちゃった。
4)一段活用の動詞と動詞「来る」(不規則活用)の場合は、
未然形に助動詞「られる」を付ける。この可能形は、受身形
および尊敬形と同形。
見る → 見 + られる(見られる)
食べる → 食べ + られる(食べられる)
そして、実は「ら抜き言葉」は、この一段動詞による可能表現を
五段動詞のようにする(可能動詞)ために起こると言われている
のです。
見る → 見れる mir・u → mir・eru
食べる → 食べれる taber・u → taber・eru
(五段動詞における可能動詞のよう)
また、これは、可能の意味と、受け身・尊敬の意味を区別しようと
する意識のあらわれであるとも言われています。
地域によっては、古くよりこの使い分けが明確になされてきた
所もあるとのことで、「ら抜き言葉」を単に言葉の乱れである
とする意見には異論もあるようです。
ちなみに、不規則動詞の「来る」の場合は、
来る(くる) → 来られる(こられる)
来る(くる) → 来れる(これる)<ら抜き>
となり、単純に kur・u → kur・eru とはいかないので、
五段動詞のようにしたのだとは簡単に説明することが
できません。これは、単に発音を簡略化するために「こられる」
から「ら」を抜いただけなのか? あるいは、両方の要素がある
ためなのか?
「ら抜き言葉」その2
一段動詞と不規則動詞を「可能」の意味で用いる際に「ら抜き」
となる地域は全国的に広く分布しているとのことです。地域に
よっては「ら有り」の方が存在していないため、共通語において
行われる「ら有り」の言い方がむしろ不自然で美しくなく感じら
れる場合もあるようです。なお、五段動詞における「可能動詞」
ですが、これは近世の江戸語に発生した比較的新しいものである
と言われています。もともとは yomu → yomareru とやっていた
わけですね。もちろん、これは今でも文語や口語の一部で用い
られていますが . . .
一段動詞と不規則動詞を「可能」の意味で「可能動詞」のように
するやり方も意外と古く、「近世の末期、嘉永~元治の頃にまで
遡れる」とのことです。下のように考えると、「ら抜き言葉」も
五段動詞による「可能動詞」も同じ原理の上に成り立っているこ
とがわかります。
<五段動詞> yomu → yom (ar) eru → yomeru
<一段動詞> taberu → taber (ar) eru → tabereru
miru → mir (ar) eru → mireru
<不規則動詞> kuru → kor (ar) eru → koreru (!)
というわけです。
「な~んだ。それじゃ、『ら抜き言葉』だけ 目の敵(?)にする
なんて不公平じゃん!」ということになるのですが、私の感覚を
述べさせていただくと、たいていの場合「ら抜き言葉」はどうも
居心地が悪いのです。ただし、友人や家族との会話で、
「ねえ。あした朝早く来(こ)れる?」「うん。来れるよ!」
「朝六時だよ。」「ええ?そんなに早く起きれないよ!」
と、ものによっては「ら抜き」にしないとしっくりこない場合が
あるのもまた事実です。 |
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