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1 十二滝町の誕生と発展と転落(7)
羊伺いの老人となって死んだ薄幸のアイヌ青年の物語が終ってしまうと、あとの歴史はかなり退屈なものだった。ある年に鼓脹症で十頭の羊が死んだり、冷害で稲作が一時的打撃を受けたことを別にすれば、村は順調に発展しつづけ、大正時代には町に昇格した。町は豊かになり、ますます整備されっていった。小学校が建設され、町役場ができ、郵便局の出張所もできた。北海道の開拓はほぼ終了したのである。
耕地は限界に達し、零細農民の息子たちの中には満州や樺太に新天地を求めて町を出ていくもの現われるようになった。昭和十二年の頃には羊博士の記事もあった。農林省技官として朝鮮及び満州において研鑽を積んだ……氏(三十二歳)は故あって退官し、十二滝町の北方山上の盆地(ぼんち)に綿羊牧場を開いた、とある。羊博士に関する記事はあとにも先にもそれだけだった。この本の著者である郷土史家も昭和に入ってからの町の歴史には相当退屈していたらしく、記述も断片的で紋切型になっていた。文体もアイヌ青年を扱っていた頃に比べれはずっと瑞瑞しさを失っていた。
僕は昭和十三年から四十四年までの三十一年間をとばし、「現在の町」という項を読むことにした。しかしこの本の考える「現在」とは一九七〇年のことであって、本当の現在ではない。本当の現在とは一九七八年十月のことである。しかしひとつの町の通史を書くからにはやはり最後に「現在」を持ってくる必要に迫られる。たとえその現在がすぐに現在性を失うとしても、現在が現在であるという事実は誰にも否定できないからである。現在が現在であることをやめてしまえば歴史でなくなってしまう。
「十二滝町の歴史」によれば、一九六九年の四月の時点での町の人口は一万五千、十年前に比べれば六千人もなっており、その減少ぶんの殆んどは離農者である。高度成長下の産業構造の変化に加えて、寒冷地農地という北海道の特殊性があり、そのために異様なほど高い離農率を示した、とある。
それでは彼らの離れたあとの農地はそうなったか?林地になったのである。曾祖父たちが血の汗を流して木を切り倒して開墾した土地に、子孫たちはまた木を植えることになった。不思議なものだ。
というわけで、現在の十二滝町の主要産業は林業と木材加工である。町には幾つかの小さな製材工場があり、人々はそこでテレビジョンの木枠や鏡台やみやげものの熊やアイヌの人形を作っている。かつての共同小屋は、今では開拓資料館になっていて、そこには当時の農具や食器が展示されている。日露戦争で戦死した村の青年たちの遺品もある。ヒグマの歯型のついた弁当箱もある。故郷の村に借金取りの消息(しょうそく)を問い合わせた手紙も残っている。
しかし正直なところ、現在の十二滝町はおそろしく退屈な町である。おおかたの町民は仕事から家に帰ると、一人平均四時間テレビを観て眠る。選挙の投票率は結構高いが、当選する人物ははじめからわかっている。町のスローガンは「豊かな自然の中の豊かな人間性」である。少なくとも駅前にそういう看板が立っている。
僕は本を閉じてからあくびをし、そして眠った。
成为养羊老人而死去的不幸的阿依奴青年的故事结束后,后面的历史就相当无聊了。有一年因犯了鼓胀病有十头羊死去,还有因一时遇到寒冷灾害稲子受害严重。除此之外村子很蓬勃地朝前发展,在大正年代升格为镇。镇开始变得很富有,各种设施逐渐完善起来。建设小学校,配备了镇政府,还设立了邮局办事处。北海道的开拓也就到此为止了。
耕地达到了界限无法再扩招,零星的农民的孩子们有的去满州和桦太寻求新天地,走出了故乡。在昭和十二年的时候也有羊博士的记事。作为农林省的技术干部在朝鲜和满州有所研究,在三十二岁时因为一件事被辞退,然后到十二瀑布镇的北方山上的盆地开拓了绵羊牧场。有关羊博士的记事先后也就这些。作为这本书的作者乡土史家对进入昭和之后的镇的历史没有了热心,其记述方式成为片段式的刻版的文章。其文体和记载阿依奴青年章节相比完全失去了新鲜。
我跳过了从昭和十三年到四十四年的三十一年时间,阅读了“现在的镇”这一项。但是这本书所述的“现在”并不是当今的现在,而是一九七○年的时间。实际的现在是一九七八年的十月。为了写一个镇的通史还必须在最后有“现在”这个内容。比如那个当时的现在马上就会失去其现在性,现在是现在这件事谁也不能否定。如果否定现在是现在这件事,那就历史就不是历史。
限据《十二瀑布镇的历史》,以一九六九年这个时点,镇上的人口是一万五千,和十年前相比少了六千人,减少的主要原因基本上是离农者。再加上在高度增长下的产业构造的变化,还有寒冷地带农业北海道的特殊性,为此表现出了相当高的离农率。
为此他们离开之后那些农地变成什么样了呢?变成林地了。在曾祖父们流血汗伐木而开垦的土地上,子孙们又栽上了树。真是不可思议。
为此,现在十二瀑布的主要产业是林业和木材加工。在镇上有几个小的木材加工厂,人们在那里做电视机柜、镜台以及当地熊和阿依奴的人不偶等。原来的公用小屋现在成了开拓资料馆,在那里展示了当时的农县和餐具。还有在日俄战争中战死的村中青年们的遗物。还有镶上棕熊牙齿的饭盒。还留有向故乡村子里寻问借钱消息的信。
但是正经地说,现在十二瀑布镇是很落后的镇了。很多人工作下班后回到家,人平均看四小时电视然后睡觉。选举的投票率很高。当选的人物从开始就很清楚。镇上的标语是“在丰富的自然中的丰富的人性。”偶尔在站前也有那样的广告板。
我合上书后打哈欠,然后睡觉。 |
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