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发表于 2005-5-16 15:21:52
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「タテ社会」日本の分析-中根千枝
1.「資格」と「場」-「場」を強調する日本社会
一定の個人からなる社会集団の構成要因が、個人の「資格」の共通性にある場合と、「場」の共有による場合がある。どの社会においても、個人の何らかの「資格」と、何らかの「場」による社会集団、あるいは社会層に属しているが、日本人の集団意識は非常に「場」におかれており、逆にインドでは「資格」におかれているという。
日本の社会が「資格」より「場」を強調する社会であるとは、「資格」よりも「場」を優先する社会であるとは、「資格」よりも「場」を優先する社会である、という意味である。つまり「場」が社会的に重要な役割をもっているということであって、個人のもつ「資格」は第二の問題となってくるということである。「場」を強調する日本の社会が、「資格」の異なるものを包含する社会であるとすれば、その構成員を結びつける方法は、理論的にも当然「タテ」の関係となるであろう。
序列意識というものは、いかなる社会においても大なり小なり存在するものであるが、日本以外の社会においては、その序列の基準が、社会生活におけるあらゆる人間関係を支配するほど機能をもっていない。
2.社会組織を規制する三つの人間関係-タテ、ヨコ、契約関係
「タテ」の関係というものは、理論的に見た場合、社会組織の基盤となる三つの関係の中の一つを示しているといえる。
l 「タテ」の関係とは、上下関係のもので、日本社会において広く、深く浸透しているものである。
l 「ヨコ」の関係とは、兄弟、姉妹、同僚といった同位同列に立つものの間の関係であり、現代においてもインド・東南アジアにおいて強く機能している。
l もう一つの関係は師弟、先輩後輩といった上下関係、すなわち「タテ」の関係でもなく、ある階級、組織、縁故に属する「ヨコ」の関係でもなく、純粋に「契約」によるものである。これは西欧の社会を中心に行われているものである。
日本社会を特徴付ける「タテ」型集団においては、メンバー同志が多分に感情的、情緒的人間関係によって直接に結びつくのに対して、欧米の社会における「ヨコ」型集団の場合には、メンバー同志が互いに納得できる理性的な規則を設定することによって結びつく社会であるといえよう。要するに、日本の社会が個人と個人の間に互いに納得できる理性的な普遍的なルールを設定することによって、結びつく社会ではなく、人間関係がきわめてパーソナルな、直接的関係、つまり、感情的、情緒的、皮膚接触的な関係によて結びつく社会であるといえよう。
欧米における契約意識、法意識の根底に、特定機能的関係および非特定個人的関係を見るとは、契約関係があくまで人間相互のとりかわす人間関係である以上、そこにはたとえば、純然たる経済関係には解消されない、情緒的、感情的な人間関係が含まざるを得ないが、そういう感情的情緒的な関係を極力払拭することによって、契約関係をあくまで経済関係という、ドラスティックな関係にまで純化徹底させることによって、すべての人間に対して妥当する客観的、普遍的人間関係として処理しようとしているといえる。それに対して日本における契約意識、法意識の根底に拡散機能的関係および特定個人的関係を見るとは、契約関係があくまで人間相互のとりかわす人間関係である以上、そこには純然たる経済関係には解消されない情緒的、感情的人間関係が含まれざるを得ず、したがって契約関係をすべての人間に対して普遍的、客観的に妥当し得る関係としては処理できず、多かれ少なかれ時と場合に応じて、そのつど個別的に処理されざるを得ない関係となるのである。
相対的価値観の根底にあるもの-「人と人の間にあるものはなにか」-木村 敏
1. 日本人と欧米人における罪責体験の相違
中根は日本の社会と欧米の社会の相違を、道徳的なものと宗教的なもの、つまり相対的価値観の支配する社会と絶対的価値感の支配する社会との相違に見ているが、この問題について精神病理学的な観点から両社会の分析を試みたのは、木村敏である。
木村は、欧米人と日本人の罪責体験の相違を、欧米人は自己の存在の存在論的な負い目を、めいめいが自分の頭上に高くかかげている神と結びつけ、道徳的な罪というようなものを、いわば垂直線上でしか考えないのに対して、日本人は自己の存在の存在論的根拠を「人と人との間にある何か」というようなところに見出しているから、どうしても道義的な罪、義理的な負い目を水平面上で考えるようになる。したがって職場の同僚に対する罪責体験もいわばこの水平面的な負い目意識の投影なのであろうと述べている。
<コメント>
西洋と東洋、特に日本との文化差は、心理学においてもよく取り上げられる問題だと思うし、他の場面でもよく論じられるものだと思う。西洋はヨコ社会であり、日本はタテ社会と言われているのは当然のことであり、現在でもその場面はよく見受けられるように思われる。しかし、タテ社会が日本人の心の中に根付いていることは確かであるが、国際化社会の中で、様々な国の交流や価値観の多様の中で、日本人にもヨコ社会の考え方が入ってきて、それが採用されている部分もあるだろう。重要なのは、その場面での正しい行動の取り方ができるかどうかということだ。そしてその行動を受け取る他者にもその理解が必要となってくると思う。それぞれに利点や悪い点があるのであるから、それを見ることで相手がどういう考え方や行動をしてしまうのかも分かるのではないかと思う。 |
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