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从小我到无我
释圣严
一.禅是什么?
首先我想告诉你的,禅不即是知识,知识并不离开禅;禅不即是宗教,宗教的功效,可以从禅而获得;禅不是哲学,哲学却无法超越禅的领域;禅不是科学,科学重实际,重经验的精神,亦正是禅的要求。所以请你不要以好奇的心理来探索禅的内容,因月禅不是东方人带来的一桩新事物,自从有了空间和时间以来,禅就普遍地存在于无穷大的空间与无限长的时间之中。
不过,在东方的佛教未传到西方社会之前,西方人不知道禅的存在,东方人来到西方所教的禅,事实上不是禅这个东西,只是由于二千五百年前,有一位出生在印度的王子名叫Gautama Sakyamuni的人最初发现了禅,而开了悟,称了Buddha之后,告诉我们认识禅的方法,这方法由印度传到了中国,再传到日本。印度称它为dhyana,中国的发音为chan,日本的发音为Zen,其实是一个东西。总之,禅是普遍而永恒的存在,它用不着任何人来传授,须要传授的,乃是如何亲自体验这个禅的方法而已。
有人把禅误解为一神秘经验,或以为可以透过禅的经验而获得超自然的能力。当然,从坐禅的的修行过程中,可能使你在生理及心理的感觉上,产生种种奇异的现象;也能够从身心统一的练习之中,达到以心力来控制或转变外在事物的目的。这些被视为宗教奇迹的现象,不是学习坐禅的目的。因为这些现象,仅能给人一种好心和夸大狂的满足,不能解决人们现实生活中的问题。禅是从问题的根本着眼,不先从外在的社会环境及自然环境的征服着手,而是先从对于自我的彻底认识做起。当你认识了你的自我是什么的时候,也同时消失了你现在所以为的这个自我。这个自我观念的重新认识,我们称它为开悟,或者称为见性,这是为你彻底解决问题的开端。结果你会发现,你的个人与全体的现实,是一个整体,不应分割也不可分割的。你自已有缺陷,才看到环境有缺陷,好像一面凹凸不平的镜子,里面反映的影像也都是扭曲了的,又像波浪起伏的水面上,反映出来的月亮,也是不完整,不宁静的一样。假如镜面是光滑平整的,水面是风平浪静的话,镜中的影像,水中的月亮,就会使你产生如诗如画的美感了。所以以禅的立场看人类所感受的苦痛与不幸,主因不在我们所处这个地球环境的恶劣,不在人类社会的可怕,乃在于未能认识自我的本性。
所以,禅的方法不是指导我们逃避现实,更不是教我们学着奥洲的鸵鸟那样,把向敌人作警戒的视线,收回来,藏到土里去,就认为一切问题都解决了。因为禅不是自我催眠式的唯心论者。用禅的功夫可以消除自我,不但自私的小我可以消除,并且把哲学上被称为真理及本体的大我也要消除掉。那方绝对的自由。因此,一个成功的禅者, 不会觉得各种责任是负担,也不会觉得生活的条件是对人们的压力。他只觉得永无止境地发挥生命的活力,是绝对自由的表征。所以禅的生活必然是正常的,并且是积极的。它是愉快地,并且是开朗的。原因是,禅的修行,是给你源源不绝地提供方法,开发你智慧的宝藏,开发越深,得到的智慧越高,到最后,全宇宙的智慧都为你所有,那时在你看来,包罗一切空间及时间,无一不在你的智慧观察范围之内,这时的智慧即成为绝对,既是绝对,便连智慧这个名词也用不着了。到这地步,使你追求名利权势的自我,或者逃避困苦艰险的自我,固然不见了,纵然是能使这自我消失的智慧,对你来说,也是不必要的观念了。
当然,一个修学坐禅的人,要想到达这个程度,从顿悟的观点上说,虽然极容易,在走向顿悟之门的历程之中,则必须先有一番努力。否则,修习的方法,岂不成了无用之物。
二.坐禅的三个阶段
目前,我在美国教的坐禅方法,共分三个阶段:
第一阶段:平衡身心的发展,达到自心的健康。
对身体方面我们注重行、坐、站、卧的各种姿势的示范和纠正。同时,教授行、坐、站、卧各种运动的健身方法,是综合印度的瑜伽及中国的导引,自成一套适合于坐禅健身并有助于坐禅功效的运动方法。所以,一个坐禅而有了若干效果的人,他的身体必然是健全并且能够忍苦耐劳的。对心理方面我们注重人的烦躁、多疑、忧虑、恐惧、意志涣散等情绪消除,使之建立自信、果断、乐观、宁静和稳定的情操。
一个好学生,在我们这里上了五课至十多课就可完成第一阶段,而能得到如上的两项显著的效果。所以我们有一位学生在其报告中说:“我觉得打坐对我及另外好些人极有用处,我们无论由于职业性或习惯性,差不多每分秒都在用脑的人,打坐确实是很舒服,很需要的一种休息和调剂,即使没有更远大更重要的目标,仅仅这一点,打坐已经是一种值得的修行。”
我给每一班学生上第一课的时候,总是要问他们每一个人,来学坐禅的目的是什么?希望在身体方面获得利益,抑是希望在心理方面求取帮助?大多数是为了在心理方面求帮助而来学禅。可见今日生活于美国社会中的人们,在现实环境的强烈剌激和压挤之下,神经过度紧张,有很多人的心理都失去了平衡,除了严重到要去请教精神科医生之外,他们就来学习坐禅。我有一位妇女学生,她是某一著名大学非常优秀的讲师,初次见我,便问我能不能帮她一个忙,替她解除紧张不安的情绪,我说,这对于学习坐禅的人而言,则是太容易的事了。结果,她在上了课之后,便觉得坐禅对她的生活乃是一大恩惠。
这第一阶段的方法很简单,主要是使你放松全身的肌肉和神经,将注意力集中于你所学到的方法上,因为肌肉和神经的紧张,关系着你的头脑的活动,如果减轻你的脑部的负荷,是关键所在。当你的妄念及杂念渐渐减少之时,你的脑部就可渐渐地得到休息。脑部对于血液的需求量便越来越少,使有更多的血液,遍流全身。同时,由于你脑部轻松的原故,全身的肌肉也放松了,因而血管放大,周身感到舒适,精神自然感到爽朗,头脑的反应也自然更为明快和轻松了。
如果仅为身心的平衡,而来学生坐禅的人,学完第一阶段,&127;大概就觉得够了。可是有很多的学生,经过第一阶段,尚不够满足,有的学生根本也是为第二阶段的目的而来。
第二阶段:从小我到大我。
当在第一阶段的时候,仅能使你把浑乱的心念,集中起来,练习注意力集中之时,照样尚有其他的杂念,在你的脑海中或多或少地时隐时现。在观念上你的目的,是为了身心的健康,为了使自己练习坐禅而获得利益。所以,纯粹是自我中心阶段,谈不上哲学的理想和宗教的经验。到了第二阶段,便要使你从小我观念中解放出来。到了第二阶段,才是进入冥想(Meditation)的程度,在练习老师所教的修行方法之时,要把小我观念的范围扩大,大到与时间及空间等量齐观,小我融入整个的宇宙之中,与宇宙合一,向内心看时,无限深远,向外界看时,无限广大。既然已与宇宙合二为一,自己的身心世界便不存在了,存在的是无限深远及无限广大的宇宙,自己不仅是宇宙的一小部分,乃即是宇宙的全体。
当你在坐禅时,得到如此的体验之后,你便能理解到哲学上所讲的理念或本体是什么了,现象的存在,又是什么了。因为一切现象,是本体的浮面或表层。以肤浅的观点看起来,一切现象,虽然千差万别,各有不同的性质,实际上,现象的差异,并无碍于本体的完整。比如,我们所处的地球,虽有无法计算其类别的动物、植物、矿物、或气体、液体、固体,不断地在生灭变异,这是地球现象。若从地球之外的其它星球来看地球,它仅仅是一个物体而已。只要我们能有机会摆脱自我或主观的束缚,站到全体的客观立场来观察一切现象,就会把对立和矛盾的观念打消。假如再将本体和现象用一棵树来作比喻,树,无论大小,若从树叶或树枝的各个立场看,它们是有差别的,各叶与叶之间,各枝与枝之间,也会发生互相磨擦的现象,若从树的根干的立场看,不论是树的那一部份,无一不是统一的整体了。
在这第二阶段的过程中,能使你体验到,你不是孤立的个别存在,而是普遍地存在于深广无限的宇宙之中,你与环境之间的矛盾,不存在了,对于环境的不满、忿恨、喜爱、渴望,也即是排斥和追求等的心理,自然消失,你所感受到的,乃是宁静和充实,因为消除了自私的小我,能把一切人和一切物,都视为由我的本体所产生的现象,所以,爱一切人和一切物,如同爱护小我一样,这就是一般大哲学家的心量了。
当然,一切伟大的宗教家,也必定曾经有过这第二阶段的体验,当他们从小我的境域中解脱出来之后,发觉自已的本体,即是全体宇宙的存在,自已与宇宙万物,无二无别,万物的现象是由他们的自体衍生出来。他们有责任爱护万物,也有权力支配万物,好像我们有责任爱护自己所生的子女,也有权力自由支配属于自己的财富一样。这就形成了神与万物之间的关系;把他们从冥想中体验到的宇宙本体,人格化而构成上帝的信仰;把上帝自爱这个大我的观念,具体化而构成救世主或神的使者的使命;把一切现象统一化而认作被创造及被救济的对象。结果,有些大宗教家,以为他们的灵的本质与神是相同的,由神的现实化而成为人,所以他们本身是救世主;有些宗教家,以为他们的灵的本质虽与神相同而不可分割,他们的肉体的现象,则为奉神之命而来世间传达神意的使者。
一般的哲学家或宗教家,到了第二阶段的顶峰,便会觉得他们的智慧是无限的,力量是无穷的,生命是永恒的了。但是,“我”的范围越大,自信心的程度也越强,强烈的自信心,实际上就是优越感和骄慢心的无限升级,所以称为大我,所以也并不等于已从烦恼中得到了彻底的解脱。
第三阶段:从大我到无我。
人到了第二阶段的高峰后,自觉到“我”的观念已不存在,但那仅是扬弃了自私自利的小我,并未能把本体的理念或者神的实在也否定掉,不论你称它为真理、唯一的神、最高的权威、不变的原则、乃至佛教所称的佛陀,如果你以为它是实有的话,那都不出乎大我的境界,均不出乎哲学及宗教的范围。
必须告诉你,到了第三阶段,才是禅的内容,禅是无法想像的,它不是一种观念,更不是一种感觉,不是可用任何抽象的理念或具体的事物来说明它的。冥想固然是普通的人通向禅之道路的应经过程,到了禅的门口,冥想的方法也用不上了。正像用各种交通工具,把你一程一程地转运到最后一个地方,前面是一座高山的峭壁。这座峭壁,向上看不见其顶,向左右看,不见其边际。这时有一位曾经到过峭壁那边的人,向你指着峭壁说,禅的天地就在这座峭壁的那一面,通过峭壁你就进入禅境了。但是,他又告诉你,你别寄望用什么交通工具,飞越它,或者绕过它,或者穿透它,因为它是无限的本身,你不可能用任何方法通过它。
纵然是一位高明的禅师,把学生引到此处之时,也会觉得无能为力了,他虽然是过来人,他却不能把你拉过去,正好像母亲饮食,不能使得她的不肯饮食的婴儿解除饥渴的道理一样。这时候,他唯一能够帮助你的地方,是告诉你,把你过去的一切经验,一切知识,一切你以为是最可靠最伟大最实在的东西和观念,全部解除,连你要进入禅境的希望也得解除掉。正像你要进入一座特别神圣的建筑物之前,那个守门的人告诉你,不但不准携带兵器,连所有的衣帽鞋袜也要脱下,不但要一丝不挂,连你的肉体和心灵也要全部解除了,方许你进去。因为禅是无我的天地,当你心中尚有一丝凭藉之物的时候,便无法与禅相应。所以禅是智者的领域,也是勇者的领域,若非智者,不能相信解除了一切凭藉之后,尚有另一个境界会在你面前出现;若非勇者,要把自你有生以来,不论是思想的或知识的,精神的或物质的,所有一切,全部抛弃,是很难做到的。
也许你会问:要作如此大的牺牲,进入了禅境之后,又有什么益处呢?告诉你:当你存有这个问题之时,你是不能进去的,求取利益之心,不论为已或为人,都是有我的境界。中国禅宗的六祖教人进入禅境的开悟方法,是“不思善,不思恶”,也就是把我与人,内与外,有与无,大与小,好与坏,烦恼与菩提,迷与悟,虚妄与真实,生死之苦与解脱之乐等等的对立的观念,全部打消了,禅境与悟境才会发生在你的生命之中,使你获得一个新的生命,这新生命是你本来就有而未曾发现过的。禅宗称它为父母未生你之前的本来面目。这既不是肉体身心的小我,也不是宇宙世间的大我,乃是不受任何烦恼束缚困扰的彻底自由。要进入这样的禅门,并非易事,许多人学了数十年的禅,静坐了数十年,仍然不得其门而入。如果你的因缘成熟,或者遇到了高明的禅师,在他的悉心督促之下,进入禅门,也不困难,他会采取种种使你看来似乎违背常情常理的态度,动作、语言,作旁敲侧击的引导,使你很快地达成进门的目的。当这位禅师告诉你,你已进门的时候,你才发觉,禅是无门可入的,未入之前不见门在何处,进入之后,门也并不存在,否则便有内外之分及迷悟之别了,若有了分别,仍不是禅。在第二阶段时,虽已觉得我是不存在的,宇宙本体或最高的真理仍是存在的;虽然存认,一切差别的现象,不过是宇宙本体或最高的真理的衍生,内在的本体和外在的现象,仍是对立的,除非等到一切现象的差别全部消失,而回归于真理或天国之时,才是绝对的和平及统一之外,当现象界还在活动着的时日,矛盾和忧患,痛苦与罪恶,仍是免不掉的,所以哲学家和宗教家,虽见到了本体的宁静,却无法驱除现象的混乱。
进入了禅境的人,所见的本体和现象,不是两样对立的东西,甚至也不能用同一只手背和手掌来作比喻。这因为现象的本身,就是本体那个东西,离开现象,并不另有本体可求,本体的实在,即在于现象的不实在之中;现象是变幻不已的,没有常态的,这就是真理。当你体验到了现象不是实在的东西之时,你便从现象造成的一切的人我,是非的观念,以及贪欲。忿恨、忧虑、骄慢等的烦恼心中得到解放。你不必追求宁静和清净,也不必厌恶烦恼与杂秽。你虽生活在现实的环境之中,任何环境,对你而言,无处不即是清净的佛土,未悟的人看你,你是平常的人,你看平常的人,则无一不与诸佛相同。你自觉你的自性与诸佛的自性一样,佛的自性普遍于时空,所以,你会不期然而然地运用你的智能和财力,普施于一切处,一切时的一切众生。
这是我向你透露了一点进入了禅的悟境之后的心境,也是从小我而到无我的修行过程。不过,最初开悟而进入禅境的人,在禅境的历程上,尚在起步的阶段,好像一人个从未喝过葡萄酒的人初尝一口,他就知道葡萄酒的滋味是什么了,喝过之后,葡萄酒不会永远留在他的口中。禅的目的,不是教你浅尝一口即止,而是要你把整个生命与葡萄酒融合为一,乃至忘却了你或葡萄酒的存在为止。因此初入禅境,不过是初尝一口无我的葡萄酒而已。尝到一口无我的滋味之后,还有多少路程要走,尚有怎样的景色可见?如有机会,下次再告诉你吧!
原文是网上摘录的,可能有些错别字哦!
译文:
禅とは何か
まず最初、あなたに教えてあげたいのは禅は知識ではない、しかし、知識は禅から離れないのです。禅は宗教ではない、宗教の効率は禅の中にある。禅は哲学ではない、それにしても、哲学は禅の領域を越えられない。禅は科学ではない、科学は実際と経験を重視する精神であり禅の要求でもある。だから、あなたは好奇の心理を持って禅の内容を探求・模索する必要がない。禅は東方人から持って来た新しい物事ではない、空間と時間があり、禅は限りない空間及び限りなく長い時間の中で普遍的に存在する。
しかし、東洋にある仏教が西洋社会に伝わる前には、西洋の人は禅の存在を知らなかった。東洋人が西洋に来て教えた禅は実際、禅というものではない。ただ、二千五百年前、印度で生まれた王子、名前はGautama Sakyamuniという人により、最初、禅を発見されて、悟られました。Buddhaという以後、われわれはどういうふうに禅を認識するか方法を教わりました。この方法は中国に伝わり、そして、日本に伝わった。印度ではそれをdhyanaといい、中国の発音はchanで、日本の発音はzenです。実際は同じものである。つまり、禅は普遍的に恒久的に存在していた。どんな人にも授ける必要が無く、授ける必要があるのは、自分でどういうふうにこの禅を体験するかだけである。
ある人は禅をひとつ神秘な経験と誤解し、もしくは禅の経験を通して超自然的な能力を勝ち得ることができるだろうと思っている。もちろん、座禅の修業の過程では、あなたの生理と心理の感覚の方に、いろんな奇妙な現象を与えさせることもある。また、身心を統一する修業によって、心の力で外部の物事を制御したり、或いは移り変わる目的を達することもできる。これらの認められた宗教の奇妙な現象は座禅を勉強する目的ではない。これらの現象はただ人に好奇心を与えたり、誇大妄想狂を満足させる。人々の現実生活の中での問題を解決できず、禅は問題の根本から着眼し、まず外部的な社会環境及び自然環境の征服から取りかからずに、自我の徹底的認識から始める。あなたがあなたの自我は何のものかを認識した時に、その時、あなたが今まで何のためにの自我も失う。この自我の観念を改めて認識することをわれわれは「開悟」と称する。或いはそれを「見性」とも称する。これはあなたのために問題を徹底的に解決する発端である。その結果、あなたがあなたの個人と全体の現実がひとつ一体と発見されるでしょう。分割すべきでないし、分割することもできないのである。あなたが自分で欠陥がある限り、環境の欠陥を見られるのである。まるで一枚の表面には凹凸があり、平にならない鏡のように、その中に反映された画像もねじ曲げられている。また、波浪が立つ川面の上に反映された月も不完全・不平静と同じかのようです。もし鏡の表面が滑らかで、平になるならば、川面の上にも風は凪ぎ、波が静かになるならば、鏡の中で映された画像と水の中にある月は、詩画みたいな美感をあなたに与えるでしょう。だから、禅の立場から見れば、人類が感じた苦痛と不幸の主な原因は、われわれが今生きている地球環境の悪質ではないし、人類社会の恐ろしさでもないだろう。それはわれわれが今まで自我の本性を認めていないためであると思う。
前に述べた如く、禅は自己催眠式の唯心論ではない。したがって、禅はわれわれがどういうふうに現実を逃避するかを指導しない。更にわれわれにオーストラリアのダチョウのように敵人を向けて警戒する視線を取り戻して、土の中に隠してから、全ての問題を解決しようと思うことを教えてもらうわけにもいかない。禅の腕前によって、自我を無くす。利己的な小我を無くすだけしゃなくて、且つ哲学の方で称する真理及び本体の大我も無くしてしまう。そうになると絶対の自由なものである。それによって、ひとりの成功な禅者がいろんな責任は負担だと思わない。その上、生活の条件は人間に対しの圧力だとも思わない。彼は限りなく、生命の活力を発揮することしか思わない。それは絶対の自由の象徴である。だから、禅の生活は必ず正常的な且つ積極的なもので、愉快な且つ朗らかなものである。その故、禅の修業はあなたに続けて絶えないほど提供する。あなたの知恵の宝蔵を開発する。開発が深ければ深いほど取れた知恵ももっと多くなる。最後に、全宇宙の知恵は全部あなたの知恵観察範囲の中で漏れたものがないのである。この時の知恵は絶対になる。絶対であれば、知恵という二文字も要らなくなってしまう。この境地に達すると、あなたに名利と権勢を追求させる自我、或いは苦しみと困難危険を逃す自我はもとより見られなくなってしまう。たとえこの自我を無くすための知恵でもあなたに対して、もう要らない観念となるであろう。
もちろん、ひとり座禅を修業する人がこの程度に達したのは頓悟の観点から言えば、とても簡単であるけど、頓悟の角に向けている歴程で必ず先に努力しなければならない。そうしないと、修業は無駄なものになってしまうでしょう。
座禅の三段階
今まで、私はアメリカで座禅の方法を教えてきました。三つ段階に分けています。
第一段階:身心の発展にバランスを取って、身心の健康に達する。体に対して、われわれは歩き、坐り、立ち、寝るなどのいろんな姿勢の模範と是正を重視している。それと同時に歩き、坐り、立ち、寝るなどのいろんな運動的な体を健康にするための方法を教えている。それは印度の「瑜伽」及び「中国」の導引を総合し、独自に一体化し、座禅健康に適し、且つ座禅の効き目に助けられる運動方法である。したがって、ひとり座禅によって、いくつかの効果を取れる人に対し、彼の体は必ず健全で、尚且つ苦しみと労りを耐えるようになる。心理に対して、われわれは人の悩み、疑い、憂慮、恐れ、意志緩みなどの情緒を取り除くことも重視して、自信、決断、楽観と穏やかな情操を樹立させる。
ひとりいい学生にとって、こちらで五回目から十回目にかけて、授業を受けてから、この第一段階を完成できるようになった。上述の二項目の顕著な効果を得られた。だから、こちらにある学生のレポートの中で、私は「跌座」が私及び他のいろんな人に対して、大変役立つと思う。われわれはいずれも職業性或いは習慣性によって、ほとんど毎分毎秒で頭を使っている人にとって、跌座は確かにとてものんびりで、どうしても必要がある休憩と調整であり、もっと偉い、もっと重要な目標がなくても、ただこれきりだったら、 跌座は既にやるべき修業になると述べていた。
私はクラス毎に学生に初めての授業を授ける際にはいつも人毎にあなたがこっちに来て座禅を勉強する目的は何ですかと聞いてきた。体の方が利益を取れるため、もしくは心理の方で助かりを求めるためと望んでいる。大部分は心理の方で助かりを求めるためにこっちも来て禅を勉強している。今まで、見られるのはアメリカ社会で生活をする人々は現実環境の強烈な刺激と圧力の下で神経が緊張しすぎて、多くの人が心理のバランスも失っていた。精神科医まで訪ねるほど酷さを例外として、彼らはこっちに来て、座禅を勉強する。こちらの方はひとり婦人の生徒がいて、彼女はある著名な大学の非常に優秀な講師であり、初対面の時に、彼女は私に助けられるかどうかと聞いて、彼女に対して、緊張不安な情緒を解除してもらいたい、これは座禅を勉強する人にとって、本当に簡単すぎることだと私が言った。彼女はこちらで授業を受けてから、座禅は彼女の生活に一つ大きな恩恵になった。
この段階の方法はとても簡単です。重要なのはあなたの全身の筋肉と神経をほぐして、注意力をあなたの勉強した方法に集中させて、筋肉と神経の緊張はあなたの頭の動きに繋がっている。したがって、どのようにあなたの脳部の負荷を減らすか。これが一番重要なポイントだ。あなたの妄想と雑念をだんだん減らしているうちに、あなたの脳部はだんだん休みを取れる。脳部の血液の需要量もますます少なくなってから、もっと多くの血液が全身に流れる。それと同時に、あなたの脳部が軽くなり、全身の筋肉もほぐれる。それによって、血管が拡大し、全身が爽やかに感じて、精神の方も自然に朗らかに感じる。頭の反応ももっと明るく軽くなるのは当たり前なことだ。
もしただ、身心のバランスを取るためにこちらに来て座禅を勉強する人は第一段階を学び切ったら、たぶん充分だと思う。しかし、大勢の学生は第一段階を経てから、まだ満足できず、ある学生は根本な原因は第二段階の目的のためにこちらに来くものだ。
第二段階は小我から大我へ、第一段階の時には、あなたの混乱している思いを集中して、注意力の集中を勉強する時にまだ他の雑念があって、あなたの脳裏に多少消えたかと思うと現れる。観念の方であなたの目的は身心の健康のために自分が座禅の修業によって利益を獲得するためのである。第二段階に達すると、あなたを小我の観念中から解放させて、第二段階に達することこそ、冥想(Meditation)の領域に入る。先生から教わった修業の方法を練習する時に小我の観念の範囲を拡大すべき、時間と空間を同等に見るまで大きくして、小我は全体の宇宙に溶け込んでしまい、宇宙と一体化する。逆から見れば、深さが限りなく、外の方に見れば、広さも限りない。既に宇宙と一体化するからには、自分の身心世界も存在できなくなる。存在したのは深さが限りなくまた果てしなく広い宇宙で、自分はただ宇宙の小さな一部分だけじゃなくて、それは宇宙の全体である。
あなたが座禅をしている時にこんな体験を得たあと、あなたが哲学の方で述べた理念或いは本体は何のものかと、現象の存在は何のものかを理解できると思う。全ての現象は本体の浮き面また表層であるから、浅はかなな観点から見れば、全ての現象は千差万別で、異なっている性質で分けているけど、実際には、現象の差が本体の完全性に影響を与えられない。例えば、われわれが生きている地球はその類別が計算できないほどの動物、植物、鉱物があるけど、または気体、液体、固体が絶えられないほど生滅変異していて、それは地球の現象である。もし、地球以外の他の星から地球を見れば、それはただ一つの物体だけである。われわれはチャンスによって、自我或いは主観観念から脱却できることこそ、全体の客観的な立場から全ての現象を観察すると、対立と矛盾の観念を打ち消すことができる。もう一回、本体と現象を一本の木で例えば、木の大小にもかかわらず、木の葉または枝の各立場から見れば、それぞれの区別があると思う。木の葉の間で枝と枝の間で、お互いに摩擦の現象を発生することができる。もし根と幹の立場から見れば、木のどの部分にしても、統一の全体ではないものが一つもないと思う。
この第二段階の過程で、あなたに体験させられるのはあなたが独立で存在されたものだけじゃなくて、普遍的に限りなく深くて広い宇宙に存在している。あなたが環境との矛盾が存在されなくなった。環境に対しての不満、立腹、好み、渇望などがすなわち排斥と追求などの心理が自然に消え失せる。あなたが感じられたのは平静及び充実であり、利己的な小我を取り除いて、全ての人も全ての物も全部私の本体から生まれた現象と見なしている。したがって、全ての人と全ての物を愛するのは小我を庇うことと同じならば、これは一般的な大哲学家の度量である。
もちろん、全ての偉い宗教家は必ずこの第二段階の体験を持ったことがある。彼らは小我の境地から解脱してから、自己の本体がすなわち全体宇宙の存在だと覚悟した。自己と宇宙の万物は無二無別で、万物の現象は彼らの自体から派生したものである。彼らは万物を庇う責任を持って、万物を支配する権力も持っている。われわれは自分の子供を庇う責任を持つこと、自分の財産を支配する権力を持つことと同じようにする。これによって、神と万物の間の関係を形成した。彼らが冥想(Meditation)から体験された宇宙の本体を人格化して、上帝の信仰を構成し、上帝が自愛したこの大我の観念を具体化にして、救世主或いは神の使者の使命を構成し、全ての現象を統一化して、創造すべき及び救済すべき対象と見なしている。その結果、ある大宗教家が彼らの魂の本質は神と同じであり、神の現実化によって、人を成したと思う。したがって、彼ら自体は救世主である。ある宗教家が彼らの魂の本質は神と同じで、分割もできないけど、彼らの肉体の現象は神の命令を受けて、世の中に来て、神の意志を伝える使者である。
一般的な哲学家或いは宗教家は第二段階の最高峰に達すると、彼らの知恵は限りないもので、力量は計り知れないもので、生命は恒久的なものだと思う。しかし、我という範囲が大きければ大きいほど自信の程度も強くなる。強烈な自信が実際には優越感と傲慢心が無限に向上するものである。だから、大我と称する。それによって、悩みの中で徹底的に解脱というわけにもいかないのである。
第三段階は大我から無我へ、人は第二段階の最高峰に達した時に、自分で我という観念はもう存在されていないと感じている。それはただ利己的な小我を揚棄しただけである。本体の理念及び神の実在を否定したことがまだできていない。あなたはそれが真理、唯一の神、最高の権威、不変な原則、さらには仏教で呼ばれた仏陀を称するにもかかわらず、もしあなたはそれを実際にあるものと認められたら、それは大我の境界に出られない。全ての哲学及び宗教の範囲に出られないのである。
必ずあなたに教えるべきなのは第三段階に達するこそ、禅の内容である。禅は想像できないもので、一種の観念ではないし、更に一種の感覚でもない。どんな抽象的な理念或いは具体的な物事で説明できるわけがない。冥想(Meditation)はもとより普通の人が禅に通じる道に対しての経るべき過程であり、禅の門に着すると、冥想の方法も使えなくなる。例えば、いろんな乗り物を使って、あなたを一道程一道程に最後にあるところまで転送して、前の方は一つ高い山の絶壁があって、この絶壁は上の方に見れば、その頂が見えない、左右の方に見れば、その果ても見えない。この時、あるひとりの前にはこの絶壁の向こうに着いた人はあなたの前で絶壁に指差してこう言っている。禅の天地はこの絶壁の向こうにある。絶壁を通して禅の境に入れる。但し、彼はまだあなたに教えて、あなたはどんな乗り物を使って、それを飛び越えるかまたはそれを避けるかまたは突き通すことを期待しないで、それは無限の自体であるため、あなたはどんな方法にしても、それを通せないと思う。
たとえひとり腕前が優れている禅師にしても、学生をこのところに引っ張ってくると、手に負えないと感じている。彼は経験者であるけれども、あなたを引っ張っていくこともできない。母親が食事をして、食事しようとする気がない赤ちゃんの餓えと渇きを解除させることができないと同じです。この時、彼はあなたを助けられる唯一の方法はあなたに教えて、あなたが過去全ての経験、全ての知識、あなたが認められる一番信頼できる、一番偉い、一番実在な物と観念を全部解除して、あなたが禅境に入りたい希望さえも解除しておく。あなたが一つ特別な神聖な建物に入ろうとする前に、その守衛さんはあなたに教えて、ただ兵器を携帯してはいけないばかりでなく、全部着ている衣類、帽子、靴、靴下も脱いで、一糸も纏わないばかりでなく、あなたの肉体と心根さえ全部解除した上、あなたを入らせる。禅は無我の天地であるため、あなたの心の中には、もしすこし頼り物があれば、禅と応じられなくなる。だから、禅は智者の領域で、それも勇者の領域です。智者でなければ、全ての頼り物を解除してから、まだもう一個他の境界があなたの前に現れることを信じられない、勇者でなければあなたが今まで持っている思想的な或いは知識的な、精神の方或いは物質の方全部の一切を、全て放り出すことが本当にやりにくくなる。
あなたはこんなに大きな犠牲を払って、禅境に入ってから、何の利益をもたらせるかという質問が出てくるかも知れない。あなたに教えて、あなたがこの質問を持っている時には、あなたが入れないと思う。利益を求める心は自己のため、或いは他人のため、全部有我の境界であり、中国禅宗第六祖が人に教える禅境に入る覚悟方法は善も考えず、悪も考えずという、それは我と人、内と外、有と無、大と小、善と悪、悩みと菩提、迷いと悟り、虚妄と真実、死亡の苦しみと解脱の楽しみ等等の対立の観念を全て打ち消す上、善境と悟境はあなたの生命中発生できる。あなたに新しい生命を獲得させる。この新しい生命は本体から持ってくるけど、今までずっと発見されていなかったものである。禅宗でそれを両親があなたを生む前に本来の面目と称する。これは肉体身心の小我ではない、宇宙世間の大我でもない。何も悩み束縛で苦しめられない徹底的な自由である。こんな禅門に入ることは簡単なことではないのである。多くの人が数十年の禅を学び、まだこの門に入ることもできない。もしあなたの因縁が成熟になったら、もしくは腕前が優れている禅師と出会って、彼の精魂を傾けて督促する下で、禅門に入るのはあんまり難しいことではないと思う。彼はいろんなあなたの目から見れば、普通の気持ちと常識に背く態度、動作、言葉を用いて遠回しに導く。あなたに早目に門に入る目的を達成させる。この禅師はあなたにあなたがもう門に入ていることを教えた時に、あなたは禅に入る門がないと発見される。入る前に門がどこにあるか見られなかった。入ってから、門も実際存在されていなかった。そうしないと、内外の分け及び迷いと悟りの区別がある。区別があれば、まだ禅ではない。第二段階にいる時に自己が存在されていないと感じていたが、宇宙の本体或いは最高の真理がまだ存在している。全ての現象は宇宙本体或いは最高の真理から派生を承認するけど、内在の本体と外在の現象はまだ対立している。全ての現象の差別を全部消え失せたままで、真理或いは天国に回帰することこそ、絶対な平和及び統一は別として、現象界がまだ活動している内に、矛盾と憂患、苦痛と罪悪はまだ免れないものだ。したがって、哲学家と宗教家は本体の平静が見られているけど、現象の混乱を駆除することができていない。
禅境に入った人にとって、見られていた本体を現象は対立しているものではない。一つ手の甲とひらさえ比喩とすることもできない。現象の自体は本体というものであるため、現象に離れるとその本体というものを求められない。本体の実在はすなわち現象の不実在の中に含まれている。現象は変幻きわまりなく、常態がないものこそ、これは真理だ。あなたが現象というものは実在ではないものと体験される時に、現象からもたらした全ての他人と私、いさかいの観念及び貪欲、立腹、憂慮、傲慢などの悩みに解放される。あなたは平静と森閑を追求する必要がなく、悩みと穢れを厭悪する必要もない。あなたは現実の環境で生活をしているけど、どんな環境にしても、あなたにとって、どこも森閑な仏土であり、悟っていない人はあなたを見て、あなたは通常な人で、あなたが通常な人を見て、全部諸仏と同じのである。あなたはあなたの自性が諸仏の自性と全く同じだと自覚する。仏の自性は普遍的な時空に存在されるから、あなたが期せずしてあなたの知恵と財力を運用して、全てのところ、全ての時間、全ての衆生にあまねく施す。
これは私からあなたに仄めかしたすこし禅の悟境に入ってからの心境で、それも小我から無我までの過程である。それなのに、最初に悟ってから禅に入る人は禅境の歴程にまだスタートの段階であり、例えば、ひとり今まで葡萄酒を飲まない人に対して、一口で飲むと彼は葡萄酒をどんな味が分かるようになった。飲んでから、葡萄酒は永遠に口に残ることができない。禅の目的はあなたに一口で味わうとすぐ終わるということを教えるわけがない。あなたの全体の命を葡萄酒と溶け込んで一体化にする。さらにはあなた或いは葡萄酒の存在まで忘却する。そのため、初めて禅境に入るのはただ一口で味わった無我の葡萄酒だけである。無我の味を一口で味わった後、まだどのぐらいの道を歩く必要があるか、まだどんな景色を見られるか。チャンスがあれば、今度、もう一回あなたに教えよう。
訳者の言葉:
禅は全てを否定して、最後に全てを肯定する過程であり、あなたが全ての物事を否定すると、最後には一つどうしても否定できないものを感じる。そのものは禅です。上の文章でそれを宇宙の本体或いは不変な真理と称する。このところに達すると、禅に近付いただけである。禅の内容にまだ入っていない。もしあなたがこのいわゆる禅も否定すれば、あなたが禅の境界に入った。禅境に入っていたあなたとまだ禅を学んでいないあなたは観察されたものが全く違う。例えば、一頭の豚、学ぶ前には、あなたがただあばら肉とももが特においしいと見られる。禅境に入ってから、あなたが見られる豚は食用豚ではない。この豚は上帝、仏である。それと同時にあなたが寺に行って、見られる仏も豚であり、刀を振って、殺すこともできる。
[ 本帖最后由 多拉爱梦78 于 2008-3-12 23:41 编辑 ] |
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