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 发表于 2004-5-10 23:00:00
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| 外灘〔Wai Tan〕 ! N( U: W* f; v3 Z 
 . |9 c" n1 d5 @' ]7 A6 R% E. z  黄浦江と蘇州河の合流点から南の金陵路までの中山東路沿いの黄浦江西岸は、外灘(英語名:Bund(バンド))と呼ばれ、租界時代の上海の中心地であった。ここには当時の建築物が多く残っている。また黄浦江の対岸には、上海の中でも最も急速に発展しつつある浦東新区の中心である陸家嘴金融・貿易開発区の高層ビル群と上海のシンボル的存在の東方明珠タワーが望める。黄浦江はさまざまな船が忙しく走り、時折聞こえる汽笛が雰囲気を盛り上げてくれる。夜はライトアップがなされ、1世紀近く前の建築物が幻想的に浮かび上がる。古い上海と新しい上海が一ヵ所に凝縮された外灘は上海一の観光スポットということができよう4 C. y: {! D1 j; G
 
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 : P, A8 L7 p7 S+ T6 a- c外灘はのんびりと散歩をするようなつもりで歩き、上海の雰囲気を味わおう。( Y% m& \7 ?9 E3 |7 O; b' j8 f
 
 : K$ ?7 j" K3 t5 X8 | まず外白渡橋―黄浦公園(Huang pu gong yuan)―黄浦江岸の遊歩道と歩いてみよう。
 9 M+ h8 V" \4 A. _) l 外白渡橋は1907年の完成で解放前はガーデンブリッジと呼ばれた。租界時代にはこの橋より北側は日本人居住が多かった場所で、この橋を北側から南側へ渡ると一気に欧米的雰囲気の広がる地域に変わったという。この橋の下を流れるのは汚染河川として悪名高い蘇州河である。上海市はこの川の浄化を急いでおり、これでも数年前に比べればずいぶんきれいになった。この橋から北側を見て右手の青い建物はロシア総領事館。解放前もロシアが総領事館として利用していた建物である。解放前の日本総領事館もこの一画にあった。左手の茶色のビルは1934年に完成で、現在は上海大廈(ホテル)、解放前はブロードェイ・マンションと呼ばれた。イギリス人の管理職が居住していたという。
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 3 Y6 l! P; w( w) ?4 j# v7 j3 r5 r% I* m 黄浦公園には、中華人民共和国建設に貢献した人々を記念する人民英雄記念碑がたつ。この公園は解放前はパブリックガーデンと呼ばれ、外国人専用であった。$ @; [; s( r; n0 O6 ?
 
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 ここから黄浦江沿いの遊歩道を南下しよう。右手に並ぶ古いビルは、租界時代の建築物で、すくなくとも外観は当時そのままの姿を保っている。2 z* @+ Y) l2 J6 u- ~9 _
 
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 8 r2 W8 {1 l% f2 k8 X左手の黄浦江は、上海市の中心を北(後方)へ流れ、長江と合流する長さ84kmの川。黄浦江の両岸及び長江岸の外高橋保税区岸が上海港と呼ばれ、3万トン級の船が出入り可能な国際河川港である。上海港のコンテナ取扱量はは中国で一位、世界でも十二位の規模を誇る。なおさらに大きな船は上海から南西約250km程度(直線距離では150km程度)の寧波を利用している。) Y5 G* u5 W  Q
 
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 5 ]* r, U7 @4 Y7 |# I6 _/ B5 ] 黄浦江の対岸には、浦東新区陸家嘴金融貿易開発区の高層ビル群とアジア一高い東方明珠タワーが望める。
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 南京路と交わるところには、上海市の初代市長である陳毅の銅像がたつ。陳毅は1949年5月28日に上海市長に就任した。彼は国民政府との内戦で混乱した経済の立て直し、貧困対策、伝染病の駆除等の社会問題の解決のため不眠不休で取り組み「人民の市長」として上海市民の大きな支持を得たという。
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 延安路と交わるところのそばに煙突のような建築物があるが、これはつい最近まで外灘史陳列室であった。古い外灘の写真が収められていたのだが、現在は公開されていない。この建築物は、租界時代にはマストのような部分に旗がつけられ、黄浦江を行き交う船に天候などの情報を伝えていた。
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 3 {7 ^" r" h# W3 t9 w 延安高架路を越えたら、歩道橋を超え中山東路の対岸に渡り、中山東路を北上しよう。ホテルや銀行などいくつかの建物は自由に入ることができる。ちょっと中を覗けば70年前にタイムスリップした気分になれる。ケンタッキーフライドチキンの看板がある東風飯店に入ると、古い映画の中でみるようなエレベーターがある。3 s- ~4 h" Y9 x/ N, D
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 " u, i0 S3 N5 {' V中山東路を北上していくと、途中福州路と交わる。今は特に特徴のない道だが、解放前は[スマロ(四馬路)]と呼ばれた。あの「夢のスマロ」である。昔は香水の香りの漂う上海一の風俗ストリートであったという。
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 さらに北上すると南京路に出るので、そのまま南京路を散策するか、南京路から一本北の道を左に入り友諠商店へ行くのもいいだろう。" d( y8 U5 I2 s  x/ Z; \7 ?# M
 
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 バンドの由来  : n+ K2 V3 `) _, M
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 バンドとはそもそも人工の土手や堤防を意味する。イギリス統治下のインドで、港岸のウォーターフロント地域がバンドと呼ばれていたが、上海の外灘地域も同様な地形であることからここもバンドと呼ばれるようになった。/ Q/ g  r3 z7 d- l0 `& V
  
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 租界時代の建築物  1 B% I" U2 t5 {
 
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 外灘及び上海のシンボルである古いビル群は50年以上前に建設されたもの。上海一の名所といっていいだろう。現在は、ホテルの他、上海市政府の「外灘と対岸の浦東新区陸家嘴を金融センターとする」という政策に沿って、銀行、保険会社、外貨取引センターなどに使用されている。夜は10時までライトアップされる。夜景はさらにすばらしく必見である8 ^5 R/ P0 V7 ]! N- ^& V% h
 
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 上海の地図を見ると、ほとんどの道路は東西若しくは南北に走っているが、黄浦江の側に円形になっている道がある。これは、倭寇の襲撃を防ぐために16世紀半ばに作られた城壁だったところである。城壁は周囲5キロ弱、高さは8メートルあったとされるが、1912年に取り壊され、現在は人民路と中華路になっている。この円形の道の内側は旧上海城とよばれ、租界時代の上海においても中国人だけが住む地域だったという。
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 ; ?. o6 L: K5 W1 g, P. j この地域の中心に豫園がある。豫園の「豫」は「愉」に通じ、すなわち「楽しい園」という意味である。豫園は外灘と並ぶ上海2大観光スポットのうちの一つであり、上海に来た観光客はほぼ必ず訪れる場所だ。面積は狭いので、急いで回れば30分でも見ることも不可能ではないが、狭い空間に芸術品のように細かい工夫が多数なされている庭園なので、是非じっくりと時間をかけて観光してほしい
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 0 a$ T; k" H% n; y開園時間:8時30分~17時(チケット販売は16:45まで)
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 : [' ?1 N$ ~& F5 U. F入園料:30元(身長1.2m以下子供及び70歳以上の老人は10元), x$ v9 S) y+ X! {+ W6 q$ Q4 D
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 ! ?. r# g. K! a0 m6 Dまた豫園周辺の豫園商城は、多くの商店が軒を並べる地域であり、中国各地からやってきた観光客でごった返している。日曜日の午後などは真っ直ぐに歩けない程の人混みとなる。買い物はしなくても、人物観察をしているだけでも楽しい地域である。ここの小龍包は有名であり、一度試す価値がある。
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 ) n* g, {1 A" Y1 i$ W7 `豫園商城を散策、湖心亭でお茶をのみ、豫園を観光。帰りがけに小龍包を食べるというコースなら、是非2~3時間はみておきたい。$ t1 ], ], Q# J! E; }( ~% O
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 l8 t/ n  h4 F* H$ D: D湖心亭と九曲橋  
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  豫園商城を抜けると、豫園入口の前に緑波池という蓮の池がある。池の中に建っている2階建ての東屋は、ちょうど池の真ん中にあることから湖心亭と呼ばれる。400年前に建てられたものが1784年に再建されたものである。中は喫茶店になっている。2階に上がって龍井茶を一服していこう。お茶は結構高く、日本の喫茶店で飲む程度の値段だが、窓際の席などは景色もよく、思わず長居をしたくなる。 , w5 {) M& t: a) J' b
 
 / M- |9 q3 S/ i6 Z! y. U0 Y) B湖心亭を結びギザギザにかかっている橋は九曲橋と言う。以前は石づくりであったが1932年に鉄筋コンクリート製に再建された。ギザギザになっている理由については、「人間はジグザグに歩けるが、悪霊は真っ直ぐ進むのでこれを池に落としてしまうため」という話を聞いたことがあるが、まあ実際には、湖岸から見たデザインの問題と、橋をジグザグに歩けば景色がいろいろに変わるということにあるのだろう。曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので規模が大きいことを象徴するのだそうだ# [3 e  b% v7 a- k1 K2 a) E
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 三稲堂  
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 豫園の門をくぐるとまず正面に見えるのが三稲堂である。三稲堂とは豊作を祈念して付けられた名のようで、建物のドアには、稲、麦、黍、瓜類の浮き彫りがなされている。元は楽寿堂と呼ばれたが、1760年に再建され、名前も変えられた。豫園でも最も古い建物のうちの一つであり、釘を使わない建築としても知られている。屋根の上には、右側には張飛、左側には関羽の像がある。三稲堂に入ると、正面に3つの額がかけられているが、これは、豫園の所有者が数回に渡って代わったことを示している。一番上には「城市山林」と書かれている。城市とは市街地のことであり、すなわち、「豫園は街のなかのオアシスだ」という気持ちが現されている。真ん中の「霊台経始」とは「祖先の霊に対し、崇拝をするぞ」というような意味である。正面には豫園の最初の持ち主である潘允瑞が記したとされる豫園記があり、豫園創建の経緯が詳しく書かれている。
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 仰山堂と築山  
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  三稲堂の奥は1866年に建てられた仰山堂で、その名のとおり、池を隔てて筑山が望まれる。築山は高さ12メートル余りで、上海から200キロ離れた浙江省の武康県から撙肖欷皮课淇凳
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