決して詳しく読んでいくわけではないので、もっと知りたい方はご自分でお調べくださいね(^^♪
■『小倉百人一首』の成立
『小倉百人一首』撰者とされる藤原定家の日記『明月記』(原本は漢文)には、文暦二(一二三五)年五月二十七日条に、為家(定家の子息)の舅にあたる宇都宮頼綱(もとは関東の豪族)の希望から、京都郊外の嵯峨の地にある頼綱の山荘の「障子」(襖のこと)に貼るための色紙として、「古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ」歌々を撰んでしたためたことが記されている。
しかし、今日の研究では、定家がもともと撰んだ百首(『百人秀歌』)と現在伝わっている『小倉百人一首』との間に相違があることが指摘されている。『百人秀歌』には、後鳥羽院の「人も惜し」(九九)と順徳院の「ももしきや」(一〇〇)の歌が入っていない。承久の乱で配流になった両院の歌を撰ぶことを避けたためであろう。さらに、子息・為家の代あたりで多少補訂され、現在の形になったと考えられている。
また、定家が『百人一首』を編纂して以降、他に多くの『百人一首』が編まれた。よって、それらと区別して嵯峨(=小倉)山荘の障子歌ということで『小倉百人一首』と呼ばれるが、一般に『百人一首』というと、この『小倉百人一首』を指している。 |