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脑子里有很多人D名字。。。一团糨糊了捏。。。大家帮忙看看捏。。。

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发表于 2006-2-5 23:24:39 | 显示全部楼层 |阅读模式
看到了8会读不太舒服捏。。。有些读了不太确定。。。有些8会读。。。大家看看撒。。。
酒井抱一 さかいぼういち?
岛崎藤村 しまさきふじむら?
坪内逍遥 ?
尾崎红叶 おさきこうよう?       
幸田露伴 こうだろばん?
二叶亭四迷 にようていしめい?
森鸥外 ?
长谷川天溪 ながやがわてんし?
岛村抱月 しまむらぼうつき?
田山花袋 だやまはなぶくろ?
正宗白鸟 ?
德田秋声 どくだあきごえ?
志贺直哉 しがちょくさい?
武者小路实笃 ?
里见弓享 ?
石川啄木 いしがわたくぼく?
永井荷风 ?
谷崎润一郎 たにさきじゅんいちろう?
芥川龙之介 ?

暂时就这些捏。。。
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发表于 2006-2-5 23:28:31 | 显示全部楼层
森鴎外 もりおうがい
芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ
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 楼主| 发表于 2006-2-5 23:42:06 | 显示全部楼层
どうも~~~ほかは。。。
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发表于 2006-2-5 23:48:44 | 显示全部楼层
坪内逍遥 つぼうちしょうよう
二叶亭四迷 ふたばていしまい
 都能在google里搜到的。其他还有错。 
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 楼主| 发表于 2006-2-5 23:51:36 | 显示全部楼层
汗。。。google。。。去看看撒。。。
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发表于 2006-2-5 23:53:13 | 显示全部楼层
正宗白鸟 ???
    
我倒~~
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发表于 2006-2-5 23:53:36 | 显示全部楼层
つぼうち しょうよう
まさむね はくちょう
むしゃのこうじ さねあつ
さとみ ??
ながい かふう
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发表于 2006-2-5 23:55:39 | 显示全部楼层
正宗白鳥
(まさむねはくちょう)
(1879―1962)小説家、劇作家、批評家。明治12年3月3日岡山県和気{わけ}郡伊里村穂浪{ほなみ}(現備前市穂浪)生まれ。本名忠夫。父浦二は村長、銀行取締役など歴任の大地主。弟妹9人の長男。幼時より病弱で死の恐怖からの救いを求める願望強く、1892年(明治25)『国民之友』でキリスト教を知り、以来96年東京専門学校(早稲田{わせだ}大学の前身)入学まで隣村のキリスト教講義所や岡山市の薇陽{びよう}学院で、さらには内村鑑三{かんぞう}の著書などで聖書を熱心に学んだ。上京後も内村の講演にはときに病苦を押しても出席、97年19歳のとき植村正久{まさひさ}の教会で受洗、1901年(明治34、この年文学科卒業)「棄教」するまで真摯{しんし}な教会員となった。他方、在学中『読売新聞』文学欄の合評会に出たり、市川団十郎・尾上{おのえ}菊五郎の歌舞伎{かぶき}に通いつめた。03年読売新聞社に入社、10年の退社まで、劇評・美術評・文芸時評・宗教記事等々に縦横にペンを振るった。作家としての処女作は『寂寞{せきばく}』(1904)だが、真に自然主義文学の代表的作家とみなされるのは07年の『塵埃{じんあい}』をはじめとし、『玉突屋』や『何処{どこ}へ』『五月幟{さつきのぼり}』などによってである。無理想、無解決、幻滅といった当時の自然派の合いことばにふさわしい黄昏{たそがれ}の人生図が優{すぐ}れて描出されたからである。以来60年余、つねに文壇の第一線にたち、小説のみならず戯曲や批評などに彼の創造生活は絶え間なく続けられた。敗戦後も49年(昭和24)など、71歳にして750枚にも及ぶ長編小説『日本脱出』(未完)を書くほどの旺盛{おうせい}さであった。
 ところで、彼は『何処へ』以来死の年に至るまで人生虚妄の歌をうたい続けた作家、ニヒリスト白鳥とよばれた。理由は二つ考えられる。一つは幼時からに根ざす死の恐怖、人間いかに偉そうにしてもしょせんは死ぬということによる虚妄観、他は欲と欲とが無限に波立ち合う救いがたい人間世界は畢竟{ひつきよう}地獄図にほかならずとする人間実相観である。この二つがこもごも作用しあい彼の胸底深いところから絶えず吹き上げていたもの、それが人生虚妄の思い、濃密なニヒリズムだった。それゆえ、作品のほとんどがこうした死と欲より発する虚無感に彩られており、それは67歳で敗戦を迎えてからのエッセイにおいてとくにその冴{さ}えを示していた。
 しかし白鳥における真は、さらに一歩踏み込んだところにあったことがとかく看過されている。それはともすると内なるニヒリズムに圧倒されながらも、人間が永遠に身を託す世界は現実を超えたところにあるはずというロマンティシズムといえるものを、彼がその虚妄観の裏側に絶えず強烈に潜ませていたことである。その意味から彼の臨終の際の信仰復帰の表明である「アーメン」は当然の帰結だったといえる。なお彼の文芸評論が大正末年以降独得な「私評論」として評論史に特筆されるユニークなものであったこと、および彼の戯曲にはたとえば『人生の幸福』(1924)のように、川端康成{やすなり}を「恐るべし天才白鳥」と感嘆させるほどのものが少なくなかったことなども銘記されてよい。。昭和37年10月28日没。→何処へ    <兵藤正之助0

【本】『正宗白鳥全集』全35巻(1983~ ・福武書店) ▽大岩鉱著『正宗白鳥』(1964・河出書房新社) ▽後藤亮著『正宗白鳥』(1966・思潮社) ▽兵藤正之助著『正宗白鳥論』(1968・勁草書房) ▽山本健吉著『正宗白鳥』(1975・文芸春秋)
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发表于 2006-2-5 23:56:52 | 显示全部楼层
永井荷風
(ながいかふう)
(1879―1959)小説家、随筆家、劇作家。明治12年12月4日東京・小石川に生まれる。本名壮吉{そうきち}。別号に断腸亭{だんちようてい}主人、金阜{きんぷ}山人など。父久一郎は尾張{おわり}藩の出身でアメリカ留学後官吏となり、のち日本郵船上海{シヤンハイ}、横浜支店長を歴任した。鷲津毅堂{わしづきどう}(宣光)の門下で漢詩人として令名がある。母恒{つね}は毅堂の娘。
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发表于 2006-2-5 23:57:05 | 显示全部楼层
里見 弴 さとみ とん
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发表于 2006-2-5 23:58:34 | 显示全部楼层
芥川龍之介
(あくたがわりゅうのすけ)
(1892―1927)小説家。明治25年3月1日東京に生まれる。号は我鬼{がき}、澄江{ちようこう}堂主人。新原敏三の長男として生まれたが、母フク発狂のため、母の実家芥川家(道章・儔{とも})に引き取られた。代々江戸城の奥坊主を務めた家柄である芥川家に育ったため、文芸、芸事への関心を早くからもった。東京帝国大学入学の翌年(1914)久米{くめ}正雄、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、『老年』(1914.5)や翻訳を発表した。ついで『羅生門』(1915.11)、『鼻』(1916.2)、『芋粥{いもがゆ}』(1916.9)を発表し、1915年(大正4)末から師事していた夏目漱石{そうせき}に認められたことから、文壇へ登ることになった。漱石からは近代個人主義を軸とした人格主義を、森鴎外{おうがい}からはその翻訳などを通して文体や表現上の影響を受けた。『今昔物語集』などの説話から素材を得て、歴史小説の形式をとりながら、ストリンドベリやアナトール・フランスらの西欧19世紀末文学の影響下に形成した人間観を表出した初期の諸短編は、自然主義にかわり、耽美{たんび}主義、新理想主義に続く新しい文学(新理知派)の展開として注目された。17年から翌年にかけては、海軍機関学校教官、大阪毎日新聞社員として生活しつつ、『戯作三昧{げさくざんまい}』(1917.10)、『地獄変』(1918.5)、『奉教人の死』(1918.9)、『枯野抄』(1918.10)などの力作を相次いで発表し、自然主義的、小市民的現実がはらむ矛盾・対立を、芸術によって止揚しようとする芸術主義を顕示し、大正文壇の代表作家の地位を確立した。

 しかし、1920年(大正9)以降は、『秋』(1920.4)を初めとして、現実や日常性に目を向け、芸術主義の態度を修正しつつあり、『蜜柑{みかん}』(1919.5)、『舞踏会』(1920.1)などには、人生における感動と認識との調和の破綻{はたん}がすでに表現されている。21年3月から7月にかけての、大阪毎日新聞社海外視察員としての中国旅行から帰国後、健康の衰えが著しく、懐疑的、厭世{えんせい}的態度を強めて、『藪{やぶ}の中』(1922.1)、『神神の微笑』(1922.1)などを発表したものの、創作上の行き詰まりを自覚するに至り、私小説隆盛の当時の時流のなかでかたくなに拒否していた私小説的作品にまで手を染めたが、結局打開しきれなかった。大正10年代、とくに関東大震災(1923)後、勢力を拡張してきたプロレタリア文学と対峙{たいじ}した市民文学のなかで、私小説や心境小説を偏重する傾向に対して、芸術の自律性を尊重する芸術派の立場を変えなかったが、社会主義への関心を示したり、中野重治{しげはる}や堀辰雄{たつお}に新しい文学の萌芽{ほうが}を認めるなど変化をみせ、やがて自己の芸術にさえ懐疑的になった。昭和改元(1926.12)後に発表した『玄鶴{げんかく}山房』(1927.2)、『蜃気楼{しんきろう}』(1927.3)、『河童{かつぱ}』(1927.3)や、遺稿として死後に発表された『歯車』(1927.10)、『或阿呆{あるあほう}の一生』(1927.10)などには、暗い現実認識を基調に、個性とか人格とかいう既存の価値観では支えきれない人間のあり方が描きとめられ、近代個人主義に立脚した芸術の一つの帰結が認められる。昭和2年7月24日、自宅でベロナールなどの睡眠薬を多量に飲んで自殺した。芥川の自殺は、一つの時代の変わり目を告げる事件として、文壇や知識人に衝撃を与え、社会的にも大きく報じられた。

 近代自我の全体性を芸術を通して実現する芸術主義と個人主義とを基調として展開された大正文学の代表的作家として、また、西欧的なものの広範な摂取のうえに近代短編小説の多様な可能性を実践した短編小説家として芥川の名は近代文学史のうえに特筆されるものである。没後、何度も全集が刊行されて広く愛読されている。親友であった『文芸春秋』創刊者菊池寛によって設けられた「芥川龍之介賞」は、今日に至るまで権威のある文学賞として社会的関心をも集めている。多くを小穴{おあな}隆一が装丁した芥川の著作集も、『芥川龍之介文学館』(日本近代文学館刊。1977.7)として復刻され、太平洋戦争の際に焼失を免れた芥川の蔵書の一部は、現在、日本近代文学館に「芥川文庫」として所蔵されて、研究者などに利用されている。
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 楼主| 发表于 2006-2-5 23:59:15 | 显示全部楼层
汗。。。以为老狼一倒不起了捏。。。被警察叔叔拖走了捏。。。
どうも~~~どうも~~~
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发表于 2006-2-6 00:01:36 | 显示全部楼层
武者小路実篤
(むしゃのこうじさねあつ)
(1885―1976)小説家、劇作家、詩人、画家。明治18年5月12日、東京・麹町{こうじまち}に生まれる。父子爵実世{さねよ}、母秋子{なるこ}(勘解由小路{かでのこうじ}氏)の末男。4人の兄姉は生まれてまもなく死に、姉伊嘉子{いかこ}、兄公共{きんとも}とともに育つ。3歳のとき父を失う。その臨終の際の、この子はうまく育てば世界に1人という人間になるという父の予言を、成長後に知って、生を根底的に信じる心を与えられたという。学習院初・中・高等科に学び、木下利玄{りげん}、正親町公和{おおぎまちきんかず}、志賀直哉{なおや}を知る。中等科最上級のとき叔父の家で聖書、トルストイの人生論書に接し、いかに生きるかを問う契機を与えられ、とくにトルストイの思想に傾倒、文学への道を志した。1906年(明治39)東京帝国大学社会学科へ進んだが、1年ほどで退学。志賀らと「十四日会{じゅうよっかかい}」(1907)をもち、回覧雑誌『望野{ぼうや}』を発行、小説・詩・感想を載せ、それらをまとめて文集『荒野{こうや}』(1908)を刊行した。そこにトルストイ主義の自己犠牲から自己の生命の肯定へ移る思想転回がみられたが、10年4月『白樺{しらかば}』を創刊、個の拡充、主体的な生の創造を大胆に打ち出す感想・評論を執筆、また西欧の美術の紹介に努めた。12年(大正1)竹尾房子と結婚、22年別れて飯河{いいかわ}安子と再婚。創作としては『お目出たき人』(1911)、『世間知らず』(1912)のほか、戯曲『桃色の室{しつ}』(1911)、『二つの心』(1912)、『或日{あるひ}の一休和尚{おしょう}』(1913)などを発表。やがて個の拡充の意欲が自己を見守る運命の力を信じる心と結び付いて、自然・人類の意志のうちに個のすべてを生かす調和的な社会を具現すべき使命感を抱き、それを、戯曲『わしも知らない』(1914)、『或る青年の夢』(1916)、小説『彼が三十の時』(1914)、『或る脚本家』(1918)、感想集『後{の}ちに来る者に』(1916)などに熟させて、18年(大正7)『新しき村の生活』に理想境建設の計画を公表し、宮崎県(のち埼玉県に移る)に土地を入手して「新しき村」の運動を具現した。26年一身上の都合で離村、その間に『幸福者』(1919)、『友情』(1920)、『第三の隠者の運命』『或る男』(ともに1923)などの中長編、戯曲『人間万歳』(1922)、評伝『耶蘇{やそ}』(1920)を書き、「ぢかに神の意志を聞いて生きられる時」(耶蘇)を生きている自己の情熱を表明した。
 昭和初期には『井原西鶴{さいかく}』(1931)ほかの伝記小説を多く書いたが、異色の美術展「大調和展」を創設、自身も画筆をとるなど、美術への関心を深め、1936年(昭和11)欧米を歴遊、各地に美術館を訪れ、帰国後は『美術論集』(1942)など美術関係の著書を多く刊行、小説にも画家を主人公とする作がみられた。第二次世界大戦中、時局に傾斜した姿勢を示したため、戦後公職追放の身となったが、51年(昭和26)処分を解除され、文壇・画壇に復帰し、追放の間に書いた長編『真理先生』(1949~50)を受ける『馬鹿一{ばかいち}』(1953)、『山谷{さんや}五兵衛』(1954~56)、『白雲{はくうん}先生』(1957~59)の諸編に人間信頼の願いを託し、『或る男』以後の生涯を『一人の男』(1967~71)に書き尽くして、昭和51年4月9日瞑目{めいもく}した。1951年文化勲章受章、52年芸術院会員(再選)。東京・調布市の旧邸内に武者小路実篤記念館、埼玉県毛呂山{もろやま}町に武者小路実篤記念新しき村美術館がある
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发表于 2006-2-6 00:13:04 | 显示全部楼层
其实作家名字不必特意去记,遇到了多读几遍就行
    岛崎藤村 しまさきふじむら 应为  しまざきとうそん
  尾崎红叶 おさきこうよう 应为  おざきこうよう
  幸田露伴 こうだろばん  应为  こうだろはん
  二叶亭四迷 にようていしめい  应为 ふたばていしめい
  森鸥外 もりおうがい
  田山花袋 だやまはなぶくろ 应为  たやまかたい
  正宗白鸟 まさむねはくちょう
  志贺直哉 しがちょくさい 应为 しがなおや
  武者小路实笃 むしゃのこうじさねあつ
  永井荷风  ながいかふう
  谷崎润一郎 たにさきじゅんいちろう  应为 たにざきじゅんいちろう
  芥川龙之介 あくたがわりゅうのすけ

  
  
  
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 楼主| 发表于 2006-2-6 00:25:53 | 显示全部楼层
わかった、どうも~~~
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