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发表于 2010-8-4 16:53:53
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本帖最后由 sonei711 于 2010-8-4 16:54 编辑
新的来啦
第四課 庭
庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少なからぬ影響を与える住まいの装置である。たとえば居間などに座って何気なく外に視線を投げるとき、そこにあるのが明るい芝生の広がりであるか、こんもりとした松の茂みであるであろう。ぼくは親の庭先に家を建てて住んでいるので自分の庭と言えるものを持たないのだが、それでも窓辺の食卓から父母の庭を望むことが出来る。この庭は“庭園”風に整えられてはいない雑木はかりの広がりだが、それがかえって四季折々の移り変わりを鋭敏に映し出すことになって好ましく感じられ、春先にヒョロリとした梅が思いもかけぬ片隅を小さく彩ったり、枯木立が冬の入り陽をちぢに裂いたりするのを眺めやることで、ささくれ立った気分が和む思いをすることが多い。
庭を眺めるという一見目立たない行為は、ぼくを含む日本人の日常生活の流れの中で意外に重要な一種の節目になっているらしい。たとえば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』の中の同名の短編はその典型的な例の一つであろう。この小説は次のように書き出される。
「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。私は陰鬱な気分で暮らしていた。梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。それは繁った樹木のせいだ。青葉の繁った樹木に雨が降りかかるのを見るのは好い気持ちのものだった。紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。
私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に降る雨を見ていた。そうしていると気分が沈んでくる。……」
作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せていく。つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が和む」のとは逆のように思えるかもしれないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことによって抑圧が解消されるのだから、本質的には「和む」のと同じ現象である。そのことは、ひとしきり死者を思った後に風呂場で頭を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気づく、という結末によっても明らかだ。
思うに庭の大きな効用の一つは、このような治癒効果にあるのではないだろうか。そのために最低限必要なのは、住まいに接して、とくに美しいものや素晴らしい眺めではなくとも、視線を受けとめてくれるに足る私的に囲われた自然の断片が存在することである。それを見て心が和むのは、自然の営みというものが、いかに断片であっても、人間の日常生活の偶発的な喜怒哀楽と独立したリズムを持って動いており、ぼくたちはそのリズムを感じとることで自分の感情をなにがしか相対化できるからではないか。つまりこの場合、視線を受けとめてくれるということは感情を受けとめてくれるというのにほぼ等しい。
もちろん、こうした効用は庭の外に遠望する風景や公共緑地にもないことはない。しかし、ここが微妙なとことで、私的領域である庭とその外とではどうも効きめが違うようだ。それはたぶん、感情を託す側の意識がおのずから異なるからだろう。外の対象に投げかけることによって結果的に治癒する感情の波というものは、たいてい、とりたてて深刻なものとは限らぬにせよ、当の本人にとっては他人に知られずに秘めておきたい、高度にプライベートな類のものである。だから、そうした感情の放電を自分に許すためには、人間は他人の干渉をあたう限り免れた、心理的に安全に保護された境地にいる必要がある。そうなると自分のいる場所も、感情を託す対象も私的領域の内にあるほうが有利なので、自宅の庭を眺めている状態が一番適していることになる。不思議なもので、庭の外の草木に感情を託してもそうたやすく他人に悟られるわけはないのだが、人里離れた一軒家の周囲の大自然ならともかく、公園の緑や街路樹が相手では感情を放電するのがちょっと恥ずかしい、というのが、人間の、少なくとも都会人の一般的心理であるらしい。
庭は雑木林風にさり気ないのがいい、と思っているせいで、ぼくは庭つくりを任された場合でも樹木の種類を細かく指定したりはしないのだが、そういう、おおざっぱさの中でやや強く執着するのは、室内から見わたせるほど良い位置、とくに日常生活の中心になる居間、食堂の前に落葉樹の大木を配することである。これは樹種は問わぬにしても、その姿には注文を付け、可能ならば実物を見て選定する。ぼくの理想は太い幹が人の背丈ぐらいまでスッと伸び、そこから上に枝の広がりを持つ木である。もっとも予算の制約でこうした思いが叶わず、サイズが不十分なものを将来の生長に期待して植えることもある。
この一本の木への執着は、一つには季節に応じて身づくろいを変える落葉樹が、前に記したような、庭の精神的治癒効果に不可欠な自然のリズムを最も象徴的に映し出すからだ。落葉樹は夏に暑い茂みで涼しい木陰をつくり、冬には葉をふるい落として陽光を透過させる。言うまでもなく、春の木の芽どきや、秋に色づく葉には、その時々の眺めがある。しかしそれと並んで重要なもう一つの理由は、大きな落葉樹は室内気候にも優れた影響を及ぼすことである。落葉樹の季節変化は当然、その樹に面する部屋の陽当たりを自然の営みによって実に具合よく調整することにもなるのだ。
ぼくはこの落葉樹の恩恵を自分の家で年々実感しつづけている。両親の家の庭先に南北に細長く建っているわが家は南端がほとんど敷地境界に接し、その面に庭を持たないのだが、さいわい隣地は公園で、その落葉樹の木立ちが陽当たり調整効果をもたらしてくれる。夏はうっそうと茂る葉が室内を緑の反映でほの暗く満たし、冬は枯れ枝を透かしてくる低い陽射しが奥までさしこんで、晴れた日の昼過ぎまでは暖房も要らないほど暖かい。
ここまで記して出たように、庭に四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出すのは、どうも日本人特有の庭園観であるようだ。いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられていようと、日本人が庭に求めるのは自然のミニチュアであり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。これは結局、自然を克服すべき対象としてではなく、親和的な環境としてとらえる日本人自然観に由来するもので、むろんぼくの雑木林好みもその影響下にあると言えるだろう。
(『住まい方の演出』中央公論社より。一部削除あり) |
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