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发表于 2003-10-10 23:00:00
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東山文化・文化
室町時代も末期となって、今日のお茶やお花などの伝統芸術の源をなす
文化が花開きました。それが銀閣を中心とするへ東山文化なのです。
将軍義政は、銀閣寺の東求堂に同仁斎をつくって、お茶をたのしみました。
この頃の茶の主流は、中国伝来の唐物を中心に寺院のお茶の儀式から
生まれた、格式のある殿中茶湯と呼ばれるものでした。
もともと人の結びつきの場として盛んになってきた茶寄合も、唐物の
氾濫で道具茶となってきました。
そして、茶器・道具の鑑識や、とり合わせをする専門家、阿弥の称号を
もつ同朋肖钴Sしたのです。
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この台子というのは、禅寺の茶礼に使っていた道具を点前に用いる
棚にしたものです。
村田珠光
村田珠光は茶の湯を道具茶からとき放って、町肖伍gに広め精神性を求めました。
ここに、「道」としての茶の歴史が始まるのです。
珠光は、京都紫野の大徳寺・真珠庵で、一休禅師について参禅しました。
ここで「茶禅一味」の境地を見いだし、茶の儀式の形よりも、茶を行なう
者の心に重きをおきました。
足利義政が「茶とは何か」と聞いた時、珠光は、「茶とは遊に非ず芸に非ず、
一味清浄、法喜禅悦の境地にあり」と答えたといわれています。
珠光は後に、一休禅師から印可の証として、宋の圓悟禅師の墨跡をもらい、
茶掛に用いました。これを墨跡開山といって、それをきっかけに茶人の
参禅が始まるのです。
珠光は、広い書院では心の落ちつきが得られないとして座敷を四畳半に
区切り、それを屏風で囲いました。
茶室のことを「かこい」というのは、ここからきているのです。
珠光は後に草庵を結びましたが、理想としていた佗ぴ茶を完成せずに没しました。
武野紹鴎
堺は、京都、奈良と並んで茶の湯を育てたところです。
町中が自由な気分にあふれ、猿楽や謡曲などの風流な芸能が盛んでした。
この町から、武野紹鴎,今井宗久,千利休といった茶道史に残る茶人がでたのです。
茶道は珠光にはじまり、利休居士によって大成されたといわれていますが、
この二人をつなぐのが武野紹鴎です。
紹鴎は、唐物の茶器類のかわりに信楽、瀬戸、備前などの種つぼ、塩つぼと
いった日用品を茶器として用いました。
珠光の佗ぴ草庵の茶をさらにすすめて、茶の湯の中に初めて「佗ぴ」の
理念を打ちたてたのです。
利休
「佗ぴ茶」を完成した利休居士は、大永二年堺で生まれ、幼名を与四郎といい、
早くからお茶をたしなんでいます。
はじめは、能阿弥の流れをくむ北向道陳について書院の茶の湯を学びましたが、
後に武野紹鴎に師事して草庵の茶の湯を歩みだしたのです。
京都の大徳寺は、お茶と縁の深いお寺です。
珠光や紹鴎のように、利休居士もまた大徳寺で参禅し、修行しています。
それを機会に名も宗易と改め、姓も祖父の千阿弥にちなんで、千と名のりました。
利休居士は歌に、「世の中に茶のむ人は多けれど、茶の道を知らぬは、
茶にぞのまるる」と詠んでいます。
つまり、修行がなければ、お茶をのんだつもりでも、のまれていることになり
かねないということなのです。
また、「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むぱかりなることと知るべし」
という利休居士の言葉もありますが、この言葉もきびしい修行の道の裏づけがあって
はじめて言えることなのです。
こうして利休居士は、茶道の理念を大成しました。
利休居士は五十八歳の時、織田信長に召され、信長の死後、秀吉のもとで茶道を
もって仕えました。茶道役といっても、実質的には秀吉のブレーンの役割を
果たしていたのです。
天正十三年、秀吉が催した宮中の茶会のとき、正親町天皇からとくに
利休宗易居士の勅号を賜わりました。これによって利休居士は、天下一の
大宗匠としての地位を確立したのです。
宗教性
この頃の茶の湯はまた、キリスト教ともかかわりがありました。宣教師として
日本にきたルイス・フロイス、ジョアン・ロドリゲスらは、堺や京都に
やってきて、利休居士をはじめ多くの茶人と親交をもったのです。
利休居士の高弟の中に、キリシタンがおり、利休七哲といわれる古田織部、
高山右近、蒲生氏郷らは、すべて敬虔なキリスト教信者でありました。
このような宗教と茶とのかかわりは、今日に至り、「茶はあらゆる宗教の実践の
場である」とする、裏千家十五代家元鵬雲斎宗室宗匠の提唱へと集約されていくのです。
茶器の改革
利休居士は、すばらしい美意識の持主でした。佗びの心を生かして陶芸、工芸の
世界に大きな足跡を残しました。
利休居士が佗ぴ茶を深め、それを実践するようになったのは、晩年に至ってからです。
すぐれた審美眼で、日用雑器の中から茶碗や水指などの茶道其を見つけだしましたが、
最も利休居士の美意識がうかがえるのは茶器の改革です。
利休居士独自で長次郎らの陶工を指導し、楽茶碗を焼かせました。
利休居士の好みは、やがて利休型といわれる端正で重厚な楽茶碗に発展していきます。
とくに「大工舜恧丹欷朦楽茶碗へ造形されていくのです。
また、茶室についても、その美意識はみごとな開花をみせるのです。国宝の京都
山崎の妙喜庵の茶室「待庵」がそれです。
二畳敷のこの茶室の中に、利休の世界のすべてがあるのです。
北野大茶会
利休居士の茶が完成に近づいた天正十五年十月、京都北野神社の境内で
大茶会が催されました。
秀吉の発案で、「貴賎によらず、貧富にかかわらず」と広く民肖撕簸訏欷薄
「釜一つ、つるべ一つ、のみもの一つでもよい、茶がなければ焦がしでも苦しくない、
みんなひっさげて来るべし」という、すこぶる開放的な茶会となりました。
そのせいか、当日参会した者は千人を越えたそうです。この茶会には秀吉好みの黄金の茶室と、
利休居士好みの草庵の茶室が出され、いうならば道具茶と侘び茶の共存した茶会でしたが、
この時が秀吉と利休居士の蜜月の時代だったといえます。
大徳寺山門
「人生七十...」
その後、利休居士が寄進した大徳寺の金毛閣に、利休居士の木像が置かれた事で秀吉の
怒りをかい、ついにに天正十九年、利休居士は死を命ぜられるのでした。
「人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺」という辞世の偈を残して、
劇的な死を遂げるのです。
利休居士の死後、秀吉は哀惜の情が胸の中につのるのでした。失ったものの
偉大さをしのび、一時の狂気がくやまれたのでした。
利休以降
さて、利休居士を失った千家の家族は、それぞれ各大名にお預けの身と
なりましたが、やがてゆるされ、二代少庵、三代宗旦の親子で千家再興に
とり組むことになりました。
再興はまず、現在表、裏両千家のある小川頭に、書院残月亭と茶室不審庵を
建てることに始まりました。
まもなく少庵は隠居し、家督は宗旦にゆずられましたが、三代宗旦は、大藩からの
招きにも応ぜず、一貫して孤高な佗ぴ茶に徹した人でした。
宗旦の子の代から、千家は三家に分かれます。まず、不審庵を三男江岑宗左に
ゆずりました。現在これを表千家と称しています。
同じ地所内の小川頭に建てた茶室、寒雲亭、又隠、今日庵などを四男仙叟宗室に
ゆずりました。現在これを裏千家と称しています。
二男の一翁宗守は早くから家を出ていましたが、京都武者小路に分家をして一家を
たてましたので、これを武者小路千家と称しています。
今日庵
裏千家
明治の初め、裏千家十一代家元玄ゝ斎宗室は、イスやテーブルを使って点前をする
立礼式の作法を考案し、新しい時代の作法を切り開きました。
今日、この作法は他の家元でも取り入れられ、重要な作法の一つとして教え継がれています。
またさらに、十三代の圓能斎宗室は茶道の幅を広げ、学校に茶儀科を設けて
学校茶道の第一歩を踏み出し、婦人の生活に茶をとけこませることに力をいれました。
続く十四代の淡々斎宗室は、裏千家茶道の全国支部づくりをなしとげ、ここに
裏千家の全国組織が完成しました。
またあわせて、海外普及と文化交流にも目を向け、それを受け継いだ十五代家元
鵬雲斎宗室宗匠は、世界各国の主な所に裏千家茶道の支部と公式の出張所を設立し、
多くの茶室を文化交流、親善のために寄付したのです。
こうして裏千家茶道は、国際的な茶道として大きく飛躍しました。
現在、世界中から多くの人たちが裏千家で茶道を学んでいます。
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