|
发表于 2006-8-7 21:01:31
|
显示全部楼层
21歳の松浦喜一少尉は、大きな爆弾を抱えた戦闘機で、鹿児島から沖縄をめざしていた。アメリカの艦船に体当たりするためだ。1945年6月19日のことだった。
21岁的松浦喜一少尉,驾驶着装有大型炸弹的战斗机,从鹿儿岛飞往冲绳。他将驾机撞击美国战舰。这一天,是1945年6月16日。
アメリカのレーダーを避けるため、豪雨の中を海面すれすれに飛んだ。何も考えていなかった。大和魂や忠君愛国という言葉は存在しなかった。身内の愛する人々のことは少し考えの中に現れた。突然、「春の小川」の歌が口をついて出てきた。
为了避开美国的雷达,战机在暴雨中贴着海面飞行。什么也没想。没有想到什么大和魂、忠君爱国之类的字眼。自己的亲人至爱也只是一闪而过。突然,“春天的小河”这首歌从嘴里冒了出来。
そうした体験を今年、「戦争と死——生き残った特攻隊員、八十二歳の遺書」という小冊子にまとめた。3機のうち、沖縄の目前で1機が墜落する。隊長は機首を転じ、引き返す。これでは任務を果たせないと判断したのだろう。松浦さんは隊長に従った。
《战争和死亡—幸存的特工队员、八十二岁的遗书》这本小册子完整地记述了当时的经历。 3架飞机中的一架在快到冲绳的时候坠落。队长调转机头返航。大概判断已经无法完成任务了吧。松浦跟着队长返航了。
死に向かって飛び続けていたのに、何も考えなかったのはなぜか。松浦さんは「怒りをもって帝国軍人であることを拒否したのではないか。そこには、もはや愛する人々を守ることができないかもしれない絶望感」と書いた。
明明知道自己在向着死亡飞行,却什么都没想,这是为什么呢。松浦先生写道,“应该是非常愤怒,对于自己是帝国军人非常抵触吧。有一种绝望的感觉,从此以后自己将无法保护亲人了”。
戦後、松浦さんは東京に戻り、麻布十番で家業のカステラ店を継いだ。特攻隊は志願したのですか。「学生出身で未熟な飛行機乗りとしては、もうこの戦法しか残っていないと思った。しかし、数多くの若者が志願したことと、軍上層部が特攻作戦を採用したことは全く別の話です。戦争を始めるべきではなかったし、絶対に特攻作戦などを計画してはいけなかった」
战后松浦先生回到东京,继承了麻布十番的祖传蛋糕店。是自己志愿加入特攻队的吗。“当时心想,自己是学生出身,不能熟练驾驶飞机,大概只能做特攻队员了。但是,当时很多年轻人的志愿,和后来部队领导采取的特攻行动,完全是两码事。根本不应该发动战争,更不应该采取特攻行动计划”。
特攻で亡くなった人たちを神格化する風潮がある。その危うさを語り続けることが生き残った者の務めだ、と松浦さんは考えている。
现在有一种将特攻行动中死亡的人进行神话的风潮。松浦先生认为,这种风潮非常危险,幸存者有责任将危险性告诉人们。
[ 本帖最后由 t_hikari 于 2006-8-7 13:10 编辑 ] |
|