二 お田鶴さま(1)
「福岡様の?」
竜馬は、杯を置いた。と同時に手を伸ばして床の間の刀を取り、荷物を両手にぶら下げて立ち上がった。
「俺は、今夜、浜辺で寝る」
「えっ。――」
番頭は、狼狽した。
「後で、裏の浜辺へ飯と酒を運ばせてくれ、ムシロを二枚、貸してくれればあり難い」
「お気を悪くなされましたか」
「相手が悪いのだ」
竜馬は、黙って裏へ出た。
浜に格好な船がある。
――この陰が、ちょうどよい。
やがて番頭と女中が、五、六枚のムシロ、藍染の布団、五品ほどの膳部(ぜんぶ)、酒などを運んできて、
「お気に触られましたならば、ひらにご容赦くださませ」
「番頭、確かに福岡様の御息女と申したのは間違いないな」
「ございませぬ」
「お名前は、お田鶴さまというのだぞ」
「へい、左様に、前触れの飛脚(ひきゃく)からうかがっております。しかし、旦那様も同じ土佐藩の御家中でございますから、よいではございませぬか」
「俺は、家中ではない」
「と申しますると?」
阿波者の番頭は、土佐侍の複雑な身分制度が分からない。
「郷士だ」
「しかし、先ほどや後場役人からうかがいましたが、土佐高知城下の坂本家と申せば、阿波にまで聞こえた御大尽と申すではございませぬか」
「それでも、郷士さ。雨の日には家中の侍は足駄を履くことが出来るが、同じ武士でも郷士は裸足で歩かねばならぬ。お前は知るまいが、土佐は、かつて戦国のころ、長曾我部家の国であった。われわれ土佐郷士の先祖は、この長曾我部家の家臣だった。ところが慶長五年、関ヶ原で徳川家康と」
「へい、東証大権現」
番頭は、言い直した。
「家康でよい。家康と戦って敗れ、変わって関ヶ原の功により、遠州掛川六万石の小大名であった山内一豊が、一挙に二十四石に加増されて土佐に入国した。このとき長曾我部の旧臣は野に追われて郷士となった。山内家が入国の時に連れてきた者の子孫は上士といい,同じ人間でありながら、われわれを卑しんで同席もせぬ。旅先では、同じ宿にも泊まりたがらぬ」
「それで、ご遠慮あそばされたわけでござりまするか」
「遠慮などするものか。しかし相手は、土佐二十四万石の御家老福岡宮内の御妹君だし、おれはその福岡家の御預郷士の倅だ。姫御前(ひめごぜ)などと一つ屋根で泊まるのは、息が詰まる」
海に細い月が昇った。
淡い光だが、それでも対岸の淡路島や沼島(ぬしま)の影が、黒々と見えてきた。
竜馬は、砂の上に黒塗りの大刀を突きたて、膳を引き寄せて飯を食っている。
(驚いたな、お田鶴さまと一緒とは)
福岡屋敷と言うのは城の内堀の傍にあり、その界隈に塀を並べている御一門や家老のなかでも、とくに宏壮で、恐らく三丁四方はあるだろう。
――人の噂では、お田鶴さまは、この屋敷の南の隅に学問所を建ててもらい、老女一人を相手にひそかに暮らしていると言う。蒲柳(ほりゅう)の質(しつ)で、めったに外出せず、婚期もそのために遅れている、と竜馬は聞いている。
鳴門屋の番頭の話では、
「上方見物(かみがたけんぶつ)かたがた、有馬の湯へ湯治に参られまする」
という。しかし竜馬は高知を出る前日、福岡屋敷へ挨拶に行ったが、そういう話ついぞ出なかった。もっとも福岡家にしてみれば当然のことで、内向きのことを御預郷士の倅に聞かせる必要は無い。
美人だと言われる。
家中きっての容色(ようしょく)だといい、土佐二十四石の国色である。と囃す者もいたが、そのくせ噂だけで、実際にお田鶴さまを見た者はほとんどいない、という話だった。
城下に、唄がある。
歌詞は竜馬も忘れたが、姉の乙女に聞いた所では、福岡のお田鶴さまに恋焦がれた若侍を歌い込んだ者だと言う。
この若侍は、城下の何処かでお田鶴さまをひと目見て恋焦がれ、
「もうひと目見ることが出来れば、その場で腹を掻っ切ってもよい」
といったところ、仲間のある者が、お田鶴さまの死んで乳母の祥月命日が五月十六日であり、菩提寺は五台山竹林寺のなかの実相院であると教えた。
その日、仲間の者と一緒に実相院の山門横で待っていると、はたして福岡家の定紋をうった女乗物が竹藪の道を登ってきた。
「武士の一言じゃ、腹を掻っ切れよ」
「掻っ切るとも」
脇差を抜いて身を潜めている前に乗物が止まった。福岡家の中間(ちゅうげん)が白い緒の草履をそろえ、やがてその上にお田鶴さまの足が載った。お田鶴さまの姿はすぐ山門の内側に消えたが、そのあとが大変だった。
「あっ」
腹を突きたてたのを、仲間が抑えこんで医者へ担ぎ込み、やっと命を取り留めたと言う。(続く)
――――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より |