二 お田鶴さま(2)
竜馬は、酒に飽(あ)いた。
(寝るか――)
ムシロを被って横になった。宿の女中が布団を用意してくれたが、それを用いるほどでもない。砂が、日中の熱を吸い込んで程よく温かいのである。
浜で寝ることには慣れている。砂上の宴は土佐の若侍のならいなのであった。日根野道場にいたころ、お盆や中秋の明月の夜には、仲間とよく桂浜に出かけた。浜辺にムシロを持ち出し、終夜、酒を飲む。
思い出すと、この月ほど、豪儀な月はなかった。
東は室戸岬(むろとざき)、西は足摺岬(あしずりざき)が、海上三十五里の太平洋を抱きかかえ、月はその真中を茫洋と昇ってくる。竜馬がこのさきどの土地を転々しようとも、おそらく終生わすれられないものだろう。そのころ、道場の仲間が唄った。
みませ、みせましょ
浦戸をあけて 浦の
月の名所は桂浜
竜馬は、鳴門の海の上にかかっている細い月を見ながら
(あの桂浜の月を追って果てしもなく船出してゆくと、どこへゆくンじゃろ)
と思った。
そんな子供っぽいことを考えているうち、うとうと眠くなった。
そのころである。船宿鳴門屋の裏口の石垣に、提灯が二つ浮かんだのは。
やがて、砂を踏む足音が近づいてきて、
「お嬢様......」
と低い声で言うのが、竜馬の耳にも聞こえた。
はっと竜馬は起き上がろうとしたが、いつものくせで、面倒くさくなった。福岡家の老女らしい。
「ここに、お人が臥せっておりまする。このお人が、本町筋の坂本の倅ではありませぬか」
「......どれ、どこに?」
「お酒を飲んでいるようでございます。いやな匂いが、いたします」
「左様なことを言うものではありませぬ。磯の匂いではありませぬか」
お田鶴さまの声のようである。ひくいが、丸く湿ったように美しい。
(なにを言やがる)
竜馬は、むっとした。寝たまま、
「静かにしないか」
あっ、とふたりの女は飛び下がった。
「お尋ねの通り、ここに寝ているのは、坂者の倅だ」
「まあ、やっぱり」
お田鶴さまは、意外に弾んだ声で、いった。
お田鶴さまは、砂の上に膝を折って座った。さすがに土佐二十四石の家老の妹だけあってお行儀がよい。
竜馬は、寝たままである。
「竜馬殿、とおっしゃいましたね」
「そうです」
「江戸へ剣術修業にいらっしゃる――」
「まあ、そうです」
「兄(宮内)から、いらいらとおうわさは伺っておりました」
「……」
福岡家と坂本家は、たんに藩の家老と町郷士だけの間柄ではなく、藩の財政が不如意の場合は、福岡家では坂本家の才谷屋(さいたにや)八郎兵衛に金を借りに来ることが多い。
このため坂本家は一介の郷士でありながら、福岡家とは縁が濃かった。例年正月十二日には宮内みずから供をそろえて坂本家を訪れ、当主に杯を下げ、本家の才谷屋には、鮮魚を贈るのが吉例になっているほどであった。
ついでながら竜馬の家系に触れておこう。家祖は琵琶湖を馬で渡った明智左馬助光春(あけちさまのすけみつはる)であったといわれる。明智滅亡後、左馬助の庶子太郎五郎が土佐に逃れ長岡郡才谷村に住み、長曾我部家の一領具足(いちりょうぐそく)になった。
一領具足とは、長曾我部家独特の兵制で、平時は、田の畦に槍を突き立て、具足を結びつけて耕作し、陣ぶれの貝が鳴れば、そのまま鍬を捨てて、槍を握り、馬一頭を駆って戦場に出てゆく者どもを言う。戦国の末期、長曾我部元親はこの剽悍な一領具足どもを率いて四国全土を切り従えたものである。
坂本家では、寛文年間、四代八兵衛守之(もりゆき)が高知本町筋三丁目に移り、酒造業を創業して栄えた。五代、六代と巨万の富を積み、ついに七代八平直海のときに家業を弟に譲り、郷士の資格を買ってもとの武士に戻った。領知は百九十七石、禄高は十石四斗である。屋敷は本家の才谷屋と背中あわせになっている。 坂本という、土佐には珍しい苗字は、家祖左馬助光春が、琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことに因んだもので、紋所は、明智の桔梗である。
「竜馬殿」
と、お田鶴さまが、いった。竜馬は、無心に星を眺めている。近眼の気があるために、星の輪郭はぼやけている。
「かような所でお臥せりになっていては、私どもが追い出したようで、気詰まりでなりませぬ。お願いでございますから、部屋までお引取り願います」
「流れた」
「えっ、なにが」
「星がですよ」
「田鶴は真面目にお話ししております。いかがでございますか」
「相宿は、ごめんこうむります。私は、窮屈なのが大嫌いなのだ。こうして天地の間に寝ているのがいちばんいい」
老女のはつは、この無礼な郷士のせがれに腹を立てているらしく、横から口を入れて、「お嬢様、捨てておきなさいまし。せっかくのお人様が、天地の間がよいと、お気に召していらっしゃるのでございますから」(続く)
――――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より |