(一)
人間が環境に適応してうまく生きていくためには、子どもにしろ、学生にしとう、あるいはまだ社会人にしても、さらに一家の主婦でも、一国の総理大臣でも、自分のおかれた状況を意識し、その中での自身の立場をよく知り、考え、それによって今どのように行動したらよいかを正しく判断することがもとめられます。この場合に動員される精神機能が、知能です。したがって知能には、直感とかひらめきのような瞬間的に心に浮かぶ判断力から、瞬間的にはわからないが長時間熟慮のすえにようやく一つの判断にたどりつく心の働きまで含まれることになります。
知能について、心の働きのみちすじや精神活動の手続きを踏まない本能的行動や動物本来の反射的行動などは、知能とはいえません。たとえとして、野生のサルが食べ物をさがして食べる行動をみてみましょう。
まず、サルが空腹をおぼえることは、動物本来の生理的感覚ですから知能ではありません。しかし、その空腹感によって食べ物を求めようとするとき、どこに食べ物がありそうかと考え、そちらの方向へ移動をはじめようとするのはサルなりに判断が働きますから知能でしょう。ところで移動のさい、どの道を通ったら安全で効果的かの選択は知能によりますが、走ったり歩いたりの筋肉運動自身は、機械的になされますから知能活動とはいえません。
ともかくそのようにして、ある物体を目撃し、それが食べ物か否かの判断はサルの知能によります。つまり、サルはその物体を直感的にか仔細いずれにせよ観察して、それがやはり食べ物だと見ぬきます。そこで食べはじめるわけですが、元来ものを食べる行為は、無防備になることですから、サルは安全に食べられる場所をさがさなければなりません。安全と思われる場所で食べはじめても、不意の外敵に襲われないよう絶えず周囲に気をくばっていなければなりません。このような用心は知能とみるべきでしょう。
一方、サルが食べ物をムジャムジャ食べるさい、食べ物を噛むことは機械的におこなわれ、同時に唾液が口中に出てくることも反射によるものですから知能とはいえません。じゅうぶん噛んでから胃のほうへのみこむことも消化管の反射運動ですので知能ではありません。
さて、このようにサルで観察される知能的行動と反射的・本能的行動の絡み合いは、レベルに大きな差はあるものの、人間の場合にも原則として当てはまると思われます。つまり、人間では、サルとくらべて知能を必要とする事柄が圧倒的に多いのですが、日常生活が知能と反射・本能によって営まれていることは、サルも人間も共通ではないでしょうか。
動物でもサルよりずっと進化の程度が低くなっていくと、その行動は知能によるものがだんだん減っていき、本能や反射に支配されるものが大部分となってきます。
端的な例ですが、アメーバの行動は、安全に周囲の状況に対する反射によっておこるのであって、アメーバが、多少であっても知能を働かせて行動することがあるとは考えられません。いいかえれば、アメーバは、知能などなくても生きていかれるし、子孫も栄えているわけです。
人类为了能很好地适应环境而生存下去,无论是孩子,还是学生,或者是社会人,甚至是家庭主妇,国家的总理大臣,意识到自己所处的状况,清楚地明白自己在其中的立场,根据不同的情况,都被要求考虑,现在如何很好地行动才能做出正确的判断.在这种请情况下,被动员的精神机能就是智能.因此在智能里,从内心浮现的直觉或者说瞬间闪念的判断力,到瞬间时并不知道,要长时间深思熟虑,渐渐地做出一个判断这样的心里活动都被包括在内。
与此相反,没有踏上心理活动的道路或者精神活动程序的本能行动或者动物本能的反射行动等,都不能称之为智能。比如,让我们来看一下野生猿猴觅食的行动吧。
首先,猿猴感到肚子饿是动物本能的生理感觉,不是智能。但是肚子感到饿,想要吃食物的时候,开始考虑哪里有食物?往哪个方向行动?这些由猿猴判断而来的就是智能吧。而行动的时候,虽然通往哪条道路是安全有效的选择是智能,但走路时自身的肌肉运动是机械而来的,则不能称之为智能活动。
暂且不说这些。看到某样物体,判断那是不是食物,是根据猿猴的智能。也就是说,猿猴对那个物体或者是直觉或者是慎重,无论如何观察后仍然看穿那是食物。这样就可以开始吃了,原来吃东西的行为是无防备的,猿猴必须寻找安全进食的场所。即使开始被认为是安全的地方,也必须不断留意被周围出其不意的敌人袭击。这样的提防应该看成是智能吧。
一方面,猿猴大口地嚼着食物,咀嚼食物是机械地进行的,同时唾液从口中分泌出来也是反射行为,不能称之为智能。充分地咀嚼之后咽入胃里,也是消化管的反射运动,这些都不是智能。
那么,从猿猴那里被观察到的智能的行动和反射的,本能的行动交错起来,虽说水平上会有很大的差别,但即使是在人类的身上我想原则上也能适用的。也就是说,对人类来说,和猿猴相比较,必要的智能的事情会压倒性的很多,但作用与日常生活的智能和反射,本能这些方面,猿猴也罢人类也罢难道不是共通的吗?
即使动物和猿猴相比,动物一直在进化的程度是很低的,那些行动需要智能的时候在渐渐减弱,本能或反射被支配的时候成为大部分。
一个直接了当的例子,阿米巴虫的行为,完全是对周围状况的反射,阿米巴不被认为有一丁点可以智能的行动。换言之,阿米巴即使没有智能也能生存,并且能子孙繁荣。
(二)
これは、終戦後間もないころ、友人から聞いた話である。彼は、だいたいが慎重な運転をする男だったが、ある日のこと、横丁から、突然、そば屋の青年が自転車で飛び出してきて、彼の自動車と衝突してしまった。
幸い青年にケガはなかったが、自転車はメチャメチャ。さっそくおおぜいの人垣ができ、警察官もやってきた。友人が、「私には責任はない。その青年の不注意だ」と主張すると、その話を聞いた警察官は、とにかく五千円払えば立ち去ってもよい、と言ったという。
友人が「ちょっと待ってください。私には落度がないのに、なぜ罰金を...」と問い返すと、彼は「いや罰金じゃない。青年がかわいそうじゃありませんか」と答えた。その青年はおそらく店にいられなくなるだろう、だからせめてメチャメチャになった自転車の代金の一部だけでも、と警察官は考えたのだろう。
悪くすると、これは大きなトラブルになりかねない。友人は根が日本びいきで、日本語も日本人的心情も理解していたから、それ以上の論争にはならなかったが、どちらがよいか悪いかの問題ではない、西洋と日本では、法や正義に対する考え方が全く違うことがわかる。この警察官の考え方の中には、正義とか法とかいう理念よりも、きわめて日本的な情けや情といったものが深く入り込んでいたのである。
これは、実に人間味のある態度、考え方で、友人の話を聞いた私は大いに感動した。理屈や理性だけで判断を下すのではなく、その前後の事情や個々の状況を参考にして、より人情味にあふれる決定を下すというのは、まさに人道的だと思う。
西洋的な法の観念に慣らされた者が、このような日本的心情を理解するのは、かなりむずかしいことであるが、こういった不合理な部分が許されるからこそ、日本は世界でも珍しく住みよい、人間のふれ合いのある国でいられるのではないだろうか。これらは、日本人が、みずからの長所として、もっと自覚し、誇りを持ってよいことである。
しかし同時に、こういった情は、なんとも定義しにくいものであり、客観的な法の理念の中に入れることは、なかなかむずかしい。そして、もしそれを許すなら、しまいには人権を守ることさえできなくなってしまう。
这是战后的事情,是从朋友那儿听说的。他大概是一位慎重驾驶的男人,有一天,荞麦面店的青年突然骑着自行车从小巷里飞了出来,和他的汽车相撞了.
幸而青年没有受伤,自行车却破得不成样子了.这立刻引起了很多人的围观,警察也来了.朋友说:'这不是我的责任.是那个青年不注意.'听到这话后警察说:'不管如何你付5千块的话就可以离开了."
朋友反问道:"请等一下,这不是我的失误,为什么罚金..."警察回答:"这不是罚金,难道你不觉得青年人很可怜吗?"这个青年恐怕不能再在这家店里工作了吧,所以哪怕只是出破烂不堪的自行车钱的一部分费用,大概警察是这样想的吧.
说不定,容易成为一个大的麻烦.朋友本来就喜欢日本,日语和日本人的心情也都能理解.也没有对以上的事情争论,并没有哪边是好哪边是坏的问题,他明白在西洋和日本,对于法理或者正义的见解是完全不同的.从这个警察的看法中,除了正义呀法理的理念之外,有极深入的日本风情或者说感情.
这确实是有种人情味的态度.根据自己的看法,我听了朋友说的话受到了很大的感动.只有理由或者理性是不能下判断的,参考之前之后的事情或者每件事情的状况,然后做更充满人情味的决定,我想这样更人道.
习惯了西洋法理观念的人,象这样理解日本的心情是相当难的事情.正因为这样,不合理的部分才被允许.日本难道不是世界上很少见地住得舒服,并且可以与人们交往然后一直住下去的国家吗?象这些事情,是日本人作为自己的长处,更自知,并且为之自豪的事情.
但是同时,这样的情,实在是很难定义的事情,写进客观法律的理念之中是相当难的.并且,如果被允许的话,最后就连人权也不能保护了. |