いやぁ、私ひとりで入ってたら、ああ、あの馬のように死んじゃうんだなっていう。
幼い5人の弟たちの顔がよぎった。俺が死んだら、路頭に迷う。湿原に入れなくなった。数日後、林田はパンの配達にある家に向かった。顔なじみのアイヌの老人。林田たちの調査を楽しみに待っていた。口ごもる林田に、アイヌに伝わる鶴の舞いのことを話した。それは、雛を守るため命を張る親鳥の姿。
「タンチョウはわが子のためなら、クマとも戦います。愛情豊かなタンチョウを守り抜いてほしい。」
林田は再び湿原に向かった。30もの巣を見つけた。新事実に気がついた。雛の主食は湿原の小魚だ。親が多く与えるほどよく育つ。湿原の恵みでタンチョウが生きている証拠を掴んだ。調査は一気に進み始めた。植物の新庄久志、湿原全域の草花を追った。調査箇所は実に6000、海抜0mになんと高山植物の大群落があった。昆虫の飯島一雄、すごい技を炸裂させた。3mの網を自在に操るツバメ返し。飛び交う虫を次々捕らえた。土佐良範も燃えた。ここでしか穫れない魚を集めた。怒るとトゲを出すトゲウオ、内陸30キロの湿原に海の魚がいた。データはそろった。土佐の魚、30種を確認。新庄の植物、600種を数えた。飯島の昆虫はすごかった。蝶やトンボなど1200種。釧路湿原は実に2000種類が息づく生き物の宝庫だった。このデータを示せば、住民も湿原の大切さをわかってくれる。住民総会を開くことを決めた。
しかし、考え込む男がいた。釧路湿原の名付け親田中瑞穂。開発を支持する人々には暮らしがかかっている。いい方法はないか。昭和47年11月、住民総会の日が来た。会場に入った林田、足がすくんだ。集まった住民は300人、大半が開発支持だった。メンバーが調査データを発表、保護を訴えると、罵声が飛んだ。
「保護で飯が食えるか!」
そのとき、田中が胸に秘めた策を語り始めた。国立国定公園化構想。湿原を国の公園に指定してもらい、保護する。
「釧路湿原は、すばらしい観光資源にもなります。公園になれば客が訪れ、産業も発展します。」
会議に参加した商工会議所の木村勲。
あ、そういう利用の仕方があるんだと、釧路の将来にですね、ひとつの曙光を見出したというか。
さらに田中は具体的な提案を行なった。海岸から6kmまでは工業団地建設に認める。湿原中心部は完全な保護地域。山沿いは牧草地の開発を認め、今後その範囲を農家と話し合う。酪農家の中尾幹夫、これなら飲めると思った。
それで十分だろうっていう。周辺は草地改良をしてもいいじゃないかという。
住民の意見はまとまった。すぐさま、プロジェクトは環境省への公園指定を打診した。しかし、衝撃の事実を知らされた。
「釧路湿原の景観は誰もが美しいとは思えない。しかも、観光客が中に入れないのでは、公園に値しない。」
メンバーは立ち尽くした。まもなく、山沿いで国と道庁による開発が始まった。湿原はみるみる土砂で埋められ、山の木々も伐採された。土佐良範、呆然としていた。漁獲高が半分に落ちた。開発部分から流れ込んだ土砂、ワカサギやハゼの産卵場所が壊滅した。林田もタンチョウの異変に気づいた。雛が育たずに死んだ。餌の小魚が激減した。親鳥の悲鳴がこだました。
ゲストをお招きしています。タンチョウの観察を担当した林田恒夫さん、地元の漁師で魚の調査の協力をした土佐良範さんです。どうぞ。
林田さん、それにしてもあの谷地眼、怖いですね。
もうズボッとここまで胸までですね、胴長はいてたんですけど、水がどんどん入っていって、そのままずずずずずっと重たくなって沈んでいって、あの湿原の水ですので、非常に冷たくてですね、もう胸がこうぐっとなんかあの冷たさで痛むような感じがしましたね。
それにしても、そういうまあ人跡未踏の地へよくまあ林田さん調査に入られましたですね。
私がその一番はじめ魅せられたのは、その鶴の舞の美しさに魅せられたんですけれども、これが自分のなんか、あの人生を変えるんじゃないかという、そういう思いにいましたから。
土佐さんは、お父様の代からそのタンチョウの保護活動なさってたそうですね。
え、あの昭和30年ごろですか。あの、まあタンチョウがこう30羽ぐらいに、クリル地区も入れて、少なくなってきたと。それで何とか人口孵化をして、私の父親もその保護協力にまあ協力したんですよね。まあそのころから、まあ私も子供ながらだったけれども、姿、容態が、体が大きくて、堂々として、なんとすごい鳥なんだと、ま、本当に湿原の王様っちゅう感じですね。
国立公園にならないってなったときにはショックだったんじゃないですか?
釧路湿原にはその価値がないと。それに言われたときにはもう、本当にどう心底どうやってじゃあ釧路湿原を守ったらいいのか、という思いになりましたね。
昭和48年冬、開発は湿原の周辺全域に広がろうとしていた。ある日、林田がとんでもないことをメンバーに言った。
「この厳冬期にタンチョウの調査ができませんか。」
冬、一面凍りつく釧路湿原。しかしタンチョウはここで冬を生き抜く。そのなぞを解けば釧路湿原の本当のすごさがわかるはずだ。いちかばちかの厳冬期調査が始まった。メンバーは8人、目指すはタンチョウが越冬するといわれる奥地。現場に到着したのは夕刻。氷点下20度、凍りつく寒さに、林田は一睡もできなかった。翌朝、メンバーの新庄は朝食のため、雪を溶かし水を作ろうとした。そのとき、仲間が声をかけてきた。
おいおい、そんな雪で水作らなくてもいい。あそこに水ある。水あるって。
林田は驚いた。真冬に凍らない水がある。一目散に現場に向かった。次の瞬間、ポッカリと氷が開いた池が現れた。そこにタンチョウの餌となるハゼやドチョウが泳いでいた。調べると、山から絶え間なく水が湧き出ていた。
あ、これだから、やっぱり釧路湿原でも冬を越せる鶴がいたんだな。
タンチョウ越冬のなぞをつきとめた。林田たちは、調査結果を発表。まもなく信じられないニュースが飛び込んできた。釧路湿原がラムサール条約に登録された。それは水鳥の生息地をまもる世界最高権威の国際条約。林田たちの調査が世界を突き動かした。環境庁も腰を上げた。
「国立公園化を検討する。」
プロジェクトは一気に動き始めた。北海道庁も保護範囲の検討に入った。自然保護係係長の松岡治。
なんとかしなきゃならんという気持ちは一緒でしたからね。形にしなきゃならんだろうと。
保護地域の原案をまとめた。湿原の中心部はもとよりタンチョウの餌場となる湧き水が出る周辺部も加えた。保護範囲は28000ヘクタールに広がった。
しかし、そこに怒鳴り込んできた人々がいた。湿原周辺部で暮らす農民たち。その中心に血相を変えた中尾幹夫がいた。保護範囲が広がり、予定した牧草地の開発ができなくなっていた。中尾はその牧草地を見込み、牛舎を大きくした。息子も生まれた。
まあ、少なくとも自分の子供たちにもやっぱり、まあふつう、まあ世間並みの生活をさせてやりたいなという気持ちもありましたからね。
中尾たちは断固拒否を表明した。
その半年後、湿原で大事件が起きた。ごみ処理場から出た火が、湿原の枯れ草に燃え移った。またたく間に大火災となった。炎は湿原の1割、2000ヘクタールを焼き、中尾たちの集落に近づいた。地元消防団の服をまとった中尾。真っ先に現場を着くと、竹箒で炎に立ち向かった。そのとき、衝撃の光景が飛び込んできた。燃えさかる木の上に無数のアオサギの巣があった。親鳥は煙にまかれても、決してその場を離れようとしなかった。
じっと、アオサギは巣から離れないで、たぶんあの卵をまあ守るつもりで、抱いてたんだと思うんですよね。自然と、やっぱりそのここはみんなで守ってやるべという。
中尾たちは、丸二日夜を徹し、菷を振った。巣は守られた。直後、中尾たちは、北海道庁を訪ね、言った。
「国立公園に賛成します。」
最後の勝負のときが来た。環境庁の審議委員による現地調査。漁師の土佐に命運が託された。土佐は審議委員を船に乗せ、川を下り始めた。すぐさま動物たちが顔を覗かせた。中尾たちが守ったアオサギ、彩り豊かなオシドリ、しぐさがかわいいミンク、そしてとっておきの場所に船を向けた。審議委員が息をのんだ。土佐は言った。
「これが湿原の守り神です。」
昭和62年7月31日、釧路湿原は、ついに国立公園になった。ひとつになった住民たちの心。不毛の大地と呼ばれたふるさとを日本の宝にした。
林田さん、どんな気持だったですか?
そうですね。もうほっとした気持ちでした。もうそのときは、もうなにかもう安心したっていいますかね。長かったですね。やっぱりもうその「なる」、「ならない」という論議がいろいろずっと続いてましたからね。本当にうれしかったです。
でも、最後の視察のときによくタンチョウが姿を現してくれましたね。
船で下りながら、いっつもいる場所にいないんですよ。いや、またもいない、またもいないといううちに、やっと発見したときはほっとしましたね。まあ、自分がなんかあの特別なことをしたような、そういう気分になりましたね。
もう一人、酪農家で大火災で消火にあたった中尾道夫さんにお越しいただきました。
中尾さん、あの火の中で消火っていうのは、危険じゃなかったですか?
上にちょうど枯れ草の部分だけが残ってるんで、もうものすごい勢いで燃えてきますよね。とても人間が走るスピードじゃ間に合わないぐらいのスピードで火が走ってきますから。
そんなに走るものですか?
速いですね。
それだけ危険なときに、そのアオサギの巣をまあ守ろうと消火にあたったわけですけれども?
畑で仕事をしてるとき、よくまあアオサギをみてね、飛び方がユニークでね、好きな鳥だったんですよ。この鳥が、ここに巣を作って、ここから、その、僕たちのところに餌をとりに通ってるんだと、とにかくやっぱり湿原の中にやっぱり、こう、たくさんの動物たちが生活しているんだ、もうこれ以上、やっぱり湿地に手をかけることは、やっぱり考えるべきだな、という気持ちになってきましたよね。はい。
今、この湿原をご覧になって、どんな気持ちでみてらっしゃいますか?
そうですね。うん。まあ、地球が自分で作る永遠の財産というふうに、まあ、思ってますよね。これはやっぱり私たち酪農家もですね、やっぱり守っていく必要があるというふうに思いますよね。はい。
国立公園誕生から6年後、釧路に世界の研究者たちが集結した。そこでプロジェクト20年の苦闘の歴史が報告された。世界でも例がない住民の心をひとつにした保護運動。拍手は鳴り止まなかった。今、釧路には年間250万人が訪れる。
プロジェクトの戦いは今も続く。漁師の土佐良範さん、魚を売ったお金で、10年前から湿原の周辺を購入している。そこは国立公園からもれた場所。タンチョウに手つかずの自然を少しでも残したいと思っている。
今度は、人間が、タンチョウの恩返しじゃなくって、人間が恩を返さなきゃだめですよ。
酪農家の中野幹夫さん、その後新たな牧草地の開発をあきらめ、懸命に働いた。現在、90頭の牛を飼う。遠回りはしたが、自分の決断に悔いはない。
林田恒夫さん、これまで12万点の写真をとった。その中で忘れられない写真がある。雪原に舞う2羽のタンチョウ、日本の紙幣となった。
今年、タンチョウは1000羽を超える。 |