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发表于 2008-2-19 11:01:28
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080217乖巧说法
080217乖巧说法
今季の方針を聞かれ、プロ野球の監督が答えた。「自分の中では守備力重視です」。女子フィギュアの星が大会への抱負を語る。「自分の中では、トリプルアクセルを跳びたい」。
當採訪到本季度賽式方針時,棒球教练回答道:“自我感覺要加强防守”。女子花样滑冰明星在谈到对大赛的抱负时说,“自我感覺,想跳个阿克谢尔三周半”。
この「自分の中では」が、最近ちょっと気になる。各界の発言録ともいえる本紙を調べたところ、検索できる84年以降、約300本の記事に登場していた。9割は最近10年のもので、90年代半ばまではあまり出てこない。
对于这个“內心期待”,最近比較關注。調查了可稱為各界發言录的版報,結果顯示,84年以後,大約300篇報道中曾出現過,90%是近10中出現的,到90年代中期就沒怎麼出現。
たどれる最古の発言は87年、ビートたけしさんである。写真誌への殴り込み事件で有罪判決を受け、記者会見で神妙に語った。「6カ月もたったことなので、自分の中では解決したと思っている」と。
有案可查的最早记录在1987年,發言者是彼得武,在摄影杂志相片時因出現歐打事件判刑,在記者招待會上真誠地說,6個月過去了,自我感覺是已經過去了。
殴り込みはまずいが、これが本来の用法だろう。「自分の中では」は、当時のたけしさんのように気持ちの整理がついた状態など、微妙な胸中(きょうちゅう)を説明する表現だった。それが昨今(さっこん)、飾りのように多用されている。
大打出手雖然不好,但卻是事實。“心裡覺得,是當時的彼得武調整心情的內心世界產生微妙變化後表現。最近套用此句多用於修飾語。
断言しては押しつけがましい、あるいは言い切るだけの自信がない時、私たちは「別の見方もあろうが」というニュアンスを飾りで加えたくなるものだ。意見対立や仲間外れを嫌い、場の空気を読むのに熱心な現代人の知恵だろうか。さりげなく張る予防線は奥ゆかしくもあり、軟弱にも聞こえる。
沒有一口咬定強加於人,或是隻是一口咬定的自信時,我們會帶有「是否有其它意見?」的語感來加於修飾,這也許是意見對立,相互排擠善於察言觀色的現代人的優點吧,雖若無其事展開的自衛線看似雅致,其软弱之外也是隨處可見
やりとりからトゲや毒、火種を取り除く工夫をボカシ言葉と呼ぶそうだ。「わたし的には」「~かな、みたいな」など多々(たた)ある。「自分の中では」も、その一つらしい。優しく、余白を残す言い回しは処世術だが、会話を弾ませる大切な熱を奪うような気がする。
那种剔除交谈中的尖刻、毒辣或隐患的说法似可称作含糊语言。像“就我来说”、“……似的”之类,有很多。“自我感覺”似乎也是其中之一。不生硬,留有余地的谈吐确是一种处世之道,可总觉得它同时也抽干了促进交谈最重要的热情。 |
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