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发表于 2008-4-8 22:17:44
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(22楼のつづき)
3 日本語は本当に曖昧なのか?
以上のように、日本人の日常会話、日本語の語彙、そして、日本の政治家の発言といった側面
から、例をあげて紹介してきたが、日本語が曖昧であるといわれている例はほかにもたくさんあ
ることは事実である。たとえば、日本語は主語がないとか、人称代名詞がよく省略されていると
か……。しかし、それらを全部総括して考えると、いずれも外国語、外国人の表現と比べていっ
ているものであり、肝心な日本人、日本語は?となると、話は違うと私は思う。
結論から申し上げると、私は言語としての日本語は曖昧であるとは思わない。日本人のしゃべ
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っている日本語自体、文としての意味ははっきりしていると思っている。同じく前文で挙げた例
を見てみることにしよう。
まず、「…かもしれない」についてだが、「好きかも」「おいしいかも」といった本人の気持ち
の伝わり方だが、別に本人は自信がないとか、はっきりわからないというものではなくて、「私
は好きだが、私はおいしいと思うが、あなたはそう感じるかどうか」という日本人固有の相手に
対する配慮という心理から、「かも」を使っている。
その次の「…じゃないですか」もまったく同じ次元のものだと思う。
税金の無駄遣いといわれている「乱闘手当て」の廃止は誰が考えても廃止すべきだ。マイクを
差し出されている記者の質問がいかにも中立的なもののように聞こえるが、聞かれた本人は「私
は廃止すべきだ、あなたもそう思わないか、そう思っているだろう」というような意味合いが含
まれていると思う。
「携帯など、お持ちですか」というのは、まさしく「携帯電話」を持っているかどうかを確認
しているのであり、いわゆる日本人の「丁寧さ」をフルに使っている表現である。「タバコのほ
う、お飲みになられますでしょうか」も、別にほかの飲み物を含めて聞いてのいるのではなく、
座席の喫煙席のほうがいいか、それとも、禁煙席にするのかというお客さんの要望を聞くもので
ある。だから、形では、はっきりしていないと思われるかもしれないが、聞く側も聞かれる側も
その言葉が何を意味しているのかはっきりわかっていると思われる。
日本の政治家の発言も同じように理解できると思う。
曖昧だといわれているのは、日本語の問題ではなくて、話をする本人が話を曖昧にしようとい
う考えで、わざとそういっているのであり、そのように感じられたのである。そして、付け加え
て申し上げると、日本の政治家の型にはまったような発言も、実は文化を共有している日本政治
家の間や、日本人の間では、その意味もはっきりしている。たとえば、前述の「善処します」も、
「政治家の用語としては、さしあたっては、なんの処置もしない」という意味である。
日本語には多義語の存在があるから、外国人には分かりにくい、外国語に訳しにくいとの印象
を与えていることは事実であるかもしれないが、それで、日本語は曖昧であるとの結論には結び
つかない。というのは、世界に存在しているすべての言語の中から、どれを取ってきてみても、
多義語がないものはないからだ。中国語の場合では、たとえば、「白」という中国語の言葉があ
る。「現代漢語辞典」⑥を引いてみると、実は14項目の意味が並べられていることがわかる。中に
は、名詞として、「白」(しろ)もあれば、形容詞としての「白水」(白湯)、あるいは、「白了
他一眼」(彼をにらみつけた)のように、動詞としての使い方もある。ある意味では、この「白」
という言葉は多義語である上に、その品詞まで多様に変化しているため、もっと分かりにくいは
ずだ。だからといって、中国語は曖昧であるとはいえないし、実際、そうもいわれていない。日
本語が「曖昧」であるというわれわれ外国人の見方はまさに、日本人の言語文化、表現心理がよ
く理解できていないことから、生じたものであると思えてならない。
楊・曹:「曖昧」な日本語を再認識47
4 日本語教育における「曖昧」な日本語の教え方
4.1 日本文化、日本人の表現心理をよく理解し、常に念頭におくこと
それでは、今度はこの「曖昧」と思われている日本語を、母国語ではなく、外国語として習得
している人たちに、どのように教えていくべきかについて、その注意すべき点を考えていきたい
と思う。
上述のように、単一民族国家である日本では、文化を共有している日本人にしてみれば、なん
でもない、ごく普通のような表現でも、外国人にとって、非常に驚異に思ったり、不思議がった
り、理解できなかったりすることがしばしばある。だから、真の日本語教育をしようと思えば、
まず、文化差異の問題を常に念頭に置き、日本文化、日本人の表現心理から切り開いていかなけ
ればいけない。
いままで、中国人に日本語教育をする立場から、中国式日本語の類型や成因などについて、い
くつか小論⑦を発表してきた。これまでの日本語教育の反省点といえば、あまりにも、発音、文
型、文法などの言語学的要素を重視しすぎて、肝心の日本文化的な要素、日本人の表現心理をお
ろそかにしてきたがために、われわれ外国人が使う日本語は、日本人が違和感を感じられるもの
になってしまったのだと思う。
日本人の価値観といえば、もっとも顕著なものは「和を以って尊しとなす」というものだと思
う。この日本人の座右の銘が、日本人社会に同質性と集団性を特徴付けたと思われる。いうまで
もなく、日本人の言語生活もそれを原点にしている。
集団の中では、日本人はなによりも「和」を重んじているので、周囲の人や、話の相手には悪
い、相手を傷つける、困らせる、相手に恥をかかせる……といった言語行動を極力避けているの
である。このいたわりを美徳としている日本人だから、「争わない」「遠慮する」ことが多い。ま
た、当然のように、「かどが立つ」ことを悪徳と考えている。それで、前にあげた例のように、
佐藤栄作首相の「善処します」発言があったり、「…じゃないか」とか、「……のほう」といった
表現が使われるのだと思う。つまり、日本人は意識して、直接から間接へ、直裁から婉曲へと話
を持っていき、物事をわざと曖昧に表現して、どぎつさを回避する表現方法をとっていると思う。
そして、日本人の伝統的な文化は「察し」の文化であり、言葉のやり取りを少なくしようとす
る文化であって、自分の行動の基準を他者の心に求める傾向にある。自己主張をするにしても、
相手の感情をいたわりながら、やわらかく言い分を通すのが最善だと考えている。だから、なる
べく相手に嫌われないように、うらまれないように、と常に配慮をしている。
それで、実際の日常生活の中では、「今日はいいお天気だね」のように、日本人はよく「ね」
「わ」「わね」などの終助詞を愛用し、常に相手に共感を求め、相手の気持ちを確かめながら、話
を進めている。
相手の意見と食い違いがあった場合でも、日本人は「そっちにも言い分があるだろうが……」
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「あなたのお考えはごもっともですが……」といった譲歩の表現をまず話の頭に持ってきて、相
手の気持ちを組み込んでから、反論していくケースが多い。
日本語の質問の受け答えをするときに、「はい」と「いいえ」という二つの言葉がある。中国
人の日本語学習者は、それを「是」「不是」のように理解し、使われがちだが、実際のところは
どうだろうか。
日本語教育の専門家である水谷修氏によると、日本人がふだんの生活の中では、「いいえ」と
言うのは、二つの場合ぐらいしかないそうだ。一つは、へりくだりの場合、たとえば、「あなた
は英語がよくおできになりますね」と言われると、「いいえ、とんでもない。私は……」と、こ
の場合ははっきりと「いいえ」と言う。もう一つは、相手を励ましたり、慰めたりする場合であ
る。相手が「私はやはりだめな女なのね」とでも言うと、「いいえ、あなたは本当は力があるん
ですよ」と、こういう場合には力強く「いいえ」と言う。いかにも日本人らしい言語行動だ⑧。
だから、われわれの日常の日本語教育の中に、上記のような日本人の言語表現の根底に潜んで
いる文化的な要因や表現心理を徹底的に取り入れることにより、はじめて、真の日本語教育がで
きると思う。
4.2 日本文化を尊重すること
もう一点是非心がけて取り込んでいかなければいけないことは日本語を客観的に見ることだと
思う。
冒頭でも述べたが、日本語は曖昧だとよく批判されていると思うが、その理由もわからないこ
とでもない。ただ、日本語教育に携わっている者として、そういった偏った考えを持ってはいけ
ないと思う。というのは、日本語は日本文化の一部であって、その日本文化自体は優れていると
か劣っているということはないからである。日本語は自分の母国語と違って、曖昧のように感じ
ているかもしれないが、それで、日本語は曖昧であるからよくないとか、劣っているとかといっ
た考えになってしまったのでは、正しい日本語教育もできないと思う。教鞭をとる立場にいる人
間こそ、曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理
解しなければいけないと思う。 |
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