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楼主: demiyuan

[其他问题] 日语的暧昧性

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发表于 2008-4-8 22:17:44 | 显示全部楼层
(22楼のつづき)

3 日本語は本当に曖昧なのか?
以上のように、日本人の日常会話、日本語の語彙、そして、日本の政治家の発言といった側面
から、例をあげて紹介してきたが、日本語が曖昧であるといわれている例はほかにもたくさんあ
ることは事実である。たとえば、日本語は主語がないとか、人称代名詞がよく省略されていると
か……。しかし、それらを全部総括して考えると、いずれも外国語、外国人の表現と比べていっ
ているものであり、肝心な日本人、日本語は?となると、話は違うと私は思う。
結論から申し上げると、私は言語としての日本語は曖昧であるとは思わない。日本人のしゃべ
46 福井大学教育地域科学部紀要Ⅰ(人文科学 国語学・国文学・中国学編),56,2005
っている日本語自体、文としての意味ははっきりしていると思っている。同じく前文で挙げた例
を見てみることにしよう。
まず、「…かもしれない」についてだが、「好きかも」「おいしいかも」といった本人の気持ち
の伝わり方だが、別に本人は自信がないとか、はっきりわからないというものではなくて、「私
は好きだが、私はおいしいと思うが、あなたはそう感じるかどうか」という日本人固有の相手に
対する配慮という心理から、「かも」を使っている。
その次の「…じゃないですか」もまったく同じ次元のものだと思う。
税金の無駄遣いといわれている「乱闘手当て」の廃止は誰が考えても廃止すべきだ。マイクを
差し出されている記者の質問がいかにも中立的なもののように聞こえるが、聞かれた本人は「私
は廃止すべきだ、あなたもそう思わないか、そう思っているだろう」というような意味合いが含
まれていると思う。
「携帯など、お持ちですか」というのは、まさしく「携帯電話」を持っているかどうかを確認
しているのであり、いわゆる日本人の「丁寧さ」をフルに使っている表現である。「タバコのほ
う、お飲みになられますでしょうか」も、別にほかの飲み物を含めて聞いてのいるのではなく、
座席の喫煙席のほうがいいか、それとも、禁煙席にするのかというお客さんの要望を聞くもので
ある。だから、形では、はっきりしていないと思われるかもしれないが、聞く側も聞かれる側も
その言葉が何を意味しているのかはっきりわかっていると思われる。
日本の政治家の発言も同じように理解できると思う。
曖昧だといわれているのは、日本語の問題ではなくて、話をする本人が話を曖昧にしようとい
う考えで、わざとそういっているのであり、そのように感じられたのである。そして、付け加え
て申し上げると、日本の政治家の型にはまったような発言も、実は文化を共有している日本政治
家の間や、日本人の間では、その意味もはっきりしている。たとえば、前述の「善処します」も、
「政治家の用語としては、さしあたっては、なんの処置もしない」という意味である。
日本語には多義語の存在があるから、外国人には分かりにくい、外国語に訳しにくいとの印象
を与えていることは事実であるかもしれないが、それで、日本語は曖昧であるとの結論には結び
つかない。というのは、世界に存在しているすべての言語の中から、どれを取ってきてみても、
多義語がないものはないからだ。中国語の場合では、たとえば、「白」という中国語の言葉があ
る。「現代漢語辞典」⑥を引いてみると、実は14項目の意味が並べられていることがわかる。中に
は、名詞として、「白」(しろ)もあれば、形容詞としての「白水」(白湯)、あるいは、「白了
他一眼」(彼をにらみつけた)のように、動詞としての使い方もある。ある意味では、この「白」
という言葉は多義語である上に、その品詞まで多様に変化しているため、もっと分かりにくいは
ずだ。だからといって、中国語は曖昧であるとはいえないし、実際、そうもいわれていない。日
本語が「曖昧」であるというわれわれ外国人の見方はまさに、日本人の言語文化、表現心理がよ
く理解できていないことから、生じたものであると思えてならない。
楊・曹:「曖昧」な日本語を再認識47
4 日本語教育における「曖昧」な日本語の教え方
4.1 日本文化、日本人の表現心理をよく理解し、常に念頭におくこと
それでは、今度はこの「曖昧」と思われている日本語を、母国語ではなく、外国語として習得
している人たちに、どのように教えていくべきかについて、その注意すべき点を考えていきたい
と思う。
上述のように、単一民族国家である日本では、文化を共有している日本人にしてみれば、なん
でもない、ごく普通のような表現でも、外国人にとって、非常に驚異に思ったり、不思議がった
り、理解できなかったりすることがしばしばある。だから、真の日本語教育をしようと思えば、
まず、文化差異の問題を常に念頭に置き、日本文化、日本人の表現心理から切り開いていかなけ
ればいけない。
いままで、中国人に日本語教育をする立場から、中国式日本語の類型や成因などについて、い
くつか小論⑦を発表してきた。これまでの日本語教育の反省点といえば、あまりにも、発音、文
型、文法などの言語学的要素を重視しすぎて、肝心の日本文化的な要素、日本人の表現心理をお
ろそかにしてきたがために、われわれ外国人が使う日本語は、日本人が違和感を感じられるもの
になってしまったのだと思う。
日本人の価値観といえば、もっとも顕著なものは「和を以って尊しとなす」というものだと思
う。この日本人の座右の銘が、日本人社会に同質性と集団性を特徴付けたと思われる。いうまで
もなく、日本人の言語生活もそれを原点にしている。
集団の中では、日本人はなによりも「和」を重んじているので、周囲の人や、話の相手には悪
い、相手を傷つける、困らせる、相手に恥をかかせる……といった言語行動を極力避けているの
である。このいたわりを美徳としている日本人だから、「争わない」「遠慮する」ことが多い。ま
た、当然のように、「かどが立つ」ことを悪徳と考えている。それで、前にあげた例のように、
佐藤栄作首相の「善処します」発言があったり、「…じゃないか」とか、「……のほう」といった
表現が使われるのだと思う。つまり、日本人は意識して、直接から間接へ、直裁から婉曲へと話
を持っていき、物事をわざと曖昧に表現して、どぎつさを回避する表現方法をとっていると思う。
そして、日本人の伝統的な文化は「察し」の文化であり、言葉のやり取りを少なくしようとす
る文化であって、自分の行動の基準を他者の心に求める傾向にある。自己主張をするにしても、
相手の感情をいたわりながら、やわらかく言い分を通すのが最善だと考えている。だから、なる
べく相手に嫌われないように、うらまれないように、と常に配慮をしている。
それで、実際の日常生活の中では、「今日はいいお天気だね」のように、日本人はよく「ね」
「わ」「わね」などの終助詞を愛用し、常に相手に共感を求め、相手の気持ちを確かめながら、話
を進めている。
相手の意見と食い違いがあった場合でも、日本人は「そっちにも言い分があるだろうが……」
48 福井大学教育地域科学部紀要Ⅰ(人文科学 国語学・国文学・中国学編),56,2005
「あなたのお考えはごもっともですが……」といった譲歩の表現をまず話の頭に持ってきて、相
手の気持ちを組み込んでから、反論していくケースが多い。
日本語の質問の受け答えをするときに、「はい」と「いいえ」という二つの言葉がある。中国
人の日本語学習者は、それを「是」「不是」のように理解し、使われがちだが、実際のところは
どうだろうか。
日本語教育の専門家である水谷修氏によると、日本人がふだんの生活の中では、「いいえ」と
言うのは、二つの場合ぐらいしかないそうだ。一つは、へりくだりの場合、たとえば、「あなた
は英語がよくおできになりますね」と言われると、「いいえ、とんでもない。私は……」と、こ
の場合ははっきりと「いいえ」と言う。もう一つは、相手を励ましたり、慰めたりする場合であ
る。相手が「私はやはりだめな女なのね」とでも言うと、「いいえ、あなたは本当は力があるん
ですよ」と、こういう場合には力強く「いいえ」と言う。いかにも日本人らしい言語行動だ⑧。
だから、われわれの日常の日本語教育の中に、上記のような日本人の言語表現の根底に潜んで
いる文化的な要因や表現心理を徹底的に取り入れることにより、はじめて、真の日本語教育がで
きると思う。
4.2 日本文化を尊重すること
もう一点是非心がけて取り込んでいかなければいけないことは日本語を客観的に見ることだと
思う。
冒頭でも述べたが、日本語は曖昧だとよく批判されていると思うが、その理由もわからないこ
とでもない。ただ、日本語教育に携わっている者として、そういった偏った考えを持ってはいけ
ないと思う。というのは、日本語は日本文化の一部であって、その日本文化自体は優れていると
か劣っているということはないからである。日本語は自分の母国語と違って、曖昧のように感じ
ているかもしれないが、それで、日本語は曖昧であるからよくないとか、劣っているとかといっ
た考えになってしまったのでは、正しい日本語教育もできないと思う。教鞭をとる立場にいる人
間こそ、曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理
解しなければいけないと思う。
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发表于 2008-4-8 22:18:18 | 显示全部楼层
(23楼のつづき)

5 結語
日本語は曖昧だといわれているが、日本人の問題にしている日本語の曖昧さと外国人が感じて
いる曖昧さは違っていると思う。その根底に横たわっている原因はほかでもない、まさに文化的
な違いだと思う。これから、「曖昧」といわれている日本語を曖昧ではなく、はっきりと分かり
やすく、日本語らしく教えるためには、日本文化的な要素をより多く取り入れ、総合的な日本語
教育を目指さなければならないと思う。
楊・曹:「曖昧」な日本語を再認識49

① これまで数多くの日本人論、日本語論、日本文化論の著書が出ている。それらの中では、いずれも日本語
の曖昧さに言及している。ここで、参考になったものだけ羅列しておく。金田一春彦「日本人の言語表現」
(1975 講談社現代新書)、外山滋比古「言葉の習俗」(1971 三省堂新書)板坂元「日本人論理構造」
(1971 講談社現代新書)バーンランド「日本人の表現構造」(1973 西山千訳 サイマル出版会)、多田道
太郎「しぐさの日本文化」(1972 筑摩書房)、依田新・築島謙三編「日本人の性格」(1970 「現代心理学
シリーズ」第2巻 朝倉書店)
② 橋本五郎監修 読売新聞新日本語取材班「新日本語の現場 困ってませんか?職場の言葉」(2005 中公新
書)による。
③ 書名:大辞林第二版 編者:松村 明・三省堂編修所 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2005
④ 例文は小松達也氏の「通訳の英語 日本語」(2003 文藝春秋)による。
⑤ 佐藤栄作の「善処します」発言は数多くの書物に取り上げられているが、ここでは、小松達也氏の「通訳
の英語 日本語」(2003 文藝春秋)を引用。
⑥ 書名:現代漢語詞典 修訂本 編者:中国社会科学院語言研究所詞典編纂室 1998
⑦ 楊暁鐘「日本学研究論文集 中国語式日本語の原因を探る」2001 陝西人民出版社「中国式日本語の類型
とその成因について」2004 西安交通大学出版社を参照。
⑧ 金田一春彦氏の「日本語の特質」(1991 日本放送出版協会)を引用。
<引用・参考文献>
金田一春彦 [1988年]「日本語 新版」(上、下)岩波新書
[1991] 「日本語の特質」日本放送出版協会
[1998] 「日本語教室」ちくま学芸文庫
相良 亨  [1980] 「誠実と日本人」ぺりかん社
佐久間 鼎 [1941] 「日本語の特質」育英書院
小松 達也 [2003] 「通訳の英語 日本語」文藝春秋
芳賀綏   [1979] 「日本人の表現心理」中央公論社 
[2004] 「日本人らしさの構造」大修館書店
水谷修 李徳奉 [2002] 「総合的日本語教育を求めて」国書刊行会
柴田 武  [2002] 「その日本語、通じていますか」角川書店


   (以上です)

[ 本帖最后由 melanie 于 2008-4-8 22:26 编辑 ]
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发表于 2008-4-8 22:22:06 | 显示全部楼层
    ***日本語はあいまいか***
           「和文論文作りを通して

             コミュニケーションを考える」1)を読んで

                          駿河台大学経済学部
                             秋山洋子
 
 
 わたしのもともとの専門は中国文学だ。それと同時に,中国や韓国からの留学生に日本語を教えてい
る。たぶんそのせいで,「和文論文作りを通してコミュニケーションを考える」などという難しげな議論
に引きずりこまれたのだろう。
 山下洵子さんは,これまで4回にわたる文章1)で,日本語で論文を書くときにぶつかるさまざまな問
題について考察している。(ここにも日本語の難しさがあって,ここで「考察されている」=敬語,と書
くべきかどうか,一瞬考えてしまった。論文などで他の研究者の業績に触れる場合,敬称・敬語は略し
てかまわないのだが,相手がたまたま恩師や知人だったりすると,かえってどうしたらいいか迷ってし
まう。ここでは,「さん」はつけるが敬語は使わないということでお許しいただこう)。
 山下さんが書いているように,たしかに日本語は難しい。ただ,彼女が困惑したり腹を立てたりして
いる「日本語の難しさ・あいまいさ」の中には,さまざまな要素が混在しており,それがうまく整理さ
れていないところもあるように思う。そのあたりから話を始めたい。
■ 目本語には日本語の論理がある
 「日本語はあいまいだ」と非難するとき,多くの人は,日本語の構造そのものが外国語(ほとんどが
英語をはじめとする欧米の言葉)とくらべて,非論理的であいまいだと考えているようだ。けれども,
日本語教師の立場からいえば,日本語は日本語としてのきちんとした構造(文法)があり,日本語とし
ての論理を持っているのだ。ただそれが,欧米系言語の構造と,かなりちがっているだけだ。
 たしかに,欧米系の言語は,論理的な文章を書くのに日本語より適しているようにみえる。しかし,
その理由のかなりの部分は,わたしたちが学問とか理論とか呼んでいるもの自体が,かれらの言語を基
盤にして発展してきたことによっている。日本語そのものが非合理・非論理なのではなくて,むこうの
土俵で,むこうのルールで勝負をしなければならないためにハンディキャップを負っているのだ。
 最近ベストセラーになった高島俊男著『漢字と日本人』2)に,次のようなくだりがある。
 西洋人は確かに,体力も知力も強く,芸術的感性にもすぐれ,何事にも積極的な性質を持った優秀
な人種である。しかしまた彼らは,自分たちが石の家に住んでいるから泥の家や木の家より石の家が
「進んでいる」と思い,……自分たちがキリスト教を信じているからキリスト教を信ずる者が「進ん
でいる」と考える,いたって簡単な精神の持主なのである。だから人類の歴史を一本道のようにしか
とらえられないのである。……困ったことに,この自信たっぷりで押しつけがましい西洋人を,全面
的に模倣したのが日本人なのだ。
あきやま ようこ
〒357-9555埼玉県飯能市阿須698駿河台大学経済学部
一71一

日本語はあいまいか
 ここで著者は明治時代の国語論争について語っているのだが,この時代,文明の進歩に追いつくため
には「遅れた」日本語に頼ってはだめだという主張が大真面目におこなわれ,漢字廃止論どころか,日
本語を廃止して英語を採用しようという動きまであったということだ。(第二次大戦の敗戦後もまた,
志賀直哉がフランス語を国語にしようと唱えたことが知られている)。この論争に触れながら,著者は日
本語と日本の文字は切り離せないこと,言葉や文字,さらには文化の間には,差異はあっても優劣はな
いということを,こんこんと説いている。
■ 「私はアメリカン」は正しい日本語
 「日本語はあいまいだ」というときに,まずあげられるのは主語がない(かくれている),ということ
だ。たとえば,この文章の冒頭の2番目の文には主語がない。でも,この文を読んで,「引きずり込まれ
た」のは誰だろうと疑問を抱く人がいるだろうか。これをもし英語に訳すなら,たぶん‘1’という代名
詞を補う必要があるだろうが,日本語で「わたし」を補う必要はまったくないと思う。(この「思う」に
も主語がない。文の終わりに「考える」や「思う」がきた場合,その主語は第三者ではなく筆者だとい
うことも,日本語の約束事二文法のひとつである)。
 それでは,前回山下さんが例にあげていた,喫茶店でコーヒーを注文するときの「わたしはアメリカ
ンです」はどうだろう。日本語が非論理的な例として,この文例をあげる人は多い。最近も,朝日新聞
日曜版のエッセイでアメリカ人女性が指摘していた。
 けれども,喫茶店でこの言葉を聞いたとき,「私はアメリカ人です」という意味だと誤解することはあ
りえない。それは,日本語を話す人の問には,日本語の「は」という助詞の働きについての了解がある
からだ。主語をあらわす格助詞の「が」とはちがって,「は」は係助詞に分類され,文の構造だけでなく,
さまざまな意味をあらわす役割を持っている。その重要な役割のひとつが,文の主題(主語ではなく)を
提示することだ。難しい文法の説明は省くけれど,日本語の「AはBだ」という文章は,英語のbe動
詞で結ばれる主語と述語の関係ばかりでなく,もっと多様な関係を表現できるのだ。「わたしはアメリカ
ンです」「ぼくは天丼です」という文章は,まともで明晰な日本語なのである。これを説明するために,
『「ボクハ ウナギダ」の文法』3)という本を書いた学者もいるほどだ。

(つづく)
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发表于 2008-4-8 22:24:04 | 显示全部楼层
(25楼のつづき)

■ だれが「トンネルを抜けた」のか
 日本語と英語の構造の違いを,もうすこし具体例で見てみよう。山下さんが前回の文で引用した川端
康成作『雪国』の冒頭の文章もいい例だ。この文の構造は,修飾の部分を取り去れば「トンネルを抜け
ると雪国であった」となる。こういう形の日本語は,べつに珍しくない。「門を出ると雨だった」「試験
が終わると夏休みだった」など,よく似た表現が日常に使われる。これらの表現を読むものは,雪国に
着いた(雪国を見た),雨が降っているのに気づいた(雨に降られた=これも「被害の受身」という日本
語特有の文法構造だ),夏休みをすごした,ということを筆者(あるいは主人公)の体験として理解する。
 『雪国』の場合,英語の文法で考えればトンネルを抜けたのが汽車なのか主人公なのかは重要な問題
になるだろうが,わたしたちは「トンネルを抜ける」という表現を読んで,汽車に乗っている主人公/
主人公を乗せた汽車というふうに複合的なイメージを持つ。この場合,作品の理解はそれで十分なりた
つだろう。
 逆に日本語の論理からいえば,「雨だった」「雨が降る」ですむところを“lt rains”,「今日は天気だ」
を“lt is fine today”などと形式的な主語を補わなければならない英語は,なんと融通のきかない言葉
だろうといいたくなる。
■ 「夜の底」は文学の領域
ここでこの論考もトンネルをひとつ抜けた。(こういう比喩的な表現は,世界中どこの言葉にもある)。
一72一
日本語はあいまいか
ではそれに続く,「夜の底が白くなった」という文はどうだろう。いったい夜の底ってなんのこと? まっ
たくちんぷんかんぷんだ,という感想が出ても不思議ではない。けれどもよく見ると,これは最初の文
と違って,文章の構造そのものはべつに難しくない。たとえば「鍋の底が黒くなった」というごく日常
的な表現と,文法的にはまったく同じだ。この文章がいかにも難解に思えるのは,「夜の底」などという
正体不明なものが登場するところにある。これはまさに文学者の詩的比喩というやつだ。文学が専門で
川端康成論でも書こうという人には,この比喩をどう分析するかが重要な問題になるが,日本語一般を
論じる場合に頭を悩ますことではない。
 あるいは,山下さんが前回の文で引用した田久保秀夫の小説がある。あのせりふも,言葉そのものが
意味することは,主語が誰かということも含めて,特にあいまいなわけではない。ただ,その言葉の裏
に隠されている主人公の気持をどう読み取るかが,読者の想像力に任されているから,あいまいで難解
に思えるのだ。これも日本語の問題というよりは文学の問題だといえる。
 いまあげたような文学的な意味での表現の難しさは,日本語に限らず,どんな言葉にでも存在する。
それを読み解くのは,文学好きにはこたえられない楽しみなのだろうが,理科系の論文を書く場合の参
考にはならないし,する必要もないだろう。

(つづく)
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发表于 2008-4-8 22:24:34 | 显示全部楼层
(26楼のつづき)

■ あいまいな日本の私
 日本語には日本語の論理があるといった。それでは,頭の中に浮かんでくる日本語をそのまま書き綴
れば,きちんとした日本語の文章ができあがるのだろうか。
 さきに述べたように,英語的な文の構造をことさら意識する必要はない。かといって,頭の中に出て
きたことを普通にしゃべるようにそのまま並べていけば,自然にいい日本語の文ができるかというとそ
うでもない。日本語には日本語の論理があると同時に,日本語が陥りやすい落し穴も存在するからだ。
 たとえば,おなじ川端康成でも,ノーベル賞受賞記念講演の題,「美しい日本の私」は,日本語のあい
まいさが悪くあらわれた表現だ。日本語の文法構造では,形容詞はあとに来る単語であればかなり離れ
ていても修飾できる。だから,「美しい」は,「日本」にかかるとも「私」にかかるとも解釈できる。「の」
という助詞も,英語のofに比べて使える範囲が広く,意味を限定するのが難しい。この場合は,存在
(例=京都の姉),あるいは所有の主(例:私の犬)と解釈して,「美しい日本に存在する/所属する私」
という意味だろうと推測できるが,もしかして川端先生は「日本に住む美しい私」といいたかったかな?
などと意地悪な連想も可能である(日本語には掛詞という伝統もあることだし)。
 川端についでノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は,受賞演説の題を「あいまいな日本の私」とし
たが,それは先輩への敬意を表する半面で,その題のあいまいさをやんわりと皮肉ったともいえるだろう。
■ 明快な日本語を書くために
 川端をひきあいに出したのは,大文豪を皮肉るためではない。留学生の日本語作文を直すときに,よ
く引っかかるのがこの点なのだ。基本的な日本語文法(動詞や形容詞の活用,受身や使役など)をマス
ターした留学生が,いちばんつまずくのは助詞である。「大学に入る」「大学で勉強する」「大学を卒業す
る」などの使いわけは基礎だとしても,その上のレベルになるとなかなか難しい。「に」と「へ」(東京に
行く,東京へ行く),「に」と「と」(作家になる,作家となる),そして「は」と「が」の違いは,時に
は私自身も考え込むほどだ。日本語を母語とする者にとっても,一筋縄ではいかないのが助詞である。
 あるいは,さきほどの川端の例のように,形容詞がどの単語にかかるかも難しい。留学生に教えると
きは,形容詞はできるだけ形容する単語に近づけるようにさせる。一般に,形容詞が多すぎたり,形容
の節が長すぎたりする文は,どこかで文がねじれてわけのわからないものになりがちだ。
 留学生の場合はもちろんだが,一般に相手に論理的に理解してもらおうという文章は,単純素朴とお
もえるほどに,ひとつの文を短くしたほうがいい。文学作品のように,一見脈絡がないかのように文章
を長くつないでいくのは,実は大変な技巧が必要なのだ。
一73一
日本語はあいまいか
 ひとつずつの文を明快に短めに仕上げたら,次には文と文とをつなぐ必要が出てくる。この接続が,
文として論理をきちんと通せるかどうかの要になる。
 じつは以前,外国の高校を卒業した帰国子女を教えたことがある。日本人なので話し言葉に不自由は
ないのだが,作文を書かせてみると小学生並みのものしか書けない。漢字を知らないので語彙が少ない
こともあるが,それより大きな問題は接続詞だと気がついた。彼女の作文を見ていると,「……で,……
で,……して……ました」と,えんえんと続く。接続詞というと,「それで」「けど」くらいしか登場し
ない。なるほど,日本語の話し言葉はこんなふうにだらだらと流れていくのだな,それを論理的に組み
立てるには,「しかし」とか「にもかかわらず」とか「ところで」とか,かっちりとした接続詞でつなぎ
なおすことが必要だと,あらためて気がついた。
 論文の初稿を書きあげたら,もういちど論理の流れをたどりながら,助詞と接続詞を点検してみよう。
順接か逆説か,話は続くのか転換するのか,理由を述べるのか詳しく説明するのかなど,頭の中で整理
しながら読みなおすと,自分の言いたかったことが,前よりはっきり浮かび上がってくるはずだ。私も
これからもう一度,自分の原稿を読み直すことにしよう。
引用・参考文献
1)山下洵子:「和文論文作りを通してコミュニケーションを考える」その1~その4,看護学統合研
 究1(1)104106,1999;1(2)57-59,2000,2(2)53-55,2000;3(1)73-76,2001.
2)高島俊男二『漢字と日本人』,文春新書,2001.
3)奥津敬一郎:「ボクハ ウナギダ」の文法,くろしお出版,1978.
一74一


    (以上です)

[ 本帖最后由 melanie 于 2008-4-8 22:27 编辑 ]
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发表于 2008-4-9 17:43:17 | 显示全部楼层

回复 15楼 的帖子

>blacksheep630さん、ありがとうございます。ひょっとしてパソコンの天才!?
そう言われると…天才かも~ハハハハハ~~~~~

それよりmelanieさんがいろいろ貼ってあけて、お疲れ様でした~
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