マトリョーシカ人形(ロシア語:Матрёшкаマトリョーシュカ、Matryoshka doll)は、ロシアの木製の人形。単にマトリョーシカともいう。
胴体の部分で上下に分割でき、中には少し小さい人形が入っている。これが何回か繰り返される入れ子構造になっている。入れ子にするため手は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。6重以上の入れ子である場合が多い。
それぞれの人形には女性像が描かれているのが本来のものであるが、大統領など有名人が描かれたもの、動物や絵柄など人間以外のものが描かれたものなど各種ある。
1900年のパリ万国博覧会で銅メダルをとったのを機会にロシア各地でいろいろなマトリョーシカが作られるようになり、ロシアの民芸品、みやげ物として知られるようになった。
ロシアだけでなく、ウクライナでも生産されている。ロシアのように、上記のような大統領など有名人を描いたものもあるが、特徴的なものとしてウクライナの民族衣装を着たもの、特にウクライナ・コサックを描いたものなどがある。
また、マトリョミンというマトリョーシカの形をした小型のテルミンも存在するが、一般的なテルミンより演奏の難易度は高いようである。
日本にもマトリョーシカ人形と同じ作りで、だるまなどの入れ子人形がある。起源はそう古くはないようだが、起源の元となるものはいくつか挙げられている。
日露戦争にまつわる説として、愛媛県・松山捕虜収容所のロシア兵が愛媛県の郷土玩具の一つ、姫だるまをまねて作ったという説。
1890年代半ば、モスクワ郊外に住む、S. I. マーモントフ夫人と画家S. V. マリューチンとザゴルスクのろくろ師V. ズビョズドチキンによってモスクワの工房<子どもの教育>で制作されたという説。
19世紀末、箱根にあった正教会の避暑館にやってきたロシア人修道士が、本国への土産に持ち帰った箱根細工の入れ子人形(こけし・だるま・七福神)がマトリョーシカのもとになったと言われている説。
なお、日露戦争は1904年から1905年の出来事であり、1の愛媛県のロシア人捕虜が持ち帰った説は、1900年にパリ万博で銅メダルを獲得したという事実と明らかに矛盾する。日本ユーラシア協会では、2・3の説を採用している(外部リンク参照)。 |