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文字
言葉と創造性
わたしたちは辞書に載っている意味をうのみにして、それをそのまま文脈の中にはめ込んで讀み進んでいってはならない。辞書的意味、他人の作った意味、昨日の意味、それを参考にして、それを橋渡しとして、今、目前にある生きた文、流れていく文脈の中で、読 者である自分ガ自ら意味を創造していくのである。新しい意味を作り出していくのである。
言語行動の所産である言語作品は、作者の精神・外界・言語の融合した一体である。
讀者は言葉の意味を言葉の中から受け取るのでなく、作品の一部として、そこに新生 意味を発見するのである。文脈の中で語意味を創造するといったのもその意味である。 語に限らず、文法も、段落も、文章全体も、すべて作品全体の中に生きている新しい意味 の発見であり、創造である。
言語作品の中における事柄も、これを外界の中に求めるのではなく、作品そのものに 求めなければならない。前に引いた芭蕉の句でいぇば、岩は外界にゴロゴロしている岩でなく、天地の靜寂に包まれた岩、蟬の声のしみ入っている岩、芭蕉の感動に包み込まれている岩でなければならない。蟬の声も同樣である。やかましく嗚いている他の場所 他 の埸合の蝉の声ではなく、岩にしみ入っている蝉の声、天地の靜寂、芭蕉の精神に包まれた蝉の声( )。 事柄は意味された事柄、 作者の精神がかかわリを持った事柄である。 事柄は決して外界そのものではない。精神と言葉との參加による創造物なのである。
作者もまた作品を離れて、これをとらえるべきではない。 作品を離れて外界の生物として眺めれば、芭蕉もまたそこらに碌碌として生きている生物にすぎない。
詩人としての芭蕉は作品の中でとらえてこそ、 詩人として存在しているのである。 それもどの作品も皆同一であるのではなく、一つの句は一つの句としてそれぞれ独立して生きているのである。ある新しい精神、創造された精神は、そういう独立した一つ一つの作品の中に息づいているのである。
さて読者は言語作品から何かを受動的に受け入れるのではない。作品にぶつかって、 讀者の中に、何かが触発され何かが新しく生まれるのである。まず文字が目に触れれば、 言語の音韻や意味が心の中に呼び起こされる。しかしそれは今まで経験してきた古い 意味でありだれにでも通用する一般的意味である。 けれども言葉を読む読者ではなく、 作品そのものに体当たリしていく読者であるならば、読者はその言葉の意味によって、その心に樣々なイメージを抱くであろう。そのイメージとはなんであろうか。ほかでもない読者自身が外界とかかわることである。読者は読者なりにそれぞれ経験による知識の体 系がある。言語の体系がある。世界觀がある。価値觀がある。 子供でも青年でも、その 時点において完成されている。つまり知識や言語財がばらばらに內蔵されているのではない。また世界を見る目、何らかの理想というものは、それはそれなりに必ず持っているものである。
芭蕉:松尾芭蕉、江戸前期文字 |
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