本帖最后由 okeyu 于 2009-6-20 17:18 编辑
我这里有两篇作文需要高手帮忙修改一下,主要改措辞以及语法错误就行了,最好第二篇能帮我加一点话进去,谢谢!
尊厳死を行うべきか
「尊厳死」というのは昔から、ずっと一つの複雑な話題である。それは医学問題だけでなく、現在、また社会問題になった。いろんな論理的な議論を引き起こしている。「尊厳死」はギリシャ語で、「苦痛がなくて、幸福死だ」という意味である。つまり、苦しさがなくて、死ぬことができるということである。たくさんの人は「命」が一番重要なものだから、「尊厳死」を行うべきではないと思うが、私は尊厳死を行うべきだと思う。
個人的から見れば、人は誰でも幸せにいきたいだ。でも、希望がなくて、死ぬ以外できることがない時、尊厳死を選ぶのは絶対に一番楽な方法である。普通、尊厳死を選んだ人は、重い病気にかかった人間であり、死ぬより別の解脱する方法がなかった。そして、全面的から言えば、尊厳死も一番幸せな死に方である。
家庭から見れば、家族たちは患者を毎日介抱しなきゃいけない。患者の苦しさをみて、親戚たちの体も心も非常に疲れた。しかも、現在の治療費は高過ぎて、一般的な家庭にとっては、ずいぶん重い負担である。もし、尊厳死を行うなら、患者の家族にも楽になり、よい解脱する方法だと思う。
国から見れば、重病人は国の資源を大量に使って、何もいい結果を出せなくて、結局国の大切な資源をすべてもったいなくなった。それは国の整体利益に対して、大きな損失だと思われる。尊厳死を行ったら、国の経済とか人口問題とか、少なくとも役に立つことがある。そして、それらの資源を利用して、ほかの多くの希望がある病人に救える。
私から見れば、「尊厳死」を選んだ人は大きな勇気が必要である。そんな困難な選択をした前に、きっと必死な覚悟をしなければならない。その人達は死ぬまで、ずっと人間としての尊厳を守っている。本当に感心させられる。
「尊厳死」という現象は、世界で、ものすごく普通の現象になった。ますます人達がその死に方を理解できて、納得できる。それは社会と文明の進歩のシンボルである。ですから、上記の理由に見ると、私は尊厳死を行うべきだと思っている。
自分にとってある忘れがたい出来事
今年の5月10日、年毎の「母親日」をお迎えてきた。その日、母親の育てた恩を返したいため、たくさんの子供はいろいろなプレゼントや手作りカードやきれいな花などを買って、母親に送った。私は、相変わらず「母親日」についてのニュスを見ながら、過去、ある珍しい記憶を思い出した。
それは私の高校時のことである。ある寒い朝、突然大雪が降っていた。道上に厚い雪が積もった。学校は家から遠いところにあるので、普段は自転車で学校に行く。しかし、その大雪のせいで、自転車もう乗らない。ほかの便利な交通工具もないし、時間も早く経つし、この頃の私はいても立ってもいられない様子で、道上に立っていた。見送ってくれた母親は、私のこんな焦る様子を見てから、「心配しないで、落ち着けよ」と言った。それで、すぐ道の中へいって、タクシーを呼んでいくつもりだった。しかし、先ほどの大雪でみんなはタクシーに乗って、出勤することを決めたみたいだ。大体のタクシーはもう乗客がいた。残ったタクシーはもう予約された。ですから、われらは長い時間がかかって、なかなか乗客がないタクシーを見つけなかった。私は絶望と感じた瞬間に、母親の諦めない様子を目の前に飛び込んだ。本当に感動させられた。つい泣いてしまった。私のために、母は一人ずつ運転者さんに聞き続き、ずっとタクシーを探していた。母に心配させたくないので、私はこっそりと涙を拭いた。結局、あの日、私は予想の通り遅刻してしまった。でも、私の心は今まで一度もないように大満足だ。本当に一番幸せな早朝である。
このことを通して、「母親が偉い」と言うことを始めてしみじみに感じていた。母親の至高の愛と育ては私の心によく刻んでいた。それは、私の一生を忘れがたい宝物である。 |