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[其他问题] 能不能介绍一些日本文学和文化的网站?

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发表于 2009-7-27 22:17:17 | 显示全部楼层 |阅读模式
能不能介绍一些日本文学和文化的网站?或容易搜索的网?谢谢
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发表于 2009-7-28 11:13:34 | 显示全部楼层
你和那个 ID须环王 的问题基本一让,你俩一个学校的阿!

http://www.z-plaza.com/html/contents3.html#3733
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发表于 2009-7-28 11:32:03 | 显示全部楼层
日本と中国の諺から見る
人生観・死生観について
黄 欣
0. はじめに
どの民族においても、人々は一生の間に色々な経験をし、そして多くの人々が同じような経験をすることがよくある。そのような経験は人間の歴史の発展とともに、多くの人々に共通する認識として定着し、諺の形式で次から次へと伝えられてきたことが多い。故に、諺は長い間にわたって多くの人々の生活経験の積み重ねから生まれた人生の知恵であると言えよう。諺は人間によって作り出されたものであるため、民族が異なっても諺に共通性を持っているものもある一方、各民族の歴史、地理環境、生産活動が異なるため、その民族の特性、文化の特色も諺に反映している。筆者は日本と中国の諺について、その表現および内容の面から分析し、日本と中国の文化の比較、日本人と中国人の特性の比較を試みているが、本稿では、その一部として、人生と死に関する諺を分析し、日本人と中国人の人生観・死生観の特色を探求していく。
1. 諺と人生観・死生観の関わり
日中両国の諺の共通点に関する先行研究の知見をまとめると、次のようになる。
①諺は民衆により作り出され、古くから伝承されてきた経験や知識を伝えるものである。
②諺は簡潔で通俗的であり、比較的定型性を有し、口語性が強いものである。
③諺の内容はその民族の歴史や風俗、文化と深く関わっているものが多い。
以上のように、日中両国において、諺に関する見解には共通点が多く存在している。諺は、その民族の歴史や風俗、文化と深く関わっているものが多いため、日中両国の諺から両国の人々がそれぞれの人生について、どのように考え
90 黄 欣
ているか、生と死をどのようにとらえているかという、いわゆる人生観・死生観を窺い知ることができる。
2. 日本人の人生観・死生観
日本には、
浮世は夢
人生は夢のごとし
人生は朝露のごとし
夢幻泡影
という諺がある。これらの諺から日本人の人生に対する考え方や生と死の捉え方を見てとることができる。「浮世は夢」、「人生は夢のごとし」は、この世や人生はすべて夢のようであり、はかないものであることを説いているが、「人生は朝露のごとし」は人生の短さを、「夢幻泡影」は文字通り、「人生は夢であり幻であり、泡であり影である」ということをそれぞれ説いている。また、
会うは別れの始め
生は死の始め
生ある者は死あり
生死不定は浮世の常
生は死の基 逢うは離れるの基
生は寄なり 死は帰なり
朝に紅顔あって 夕は白骨となる
冥途の道には王なし
黄泉路に老若なし
鯊は飛んでも一代 鰻は這っても一代
笑って暮らすも一生 泣いて暮らすも一生
のように生と死について語っているものが数多く存在している。「鯊は飛んでも一代 鰻は這っても一代」、「笑って暮らすも一生 泣いて暮らすも一生」は、身分や境遇に多少の差はあっても、人の一生は結局似たり寄ったりのものだという人生を達観した感慨を述べるものであり、「自分の生活になんとなく満たさ
日中の人生観・死生観 91
れないものを感じている人々のあきらめと慰めの言葉」1である。そして、「生は死の始め」、「生ある者は死あり」、「生死不定は浮世の常」、「生は死の基 逢うは離れの基」などの諺は、人の生と死ははかりがたいものであり、人間の力で変えられない宿命であり、生きているものは必ず死ぬということを嘆いているものであるが、「生は寄なり 死は帰なり」は、この世に生きているということは、仮に身を寄せているにすぎず、死ぬことは天地の本源に帰っていくことであることを述べている。これらの諺はいずれもは人生の無常を説いたものである。
無常という観念が日本にもたらされたのは、仏教経典を通じてであった。2 日本浄土教に金字塔を建てた源信(942-1017)の『往生要集』には『涅槃経』から次のような経文が引用されている。
一切のもろもろの世間に、生ける者はみな死に帰す。寿命、無量なりといへども、かならず終尽することあり。され盛んなれば、かならず衰ふることあり。合ひ会へば別離あり。壮年も久しく停まらず、盛んなる色も病に
浸さる。命は死の為に呑まれ、法として常ある者あることなし
佐藤(1977)が述べているように、無常はここでは端的に人の死を意味している。すなわち、「人の死を説こうとして、生きとし生ける者の命に限りがあること、盛んならば必ず衰えること、逢い会えば別離があることなどの諸事象が、その傍証として挙げられているのである」3が、やはり「無念の観念の核にあるのは、人の死である。事実、無常という言葉は、しばしば死と同義に用いられる。」4
日本の古典文学には無常に対する詠嘆がいくつか見出される。特に『方丈記』冒頭文の
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたるためしなし
は無常を語ったものとして名高い。この文学に現われている無常観は、上に挙げた諺にも反映されている。
渡辺(1974)によると、仏教は紀元前6世紀末にインドで成立し、インドの国内でも多くの変遷をとげたが、紀元前後に中央アジアに達し、紀元一世紀に
92 黄 欣
は〈絹の道〉と称せられる旅商の交通路づたいに中国に伝播した。その後中国から朝鮮半島を通り、日本にも伝えられていった。5 仏教は日本に伝来したあと、日本古来の伝統宗教を守ろうとする勢力物部氏と仏教推進勢力蘇我氏との戦いがあり、結局は蘇我氏が勝利した。当時、女帝推古天皇の甥であった聖徳太子は、天皇家に生まれながらも、熱心な仏教信者であり、各地の豪族間の争いを仏教思想を中軸に据えた国家体制で乗り切ろうと考え、摂政として日本の政治の舵取りをしながら、仏教と天皇制を両立させる道を見出した。その後、仏教は日本の公式宗教となった。
日本に伝えられた外来思想として、道教や儒教はいろいろの形で日本人に多くの影響を及ぼしたが、近代西欧文化の民権思想とキリスト教も日本の旧体制を変えるのに影響を与えた。しかし、「外来思想のうちでも、もっとも長期にわたり、もっとも広い範囲に影響を及ぼしたものは仏教であった。」6 また現在でも、日本では仏壇を構えている家庭が多い。お葬式は仏式で行うというところに、伝来宗教である仏教が日本人の生活に大きな影響を与え続けていることが窺い知れる。このことは日常生活から生まれた諺にも反映されていることが上に挙げた諺から窺える。日本の諺に人生の短さや無常をはかなむ諺の多いのは、やはり仏教思想の影響であり、真の幸福がこの世ではなくあの世にあるという考えに由来するものと言うことができよう。また、日本には、
つらい娑婆より気晴れの浄土
という諺がある。これは、この世の苦しさを語っている諺であるが、諺に現われた「娑婆」、「浄土」はいずれも仏教用語である。「娑婆」とはサハー(saha)の音写語であり、意味は忍である。つまり、現実の人生は苦難を堪え忍ぶ世界ということであり、娑婆世界と称されたのである。人生はつらくてはかないものであるから、晴れ晴れしていると思われる死後の世界にあこがれるという人生観・死生観が窺える。
人生はつらくてはかないものではあっても、人々はやはり生命に対する本能的な執着を持っており、生命の価値を重んじている。
命は宝の宝
命あっての物種 畠あっての芋種
日中の人生観・死生観 93
命と綱は長いがよい
死ねば死に損 生くれば生き得
死んで花実が咲くものか
死ぬ者貧乏
死にたる人は生ける鼠に及かず
死しての長者より生きての貧人
死ねば一巻の終わり
などの諺は、このような考えを表明した諺である。人生は長くはない、はかりがたいものであり、生は必ず死によって終止符が打たれ、そこで終わりになるが、「死ぬのは損」、「死んでしまえば何もない」ので、人間はやはり生きているほうが得、という人間が本能的に感ずる素朴な気持ちおよび生命に対する執着が述べられている。
また、
花は桜木 人は武士
という諺がある。これは桜の花と武士の散り際のいさぎよさを語る諺であるが、この諺は価値観を表わすものであると同時に、人生観・死生観をも表わしている。
桜の花について、
桜は、常なる理想世界の現世における具現である。……桜の花は、華やかであるからこそ、つまりその本質において常なる理想世界の一部であるからこそ、逆に現世の有限性を、つまりその無常をもっともあざやかに人びとに思い至らしめるものなのである。人びとは、桜が散ることのなかにこの世の無常が映し出されるのを観た。7
桜の花の散ることへの嘆きは、眼前の対象を惜しむのみならず、桜の花に対している処のおのれ自身の有限性への嘆きの色合いを濃く滲ませているのである。8
と、佐藤(1977)は述べている。人生も、咲いたと思うとすぐに散っていってしまう桜の花のようであり、はかないものであるという人々の嘆きがこの諺に
94 黄 欣
も見られる。
武士道については、『葉隠』に「武士道と云うは、死ぬ事と見付たり」がある。すなわち、武士としてはいつも死の覚悟を持たなければならず、また、このような武士道の死生観を持つことは武士としての必須要素である。故に、「いさぎよく死ぬべし」という死に対する考えは、武士道の核心になっている。一般庶民の死生観の代表とは言えないが、「いさぎよさ」と「あきらめのよさ」を追求する日本人の諦観が窺える。また、日本の歴史において武士道文化が一つの重要な存在であることは言うまでもない。
3. 中国人の人生観・死生観
中国では古くから存在している儒教、道教思想は、伝統を重んじる中国人の考え方や行動を支配してきている。特に儒教は中国思想の主流であり、中国社会に対する絶対的な影響力を維持してきている。儒教における人生観・死生観に関する考えは、孔子の次の言説が最も代表的なものである。
未知生、焉知死(未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん)『論語・先進』
「生のことが分からないのに、どうして死のことが分かるのか」という意味であるが、この言葉から「死というような人間が定かに知ることのできないもの、人間の力でどうすることもできないもの、に心を悩ますより、この世の生の問題の解決に全力を注ごうとする姿勢がそこに見られる。さらに……生の意義を知る者のみが死の問題について正しい認識をもち、すぐれた身の処し方ができる」9とする思想である。すなわち、死の意義は生のなかにしかなく、生の価値を知ってはじめて死の意義が分かる、ということである。孔子の生死の問題についての基本的な考えはその弟子たちにも受け継がれた。例えば、
死生有命、富貴在天(死生は命有り,富貴天に在り)『顔淵』
という子夏の言説がそれであり、中国人の運命観を語っている。運命観は中国人の思考習慣に多大な影響を与えた儒教の伝統的な認識でもあると言うことができよう。運命観といえば、中国には「天」や「運命」、「福禍」に関する諺が数多く存在している。例えば

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/b ... /kokin3.pdf#search=日本人と中国人の人生観'
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