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本帖最后由 Chocolate-S 于 2009-10-19 14:30 编辑
日本人にとって①山は山以上のものであった。山を見ながら、人は自然の懐に抱かれている人間というものの存在のありかをはっきりと自覚することができた。(一方)、国破れて山河ありというとき、山河にいつもかわらぬ、共同体の帰属する心の故郷を持つことができた。
对于日本人来说,山的意义远不只山本身这么简单。人们观赏着山时,才能够清楚的意识到能被大自然怀抱才能称得上是人。另一方面,国破山河在时,山河还是一如既往众心所向的故乡。
自然破壊は、自然の生態系を破壊するばかりではない。③近代科学的な自然保護、そのような自然観ばかりが先行すると、文化としての自然をないがしろにすることになる。
自然受到破坏时,不仅仅是自然的生态系统遭受破坏。近代科学的自然保护,往往只趋向于这种,而乎视了不该乎视的自然的文化面。
たんなる地質学的な山や植物学の標本のような自然は、いわば、(自然の断片である)。どこまでいっても、利用される素材としての自然をこえるものではない。よりよく、末ながく有効に利用しようという配慮いがいの何物でもない。そこで、自然を愛そうといい、あるいは、大切にしましょうといっても、究極的には(利潤追求)という生産社会の論理をあてはめているにすぎない。
单独说地质学性质的山和植物学的标本这样的自然,可以说是自然的片断。不管发展到什么程度只能是发现可被利用的自然。。。。意外的是担心能被有效利用的东西完全没有。因此,说是自然的态度也好,还是说重视,都只是追求利润的生产社会的争论而已。あてはめているにすぎない?? =あては+ めている+にすぎない??
山が山以上のものであるということ、文化としての自然があるということは、自然が人間の精神文化の充実にかかわっているということである。個人はもとより、山を仰ぎみる共同体の意識の形成、感性の熟成、歴史観の成立に、山がふかくかかわってきたし、今後もそのようなものとして人間の目に見えない、いわば⑥第二の自然を形づくっているということである。私たちが、産業社会の論理に行き詰まったまま、そこへ帰ってゆくことによって、見失われた日本人の根拠とのつながりを、心の奥ふかく抱いている奥ふかい真理への愛や、故しれぬ超越者なるものとのつながりを見出す途でもある。それをひろく、宗教的な情緒といってもいい。このような感性は、山を仰ぎ見、先人のさまざまな思い入れをしのぶとき、今日でも、私たちのうちに甦ってくる。
说山的意义远不只山本身这么简单,自然具有文化的一面,都是因为自然能够充实人的精神文化。对于个人更不用说,仰望河山就能形成共同体的意识,感性的练成,历史观的建立都与山有着深远的关系。。。。。。。。。。。(最后一段好难啊,译不下去了。。。。)
以上,谢谢提出意见~ |
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