男はしだいに雄弁になっていった。かれはそれに押しまくられていた。それはたいせつなことかもしれない、それは≪鳥たち≫がおれ独自のものかどうかを定めるだろう、とかれは考えたが男のことばに乗ってゆくことにためらいを感じてもいるのだ。そこへ母親がとびらの向こうから頭をのぞかせてふいに声をかけた。
「あなた、それをやってみたら?」
「あ?」とかれはびっくりして言った。
「お兄さまたちがいらしたら大反対なさるだろうけど、もしあなたがやりたいんだったら今がよい機会よ。」
そのことばが彼の心を硬化させた。かれはその試みに頭からすっかりのめりこんでしまった。(のめりこむ:[体が]向前倾,[心が]陷入,跌入)あいつらにおれのいやらしい兄きどもに口出しさせてたまるものか、おれは試してみたいんだ、と彼は考えた。
「やってみますよ。」とかれは男を見つめて力強く言った。「あなたのご研究のためでもあるんだから。」
かれは久しぶりに学生服を着込み、むつかしい作業のようにさえ感じられる困難さを克服して、これら久しぶりのかびの生えた靴をはいた。部屋に閉じこもってから足が太ったのだ、とかれは陽気に考えていた。
玄関の前に荷物を運搬するためにつごうのいいように後部を改造した乗用車が止まっているのへ、かれは男に導かれて乗り込んだ。母親が思いつめたような目をして見送っているのが少しおかしい感じだった。それに、雨もよい(雨もよい:今にも雨の降りそうな様子)声の雲が閉ざしはじめた空からの光が、長患い(わずらい)のあとのようにかれをくらくらさせ、足のぐあいもふらついて少しおかしいのだった。しかし車が走り始めるとともに落ち着きがかれに回復した。座席に深くかけたかれの項(うなじ)や背に鳥たちのためらいがちな接触が感じられ、それはたちまち数を増やした。かれは喜びの感情、いくぶん(幾分:一部分,一点儿)勝利のにおいのする喜びの感情に捕らえられて身震いした。
「鳥たちがやって来ましたよ。ぼくのまわりに鳥たちがやって来たところです」と彼は男にささやきかけた。
男は厳しい横顔(よこがお:侧面侧脸)をかれに向けたまま運転に熱中していて、かれの呼びかけに反応を示さなかった。しかしかれはそれを気にかけないほど、自動車の中での鳥たちの到来を幸福に感じていたのだ。鳥たちは、おれ自身に属しているのだ。おれはどんな遠い国へ追いやられても一生、孤独を味わわないで済むだろう、それはたしかなことだ、とかれは考えた。
鋪道(ほどう)を男たちや女たち、それに子供たちが歩いていた。そしてかれはそれらの人々をいくぶんこっけいに感じるのだ。これらの人間どもは≪鳥たち≫を持っていない、しかもそれを不安にも思わないでわき目もふらずに歩いている、なんということだろう。かれはいま自分が≪外部≫に対して強い圧迫を加えることのできる加害者であるような気がした。≪外部≫は相変わらず他人のにおいに満ちているが、それはいま弱弱しく萎縮(いしゅく)していた。数々の他人を家来(けらい)にしている王のようにかれは他人たちの前でおびえなかった。(怯える)
車は長い道のり(道のり:路程,距离)を走りつづけ、そのうちかれは明るい戸外を見ることに疲れてしまった。うとうとする。車が止まる、がっしりした腕がかれの肩をつかまえる。目を覚まし、かれは自分が汚らしい木立(こだち:树丛)に囲まれた病院の構内へ入っていることに気づいた。
「早く降りてくれ。」とまったくおうへいな(横柄:傲慢)口調に変わった男の声が言って、かれをびっくりさせた。
「あ?」とかれは男の荒々しい腕に車の外へ引きずり出されてからやっとの思いで言った。「ここはどこです。」
「おれの研究室があるんだ。」と男は冷淡に言った。「そういったはずだろ?」
上塗り(うわぬり:沫上最后一层)のされていない壁の根に背をもたせかけひざを抱えこみ、目を凝らして日のかげった(陰る)塀のすみを見つめながら震えている男の子どもをかれは見つけて胸を締め付けられた。動悸(どうき:心跳,心悸)が激しく打ちはじめ、自分の頬が怒りよりもむしろ狼狽に紅潮してくるのがわかった。
「ここは、あんたの言った場所じゃない。」とかれは足をふんばって(踏ん張って)、てこ(固执)でも動かないという構えをしてから言った。「ここは気違い病院だ。」
「そうだよ、それがどうした。」と男はせせら笑って言った。「ここへ入ってもらうというだけだ。」
「おれは入らない、卑劣なやり方で入れようとしてもその手にのるものか。」とかれは怒りに体じゅうを占領されてしまって叫んだ。
「もう入ってるんだ。」と男は言い、やにわに(突然,立即)かれの腕をつかまえようとした。
かれをそれを振り払うと、男はゆっくり背をかがめ、そしてかれのみぞおち[みぞおち(鳩尾):胸口,心口]へどんと響く一突き(ひとつき)を押し込んできた。かれはうめき声をあげ、涙を流して背を二つに折り曲げようとしたができなかった。男がそれにかまわずかれを突き飛ばす勢いで病院の裏口らしい場所へどんどん連れ込んでいったから、痛みをたっぷり味わう暇さえないのだ。
引きずられるかっこうで階段を上り、廊下のすみでふいに計量器に乗せられ、ひとあばれしてそれを降りると、すぐ前のドアを開いた男が、有無を言わせずかれをその中へ押し込んでしまう。
「そのいすに座れ。」と男が言った。
かれはいすに座りたくなかったし男の命に反抗したかったが、男の強力な一突きでかれにはいすの上へ落ち込むほかにしかたがなくなってしまうのだ。そして悪いことにかれはおびえはじめていた。
「不平がましい(接尾,その物事や状態に似ている意を表す)顔をしないで長いすの上の服と着替えろ。」と男が言った。
かれはうつむいてくちびるをかみしめ、男のことばを無視した。男はいまいましそうに(忌々しい:可厌,可恨)歯をかみならし、かれを見つめている様子だった。そして黙り込み、じっと待っていた。かれは断じて服を着替えない決心をした。
「おまえはなにをうらめしそうにしているんだ。」としばらくたって男が言った。かれは沈黙し肩の震えをとどめるむなしい努力をしていた。
「おまえのおふくろや兄きたちも承知している。おまえはここで病気を治すんだ。」
沈黙。そしてかれのいらだたしい(急躁)腹立ち(愤怒)。
「鳥たちが体のまわりにいるだって?つまらないことを言う暇に頭の治療をさせていろうというんだ、おれの言うことを聞け。」
かれは頑強に黙っていた。
「おれも、おまえの家族もおまえをペテン(うそをついて人をだますこと。また、その手段)にかけたが、それはしかたのないことだ。それも、けっきょくはおまえのためじゃないか、いやがらせをできる義理じゃないだろう。」
かれの返答を待ちくたびれて、ふたたびいらいらした声で男はしゃべりはじめ。
「なあ、鳥だなんておまえ…」
かれはそれを聞こうとしなかった。男もまたしばらくすると口をつぐみ(闭口不谈)、かれと同じく沈黙してしまう。そしてもうかれと男の間にはつい先刻の親しみは毛頭(もうとう:丝毫,一点也)残っていなかった。
男とかれとは向かいあったまま黙りこんでじっとしていた。部屋の外から時々人間の声には違いないが、まったくどのような動機によって発せられるのかわからない、奇妙な叫び声や笑いに似たかん高い声、震えを帯びた声が伝わって来るのだった。とびらのすぐ外の廊下をひそひそ秘密めかしたやり方で話し合いながら過ぎて行く者たちもいた。院内で風紀が乱れるということはいったいどういうことなんでしょう、どういうりょうけんの人たちがいるんでしょう?私たち頭を治さなければならないじゃありませんか。それから、それから、風紀も何もそれからなのよ。
男が誘いかけるような目でかれを見つめたが、頑強にかれはそれを無視した。かれは男に一時間以上も一言も口をきかないで、誘いかけを跳ね除け続けていたのだ。男に対して話しかけるつもりはまったくなかった。かれは男に腹をたてきっていた。そして自分自身については深く絶望しているのだった。おれはこの汚(きたな)らしい水色に塗りたくった低い天井のある部屋から、この気違いどものうようよいる病院から、けっして抜け出すことはできないだろう、とかれは考えて身震いした。かれはここへ閉じ込められてしまって、長いあいだ気違い扱いされながら、この屈辱(くつじょく)に満ちた生を続けてゆかなければならないのだ。かれは、目の前にむっと(心头火起;憋得慌)黙りこんでタバコを吸いながら視線をリノリュームの古びた(陈旧,变旧)床に落としている男から意識をそらせるために、≪鳥たち≫を呼び寄せようとした。しかし≪鳥たち≫もすぐにはかれのまわりにやって来ないのだ。ごく存在感の希薄な(きはく)貧しい鳥が二羽ほど現れるのに長い時間がかかったが、いったん現れたとなると、今度はその鳥自体がかれにしらじらしいむなしい感情を引き起こした。それはかれを慰める(なぐさめる)どころかいらいらさせ屈辱感さえ呼び起こすのだ。 |