私は町の自転車屋というものがいまだに一軒として店をたたまず、それどころか大いに繁昌しているらしいのが不思議でならなかった。色とりどりの正札のついた最新型の自転車が彼等のショーウインドーにずらりと並んでいるのを横目で見ながら、私はあんな物を売りつけられないでも済む方法をみつけたつもりでいた。その方法によれば、私の家では向う十年でも二十年でも一台の自転車も購入せずに済ませられるはずであった。というのも――よその土地のことは知らず――私が住んでいるこの海辺の町では、未だ十分使用に耐える自転車を道ばたに遺棄することが流行りだしていたからである。
この地区の「粗大ゴミ」集合所に指定されている近所の原っぱに行くと、自転車ならスクラップ並みの古いのからほとんど新品同様のまで、大人用から小児用まで、あらゆるタイプとサイズの自転車が何台も捨ててあった。同じ土地の住民である私はその果敢な捨てっぷりに一驚し、このように急激に、集団的に自転車が不用になる場合について思いめぐらさざるを得なかった。念願の自家用車に取って代られたのか、引っ越しの荷厄介になるので処分して行ったのか、それとも新しい自転車に買い替えたのか。それにしてはまだろくに乗った形跡もない新品がまじっているのはどういうわけか。
应该是2楼的意思 |