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総合的批評 [編集]
柄谷行人は1980年代に、村上の作風を保田與重郎などに連なる「ロマンティック・アイロニー」であるとし、そこに描かれる「風景」が人の意思に従属する「人工的なもの」だと喝破し[36]、また渡部直己は村上の語りを「黙説法」と呼び、その作品が自己愛の現れに過ぎないものと論じた[37]。蓮實重彦は村上の小説を「結婚詐欺の小説」と断じて一顧だにせず[38]、松浦寿輝は「言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパッっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか」[39]としてその文学性に疑問を呈している。
加藤典洋、川本三郎らは村上を高く評価、それぞれ自著で村上の各作品を詳細に論じており、 福田和也は『「内なる近代」の超克』で称賛し、『作家の値うち』では夏目漱石以降で最も重要な作家と位置づけ、『ねじまき鳥クロニクル』に現役作家の最高得点を与えた[40]。内田樹は、多数の批判者を「村上春樹に対する集団的憎悪」と呼び、自著『村上春樹にご用心』の中で、村上を高く評価する一方で、蓮實重彦、四方田犬彦らに反論している。ほかに竹田青嗣、柘植光彦などは肯定派である。
斎藤美奈子はプロットの展開を「ロールプレイングゲーム」になぞらえ、「村上春樹をめぐる批評ゲームは『オタク文化』のはしりだった」と評している[41]。さらにしばしば村上龍と対置されることについて「もし龍か春樹のどちらかが『村上』じゃなかったらどうだったのか」「村上春樹が村上春子という女性作家だったらどうなるのか」「村上龍と対比されるべき対象は、村上春樹ではなく、田中康夫であってもよかった」とも述べている[41]。
田中康夫は村上の作風について、「『女の子は顔じゃないよ。心なんだよ』といった小説好きの女の子を安心させる縦文字感覚」「彼のエッセイは、常に『道にポンコツ車が捨ててあったから、拾ってこようかと思った』という内容」[42]と評する。また『ノルウェイの森』が出版され大ベストセラーになったとき、田中は「自らは安全地帯にいる」「大人の世界の約束事がわからないままに物語が進んでいく」と述べており、日本の外交姿勢等と絡めて、村上礼讃の現況に一石を投じている[43]。
村上春樹本人は自身の小説について、「丁寧に保存された真空管アンプ」のようなものであると述べている[44]。
個別的批評 [編集]
上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子『男流文学論』では『ノルウェイの森』が議論となり、ワタナベ君というのは気持ち悪い、「やれやれ」と言いながら舌なめずりしている、と言われ、渡辺みえこは[45]『語り得ぬもの: 村上春樹の女性表象』で[46]、レズビアン少女の描き方が差別的だと論じている。 また、小谷野敦は「巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか」[47]とし、また「白色テロル」[48]であるとして春樹とその女性観に共感をもてなかった。
小野正嗣は『1Q84』を『読売新聞』紙上で絶賛した。
壁と卵 [編集]
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