聖なる玉器9 u6 W! Y% }# A/ p- b
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はるか昔、人々は石器を使っていたごろ、石の中で美しい輝きをもつものは玉と呼ばれる、やがて神秘的な力を持つものとされるようになりました。悠久の中華文明とともに受け継がれた玉の造形、その源流は6000年前に遡ります。- ~0 E6 w# n9 `- H+ W1 f
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(紅山文化の時代)8 Q2 Q; s' T) s. K
, Y. q! q9 H/ h' x. ]# u玉勾雲形佩、幅19センチ、いまからおよそ6000年前、中国の東北部に栄えた紅山文化の玉器です。雲とも、鳥とも見える造形、その意味は今もって謎のままです。この玉器は死者の胸の上に置かれていました。
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5 Y7 m, D- s; g& K; v玉鳥、長さ8センチ、これも今からおよそ6000年前に作られた鳥を模った玉器です。
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# [ e1 l3 P3 H1 C( e紅山文化の玉器には鳥の造形が数多く見られます。大空を飛ぶ鳥は神の使えとされました。8 B2 j& x9 b7 U
0 j# ^5 Z. j% ]# i玉獣形玦、長さ15センチ、玉の装身具です。この造形は最も古い竜の形の一つと考えられています。竜は天と地を結ぶ動物、後には皇帝の象徴とされ、中華文明を代表する紋様となりました。その竜の原型は遥か6000年の昔に生まれていたのです。" q6 l+ J5 D' V6 `
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玉器、それは天や神に係わる神聖な造形でした。8 o% Z5 ^) q' B
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' s3 x/ F4 J$ X, {: z% j(良渚文化の時代)
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* x7 _8 c( e2 u6 c紅山文化とほぼ時同じくして南の長江流域では良渚文化が興っていました。これはおよそ5000年前の王の墓です。王の遺体の周りから、大量の玉器が発見されました。王は日本の九州ほどの地域を支配していました。初めて国が誕生したこの時代、玉器は新たな意味を持つようになりました。/ _# r: q. u) \5 i3 E
* ^- A5 f( j* u: n4 T5 x& Q4 z玉壁、良渚文化で作られた直径22センチの玉器です。丸い形と丸い穴、天を模ったこの玉壁は富の象徴でもありました。王はこの玉壁によって経済の実権を握っていることを示しました。3 f2 L( ~8 \# S0 T0 a
3 f/ ?& C9 F3 h玉淙、同じく良渚文化で作られた高さ47センチの玉器です。四角の形は大地、丸い穴は天を表します。この玉淙を持つものこそ、神の意思を地上に伝える王でした。玉淙は政治権力の象徴と考えられています。側面には抽象化された幾つもの顔が飾られています。これは神、または祖先と意味するとされています。王はこの玉淙を使って、神をまつる儀礼を執り行いました。
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! |2 ]) O" [3 n8 U玉鉞、長さ16センチ、鉞とは鉞のことです。武器を模ったこの玉器は軍事統帥権の象徴だと考えられています。
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% _+ u" F0 }3 O }1 t玉壁、玉淙、そして玉鉞、この三つの玉器は政治、経済、軍事を束ねる王の権力の象徴でした。- P3 @- \" u* n0 j/ I- C2 P0 t' r7 u
; a- t; w# }. s; J しかし、繁栄を誇った良渚文化はおよそ4000年前、大洪水によって消え去ったとされています。
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# d. c2 z {' V" ~(殷の時代)5 s: m9 D( t9 }' t* h
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今世紀初頭、殷墟の発掘でそれまで伝説の王朝とされてきた殷の実在が証明されました。殷はおよそ3700年前に成立した国でした。この殷墟から大量の玉器が発掘されました。一つの墓から750件もの玉器が見付る例もありました。殷の時代、儀礼のために青銅器が大量に作られました。しかし 玉器は青銅器よりも尊いものとして重んじられたのです。
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殷の玉器、玉龍、長さ6センチ、竜の形の装身具です。紅山文化で見られる竜の形とよく似ています。殷は北の紅山文化や南の良渚文化の影響をうけた国でした。やがて竜は黄河を象徴するものともなりました。3 d; M- c" j- Y- b
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玉鳥紋佩、長さ11センチ、この玉器に彫られている竜の形は南の長江流域で生み出されたものとされています。この玉器は儀礼の時に使われたものと考えられています。殷はすべてを神に問い、神の判断に委ねる国でした。絶大な力を誇った神政国家殷、しかし、紀元前1000年ごろ、殷は滅亡しました。7 m1 o# i1 i! F Z
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(周の時代) X) I+ t5 [( z
$ o7 Y) U/ _& a1 I& Q' R殷に代わって中原を支配したのは周です。周は玉器など殷の宝物を引き継ぎました。
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3 n. H* Z" i3 Z/ B0 |. ~. Z斧を模った玉器、人面紋圭、長さ25センチ、玉圭は殷の時代、神をまつる儀礼の道具として用いられました。周の時代になると、天下を治めるため、王は諸侯に位を与え、その証として、玉圭を授けました。位の高さによって形や長さが決められました。周の時代、古の玉器を集めることは王朝の権威を高めることでもあったのです。王が執り行う儀礼に際しては諸侯は玉圭を携えて臨みました。+ L, U6 O) x( e2 b. E
& Q l: g" o* ~4 w3 \- f) s1 N春秋戦国時代の玉器:白玉双竜首璜、長さ12センチ。この時代になると、玉器には美しい文様が刻まれるようになりました。装身具として用いられましたこの玉器には2頭の竜と2頭の虎が刻まれています。- j q* t) a8 j1 N, d& [
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孔子は玉の持つ温かみや潤いが君子の徳に通じるとしました。群雄割拠の時代、諸侯は天下の覇を唱えるに相応しい徳を身につけようと美しい玉器を競って求めました。
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; @/ r; j s' J: V7 y: l 厚さ3ミリ、直径12センチの春秋戦国時代の玉器、白玉龍鳳雲紋璧、天をまつる玉壁は数ある玉器の中でもっとも価値のあるものでした。地上から天へ昇る通り道とされた中心の穴には今まさに天に昇ろうとする竜が彫りこまれています。名のある玉壁一つを手に入れるために15の城と交換しようとした諸侯の話が残されています。優れた玉壁を持つものが天下を制すと信じられたのです。$ K7 Q9 J/ ? a ]6 d
7 g' Z$ k" P5 X; j(秦漢の時代)8 |) ]0 t" S+ }- O' x) L
4 A* L! t9 x5 G2 w5 C! ?長い戦乱の時代は紀元前3世紀、秦の始皇帝の統一によって幕を下ろしました。秦、そして秦を引きついた漢の時代、玉器には新しい時代の息吹が吹き込まれました。9 {7 X7 F* z" _* q
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秦の玉器、玉騎馬図飾、長さ13センチ、馬を駆る男たちの姿を写した玉器です。この時代、躍動する人間の姿が初めて玉に刻まれるようになりました。新しい時代の到来を告げる玉器です。# o; j, U# K4 L( X. R
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漢の玉器、玉剣飾、直径6センチ、剣の装飾品として作られた玉器です。この玉器には3頭の虎が刻まれています。虎は古より神聖な動物とされてきました。剣を飾る玉は剣の華麗さや高貴さをきわたたせるものでした。美しい玉で飾られた剣を持つことは身分の高さも示しました。
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漢の玉器、玉辟邪、長さ10センチ。辟邪は神仙の世界の架空の動物で、翼を持った獅子の姿をしています。神仙思想が広まった漢の時代、魔除けの玉器が作られました。皇帝や貴族たちは魔除けのために、こうした辟邪を身近に置きました。( V! Q3 W% N" U
* O& \& s3 Q6 h: o" B同じく漢の玉器、玉角形杯。高さ18センチ。漢の時代の作られた玉の酒付きの傑作とされています。酒付きには竜が刻まれています。竜の文様は皇帝だけが使うものとされ、やがて皇帝そのものを象徴するものとなりました。漢の時代、玉には不老不死の力があると信じられました。皇帝は玉で作った酒付きで酒を飲み、不老不死を願ったのです。やがて、玉を刻んで食べると、不老不死の仙人になれると信じられるようになりました。そうした時代の玉器はほとんど残されていません。それは人々は玉器を食べてしまったからだという説もあります。玉器はますます神秘的な力を持つようになっていたのです。
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3 ]/ ~% L2 s6 i7 M七世紀、世界帝国唐の時代、シルクロードを通じて、西域とさかんに交易が行われるようになりました。西域からもたらされた文化がやがて玉器のデザインや役割に大きな変化をもたらしました。
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白玉飛天佩、長さ7㎝、飛天を模った玉の装身具です。飛天はキリスト教の天使が仏教文化と交わって形作られたものと言われています。飛天のまとう衣が見事に表現されています。この飛天は西域との交流が生み出した新しい造形です。/ q2 Q* b" n, E1 o' M" }4 q
" y3 T6 a$ ?2 R( D同じく唐の玉器、白玉蓮花杯、高さ6センチ、蓮の花は仏教に関りの深い文様です。# {$ c% W% S* v5 `4 t6 J1 ^
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唐の時代以後、玉は身近なものにもよく用いられるようになりました。0 W# M; V$ b r. B5 f0 O' C
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宋の玉器、玉荷葉筆洗、長さ15センチ、蓮の葉を模ったこの玉器は筆を洗うための文房具です。細く浮い出た蓮の葉脈。玉の塊を穿ち、繊細な彫刻を施して、枯れて丸くなった蓮の葉を表現しています。宋の文人たちは文房具を「文房四宝」と呼んで大切にしました。宋の時代、文鎮などにも玉が多く用いられました。
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5 U7 j2 V4 W$ o4 n# o( f躍動する竜の文様、そして細密な透かし彫り、この玉器は中国の北方に興った女真族の国、金で作られました。12世紀、金が北宋を征服して連れ帰った職人の手になるものと考えられています。8 |6 }: E' X& Z+ a# c
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玉鏤空竜紋盤、直径26センチ、宋に代わって中原を支配した金も漢民族が聖なるものとしてきた玉器を尊びました。金は皇帝の象徴である竜の文様も取り入れました。中華の覇者たらんとした金で作られた竜の玉器です。北方の異民族にも玉の文化は中華の伝統として受け継がれていきました。+ C6 D$ }! Y# F. m/ j' V1 a5 |9 ?
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最後の王朝、清の皇帝が君臨した紫禁城、清は中国東北地方の少数民族満州族が打ち立てた王朝です。清の皇帝は王朝の正統性を示すため、歴代王朝が受け継いできた文物の収集に取り組みました。
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玉鷹文圭、長さ31センチ、清の第六代皇帝乾隆帝が収集した玉器の一つです。古希天子の文字は古希を迎えた乾隆帝が刻ませたものです。乾隆帝は古より歴代の王朝に尊ばれてきた玉器の収集にとりわけ情熱を注ぎました。乾隆帝のそうした思いがこの玉器には刻まれています:「文物を受け継ぐのは古の王朝殷、周以来の定めである。この玉を手にする時、私は古の王に思いを馳せる」。乾隆帝はこの古の玉器を持つことで王朝の永遠の繁栄を祈りました。
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T$ ~1 m6 ~) J) a! r0 _2 s玉器、それは6000年のの昔から、連綿と受け継がれてきた神聖なる造形なのです。$ G3 k) Y5 F/ x0 \8 q2 U' Q. j h
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