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发表于 2005-1-8 19:48:04
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巻 第 三
赦文(ゆるしぶみ)
治承二年正月七日、東の空に彗星が出た。
入道相国の娘、建礼門院(そのころは中宮)が懐妊したが具合がよくない。
もののけが取付いていたと言うことだ。正体の霊は、讃岐院宇治悪左大臣頼長、新大納言成親、西光法師、鬼界が島の人々の生霊。
太政入道は死霊も生霊もなだめられるべきだと、讃岐院には追号崇徳天皇。宇治悪左府には正一位を贈った。
小松殿は「中宮の苦しむことは成親卿の死霊のためなどと聞いています。それをなだめるためにも丹波少将を召し返すのがよろしいでしょう。」と入道相国に言った。「それでは俊寛と康頼法師のことはどうだ。」と入道相国がいうと、「両人とも召し返されるのがよろしいでしょう。」と小松殿は答えたが、入道相国は「俊寛は私が世話をしてやって一人前になった者なのに、けしからんふるまいをするのは許せん。」いうことで、丹波少将と康頼法師だけが許されることとなった。
入道相国の赦免状を持った使いは七月下旬に出発し、九月二十日ころ島に到着した。
足摺(あしずり)
使いの円左衛門尉基康が届けた赦免状には、何度確かめても俊寛僧都の名前はなかった。俊寛は舟に仱护皮欷毪瑜Δ死Rり返し懇願したが聞き入れられることはなく、俊寛を残し成経と康頼入道は出発した。
御産(ごさん)
治承二年十一月十二日、中宮が産気づいたので京・六波羅は大騒ぎであった。法皇、関白、太政大臣、公卿、殿上人は六波羅にくる。神社には奉納する。諸寺はお祈りする。入道相国と二位殿なうろたえる。そして皇子が生まれた。
公卿(くぎょうぞろえ)
御産に際して六波羅にきた人は三十三人。
関白松殿(基房)、太政大臣妙音院(師長)、左大臣大炊御門(経宗)、
右大臣月輪殿(つきわとの)兼実、内大臣小松殿、左大将実定(さねさだ)、
源大納言定房(さだふさ)、三条大納言実房(さねふさ)、五条大納言邦綱(くにつな)、
藤大納言実国(さねくに)、按察使資賢(すけかた)、中御門中納言宗家(むねいえ)、
花山院中納言兼雅(かねまさ)、源中納言雅頼、権中納言実綱(さねつな)、
藤中納言資長(すけなが)、池中納言頼盛(よりもり)、左衛門督時忠、
検非違使の別当忠親(ただちか)、左の宰相中将実家(さねいえ)、右の宰相中将実宗(さねむね)、
新宰相中将通親(みちちか)、平宰相教盛(のりもり)、六角宰相家通(いえみち)、
堀河宰相頼定(よりさだ)、左大弁宰相長方(ながかた)、右大弁三位俊経(としつね)、
左兵衛督成範(しげのり)、右兵衛督光能(みつよし)、皇太后宮大夫朝方(ともかた)、
左京大夫脩範(ながのり)、太宰大弐親信(ちかのぶ)、新三位実清(さねきよ)
大塔建立(だいとうこんりゅう)
平家が厳島を信仰し始めたのはこんな訳がある。
鳥羽院の代に、まだ安芸守だった清盛が高野山の大塔修理を命じられた。修理が終わって、清盛が大塔に参拝し奥の院に参ると、不思議な老僧が厳島の修理を勧めた。
その老僧は弘法大師であったかと思い、このことを鳥羽院に奏上すると院も感動し、安芸守の任期を延長し厳島を修理させた。
修理が終わって終夜参护筏郡趣簸沃肖翘焱扦皮啤赋ⅳ问丐辘趣胜臁工刃¢L刀をくれた。目覚めると机元にその小長刀が立てかけてあった。
頼豪(らいごう)
白河院が帝位にあった頃、三井寺の頼豪という僧に祈祷をさせて皇子が産まれたが、褒美は思うままにと言っていたけれど、三井寺に戒壇を設けるという願いだったので、かなえられなかった。そして、頼豪は憤死。親王を呪殺したという例をひいて、今回の御産で俊寛僧都が赦されなかったことを嘆く。
少将都帰(しょうしょうみやこがえり)
治承三年正月下旬、丹波少将成経と平判官康頼は肥前国鹿瀬庄を出発。都へ。
二月十日頃、備前児島につく。
三月十六日 鳥羽に着き、洲浜殿に入る。
洲浜殿をでて都へ。七条河原で成経と康頼は別れた。
有王(ありおう)
俊寛僧都が召し使っていた童がいた。有王という。鬼界が島の流人が都入りすると聞いて鳥羽まで迎えにいったが俊寛がいない。尋ねると島に残されたというので、有王は鬼界が島に渡ろうと決心した。
三月末に都を出て、長い船旅に苦労しながら薩摩潟へ下った。そして苦労して俊寛をさがしあてた。
僧都死去(そうずしきょ)
有王は俊寛の身内のことなどを話し、娘からの手紙を渡した。
その手紙から、身内が娘以外、皆先立ってしまったことを知った俊寛は、食事もとらずに有王が島に渡ってきて二十三日目に死去した。年三十七歳ということだった。
有王は京に帰り、僧都の娘に一切を報告した。 娘はすぐさま十二歳で尼になった。有王も法師になり、全国を修業してまわり主人の菩提を弔った。
(つじかぜ)*漢字コードが無いようです。
治承三年五月十二日正午ごろ、京の内に辻風が激しく吹き、人家が多く倒れた。
医師問答(いしもんどう)
小松の大臣(内大臣重盛)が熊野に参詣することがあった。一晩中祈ったことは「父の入道相国は、私が至らぬ為に諫言に従わない。栄華が父一代限りで終わるのなら、重盛の命を縮めて来世の苦しみを助けてください。」
熊野から帰って何日もたたぬうち、重盛は病気になった。熊野権現が願いを聞き入れてくれたに違いないと治療もしない。心配した入道相国は、越中守盛俊を使者にして治療を受けるようにすすめたが、その返事は諫言であった。
治承三年七月二十八日 小松殿出家。法名浄連。八月一日死去。四十三歳。
無文(むもん)
小松大臣にはこんなことがあった。
嫡子権亮少将維盛に、葬儀に使う無文の太刀を与えたことがあった。前もって悟っておられたのだろうか。
灯炉之沙汰(とうろのさた)
大臣重盛は信仰心があつかった。
来世での幸不幸を心配して、東山のふもとに阿弥陀四十八願になぞらえて四十八間の御堂を建て、一間に一つずつ四十八の灯护颏堡俊H摔悉长稳摔虻苹大臣と呼んだ。
金渡(かねわたし)
また大臣は三千両を宋へ撙螭轻崾坤驈tってもらえるようにしていた。
法印問答(ほういんもんどう)
治承三年十一月七日夜八時頃、地震があった。陰陽頭安倍泰親(やすちか)は緊急のことを不安がった。
同月十四日、入道相国が何千騎という軍勢で都に入るとの噂がたち、関白も天皇も不安がった。
同十五日、入道相国が朝廷をうらむとのうわさが立ったので、法皇は驚いて故小納言入道信西の子息静憲法印を入道相国に派遣した。
入道相国がいうには「内大臣重盛ほどの忠臣が亡くなっても法皇が嘆いている様子が無い。中納言の欠員人事について、中納言の欠員があったとき二位中将(基通)が希望したのを入道がとりなしたのに、どうして関白の子息(師家)を中納言にしたのか。」
法印は「官位・棒禄はあなたには満ち足りている。天の心は深く広くて測りにくい。法皇の心も然り。臣として君に逆らうのは人臣の礼から外れる。だからよく考えるべきだろう。あなたの意見は君にご披露いたしましょう。」といって退出した。
人々は法印の堂々とした物言いをほめた。
大臣流罪(だいしんるざい)
十一月十六日、入道相国は関白基房、太政大臣師長以下、公卿・殿上人四十三人の官職を停止し追放した。
関白殿を大宰師(だざいのそつ)にして九州に左遷。しかし関白殿は鳥羽の辺りの古河というところで出家。流罪の人が途中で出家したときは予定された国にはやらぬことになっているので、備前国府の辺、井ばさまという所にとどめる。
二位中将基通(もとみち)は入道の婿だったので、大臣関白になった。非参議・二位中将から中納言・大納言を経ないで大臣関白になることは、まだ聞いたことがないと除目の事務にあたった上卿の宰相から大外記、大夫史に至るまでみな呆然とした。
大政大臣師長は東国の方へ流される。
按察大納言資賢の子息右近衛少将兼讃岐守源資時は両方の官職停止。参議・皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能(みつよし)、大蔵卿・右京大夫兼伊予守高階泰経(やすつね)、蔵人・左少弁兼中宮権大進藤原基親は三つの官職停止。按察大納言資賢、子息右近衛少将、孫右少将雅賢(まさかた)三人を都より追放。
行隆之沙汰(ゆきたかのさた)
前関白松殿(基房)の侍、江大夫判官遠成という者がいた。この人も平家が良く思っていなかった人なので、今にも逮捕されるだろうという評判だった。遠成は、子息江左衛門尉家成を連れて落ちていったが、稲荷山に登り親子で言い合わせたことは「伊豆の流人、前右兵衛佐頼朝を頼ろうと思うが、あの人も勅勘を受けている身。どうせ逃れられないのなら、帰って六波羅からのお召しがあったら腹を切ろう。」 そして、川原坂の宿所に引き返した。
思ったとおり六波羅より武装した兵が三百余騎、川原坂の宿所に押し寄せたので、館に火をかけ切腹した。
前左少弁行隆という人。この十余年、官を止められほそぼそと暮らしていたが、太政入道清盛から呼ばれ、官職に戻った。荘園などももらった。
法皇被流(ほうおうながされ)
十一月二十日、院の御所法住寺殿を軍兵が取り囲んだ。
前右大将宗盛が法皇に鳥羽殿への御幸を奏した。法皇は供の公卿・殿上人もなく鳥羽殿に入った。静憲法印があとから供に行った。
城南之離宮(じょうなんのりきゅう)
高倉天皇から鳥羽院にひそかに手紙があった。「このような世には宮中にいても何になりましょうか。いっそ出家遁世でもしたいものです。」
法皇の返事には「そうして帝位についていることこそ一つの頼みであります。この世を捨ててしまわれたら何の頼みがありましょう。私がどうにかなるさまを聞いていてください。」と書いたので、いっそう深く悲しんだ。
十一月二十三日、天台座主覚快法親王が辞退するので、前座主明雲大僧正が復職した。
入道相国は、政務は主上の意向通りにするようにいって福原に下った。このことを前右大将宗盛が主上に奏聞すると、主上は「摂政関白と相談して、宗盛がなんとでもとりはからえ。」といって、とりあわなかった。
法皇は城南の離宮で失意の日々を送っていた。
治承四年になった。
* 巻 第 三 終 * |
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