『ひっこしクマさん』
つゆいり前の青空は、すでに夏の色にそまっていました。
「マイ、そろそろ長そでじゃ、あつそうだね」
お母さんにそういわれ、マイはうなずきました。長そでのシャツをかたちかくまでめくりあげています。
「半そでの夏物だそうね」
お母さんは押入れの中から、半そでのTシャツを何まいか出してきました。その中に赤いTシャツを見つけると、マイの目がかがやきました。
「あっ、お母さんそれっ、クマさんのTシャツ!」
マイのお気に入りの赤いTシャツには、むねのところに小さなクマさんのししゅうがしてあります。だからマイはそのTシャツのことを、クマさんのTシャツとよんでいるのです。
冬の間はすっかりわすれていたのに、お気に入りのTシャツを目の前にしてマイはとてもうれしそうでした。
「クマさんのTシャツ着るっ」
マイはお母さんの手から、ひったくるようにクマさんのTシャツをもぎとり、さっそく着がえました。
「あ…あれっ?」
Tシャツを着てみて、マイは小さく首をかしげました。
「あらら…」
お母さんはなんだかうれしそうに、マイのことを見ています。
「マイ、また大きくなったみたいだね」
マイのお気に入りのクマさんのTシャツは、ぴちぴちのつんつるてんでした。クマさんのししゅうの周りにも、こまかいしわがたくさんよっています。
「それじゃもう着られそうにないわね」
お母さんのその言葉に、マイはあわてて首をふりました。
「まだ着れるもん。ぜんぜんきつくないもん。今日これ着ていくもんっ!」
マイはあきらめたくありませんでした。このままではクマさんのTシャツが着られなくなってしまいます。
「だめよ、みっともないでしょ。そんなにつんつるてんなのよ」
そういわれても、マイは首をふりつづけました。
「だったら…だったら、ダイエットするもん」
「ばかなこといわないでっ!」
「だって…だって…」
お母さんの強い調子に、マイの声はなき声に変わっていました。
「あのね、マイ… お母さんね、うれしいのよ。あぁ、またマイが大きくなったんだなって思うと。マイはちゃんと成長しているんだなって思うとね」
お母さんはやさしくさとすように、マイにそういいました。
「とにかく今日は、べつのを着ていきなさい」
マイはうなだれたまま、クマさんのししゅうのところをにぎりしめていました。
その日、マイが学校から帰ってみると、リビングのテーブルの上にTシャツがおいてありました。
「マイ、ちょっとそのTシャツ着てみて」
台所のほうから、お母さんの声が聞こえてきました。マイはそのTシャツを着てみました。クマさんのTシャツとそっくりな、赤い色のTシャツです。
「ちょっと大きいけど、それくらいがちょうどいいね」
「よくないよっ! クマさんいないもん」
無地の赤いTシャツには、もちろんクマさんのししゅうなんてありませんでした。
「だいじょうぶよ。マイ。実はね…クマさん引越しするんだよ」
「ひっこし?」
マイはお母さんのいった言葉の意味が、すぐには分かりませんでした。
「だから、引越しするのよクマさん。マイのお気に入りのTシャツから、その新しいTシャツに」
「えっ、ほんとっ?ほんとにっ?」
「ええ、ほんとうよ」
それを聞いて、マイはもちろんおおよろこびです。またクマさんのTシャツが着られるのですから。
「お母さん、クマさんいつひっこしするの?」
「そうねぇ、手があいたら今夜にでも…」
「手があいたら?」
「あっ、こっちの話。さぁ、夕食のしたくっと…」
お母さんはすこしあわてたように、台所へと走って行きました。
「…?」
次の日の朝のことです。マイが起きてみると、まくらもとに二枚の赤いTシャツがおいてありました。大きいのと、小さいの。かたほうのTシャツには、クマさんのししゅうがしてあります。
二枚のTシャツを見くらべて、マイは思わず目をこすりました。ねぼけてなんていません。クマさんのししゅうがついていたのは、大きいほうのTシャツだったのです。マイはあわててお母さんのところに行きました。
「ねぇー、お母さん見てっ! クマさんひっこししたよっ!」
お母さんはねむそうに目をこすり、大きなあくびを一つしました。
「ほらねっ、お母さんのいったとおりでしょ」
マイはうれしそうに学校へ出かけて行きました。もちろんクマさんのししゅうのついた赤いTシャツを着て。
「これから何回引越しするのかしら… あのクマさん…」
お母さんはそんなひとりごとをつぶやきながら、小さくなった赤いTシャツと、ししゅうの道具を、押入れのおくにしまいこみました。 |