我是南京人,所以看到那个网站上关于南京的话题被激烈的讨论,95%的人都认为是捏造的。我匆忙间写了这篇文章想发过去和他们理论,请大家帮助修改其中的错误。一个人一句也好,谢谢帮忙!!!!
不要嘲笑我的水平,我什么等级证书也没有考过,日语是自己看日本的新闻和书籍自学的。所以肯定有许多错误,谢谢
いつも人気があるテ-マ南京について、ちょっと一言を言いたいのです。
私は南京に生まれた中国人です。おじいさんとおばあさんも南京人で、南京の方言で「老南京」とよばれます。南京大虐殺って、私、経歴したことがないし、ただ教科書に書いてある内容と虐殺に関連書籍で事件のあらすじをわかるようになりました。
教科書とか関連書籍とか、すべて共産党の出版社から出版されたものですから、貴様達はきっとそんなものを信じていないに違いないです。
今日の言いたいのは、私のおじいさんの自分の目で見たことです。
おじいさんは裁縫で、南京の中華民国外交部の側に「山西路」に小さな洋服店を経営し、近所の大学の外国人教授がよく洋服を注文にきました。上海戦事が終わった後、日本軍が首都南京を攻め寄ってきました。おじいさんとおばあさんと一緒に揚州の側の儀征県に避難しにいきました。儀征県でおじいさんの親戚の家に下宿することになりました。春節を過ぎ、収入もなくおじいさんとおばあさんは親戚に嫌われて、よく皮肉なことを言われました。もうそれ以上忍ぶことが無理だと思って、おじいさんとおばあさんがまた南京へ帰りました。あれは1938年2月のことでした。南京の情勢はほとんどわからなく、命を賭ける旅立つでした。
竹の筏のようなものに仱盲崎L江を渡りました。江面に死体が流れて、筏の進路に邪魔になりますから、船夫がかいを使って死体を掻き分けてからまた前進しました。驚いたおじいさんは船夫に聞くと、「日本人がやったの、多くの人をここに強行に連行してきて皆殺された。」と、船夫がそう答えました。南京の今の情勢を聞くと、船夫が「もう安民した、家族連れなら大丈夫だ」と答えました。
南京についてからすぐ家へいきました。途中の街の人出が少ないでした。家はもう焼けて塵になりました。おじいさんの家だけではなく、民国政府の附近の民家がほとんど塵になりました。 おじいさんは後、元のところに木材と煉瓦で臨時の家を建て、その後拡大して、裁縫店を開いて、1988年までそこにずっと住んでいました。1988年おじいさんが新居へ引っ越して、物を片付けた時、たくさん古い物が見えました。おじいさんは「日本の兵士がよく店にきて、洋服を注文したとき贈られたもの」と解釈しました。子供時代の私、おじいさんの家へよくいって、その古い家の記憶が今でも鮮明でした。
以上、すべての話は、おじさんが教えてくれました。説教でもなく、洗脳でもなくと思います。あの頃、子供の私はおじいさんから昔のことをきくのが大好きでした。20年代の南京から、49年解放軍が南京を解放まで、いろいろなことを教えてくれました。南京虐殺もその中の一つでした。
このBBSの日本人様、どう言っても戦争は確かに怖いものです。政治は汚いだと思い、どんなに戦争を起こてもどんなに戦争を受けても、最後の最も悲しい者は両国の人民です。戦争はただ政治家と政党が自分の野望を実現するの道具です。
南京虐殺事件を否定するみなさん、本当に南京へ行ったり、南京に住んだりしたことがありますか?南京の民間に行って(特に市区南部の「老市区」)、ずっと南京に暮らして今も生きている老人へちゃんと調べてください。もう文革の時代ではなく、老人は自由にその事件についてことを教えてあげるだと思います。あの頃の南京市は大いで、市区だけではなく、附近の幾つの県も南京に属します。虐殺は南京市区だけではなく、周りの地域も波及します。私の大学は南京の江鋪県で、そこにも日本軍の暴行も聞きました。
小学校から高等学校まで、私のクラスの中、いつも親戚が南京で日本軍に殺される学生がいます。周りの人と隣家もそういう人もいます。日本が虐殺をどんなに否定しても、彼らは生まれたからその悲しい呙虮池摛盲啤⒈摔椁掀胀à稳摔韧袱悄氦椁筏颏筏郡韦扦埂1摔椁悉郅稳摔瑜耆毡兢蛟鳏啶扦猡胜⑵胀ㄈ摔扦埂
日本軍は南京に残忍なことをしたのは否定できない真実です。  |