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发表于 2006-2-13 18:46:41
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日本古代社会における氏(うじ)組織を基礎に姓(かばね)によって秩序づけられた、支配者を頂点とする世襲の身分制度。大和政権の基盤となる制度だったが、律令国家の成立とともにしだいに官位制度に移行した。
基本となる氏は擬制的な血縁集団である。中心は血縁集団だが、正確には父系における同祖と称してできた集合体で、たとえば東漢(やまとのあや)氏は阿知使主(あちのおみ)を祖とするというが、実際には別々の場所からきた渡来人を組織化した集団と思われる。それは、氏族員が多ければさばける仕事量も多くなり、朝廷内での地位があがるからである。氏族員にとっては、実績のある氏族にくみこまれる利点がある。
こうしてできた氏族の氏上(うじのかみ:族長)が氏族員をひきいて大和政権をささえ、大王(おおきみ:天皇)や朝廷につかえた。氏上は氏神をまつり、氏に付属する部民・奴婢などの氏有民や田荘などの氏有地を統轄し、氏内の係争についてもさばいた。各氏族は大和政権との関わり方や氏族としての力量などをもとに個別に格付けされたが、その尊卑・上下関係ははっきりしない。
格付けの称号となるのが姓で、臣(おみ)・連(むらじ)・直(あたい)をはじめ多種類が知られている。臣の姓はおもに畿内とその周辺部の土着豪族で、大和政権の成立にかかわった。また地方の有力豪族も臣を称している。連・造(みやつこ)などは職能集団をひきいる伴造系の豪族が称し、渡来系では史(ふひと)・画師(えし)・吉士(きし)・薬師(くすし)・曰佐(おさ)などの職名をつけられる場合もあった。直は地方豪族が大和政権に帰順して国造になったときにさずけられる姓で、やや有力な国造は君や臣の姓を称した。ただ渡来系の東漢氏には直姓があたえられるなど、かならずしも原則どおりではない。姓はその氏族員全員に男女をとわずあたえられ、氏上などの個人的称号ではない。
この姓制度の起源は不明だが、埼玉県の埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳出土鉄剣銘にみえる「乎獲居臣(をわけのおみ)」の獲居(わけ)・臣とも姓ではなく、首長クラスの人たちの尊称であろう。そうであれば、この鉄剣銘にある辛亥年(471年か531年)には姓制度が成立しておらず、6世紀後半に築造された島根県の岡田山一号墳出土大刀銘の「各(額)田 (部)臣(ぬかたべのおみ)」の臣を手がかりにすれば、成立は6世紀後半あたりと推定できる。
氏姓制度は、7世紀にはいって転換期をむかえる。603年(推古11)冠位十二階が制定されて個人の功績や能力を評価する制度が生まれ、氏族単位の力量を基準とした朝廷内秩序がくずれはじめる。
さらに684年(天武13)八色の姓が施行された。これは真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・連・稲置(いなぎ)の8種類の姓で、真人は継体天皇以降の旧公(きみ:君)姓の皇親氏族に、朝臣・宿禰はそれぞれ旧来の臣姓・連姓の氏族にさずけられた。
旧来であれば氏族全員に同じ姓があたえられたが、ここでは臣姓・連姓氏族のうち有力な家だけに新しい姓をあたえている。同時に姓に明確な序列をつけ、新しい律令位階制度にあわせようという配慮もみえる。こうした動きをうけて、各氏族は奈良時代を通じて同族を主張し、姓の格上げをはかった。 |
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